-
あなたにとって祈りはどれほど重要ですかものみの塔 1970 | 11月15日
-
-
です。―レビ 26:30。列王下 17:16-18。コリント後 4:18; 5:7。ヨハネ第一 5:21。
個人的な祈りをささげる場合,ひとりきりになるのは望ましいことです。公の場所で祈っているところを見られ,人々の注目を浴びることを願う偽善者たちと対照させて,イエスはこう言われました。「なんぢは祈るとき,己が部屋にいり,戸を閉じて,汝の父に祈れ」。(マタイ 6:6)ひとりきりの場合には,容易に気持ちを集中でき,わたしたちの天の父に対する親しい気持ちが深まります。
ある時,イエスは朝早く起きて,ひとりで祈りをささげるため,ひとりきりになれるようなさびしい場所を捜されました。(マルコ 1:35)使徒ペテロが,タビタの復活を願って祈った時,「すべての者を外に出し,ひざまずいて祈り」ました。(使行 9:40,新)個人的な祈りをささげるために,ひとりきりになれる場所を求めた人の例は,聖書に数多く載せられています。―使行 10:9。
祈りに対するこたえ
物事を表面的にしか見ない人は,聖書時代のようにエホバが祈りに劇的な仕方でこたえるというようなことは,現代には起こらない,と思うかもしれません。援助をこい求めたヨシャパテの祈りにこたえて,エホバは行動を起こされました。敵同志を互いに激しく反目させ,同志討ちをさせられたのです。(歴代下 20:23)エリヤの場合,その祈りは聞かれ,火がくだって,犠牲を焼き尽くしました。(列王上 18:36-38)また,イエスの祈りは聞かれ,死んで四日間たった男の人が生きかえりました。(ヨハネ 11:38-44)以上は,祈りがこたえられたものとして聖書に記録されている,ほんの二,三の例にすぎません。
常にそれほど劇的なものとはいえないかもしれませんが,祈りがこたえられるということは,今日でもまったく真実です。祈りをささげた結果,困難な状況が好転するかもしれません。克服できそうに思えなかった障害を乗り越える道が開かれるかもしれません。むずかしい状況に遭遇している人に,他のクリスチャンから援助の手が差し伸べられるかもしれません。そうした結果は,明らかに祈りに対するこたえです。
聖書を理解するための援助を求めて,神にささげた祈りが答えられたという経験をした人は数多くいます。たとえば,アメリカのイリノイ州に住むある婦人は,神のことばを理解し,真理を学ぶのを援助してくれる人をだれか送ってください,と神に祈りました。ひとりのエホバの証人が訪問した時,その婦人は自分の目を疑いました。「エホバの証人ですって。まさか。神がエホバの証人をつかわされるはずはない」と彼女は思いました。後日,この婦人は,その証人にこう打ち明けました。「わたしは助けを求めて祈りました。そして,それと知らずに天使をもてなした人々のことを考えました。それで,あなたを家にお入れしたのです。おかげで,今は,エホバの証人が真理を持っていることが確信できました」。
もう一つの経験は,バージニア州のある婦人に関するものです。「わたしは,自分の子どもたちを助けるために聖書を学びたいと願っていました。ですから,正しい教会が何か,それはバプテスト,メソジスト,カトリックのどれかなのか,あるいは他のものなのかを見いだすのを助けていただきたいと,ひざまずいて神に祈りました。そうしましたら,その翌朝,あなたがたエホバの証人がいらっしゃったのです。わたしは,わたしの祈りが答えられたのだと信じています」。
コロラド州に住むある男の人は,自分の教会で教えられていることにあきたらず,ある朝,早く起きて,熱心に祈り,神の助けを求めました。その夜,帰宅してみると,妻はエホバの証人のひとりと家で話し合っていました。エホバの証人に対する批判を多くの人から聞かされていた彼は,その光景がとても信じられませんでした。しかし,彼は考えました。「神に助けを求めて,それを得たのに,今度はそれを拒絶できるだろうか」。この人が,エホバのすばらしい目的を学ぶよう野外で人々を助けはじめたのは,それからまもないことでした。
このように祈りがこたえられたという経験は,しばしば起こっています。あなたの場合はいかがですか。祈りの特権を十分に活用しておられますか。
確かに,だれも祈りを軽々しく考えるべきではありません。使徒パウロが仲間のクリスチャンに与えた次のさとしを,どうぞ,あなたがたの心臓に刻んでください。「何事も思いわずらわず,すべてのことに祈りと願いをなし,感謝をそえて,あなたがたの求めを神に知らせなさい。そうすれば,すべての考えにまさる神の平安が,あなたがたの心臓と思考力とをキリスト・イエスを通して守るであろう」― ピリピ 4:6,7,新。
-
-
『これはわたしの子です』ものみの塔 1970 | 11月15日
-
-
『これはわたしの子です』
親が子どもとともに読む特別な記事
わたしたちはみな,おとうさんを持っています。あなたには,おとうさんがあります。わたしにもおとうさんがいます。女の子が良いことをすれば,そのおとうさんは喜んで,ほかの人びとに,「これは,わたしのむすめです」といいます。また,男の子が正しいことをすると,おとうさんは,ほこりをもって,「これは,わたしのむすこです」というでしょう。
イエスはいつも,ご自分のおとうさんを喜ばせることをなさいます。ですから,イエスのおとうさんは,イエスにほこりを感じておられます。では,イエスのおとうさんが何をなさったか知っていますか。天から人びとにむかって,『これは,わたしの子です』とさえいわれたのです。
イエスは,おとうさんに喜んでいただける事がらをなさいます。それをむずかしいこととは思いません。しなければならないからというだけで,ものごとをするのは,むずかしく思えますが,喜んですれば,むずかしくありません。
喜んでするというのは,何かをしたいと,ほんとうに思うことです。また,それは,すぐに行なうということです。イエスは,おとうさんからたのまれたことを喜んでします。なぜかわかりますか。なぜなら,イエスはおとうさんを,ほんとうに愛しておられるからです。
イエスは,地上に来られる前でさえ,そのことを示されました。イエスは,ご自分のおとうさんであられる,エホバ神とともに天にいて,すばらしい立場を持っておられました。ところが,神は特別な仕事をイエスにさせようとお考えになりました。その仕事をするために,イエスは天を去らねばなりませんでした。そして,地上で赤ちゃんとして生まれなければなりませんでした。イエスは喜んでそうしました。なぜなら,イエスがそうすることをエホバ神が望んでおられたからです。イエスは,おとうさんをたいへん愛していますから,おとうさんを喜ばせたいと,いつも考えておられるのです。
イエスが赤ちゃんとして地上で生まれるためには,おかあさんがいなければなりませ
-