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イエスはわたしたちに祈ることを教えておられますものみの塔 1971 | 3月15日
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イエスはわたしたちに祈ることを教えておられます
親が子どもといっしょに読む特別な記事
あなたはエホバ神とお話ししますか。エホバはあなたから話しかけられるのを望んでおられます。神とお話しすることを祈りといいます。
イエスはしばしば,天のお父さんに話しかけました。神とお話しするため,ひとりになりたいと思われたこともときどきあります。聖書によると,あるとき,「〔イエス〕は祈るために,ひとりで山にのぼって行(かれました)。時刻はおそくなっていた(のですが),(イエス)はひとりでそこにおられ(ました)」。―マタイ 14:23,新。
あなたはひとりでエホバに祈るため,どこへ行けますか。たぶん,夜,寝るまえに,ひとりで神とお話しできるでしょう。イエスはこういわれました。「あなたが祈るときには,あなたの私室にはいり,あなたの戸をしめてから,あなたの御父に祈りなさい」。あなたは,まいばん寝るまえに神に祈りますか。そうするのは良いことです。―マタイ 6:6,新。
イエスはまた,ほかの人たちといっしょにいるときにも祈られました。弟子たちといっしょに集会を開くときにも,イエスはいつも祈られました。あなたも,祈りがささげられる,クリスチャンの集会に行けます。そうした集会では,ふつう,年上の人が祈りますから,お祈りをする人のいうことがらに注意深く耳をかたむけてください。なぜなら,その人はあなたのために神とお話ししているからです。そうすれば,あなたはそのお祈りにたいして,「アーメン」といえるでしょう。
お祈りの終わりに,「アーメン」といいますが,それにはどんな意味があるか知っていますか。それは,ささげられた祈りに自分も喜びを感じていることを意味しています。また,ささげられた祈りと同じ考えを持っていて,自分もそう祈りたいと思っています,という意味です。
イエスはまた,食事のときにも祈られ,食べ物にたいしてエホバ神に感謝しました。あなたは食事のまえに,いつも祈りますか。
食事をはじめるまえに,食べ物にたいしてエホバに感謝するのは良いことです。いっしょに食事をするとき,お父さんが祈ってくださるかもしれません。でも,ひとりで食べるときはどうですか。または,エホバに感謝しない人たちと食事をするときはどうですか。そのときは,自分で祈らなければなりません。祈りはいつも大きな声でささげなければなりませんか。いいえ。心臓の奥底で祈るときでさえ,エホバはその祈りを聞きとることができるのです。ですから,神に祈らない人びとといっしょにいるときには,だまってエホバに祈ることができます。たとえば,学校で昼の食事をするときには,だまって祈ることができるでしょう。
祈るときには,頭をさげなければなりませんか。ひざまずかなければなりませんか。あなたはどう思いますか。イエスは,ときどき,ひざまずいて祈られました。また,ときには,天を見上げて祈られました。立ったまま神に祈ることについて話されたこともあります。
それで,このことから何がわかりますか。祈るときに,どんな姿勢を取るかはたいせつではないということがわかります。どんな姿勢をしているかにはかんけいなく,神はあなたの祈りを聞き取ることができるのです。でも,ときには,頭をさげて祈るのは良いことです。また,イエスがなさったように,ひざまずいて祈りたいと思うことさえあるでしょう。でも,ひるま,あるいは,よるでも,いつでも,神に祈ることができ,また,神はあなたの祈りを聞いてくださる,ということを忘れないでください。
祈りにかんしてたいせつなのは,エホバが聞いておられるということを,ほんとうに信じることです。エホバがあなたの祈りを聞いてくださるということを,あなたは信じていますか。それとともに,自分の思っていることを神にいうのもたいせつです。あなたは,自分がほんとうに思っていることを祈りのなかで述べますか。
なんといってエホバに祈るべきですか。あなたは,祈るとき,何について神とお話しするかをいってごらんなさい。
エホバは,わたしたちに良い物をたいへんたくさん与えておられますから,それらにたいして,エホバに感謝するのは正しいことではありませんか。わたしたちは,いただく食べ物にたいして,エホバに感謝します。でも,あおい空やみどりの木,きれいな花にたいしてエホバに感謝したことがありますか。エホバはそれらのものをお作りになりました。エホバはまた,尾を振る犬や,ノドをごろごろならすネコ,それに,さえずる美しい鳥をお作りになりました。エホバに感謝すべきものはなんとたくさんあるのでしょう!
むかし,イエスの弟子たちは,祈りかたを教えてください,とイエスにたのみました。それで,偉大な師は,祈るべきことがらのなかで,何が最もたいせつかを弟子たちに教えました。それはどんなことか知っていますか。あなたの聖書を持ってきて,マタイ伝 6章を開いてください。9節から13節にかけて,多くの人びとに,「主の祈り」と呼ばれている箇所があります。
そこを読むと,イエスは,わたしたちに,神のお名前について祈るよう命じておられることがわかります。イエスは,神のお名前があがめられる,つまり神聖なものとしてあつかわれるよう祈りなさい,といわれました。神のお名前はなんですか。それはエホバであると,聖書は教えています。ですから,わたしたちは,その名前を愛さなければなりません。だい二に,イエスは,神の王国が来るように祈ることを教えました。この王国は,たいへんじゅうようです。なぜなら,この王国は地球に平和をもたらし,地球を楽園にするからです。だい三に,偉大な師は,神の意志が天で行なわれているとおり,地上でも行なわれるよう祈りなさいといわれました。それは,つまりわたしたちが神の意志を行なわなければならない,という意味です。
イエスはまた,きょう一日ひつようとする食物を祈り求めることをも教えました。また,悪いことをしたなら,すみませんでした,と神に告げなさいといわれました。わたしたちは,ゆるしてくださいと,神にお願いしなければなりません。もし,ほかの人から悪いことをされたなら,さいしょにその人をゆるしてあげなければなりません。あなたはそうしますか。さいごにイエスは,邪悪な者,サタン悪魔からわたしたちを守ってくださるよう祈りなさい,といわれました。ですから,これらはみな,神に祈るべき良いことがらなのです。
イエスは,祈りを忘れる人がいることを知っておられました。そのような人びとは,神とお話しすることをやめてしまうのです。それで偉大な師は,そうした正しいことがらを神に求めつづけなければならないこと,そして,祈りをやめてはならないことをさとす,ひとつのみじかいお話をなさいました。
イエスのお話にあるように,あなたのお友だちが,とおいところから,はるばるあなたをたずねてきたとしましょう。そのお友だちは,まよなかにやって来ます。長い旅をしたので,おなかがすいています。でも,あなたの家には食べ物がなにもありません。おみせもしまっています。あなたはどうしますか。
となりの家に行き,パンを少しかりることにしたとしましょう。でも,もし,となりの家の人が,このようにいったらどうですか。「おこさないでください。時間はおそいし,わたしはねどこにはいっていますから,おきて,あなたになにかをさしあげることはできません」。そのようなとき,あなたはどうしますか。
もし,あなたがそのとなりの人に,おきてくださいと,なんどもなんどもたのんだなら,その人はおきてくれるでしょう,とイエスはいわれました。その人はいやいやながらでも,おきて,あなたにいくらかのパンをわけてくれるでしょう。神はそのとなり人のようなかたではありません。神は,わたしたちが祈りによって神に近づくことを望んでおられます。しかし,イエスは,わたしたちがほんとうに神を信じていること,また,自分がほんとうに思っていることがらを話しているということを示すために,祈りつづけなさい,といわれたのです。―ルカ 11:5-9。
ですから,わたしたちは,エホバが祈りを聞いてくださるということを信じ,エホバに願いつづけなければなりません。そうすれば,エホバはわたしたちの祈りを聞いてくださるでしょう。エホバは,わたしたちがささげる祈りを喜んで聞いてくださるのです。わたしたちが思っていることを祈り,正しいことがらを願い求めるとき,エホバは喜ばれます。そしてエホバは,それらのものをわたしたちに与えてくださるでしょう。あなたはそのことを信じていますか。
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あなたでしたらお子さんと別れますかものみの塔 1971 | 3月15日
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あなたでしたらお子さんと別れますか
“自分の子どもと別れるですって?” たいていの親なら,そんなことは考えただけで,あきれて,しりごみすることでしょう。しかし,多くの国々,特にアフリカ諸国では,親が自発的にわが子と別れることがあります。つまり,友人や親族に子どもを預ける,つまり“里子”に出すのです。
無慈悲な習慣だと思われますか。そんなことをする親には,親としての感情も,わが子に対する真の愛もないに違いないと判断されますか。
習慣の背後にある理由
この習慣を非としてかたづける前に,そうした親の動機となっている理由を幾つか考えてみましょう。“里子”というような習慣がない国に住んでいる人でも,こうした習慣に対する聖書からの平衡の取れた見解を得るならば,自分の住む場所で見られる,親の子どもの取り扱い方にあてはまる,聖書の原則をしっかりと銘記する助けが得られるでしょう。
アフリカのある場所で奉仕する宣教者は,誠実な親から幼い子どもを預かって欲しいと依頼されたことを報告してきています。そうした親は無慈悲どころか,子どもにとても強い愛情をいだいています。しかし,だれかほかの人に世話してもらうことによって,子どもに何か実質的な益が及ぶなら,犠牲を払うだけの価値があると考えるのです。
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