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  • あなたの讃美の犠牲を正しくささげよ
    ものみの塔 1957 | 1月15日
    • ひきつけるものを考えなさい。それからできるなら聖句を用いて,早く答弁しなさい。そうするなら,聖書の話をすぐ始めることができます。前述の例は,そのようにできる,という可能性を示すのであつて,みなさんが用いねばならぬ,というものではありません。明瞭な近づき方を行い,自分に適している点また自分をよろこばす点を聖書を用いつつ話して行きなさい。そうすれば,あなたは熱心に溢れ,個人的な熱意と確信をもつて聖書の話をすることができます。戸口における聖書の話について述べられたことは,再訪問の聖書の話にも適用するものです。ただ違う点は,一つか二つ多い聖句を用いて,聖書の話をすこし長くするだけです。戸口における聖書の話を述べることと,頭の中に筋書をつくることについての同じ助言は,家の中にいてする長い再訪問の話にも適用いたします。

      16 私たちはいま何を為すべきですか。

      16 最善をつくしてヱホバ神の御旨にかなう奉仕者になろう,とつとめましよう。ヱホバ神の言葉を熱心に研究し,そして,疵のない牛や唇の実,すなわちヱホバ神の神に嘉納される讃美の犠牲を神に捧げましよう。ヱホバ真理を深く考え,心の中で繰り返し思い,そして公やけの人々に宣伝えることのできるものにしなさい。また散らされている他の羊の気持をひきつけ,さらに山羊からの反対にも覆えされないような一番良いものにしなさい。恵みをもつてそれを宣伝えなさい。また柔和と巧みさのうちに,そして私たちの霊的な讃美の犠牲にともなわねばならぬ象徴的な塩をつけてそれを宣伝えなさい。そのとき,それらの言葉は,ヱホバに忠節を保つ真実で真の言葉となります。また,永久性のある言葉であり,かつその言葉を聞いてうけ入れ,そして従う人人には保全の力となる言葉です。そのような犠牲の言葉を言うとき,私たちはヱホバの食卓を卑しめる,などの罪を決して持ちません。私たちはその食卓から,あらゆる国にいる善意者のすべての人に対して肥えたるもので一杯となつているヱホバの御馳走を与えることができます。

  • 聖書中の手
    ものみの塔 1957 | 1月15日
    • 聖書中の手

      すばらしい仕方で人間の役に立つ手は,創造主の愛と智をたしかに表わし示します。手は全く有益なものであり,かつたくさんの技術をすることができます。それですから,聖書は手について多くの注意を向け,実際的にもせよ,又は象徴的にもせよ,2000回ぐらい手について言及しているのも不思議ではありません。

      実際の手は,ものを測るために用いられました。手幅といえば,3インチであり,手の平一杯と言えば,9インチ,すなわち1キュビトの半分でした。

      宗教的な絵は,しばしば祈りをするときの手をいつも握りしめているものに表わしています。しかし,聖書の何処を見ても,そのようなことは書かれていません。かえつて,聖書が繰り返し述べている言葉によると,祈をする人々は掌をひろげた,つまり,手を天に向つて上げていました。

      ヱホバの御名によつて誓がなされるときには右の手が上げられました。アブラムは,甥のロトを救い出したとき,ソドム王のものを一つも取らないと誓つてそういたしました。

      握手は約束を確めるために用いられました。或るイスラエル人たちが外国人なる妻を出す,とエズラに約束したとき,そういたしました。(エズラ 10:19)パウロとバルナバが諸国民への伝道に遣わされたとき,初期の教会の柱として重んじられていた人々は,二人に『交わりの手をさし伸べた。』― ガラテヤ 2:9,新口。

      担保を与えるつまり質物を与えることは,証人たちの面前で手を叩くことによつて示されました。

      権威を持つ人々は,人に手を置いて特定な職務に任命しました。モーセがヨシユアに手を置いて任命した場合がそうです。同じように,使徒たちは7人の上に手を置きました。かくしてその7人は食物の配分という宣教上の助けをするようになつたのです。また,使徒たちが特定な者に手を置くとき,聖霊が注がれました。アロンとその子たちが祭司職に聖別されたとき,彼らの手は実際の献げものでいつぱいであり,象徴的には「力で充ちて」いました。それが,『聖別する』『即ける』『任職する』といろいろに訳されているヘブル語の意味なのです。そして,罪にたいする贖がつくられたとき,手は動物の犠牲の上に置かれました。―レビ 8:32。

      聖書はまた,罪人の手には血痕がついていて,血で一杯であり罪人は信仰と悔改め,そして正しい業によつて手を洗わねばならぬ,と強くすすめています。有罪を感じたピラトは,イエスの死に対する責任を逃れるための象徴として実際に手を洗いました。

      聖書は,しばしば神の手について語つています。神の右手は,恩恵の象徴です。クリスチャンは,神の力すなわち大能の手の下に謙遜であれ,と告げられています。ヱホバの手からその力は行使されます。そして人各自の働きに応じて,神は善や祝福や,保護を与えるか,又は罰や亡びを与えます。

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