ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 祈りはあなた自身を表す
    ものみの塔 1959 | 9月1日
    • をささげて愛を示しながら,その人に対して相もかわらずにがにがしい思いを持ちつづけることは不可能です。私たちが祈りつづけるならば,すべての憎しみは消え去つて,その人を嫌う代りに好きになつてくるのに気づくでしよう。兄弟に対して愛の心を持つことは,あなた自身の良さを表わしています。―ヨハネ第一書 4:20,21。

      兄弟のためにささげる私たちの祈りは往々にして熱烈さを欠きがちです。それは私たちが個人的に彼らを知らないためか,それとも自分の求めているものや快楽に没頭しすぎているためかも知れません。また彼らに対する私たちの愛情がうすいのかも知れません。もしほんとうに愛しているならば,彼らのために祈るでしよう。他の人のために祈ることは,自分のために祈りをするのと同じくらい当然のことでなければなりません。

      他の人のために祈るならば,私たちは他人に対してより一層慈悲深く忍耐強くなります。そのために私たちは自分がますます親しみやすく,幸福になつて行くのに気づくでしよう。人が自分のために祈つていることを知る時,私たちは勇気と力を与えられます。使徒たちは,自分たちのために祈るよう兄弟たちにすすめました。『わたしたちのために祈つてほしい』とパウロは言いました。『ヨブその友のために祈れる時,ヱホバ,ヨブの艱難をときて旧に復し……給えり。』イエスは,『迫害する者のために祈れ。こうして,天にいますあなたがたの父の子となるためである』と追随者たちにさとされました。他の人のために祈ることはキリストに見習うことであり,愛のある行いです。―テサロニケ後 3:1。ヨブ 42:7-10。マタイ 5:44,45,新口。

      他の人のための祈りは,独善的な気持でなされるのではありません。彼らに対する私たちの祈りは,私たちに対する神のご慈愛とご親切に刺激されて湧いてくるのです。私たちは,すべての人が正確な真理の知識を得て救われるのを望んでいるということを,祈願によつて示します。私たちは神と同様に,人の滅びるのを望んでいません。他の人のためにささげる祈りは,私たちの心から,にくしみや悪い考えを根こそぎに引き抜いて,建設的な考えの生長発達を助けます。また他人のための祈りは,調和の精神を鼓吹し,一致と協力を生み出します。―コリント後 9:14。

      もし私たちが,すべての兄弟のために祈るならば,それは,今すぐに好きになれない兄弟でも,ついには愛するようになることを意味しています。兄弟を愛するようになることを意味しています。兄弟を愛するということは,ただがまんするだけのことでもなければ,親切で礼儀正しくすることだけでもありません。それは,キリストが私たちを愛して下さつたように兄弟を愛するという意味です。イエスの愛は無限でした。ですから私たちの愛には制限があつてはなりません。イエスの愛は,イエスのすべてを与える必要のあることを悟りました。私たちの愛もそうでなければなりません。イエスは言われました,『互に愛し合うならば,それによつて,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。』あなたの祈りは,あなたがこのように愛しているかどうかを表わします。―ヨハネ 13:34,35,新口。

      正直であるように祈りなさい

      あなたが自分の心の中に義に対する愛と,善良,親切,正直,その他の霊の実を育てて下さいと神に祈る時,あなたは真剣ですか。私たちの性質には,ある程度欺瞞的なところがあるのを,ほとんどの人は気づいています。心にもないことを何回言つたりしたりすることでしよう。心の中では非としながらおせじを言うことも度々あります。そこで,私たちが正直になりたいと言う時,つまり何についても,誰に対しても正直でありたいと言う時,私たちは真剣にそう考えているでしようか。商売をする時正直ならば,物が売れないかも知れません。正直に自分の考えを言えば,人の愛顧を失い,出世もできず,仕事さえ失うかも知れません。それでもあなたは正直でありたいですか。もしどんな犠牲を払つても正直でありたいならば,そのために祈つて下さい。努力して下さい。心から欲してもいないもののために祈つてはなりません。誠実な祈りをささげて下さい。正直でありなさい,そうすればあなたの祈りはあなたをほめるでしよう。

      正直は,内なる人を清めます。正直は忠実と高潔さを育て上げます。クリスチャン活動に対して心を引きしめさせます。正直は信頼と一致を生み出し,キリスト教的愛と信仰を強化します。正直な意見の交換あるところには思想と表現の自由があります。正直で満ちたふんいきの中ではすべての人が利益を得ます。ヱホバは言われます,『直き人の祈りは彼に喜ばる。』― 箴言 15:8。

      多くの祈りは聞かれないでおわりますが,それは祈りが間違つているからです。ある祈りは疑いながら確信のないままでささげられます。そうした祈りは,心からの誠実な祈りではありません。ヤコブは言いました,『そういう人(疑う人)は,ヱホバから何かをいただけると考えてはならない。その者は,道の定まらぬ優柔不断な者である。』私たちはヱホバが準備して下さることを信じなければなりません。ヱホバは,私たちに必要なものを与えて下さいます。それは必ずしも私たちが欲しているものではありません。ダビデは清い心と,生気にあふれた堅実な精神を与えられるように祈りました。そして彼の祈りは聞き入れられました。ある人は,『神よ私を清くして下さい ― でも今ではありません』と祈ります。また他の人は,『神よ私を富まし,親切に善良にして下さい』と言います。しかし,一週間もする中に彼らは自分の行いによつてその祈りが単なる言葉の暗誦にすぎないことを示します。―ヤコブ 1:7,8,新世。

      キリスト教がこの世の名声や宮を得る手段でない以上,真の祈りはそのようなものを含みません。反対にクリチャンは,物質主義の犠牲にならないように祈ります。クリスチャンの望みは,肉を満足させたり目を喜ばせることではなく,自分自身と自分の持つているものを与えることです。もし人々がいつも求めるばかりしないで,捧げることもするならば,彼らの祈りはもつとよく聞き入れられることは疑いありません。あなたの心からの捧げ物はあなたをほめるでしよう。

      祈りは努力の代用品ではない

      祈りだけが神への崇拝ではありません。人々は神に,物を下さい,天国に行かせて下さいと祈るのに長い時間をついやしますが,秩序正しい生活をするように調節しようとしません。そのような人々には,人がいかに生活するかは,毎日の祈りをくりかえすのと同じくらい重要であることを学ばねばなりません。兄弟に対して一つの慎しみある正しい行いをすることは,神を義の根源としてほめたたえる祈りを1000回ささげるよりも価値があるのです。正しい祈りをささげるならば,正しい生活をしなければなりません。

      私たちはまた次の事実を知る必要があります。すなわち,真の祈りは理知的な努力の代用品ではないということです。ある人々は,物を得るのに他の方法がことごとく失敗した時,それを得る一つの手段として専ら祈りに頼ります。また他の人は困つた時だけ祈ります。そうした祈りはすこぶる利己的で,正しい祈りを聞かれるヱホバのいみきらわれるものです。私たちは,祈る度に,神が私たちの利益のために,奇跡が行われることを期待しまか。不幸にしてある人々はそれを期待します。ヱホバの導きは,私たち自身の考えや働きを補うものであつて,その代りになるものではありません。肉親の父親は,自分の息子が自発的に,頭を使つて物事を考え,また独力で賢明な決断を下すことを望むものです。そして最も困難な問題のある時だけ導きを与えますが,私たちの天の父も,それと同じことを私たちに望まれています。ヱホバは,私たちに,ご自身の言葉である聖書を与えて下さいました。そして私たちがそれを賢明に用いて神をほめたたえ,またそれを理解し使用することにおいて導きを求め,感謝を表わすために神に来ることを望んでおられます。もしそのようにするならば,私たちの祈りは神に喜ばれるものとなるでしよう。私たちが祈りにおいて誠実ならば,その祈りが成就するのを忍耐して待つでしよう。先ず私たちは祈ります。それからその祈りの成就に向かつて信仰をもつて努力します。もし私たちの祈りが神の御心と一致しているならば,神は私たちの汗と血と涙の努力を見られて,その祈りに答えて下さるでしよう。

      ですから,あなたが祈る時,あなたは自分自身のありのままの姿を神の御前にさらけ出していることを忘れてはなりません。尊敬のある態度を示し,誠実と確信をもつて祈りましよう。正直でありなさい。真の祈りが聞き入れられないことは決してないということを確信しましよう。特に,けんそんになり,祈りという特権に感謝の気特を持ちましよう。あなたの祈りは決してうそを言わないで,あなたに関する真実を神に伝えるでしよう。

  • 『私たちは戦争を謳歌した』
    ものみの塔 1959 | 9月1日
    • 『私たちは戦争を謳歌した』

      牧師ハリー・エマーソン・フォスディツクは,キリスト教団の世俗的な宗教とその聖書の使用について,「現代における聖書の使用」にこう書いています。『われわれの西洋史は,戦争につぐ戦争である。われわれは戦争のために子どもを養育し,戦争のために彼らを訓練し,戦争を謳歌してきた。そして戦士をわれらの英雄とほめたたえ,教会の中にさえ戦闘旗をかかげた……口の一方のすみでは平和の君を賛美し,他方では戦争を謳歌した。そしてキリストと戦争,福音と組織的殺戮の混合に申し分なく成助したので,最近のこと,東洋のある国にいる一宣教者が,クリスチャンの善意について講演したところ,その土地のある人が,講演の終つた後その宣教者を片すみに連れて来て,「あなたは,この国の教育ある人々が,キリスト教を好戦的で流血的な宗教と見ているのを知つておく必要があります」と告げたほどである』。

      偽りの宗教はその実によつて知られると,聖書は示しています。『彼らは神を知つている,と口では言うが,行いではそれを否定している。』― テトス 1:16,新口。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする