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祈りをなしつつ油断するなものみの塔 1958 | 12月15日
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向かつて『お前は必要でない。』と言える人は一人もいないからです。そのことを口に出して言うなどとは考えないかもしれません。しかし,兄弟たちと共に集まるのを怠るなら,私たちの行いにより私たちの心の中で,全く同じことを言つているのです。献身したすべてのクリスチャンが,たがいに交わるという霊的な必要物に十分気づいているなら,次のことを絶えず想起させるのは必要でないでしよう,『ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互いに励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。』お互いに交わることは,大きな励ましであり,私たちを助けて,油断しない状態を保たせます。―コリント前 12:21。ヘブル 10:25,新口。
13 さらに,私たちが霊的な必要物に意識しているなら,イエスの場合と同じく私たち一人びとりの場合に次のことは真実です。『私の食物というのは,私をつかわされた方のみこころを行い,その御業をなしとげることである。』ヱホバとその御国およびハルマゲドンの来るべき亡びについての警告を良い心に受け入れたからは,私たちはこれらの真理を他の人に告げ知らせる真実の必要性を感じます。まつたく,エリフやエレミヤのごとく,私たちはだまつていることができません。真理を忙しく伝道することは,油断しない状態を保つ最善の方法の一つです。―ヨハネ 4:34。ヨブ 32:18-20。エレミヤ 20:9。
14 そして最後に,霊的な必要物を意識するとき,祈りの価値,すなわち天的な御父であるヱホバ神と話をする価値を認識いたします。祈りによつて私たちは,ヱホバ神の援助を必要としていること,および真の智恵とあらゆる力の源であるヱホバ神と接しつづける必要さを認識していると示します。今日ある人々のあいだには,祈りの重要性,そうです,ししばしば行う誠実な祈りの重要性を見のがす傾向があるようです。祈りをなおざりにしたり,またはお決まりの形式事のようにすることは極めて容易です。それは,大きな間ちがいです。熱心な祈り,そしてしばしば捧げる祈りは,私たちを助けて過信の罠を避けしめます。神の御言葉が祈りと油断しないこととを再三再四結びつけているのも,なつとくのいくことです。
イエスは自分の霊的な必要物を意識した
15 イエスが霊的な必要物を意識していたと何は示しますか。
15 イエスは,他のすべての事柄の場合と同じく祈りについても完全な模範を残されました。彼がこの貴重な特権を認識したことは,その地上の宣教の記録の中に明白に表わし示されています。全くのところ,地上の人間でイエスほどに祈りを認識した者は一人もいないと言うことができます。イエスは心も体も完全で超自然の力を使用することもできましたが,しかし過信することはなく,いつも自分の霊的な必要物を意識していました。彼は天の御父の智恵と力をいつも仰ぎ,祈りの中に賛美と感謝を述べました。
16-18 (イ)洗礼を受けたときのイエスの心持ちは何でしたか。(ロ)イエスの宣教中,彼が祈りをなしたということについてはどんな記録がありますか。
16 それですから,イエスの地上の宣教の最初については,こう記録されています。『イエスもバプテスマを受けて祈つておられると,天が開けて』彼は自分の霊的な必要物を十分に意識していて,御父と話を交され,御父の助けを求めました。彼は真剣そのもので,彼の行いに軽々しいところとか,軽そつなところはありませんでした。イエスは又荒野にいる40日の間,多くの時間を祈りに費したにちがいありません。私たちは,それ以外の結論をすることはできないのです。それで,サタンが来て狡猾な誘惑をしかけても,イエスは隙をつかれなかつたのです。彼は油断をしていませんでした。―ルカ 3:21。マタイ 4:1-10,新口。
17 同様なことは,彼の宣教中についても言えます。聖書には,彼が再三再四ひとりで祈るために引きこもられたと書かれています,『イエスがひとりで祈つておられたとき,弟子たちが近くにいた。』また『群衆を解散させてから,祈るためひそかに山へ登られた。』そして夜明けにいたるまでそこに居られたのです。それから暴風雨で恐怖につつまれた弟子たちのところに急いで行かれました。また別の時には,『朝早く,夜の明けるよほど前に,イエスは起きてさびしいところへ出て行き,そこで祈つておられた。』― ルカ 9:18。マタイ 14:23。マルコ 1:35,新口。
18 弟子たちの中から12使徒を選ばれる前に,イエスは『祈るために山へ行き夜を徹して神に祈られた。』重大な決定をつくる際には神に熱心な祈りを捧げねばならぬということについて,何と良い模範なのでしよう! またすばらしい変貌が行われた時も,イエスは『ペテロ,ヨハネ,ヤコブを連れて,祈るために山に登られた。』それは,イエスの祈りに対する答としてなされたのですか。たしかにそうです! そして,私たちは模範的な祈りを頂きましたが,それの助けとしてイエス自身の祈りの例があります。次のように書かれています,『イエスはある所で祈つておられたが,それが終つたとき,弟子のひとりが言つた,「主よ,ヨハネがその弟子たちに,教えたように私たちにも祈ることを教えて下さい。」』― ルカ 6:12; 9:28-30; 11:1,新口。
19,20 (イ)地上の宣教の最後の日に,イエスはどんな祈りを述べられましたか。(ロ)なぜ彼はそのような仕方で祈りましたか。
19 そして特に地上における宣教の最後の日に,人間としてのイエスは祈りをいたしました。自分の弟子たちから間もなく去るということを知つて,彼は彼らの為に長い祈りを熱心に捧げました。それはヨハネ伝 17章に記録されています。また,直ぐ先の将来を見こされたイエスは,ペテロの為に特に祈りを捧げ,彼の『信仰がなくならないように』願つたのです。それから,群集が彼を捕えに来るすこし前に,イエスは自分に対する御父の御意について3度祈りました,『わが父よ,もしでき得ることでしたらどうか,この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし,私の思いのままにではなく,みこころのままになさつて下さい。』使徒パウロも次のことを書いたとき,この特定な事柄を心に留めていたにちがいありません。『キリストは,その肉の生活の時には,激しい叫びと涙とをもつて,御自分を死から救う力のあるかたに,祈りと願いとをささげ』た。天の御父に祈りを捧げたのです。(ルカ 22:31,32。マタイ 26:39。ヘブル 5:7,新口)イエスが死ぬことからしりごんだとか,または彼の受けねばならぬその種類の死からしりごんだなどと考えるべきではありません。イエスは自分が殺されるということ,および殺される仕方についても弟子たちに告げたではありませんか。(マタイ 16:21。ヨハネ 12:33)むしろ,次のように結論すべきでしよう。彼が一番憂慮したことは,苦しみの杭の上で神の御子が死ぬとき,天の御父なるヱホバ神にそしりをもたらすのではないかということでした。
20 イエスは杭にかけられて苦しみを受けたとき,祈りを捧げつづけました。その恥とか苦痛は,彼を神から離れしめず,かえつて一層神に近づけました。その祈りの中でイエスは二つの予言的な詩篇を引用しました。神はそれよりもずつと幾世紀も以前に,その目的の為に記録せしめられたのです,『わが神,わが神,どうして私をお見捨てになつたのですか。』そして『父よ,私の霊をみ手にゆだねます。』それから,御父に告げる最後の報告は『すべてが終つた。』ということでした。ついでのことですが,このすべての事柄は次のことを証明します,すなわち地上におられたイエスは神人ではなく,化肉したものでもなく,また三位一体の一員でもないということです。彼は全く地的な人間でした。しかし,彼の御父はヱホバ神であつたため,彼は完全でした。―マタイ 27:46。ルカ 23:46。ヨハネ 19:30。詩 22:1; 31:5。
21 イエスの例から,私たちはどんな教訓を得ることができますか。
21 イエスが自分の霊的な必要物にいつも意識しておられたことは,疑問の余地がありません。完全なもの,罪のない者,そして奇蹟を行つた神の子でさえも絶えず祈りをする必要を感ぜられたというのであるなら,不完全で罪深い弱い者である私たち,アダムの息子や娘は,なおさらに祈りを捧げる必要を感ずるべきでしよう。使徒たちも同じ心持ちを抱いていたことは,彼らの手紙からも明白に分ります。その手紙は祈りをせよと命ずる言葉や,また兄弟たちのために祈りをしたと述べている事柄で充ちています。―ロマ 15:30。テサロニケ前 1:2。ペテロ前 4:7,新口。
賛美,感謝,そして願い
22 祈りを指す聖書的な命令のいくらかは何ですか。
22 また私たちに祈りを命ずる物に,祈りについて述べる多くの聖書的な命令や表現があります。祈りをすることによつてのみ私たちは「御父を呼び」つづけることができます。祈りをすることによつてのみ,私たちは「私たちの荷をヱホバにゆだね,ヱホバは私たちをささえる」ことができます。また「心をつくしてヱホバにより頼み」そして「すべての途にてヱホバをみとめる」ためには,私たちはヱホバの御言葉を探すだけでなく,祈りの中に彼のところに来なければなりません。さらに,祈りをしないなら「神と共に謙遜に歩む」こともできません。いつしょに歩いている人と会話をしない人がいるでしようか。そして,祈りとは神と語ることではありませんか。そして,私たちが先ず神に献身するとき,祈りの中に私たちは神に向つて「神よ,私は御意を行うために来ました」と言うではありませんか。―ペテロ前 1:17。詩 55:22。シンゲン 3:5,6。ミカ 6:8。ヘブル 10:9。
23,24 (イ)祈りの三つの形式,または面とは何ですか。何がそれらを生ぜしめますか。(ロ)これについてのどんなすばらしい模範をダビデは残しましたか。
23 しかし,祈りとは神に何かをお願いすることだけではありません。その事実を見のがさないようにしましよう。それですから,イエスは再三再四,神に願い求めただけでなく,くり返し祈りの中に神に賛美を捧げ,感謝をいたしました。(マタイ 11:25。マルコ 8:6。ルカ 22:17,19。ヨハネ 6:11,23; 11:41)いつでも次のことを記憶しましよう。すなわち祈りを捧げる際にはいつでもヱホバを賛美し,そして又私たちの為にヱホバが常になしつづけて居られるすべてのことに感謝の言葉を入れるということです。賛美と感謝という心持ちをつちかうことにより,私たちは自ら足ることを知る満足という報いを受けます。それは敬虔と相俟つて大きな利得の手段です。―テモテ前 6:6。
24 祈りの中に賛美,感謝,そして願いを入れた良い模範は,ダビデの捧げた祈りです。ダビデとその国民は,ヱホバの宮を建てる為に寄附をして,そのときに祈りを捧げました。その時にふさわしい流暢な言葉の中にダビデはヱホバの属性に賛美を帰しそれから彼と彼の国民が多くのものを寄附し得たことについてヱホバに感謝しています。すべてのものは,最初に神から来たからです。それからダビデはヱホバにお願いを申し出で,彼の国民がいつでも物惜しみしない心を持ちつづけるように,そして彼らの心がいつもヱホバに向かうようにと祈つています。そして又,模型的な御国については,ダビデはこう祈りました,『我が子ソロモンに全き心を与え,なんぢのいましめ……を守らせ』と語りました。私たちもダビデにならいましよう。そして祈りを捧げるときは,私たちが霊的な必要物を意識していることを示すだけでなく,また神なるヱホバに感謝し,ヱホバが私たちのためにつねになされていることに感謝していることを示します。―歴代志略上 29:10-20。
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祈りは愛ある貴重な御準備ものみの塔 1958 | 12月15日
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祈りは愛ある貴重な御準備
『何事も思い煩つてはならない。ただ,事ごとに,感謝をもつて祈と願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。』― ピリピ 4:6,新口。
1 どんな事実は,祈りの奇跡的な性質を大きく表わしますか。
この祈りの御準備について考えをめぐらすなら,その奇蹟について驚嘆の言葉を発せざるわけには行きません。1946年1月10日,人間は大がかりな準備をして後にレーダー信号を始めて月に達せしめました。そのとき,『月までの距離である22万1000から25万3000マイルに相当する2.38秒から2.72秒の後に』極めて薄弱な反響が戻つて来たのです。しかし,人間はそのことをたいへん誇らしげに思いました。人間のレーダーは光の速力で月に達するかもしれません。しかし,私たちの祈りにくらべるときそのようなものは全く顔色の無いものです。私たちの祈りははるか彼方のヱホバの御座にまで達します。ヱホバの御座は物質の宇宙よりもずつと上のところにあり,幾光年か数え切れぬ程遠いところにあるのです。しかも,それは一瞬の中に達してしまうのです! そして,祈りの中にヱホバに達することは何と容易なのでしよう!
2 祈りに対する最初の条件は何ですか。そして,どんな二つの面で?
2 しかし,この奇蹟がなされるためには,私たちは唯一つの真の生ける神ヱホバに祈らねばなりません。(出エジプト 6:3。イザヤ 46:9)人の心の中だけに存在している神々に祈りを捧げても,その祈りは決して聞かれないでしよう。エリヤの時のバアルの祭司たちは,残念にもそのことを知りました。(列王紀略上 18:26-29。詩 115:4-8)それですから,祈りに対する最初の要求は,信仰です。『信仰がなくては,神によろこばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,御自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはずだからである。』気をつけなさい,神が存在していることに信仰を持つだけでなく,神を熱心に求める者たちには神は報いを与えられる,そして神は私たちの祈りに答えられるということを信じなければならないのです。ヤコブも次のように強調しています,『疑わないで,信仰をもつて願い求めなさい。疑う者は,風に吹かれて波立つ海の波のようである。そういう者は,すべてのものをヱホバから戴けると考えてはならない。』そして,イエスもこう言われました,『もし,からし種一粒ほどの信仰があるなら……あなた方にできない事は,何もないであろう。』― ヘブル 11:6。ヤコブ 1:6,7。マタイ 17:20,新世と新口。
3 (イ)神が祈りにこたえるということについてのどんな例が,神の言葉の中にありますか。(ロ)どんな現代の例がありますか。
3 そして,そのような信仰を持つことに対する健全な基礎があるではありませんか。神は『私たちが求めまた思うところのいつさいを,はるかに越えてかなえて下さることができるかた』ではありませんか。そして,神は私たちを愛しておられる故,神は為し得る方であるだけでなく,進んで為し得る方であると信ずることができます ― この点は不完全な人間と極めてちがうところです。人間はしばしば為そうとする気持がありますが為し得ることはできず,また為し得ることができてもそうする気持はないのです。まつたく,『あなた方は,悪い者であつても,自分の子供には,良い贈り物をすることを知つているとすれば,天にいますあなた方の父は,なおさら,求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。』エリヤが450人のバアルの予言者たちと面したとき,神はエリヤの祈りに答えませんでしたか。セナケリブの軍隊がエルサレムを脅かしたときヘゼキヤの祈りに答えませんでしたか。パテロがヘロデ・アグリッパによつて投獄されたとき,ペテロの祈りに答えませんでしたか。そして,あらゆる妨害にもかかわらず,ヱホバの証者の新しい世の社会が繁栄していることは,ヱホバ神は昔の場合と同じく今日でも祈りに答えることができ,かつ進んで答えられるという証明です。たしかに今日,神がどんな特定な手段で祈りに答えられるかは,私たちの必らずしも理解するところではありません。しかし,私たちは次のことを知つています,すなわち神は目に見えぬものと目に見えるものとの両方で成り立つ御自分の制度,御自分の言葉,そして活動力なる聖霊を用いておられるということです。―エペソ 3:20。マタイ 7:11。列王紀略上 18:36-38。列王紀略下 19:19,35。使行 12:5,7。
神の径路
4 誰を通して私たちは祈りの中に来なければなりませんか。この条件がイエスの模範的な祈りの中に述べられていないのはなぜですか。
4 さらに,私たちの祈りが神に達するためには,私たちは神の定めた方法を認めねばなりません。ヱホバは秩序の神だからです。ヱホバは宇宙の大主権者であられる故に,御自分の臣下がむやみやたらに押しつけがましくすることを許しません。特に,罪を持つ敵である者たちから押しつけがましくされることを許さないのです。ヱホバは一つの径路を持つておられます,そしていわば神の謁見を受けるためには,私たちはその径路を認めねばなりません。西暦33年の春以来,その径路はイエス・キリストです。彼もこう言われました,『だれでも私によらないでは,父のみもとに行くことはできない。』多くの人々は,マリヤや聖徒と呼ばれる他の者たちを通して神に達すると主張しますが,このことにおいて彼らは悲しくも失敗しているのです。神の言葉の何処を見ても,祈りがそれらの者を通して捧げられているという箇所はなく,またそうせよと命じている言葉も見つかりません。『神は唯一であり,神と人との間の仲保者もただひとりであつて,それは人なるキリスト・イエスである。彼はすべての人のあがないとしてご自身をささげられた。』それであるなら,イエスは弟子たちに与えた模範的な祈りの中で,なぜこの要求を述べなかつたのですか。おそらく,イエスがその祈りを与えられた時は,彼は御自身を十分に証明していなかつたからです。しかしその宣教の最後の日までには,彼は「御父より賜わつた業を為しとげて」いましたから,次のように言うことができたのです,『あなた方が父に求めるものはなんでも,私の名によつて下さるであろう,今までは,あなたがたは私の名によつて求めたことはなかつた。求めなさい,そうすれば,与えられるであろう。そして,あなた方のよろこびが満ちあふれるであろう。』― ヨハネ 14:6。テモテ前 2:5,6。ヨハネ 17:4; 16:23,24,新口。
5 祈りをする際の私たちの心の態度は何でなければなりませんか。そして,なぜ?
5 私たちの祈りが神に達する為には,全く誠実な気持の中に捧げられねばなりません。『人に見せるために』祈る者たちは,無駄な祈りをしています。神は偽善者を憎むからです。神は『霊と真をもつて』祈る者たちだけを聞きます。『正しい者の祈りは彼によろこばれる。』彼らは『主の御顔を仰ぎ見るであろう。』同様に私たちは謙遜の中に神に来なければなりません。神の大いなること,および私たちの弱少なることを考え見るとき,誇りはもつとも不適当なものです。さらに神に来て願い求める場合に,私たちは乞い願うものとして来るのであり,お客として来るのではありません。私たちは神と交渉取引をすることができません。私たちは提供すべきものを持つていないからです。それですから,高ぶつた者に対して神が反対し,謙遜な者に恵みを与えるということは,まつたく適当なものです。―マタイ 6:5。ヨハネ 4:24。シンゲン 15:8。詩 11:7。ペテロ前 5:5。
6 祈りを捧げる際の私たちの姿勢はどうですか。しかし,ひざまずくことは良いと,どうして言えますか。
6 ついでのことですが,祈りをするときに手を組んだり,敬虔ぶつた姿勢を取るという行いに対する聖書的な裏づけは一つもありません。神の御言葉の示すごとく,私たちの姿勢は重要ではありません。しかし,個人的な祈りを捧げる際にひざまずくことは,造り主の前に謙遜という正しい心持を採る助けであるとすすめ
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