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あなたは決して独りではありませんものみの塔 1972 | 12月1日
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なやめるときの最ちかき助なり さればたとひ地はかはり山はうみの中央にうつるとも我らおそれじ」。
33 この詩篇のことばは,ヒゼキヤ王の時代に生じた重大な事態と合致しているようです。それは,エルサレムがアッシリヤの王に脅かされた時で,ヒゼキヤは自分が全く独りだと感じることもできたはずです。しかし,彼は神が「なやめるときの最ちかき助」であることを知っていました。それで彼はエホバに祈り,都市は危難から救出されたのです。(イザヤ 37:14-37)ですから,真のクリスチャンも,苦難にあるときにはこの詩篇を思い出すことができます。神を避所とするためには,神のもとにのがれなければなりません。そして,そうするためには,いつも神の正義の原則につき従う必要があります。神を信頼し,忠実にその組織につき従うことにより,わたしたちはエホバを自分たちの強固な櫓そして避所とするのです。―箴 18:10。
34 わたしたちは将来に対して何を決意すべきですか。どんなすばらしい結果がもたらされますか。
34 前途にはまだ大きな苦難の時が待っています。マゴグのゴグである悪魔サタンが,わたしたちエホバの民に,予告されていた攻撃をしかけてくる時が来ます。(エゼキエル 38:1,2,8-12)しかし,わたしたちは決して独りなのではありません。独房に監禁されようとされまいと,エホバはわたしたちが忍耐できるよう助けてくださいます。わたしたちは将来に何が起ころうと,かたく立つ決意をしています。しかるべき時に,エホバ神はご自分の敵すべてに向かって力強い行動を起こされます。そして,わたしたちは神の王国とともに勝者として立つのです。すべてが終わり,「大かん難」が過ぎ去ったのちに,わたしたちは,エホバが近い助け,強固な天,確かな避所,また力であったことを見いだすでしょう。
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天からもたらされる助けものみの塔 1972 | 12月1日
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天からもたらされる助け
「誘惑に陥らぬよう目を覚し,かつ祈れ」― マタイ 26:41。
1,2 (イ)「慎みて祈りせよ」と書き送ったとき,使徒ペテロはどんなでき事を思い起こしていたかもしれませんか。(ロ)『目をさましている』ことのできなかった3人の使徒にイエスはどんな助言を与えましたか。
『萬の物のをはり近づけり,されば汝ら心をたしかにし,慎みて祈りせよ』。この助言のことばをクリスチャンに書き送ったとき,使徒ペテロは,自分とヤコブとヨハネが,イエスから祈るようにと忠告を受けた夜のことを思い出していたかもしれません。彼らはゲッセマネの園にいました。イエスの裏切られる時は近づいていました。イエスは3人に言いました。『わが〔魂〕いたく憂ひて死ぬばかりなり。汝らここにとどまりて我と共に目を覚ましをれ』― ペテロ前 4:7。マタイ 26:38〔新〕。
2 それから,イエスは少し進んで行き,ひれ伏して天の父に祈りました。『わが父よ,もしうべくばこの酒杯を我より過ぎ去らせたまへ。されど我が〔意志〕のままにとにはあらず,〔御意志〕のままになしたまへ』。3人の弟子の所にもどったイエスは,彼らが眠っているのを見,ペテロに言われました。『なんぢらかく一時も我と共に目を覚まし居ることあたはぬか。誘惑に陥らぬよう目を覚まし,かつ祈れ』― マタイ 26:39-41。
3 イエスの助言にもかかわらず,使徒たちはどう応じましたか。それに対してイエスはなんと言われましたか。
3 イエスはふたたび離れて行って,神のご意志が成されるようにと神に祈られました。そしてもどってこられ,またもや3人が眠っているのをごらんになりました。彼らの『目は疲れていた』からです。イエスは3度目に彼らのもとを離れて祈りました。使徒たちの所に帰ってきたイエスは,こう言われました。「今は眠りて休め。視よ,時近づけり,人の子は罪人らの手に付さるるなり。起きよ,我ら往くべし。視よ,我らを売るもの近づけり」。イエスがまだこれらのことばを話しているうちに,彼を拘引するため,イスカリオテのユダが,武装した群衆とともに近づいて来ました。―マタイ 26:42-47。
祈りは誘惑を避けるために必要
4 (イ)使徒たちは,誘惑される事態に陥る前に,どんな明確な警告を与えられましたか。(ロ)この警告にペテロはどう応じましたか。
4 イエスの弟子たちは誘惑に陥りました。それも,師から警告されたにもかかわらずにです。3人の使徒は自分の場所にいて,目ざめていなければなりませんでした。しかし,イエスが3度も祈りに没頭しておられる間に,身をかがめて眠ってしまったのです。夜中を過ぎていたことでしょうし,弟子たちは当然眠かったことでしょう。それにしても,霊ははやっても肉身は弱いことを知っていたイエスは,目ざめて祈っているようにと彼らに告げておられたのです。(マタイ 26:41,新)彼らは誘惑される状態に陥る前に警告を受けていたのです。イエスは言われました。「こよひなんぢら皆われに就きてつまづかん『われ牧羊者を打たん,さらば群の羊散るべし』と録されたるなり」。(マタイ 26:31)こうして彼らは,ゼカリヤ書 13章7節の預言が成就しようとしていることを警告されました。しかし,ペテロはイエスの警告にこう答えました。「たとひみな汝に就きてつまづくとも我はいつまでもつまづかじ」。ところがペテロは,それよりもさらに悪いことをするであろう ― 主イエスを3度否むであろう,と告げられました。―マタイ 26:31-35。
5 誘惑に面したとき,使徒たちは何をしましたか。どうすべきでしたか。
5 目ざめているということ,また慎んで祈るということに関し,イエスは弟子たちにりっぱな模範を示しました。しかし,イエスのことばがどのように真実となるのか,使徒たちには理解できませんでした。それで彼らは何をしましたか。祈る代わりに眠ってしまいました。彼らは祈り,天からの助けを求めるべきでした。ところが,眠ってしまったのです。目をさましていませんでした。祈りつづけていなかったのですから,誘惑に陥るのは当然のことでした。
6 (イ)イエスが黙示録 3章10節で予告された,『全世界にきたらんとする試み』は何ですか。(ロ)試みがまだ終わっていないことを考えると,これはクリスチャンに対するどんな警告となりますか。
6 この3人の弟子たちの経験は,ヒラデルヒヤ会衆の『使い』に与えられたイエスのことばを思い起こさせます。それは,黙示録の3章10節にこうしるされています。「汝わが忍耐の言を守りし故に,我なんぢを守りて,地に住む者どもを試むるために全世界に来らんとする試錬のときに免れしめん」。予告されていた「終わりの時」が到来してからというものは,人間から,また目に見えない悪霊からくる圧力が,物質的,国家主義的方向へ,また不信仰の方向へ,激しい勢いで働きかけています。人は,この邪悪な事物の体制の一部となるか,それとも神の王国を支持するものとなるかを決める試みにあっています。今日の最大の誘惑は,そうしたこの世の圧力や魅力に屈して,この事物の体制の一部になることです。比較的短い時間,つまり『一時』の間におけるこの世界的な試みはまだ終わっておりません。したがって,現代のクリスチャンは,誘惑の時代にいるという警告を受けています。1世紀のクリスチャンと同様,誘惑に陥らないよう目ざめて祈る必要があるのです。
7,8 (イ)試みがクリスチャンに臨むのを神が許されるのはなぜですか。わたしたちが天から助けを得られるよう,神はどんな手段を備えられましたか。(ロ)誘惑に陥るのは,おもに何の問題ですか。それで祈りはどのように助けとなりますか。
7 クリスチャンは今日,非常に多くの誘惑に面しています。ですから,誘惑からどのようにのがれるかを知る必要があります。どのように誘惑からのがれることができますか。次のことを銘記すべきです。エホバ神は悪をもってだれかを誘うようなことはされません。忠実なしもべたちが誘惑にあうのを許されるのは,ご自分に対する忠誠と王国に対する忠節を試みるためです。しかも忘れてならないのは,誘惑されたとき,わたしたちには祈りという経路がいつでも開かれており,いつでもそれを活用できるということです。わたしたちは,天からいつでも助けを得ることができるのです。
8 聖書が示しているように,誘惑に陥るのは,おもに欲望の問題です。(ヤコブ 1:13-15)ですから,悪い欲望を培うことのないよう警戒してください。そうしないなら,誘われてたちまち罪に引き込まれてしまいます。わたしたちは慎んで祈らねばなりません。祈りはそうした欲望を退ける助けとなるからです。そのような誠実な祈りは,利己的な欲望を追いやり,あらゆる利己的な誘引力をもつ誘いの束縛からわたしたちを自由にします。目を覚ましているためには祈りが必要であり,祈りは,わたしたちの心を清めることもします。そうです,わたしたちがお願いさえすれば,神は助けてくださるのです。わたしたちには天からのその助けが必要です。誘惑は必ずやって来るからです。その時には,目を覚まして祈りなさい,という神の警告を思い起こしてください。
誘惑にあった時の助け
9 使徒パウロはコリント前書 10章13節で,誘惑についてなんと書きましたか。それは神の忠実性とどう関係していますか。
9 忠実な神はわたしたちが耐えられないほどの誘惑にあうのを許されない,ということをクリスチャンが認識するのは肝要です。使徒パウロがコリント前書 10章13節にしるしているとおりです。『神は真実なれば,汝らを耐へ忍ぶことあたはぬほどの試練に遭はせたまはず。汝らが試練を耐へ忍ぶことを得んために,これと共にのがるべき道を備へたまはん』。これは,誘惑の全過程を通じて,つまり,誘惑にあっている人がエホバの助けを得てそれに対処する方法を知り,そして誘惑からのがれるまで,エホバ神が忠実であることを意味します。
10,11 (イ)イスラエル人の経験から明らかなとおり,使徒は特にどんな経験について語っていますか。(ロ)そのような誘惑がクリスチャンにも臨むのはなぜですか。神はわたしたちが何を明らかにするように取り計らわれますか。
10 ここでわたしたちは,使徒パウロはコリント前書 10章13節で,迫害についてではなく,特に誘惑について語っているということを銘記すべきです。彼は『人の常なる』誘惑について考えていたのです。この13節の初めで,彼は言いました。「汝らが遭ひし試練は人の常ならぬはなし」。どの人にとって常でないのですか。特に,エホバと契約関係にあった古代イスラエルの人びとにとってです。というのは,この章の前節の所で使徒は,生来のユダヤ人に臨んだ誘惑について,また彼らの中の数千人もの人が誘惑に陥った様子を語っているからです。パウロは彼らが経験したこと,そして誘惑に屈服したことを,クリスチャンが同じような境遇に陥らないよう注意するための警告として取り上げています。それらイスラエル人は異邦人に近づき,幾千人ものイスラエル人が不道徳に陥りました。使徒パウロはこう述べています。「またかれらの中のある者にならひて我ら姦淫すべからず,姦淫を行ひしもの一日に二万三千人死にたり」。(コリント前 10:8)さらに彼らは,偶像崇拝に転じ,不平を言ったりつぶやいたりしました。エホバは,彼らの心にあるものを見るため,彼らが自分たちの神エホバ
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