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  • 祈りをなしつつ油断するな
    ものみの塔 1958 | 12月15日
    • ある所で祈つておられたが,それが終つたとき,弟子のひとりが言つた,「主よ,ヨハネがその弟子たちに,教えたように私たちにも祈ることを教えて下さい。」』― ルカ 6:12; 9:28-30; 11:1,新口。

      19,20 (イ)地上の宣教の最後の日に,イエスはどんな祈りを述べられましたか。(ロ)なぜ彼はそのような仕方で祈りましたか。

      19 そして特に地上における宣教の最後の日に,人間としてのイエスは祈りをいたしました。自分の弟子たちから間もなく去るということを知つて,彼は彼らの為に長い祈りを熱心に捧げました。それはヨハネ伝 17章に記録されています。また,直ぐ先の将来を見こされたイエスは,ペテロの為に特に祈りを捧げ,彼の『信仰がなくならないように』願つたのです。それから,群集が彼を捕えに来るすこし前に,イエスは自分に対する御父の御意について3度祈りました,『わが父よ,もしでき得ることでしたらどうか,この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし,私の思いのままにではなく,みこころのままになさつて下さい。』使徒パウロも次のことを書いたとき,この特定な事柄を心に留めていたにちがいありません。『キリストは,その肉の生活の時には,激しい叫びと涙とをもつて,御自分を死から救う力のあるかたに,祈りと願いとをささげ』た。天の御父に祈りを捧げたのです。(ルカ 22:31,32。マタイ 26:39。ヘブル 5:7,新口)イエスが死ぬことからしりごんだとか,または彼の受けねばならぬその種類の死からしりごんだなどと考えるべきではありません。イエスは自分が殺されるということ,および殺される仕方についても弟子たちに告げたではありませんか。(マタイ 16:21。ヨハネ 12:33)むしろ,次のように結論すべきでしよう。彼が一番憂慮したことは,苦しみの杭の上で神の御子が死ぬとき,天の御父なるヱホバ神にそしりをもたらすのではないかということでした。

      20 イエスは杭にかけられて苦しみを受けたとき,祈りを捧げつづけました。その恥とか苦痛は,彼を神から離れしめず,かえつて一層神に近づけました。その祈りの中でイエスは二つの予言的な詩篇を引用しました。神はそれよりもずつと幾世紀も以前に,その目的の為に記録せしめられたのです,『わが神,わが神,どうして私をお見捨てになつたのですか。』そして『父よ,私の霊をみ手にゆだねます。』それから,御父に告げる最後の報告は『すべてが終つた。』ということでした。ついでのことですが,このすべての事柄は次のことを証明します,すなわち地上におられたイエスは神人ではなく,化肉したものでもなく,また三位一体の一員でもないということです。彼は全く地的な人間でした。しかし,彼の御父はヱホバ神であつたため,彼は完全でした。―マタイ 27:46。ルカ 23:46。ヨハネ 19:30。詩 22:1; 31:5。

      21 イエスの例から,私たちはどんな教訓を得ることができますか。

      21 イエスが自分の霊的な必要物にいつも意識しておられたことは,疑問の余地がありません。完全なもの,罪のない者,そして奇蹟を行つた神の子でさえも絶えず祈りをする必要を感ぜられたというのであるなら,不完全で罪深い弱い者である私たち,アダムの息子や娘は,なおさらに祈りを捧げる必要を感ずるべきでしよう。使徒たちも同じ心持ちを抱いていたことは,彼らの手紙からも明白に分ります。その手紙は祈りをせよと命ずる言葉や,また兄弟たちのために祈りをしたと述べている事柄で充ちています。―ロマ 15:30。テサロニケ前 1:2。ペテロ前 4:7,新口。

      賛美,感謝,そして願い

      22 祈りを指す聖書的な命令のいくらかは何ですか。

      22 また私たちに祈りを命ずる物に,祈りについて述べる多くの聖書的な命令や表現があります。祈りをすることによつてのみ私たちは「御父を呼び」つづけることができます。祈りをすることによつてのみ,私たちは「私たちの荷をヱホバにゆだね,ヱホバは私たちをささえる」ことができます。また「心をつくしてヱホバにより頼み」そして「すべての途にてヱホバをみとめる」ためには,私たちはヱホバの御言葉を探すだけでなく,祈りの中に彼のところに来なければなりません。さらに,祈りをしないなら「神と共に謙遜に歩む」こともできません。いつしょに歩いている人と会話をしない人がいるでしようか。そして,祈りとは神と語ることではありませんか。そして,私たちが先ず神に献身するとき,祈りの中に私たちは神に向つて「神よ,私は御意を行うために来ました」と言うではありませんか。―ペテロ前 1:17。詩 55:22。シンゲン 3:5,6。ミカ 6:8。ヘブル 10:9。

      23,24 (イ)祈りの三つの形式,または面とは何ですか。何がそれらを生ぜしめますか。(ロ)これについてのどんなすばらしい模範をダビデは残しましたか。

      23 しかし,祈りとは神に何かをお願いすることだけではありません。その事実を見のがさないようにしましよう。それですから,イエスは再三再四,神に願い求めただけでなく,くり返し祈りの中に神に賛美を捧げ,感謝をいたしました。(マタイ 11:25。マルコ 8:6。ルカ 22:17,19。ヨハネ 6:11,23; 11:41)いつでも次のことを記憶しましよう。すなわち祈りを捧げる際にはいつでもヱホバを賛美し,そして又私たちの為にヱホバが常になしつづけて居られるすべてのことに感謝の言葉を入れるということです。賛美と感謝という心持ちをつちかうことにより,私たちは自ら足ることを知る満足という報いを受けます。それは敬虔と相俟つて大きな利得の手段です。―テモテ前 6:6。

      24 祈りの中に賛美,感謝,そして願いを入れた良い模範は,ダビデの捧げた祈りです。ダビデとその国民は,ヱホバの宮を建てる為に寄附をして,そのときに祈りを捧げました。その時にふさわしい流暢な言葉の中にダビデはヱホバの属性に賛美を帰しそれから彼と彼の国民が多くのものを寄附し得たことについてヱホバに感謝しています。すべてのものは,最初に神から来たからです。それからダビデはヱホバにお願いを申し出で,彼の国民がいつでも物惜しみしない心を持ちつづけるように,そして彼らの心がいつもヱホバに向かうようにと祈つています。そして又,模型的な御国については,ダビデはこう祈りました,『我が子ソロモンに全き心を与え,なんぢのいましめ……を守らせ』と語りました。私たちもダビデにならいましよう。そして祈りを捧げるときは,私たちが霊的な必要物を意識していることを示すだけでなく,また神なるヱホバに感謝し,ヱホバが私たちのためにつねになされていることに感謝していることを示します。―歴代志略上 29:10-20。

  • 祈りは愛ある貴重な御準備
    ものみの塔 1958 | 12月15日
    • 祈りは愛ある貴重な御準備

      『何事も思い煩つてはならない。ただ,事ごとに,感謝をもつて祈と願いとをささげ,あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。』― ピリピ 4:6,新口。

      1 どんな事実は,祈りの奇跡的な性質を大きく表わしますか。

      この祈りの御準備について考えをめぐらすなら,その奇蹟について驚嘆の言葉を発せざるわけには行きません。1946年1月10日,人間は大がかりな準備をして後にレーダー信号を始めて月に達せしめました。そのとき,『月までの距離である22万1000から25万3000マイルに相当する2.38秒から2.72秒の後に』極めて薄弱な反響が戻つて来たのです。しかし,人間はそのことをたいへん誇らしげに思いました。人間のレーダーは光の速力で月に達するかもしれません。しかし,私たちの祈りにくらべるときそのようなものは全く顔色の無いものです。私たちの祈りははるか彼方のヱホバの御座にまで達します。ヱホバの御座は物質の宇宙よりもずつと上のところにあり,幾光年か数え切れぬ程遠いところにあるのです。しかも,それは一瞬の中に達してしまうのです! そして,祈りの中にヱホバに達することは何と容易なのでしよう!

      2 祈りに対する最初の条件は何ですか。そして,どんな二つの面で?

      2 しかし,この奇蹟がなされるためには,私たちは唯一つの真の生ける神ヱホバに祈らねばなりません。(出エジプト 6:3。イザヤ 46:9)人の心の中だけに存在している神々に祈りを捧げても,その祈りは決して聞かれないでしよう。エリヤの時のバアルの祭司たちは,残念にもそのことを知りました。(列王紀略上 18:26-29。詩 115:4-8)それですから,祈りに対する最初の要求は,信仰です。『信仰がなくては,神によろこばれることはできない。なぜなら,神に来る者は,神のいますことと,御自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはずだからである。』気をつけなさい,神が存在していることに信仰を持つだけでなく,神を熱心に求める者たちには神は報いを与えられる,そして神は私たちの祈りに答えられるということを信じなければならないのです。ヤコブも次のように強調しています,『疑わないで,信仰をもつて願い求めなさい。疑う者は,風に吹かれて波立つ海の波のようである。そういう者は,すべてのものをヱホバから戴けると考えてはならない。』そして,イエスもこう言われました,『もし,からし種一粒ほどの信仰があるなら……あなた方にできない事は,何もないであろう。』― ヘブル 11:6。ヤコブ 1:6,7。マタイ 17:20,新世と新口。

      3 (イ)神が祈りにこたえるということについてのどんな例が,神の言葉の中にありますか。(ロ)どんな現代の例がありますか。

      3 そして,そのような信仰を持つことに対する健全な基礎があるではありませ

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