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祈りを聞かれるかたのもとに来るものみの塔 1975 | 10月1日
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実際,『神がおられること,また,神はご自分を切に求める者に報いてくださる』ということを心から信ずるのは重要なことです。(ヘブライ 11:6)人々は世界各地に住んでいるのでその必要もさまざまに異なるかもしれませんが,最もよく知っておられ,最もよく世話をしてくださるかたは,わたしたちの必要を常にご存じです。ひゆ的な意味で,『エホバは,信仰をもってエホバを呼ぶ者すべてに近くおられ』,彼らが助けを必要とするときに速やかにこたえてくださいます。―詩 145:18。
11 (イ)神はわたしたちの必要をご存じですか。(ロ)ではなぜそれらについて祈らねばならないのですか。
11 義者の祈りに耳を開かれるかたを呼び求める際に,わたしたちは,こちらがお願いする前からそのかたがわたしたちの必要に十分気づいておられることを思い起こします。食物,飲み物,衣服について,神ご自身のみ子は,「あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです」と言われました。(マタイ 6:32)神はこれらのものについてすべてのことをご存じであり承知しておられますが,それでもわたしたちが自分に必要な物や欲しい物を神に願い求めることを望んでおられます。わたしのもとに来なさい,という神の変わらない勧めを考えるなら,日常の必需品を願い求めたりして神を煩わせるべきではないという見方をすることは,感謝の念の欠如を示すことになるでしょう。『見たまう神』は人間の後見人ですから,地に住む良い者の上にも悪い者の上にも目を注いでおられます。そして神は,ご自分を愛する者たちを捨てて,すべての問題を自分で解決させるようなことはしておられません。それどころかエホバ神は,ご自分により頼む者たちが,神を自分の父また避難所,力の源と認めていることを自分のことばで言い表わすのを聞いて喜ばれるにちがいありません。―創世 16:13。詩 46:1。箴 15:3。
12 (イ)ある人々は祈りについてどんなまちがった考えを持っていますか。(ロ)しかし,祈ることはなぜ有益ですか。
12 信仰のあまりない人々は,神のことを,独力で物事を行なうように人類を放置した不在者と考えるかもしれません。また,祈りは一種の自己欺まんであると思うかもしれません。さらには,祈りは,自分の考えを霊的な方向に向けて平安な思いを保つための心理的な助けもしくは支えである,と考える人たちもいるでしょう。しかしながら,祈りには感情的経験をはるかに超えたものがあります。あなたは自分自身に語っているのではなく,生きておられる天の父にお話ししているのです。天の父は「わたしたちが求めまた思うところのすべてをはるかに越えてなしうる」かたです。(エフェソス 3:20)決定を下さねばならないとき,それが大きな決定であろうと小さな決定であろうと,行くべき道を明らかにしうるのはエホバの霊と導きです。神は独立自足のかたで,欠けたものは一つもないかたですが,ご自分の民の必要に大いに共感されます。そして彼らは『日々の生活の思い煩いをすべて神にゆだねる』よう勧められています。『神は彼らを顧みてくださるからです』― ペテロ第一 5:7。
祈りには効力がある
13 エリヤの場合祈りはどのように効力がありましたか。
13 祈りの力と効力は,イスラエルの一人の預言者によって明らかにされました。イスラエルに臨んだ長い干ばつが終わりに近づいていることを発表したのち,エリヤはカルメル山の頂で再び雨を降らせてくださるように祈りました。彼の従者はその場所から,祈りが聴き届けられたのを見ました。最初に小さな雲が現われ,次いで雨の前兆があり,それから大雨になりました。聖書記述者ヤコブはその歴史的事件に注意を引き,エホバの目的に従って祈るしもべの祈りにエホバが答える能力を持っておられることを述べています。次のように書かれています。「義にかなった人の祈願は,それが働くとき,大きな力があります」― ヤコブ 5:16-18。列王上 17,18章。
14 自分の必要とするものを祈り求める際に根気強くなければならないのはなぜですか。
14 人類の父であられるかたは,人類の福祉と幸福に真に関心を持つ者として,すべての者がご自分と昼夜連絡を保つよう取り決めておられます。親というものは,自分の子どもがいつも自分を頼りにしていて必要なものを自分に求めるのを喜ぶものです。ましてエホバは,ご自分に根気強く請い願う者たちの必要を満たす方法をご存じです。イエスはこの点を説明するに際し,その弟子たちに,「彼らが常に祈り,かつあきらめてはならないことについて」の例えを話されました。(ルカ 18:1-8)必要なものを繰り返し求めることはあなたの関心のほどを物語るものです。そしてその祈りが聴き届けられたなら,あなたの根気強さは報いられます。
15 反対を受けているときの祈りにはどんな価値がありますか。
15 良いたよりを広めることに対する妨害は,遅かれ早かれ,それを広める者たちに必ず影響を及ぼします。その結果苦しみや迫害が臨むかもしれません。キリスト・イエスもそのような事柄を経験されました。「キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者はみな同じように迫害を受けます」と書かれています。(テモテ第二 3:12)しかしながら,神に対する祈りと祈願は,神に対する愛や信頼と共に,エホバのクリスチャン証人たちが何事にもめげずに忠実の道を歩むための助けとなります。(詩 34:15)ローマ 12章12節には,「患難のもとで耐え忍びなさい」,そして同時に「たゆまず祈りなさい」という助言があります。
16,17 (イ)迫害下にある兄弟たちに対する関心をどのように表わすことができますか。(ロ)そのことは請願者の側の何を示しますか。
16 良いたよりの伝道を妨げるために時折禁令が課され,その結果伝道者たちは裁判にかけられたり,迫害されたり,投獄されることもあります。わたしたちはそのようなことを聞くとき,一時的なやすらぎを求めて妥協することさえせずに堅く立つ兄弟たちを深く思いやります。圧迫のもとで兄弟たちが義のために取るりっぱな態度によってわたしたちは強められます。また兄弟たちも,わたしたちの祈りによって励まされ助けられます。そうです,クリスチャンが妨害を受けずにクリスチャン生活を営み,活動を行なえるように,政治を行なう立場にある人々のために祈るのは正しいことです。―テモテ第一 2:1,2。
17 兄弟たちが悪名高い裁判にかけられるなどして困難な目にあっているなら,わたしたちは兄弟たちのためにあきらめずに祈ることによって,心遣いを示すことができます。釈放を願ううえで請願者が自分の愛の深さや動機の純粋さを表わすことを神が許されるのは明らかです。距離も刑務所の壁も彼らの祈願を無効にすることはできません。そのことに疑問はありません。聖書は不断の祈りが,非常な苦境のもとにある人々の解放にあずかって力があることを示しています。―コリント第二 1:8-11。
祈りにおける忍耐と根気強さ
18 祈りにおいて忍耐はなぜ重要ですか。
18 しかしわたしたちは,エホバを待つ,つまり禁令や迫害に関する祈りにエホバがこたえてくださるのを待つ必要があるということをいつも認める必要があります。時に神が遅いように思えても,愛する者たちのために行動する能力が神にない,と考えるべきではありません。解放があとになれば,神の王国に関してさらに大きな証言が行なわれることになるかもしれないので,神にとっては,法廷で勝利をもたらしたり,あるいは他の方法で解放したりする時期ではないのかもしれません。神は「遅い」などと言うのはもってのほかで,神はあらゆることに『適当な時』を定めておられることを認識すべきです。その間神はみ使いによる保護を与えることができます。使徒ペテロが言ったことからも慰めを得ることができます。「エホバは,敬神の専念をいだく人びとをどのように試練から救い出すか……を知っておられるのです。……エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません」。(ペテロ第二 2:9; 3:9)そうです,祈りを聞かれるかたは確かに,忍耐強い,そして一生懸命に神のご意志を行なう者たちを強めることができます。
19 (イ)わたしたちは神が迫害を防いでくださるよう祈るべきですか。(ロ)エホバは望まれるならいつでも何をすることができますか。
19 個人的にささげられるものにせよ,大ぜいの人によってささげられるものにせよ,他の人々のために代わってささげる祈りの力も見逃すべきではありません。エホバは,祈る者の数の多さだけに圧倒されて行動されるのではありません。祈願する人々の願いは,エホバのご意志が行なわれることであり,彼らの一致した関心と愛のこもった気遣いとは,良いたよりを伝える仲間の伝道者が助けられ保護されることにあります。神のご意志は,関係者たちが予想もしないような方法で解放をもたらすことであるかもしれません。この事実を確信してください。エホバは苦難の下でも忠実を保つ人々の後ろだてとなられます。
20 他の人々のためにささげる祈願はむなしい,と考えてよいでしょうか。
20 そういうわけで,自分の祈願はむだであるとか,迫害されている人々の助けとなるような正しい方法で祈らなかったのではないか,と考えるべきではありません。神が祈りにこたえて行なわれることは,もしわたしたちが知っていたなら願い求めたに違いない事柄でしょう。(ローマ 8:26,27)幾世紀を経てもエホバの力は衰えていないこと,エホバの耳が遠くなって崇拝者の祈りが聞こえなくなってしまったというようなことはないことに,ひとりびとりが確信を持つべきです。
ためらわずに祈る
21 (イ)なぜ人は祈ることをためらうべきではありませんか。(ロ)人はどんなりっぱな特質のゆえにエホバに引かれますか。
21 自分のうちに神の愛が十分に表明されている人は,全き確信をもって遠慮せずに神のみもとに来ます。あわれみ,辛抱強さ,愛のこもった親切を含めて非常に多くのすばらしい特質をお持ちになる神に,どうして感謝と賛美と願いの祈りをすることをためらう必要があるでしょうか。(詩 36:7)神の個性のこうした特質を知るようになったなら,不完全な人々は,どんな問題のあるときでも勇気を奮い起こして「栄光の神」エホバのみもとへ来,エホバのご意志を行なう際の助けを願い求めるべきです。(使徒 7:2)わたしたちは冷たい,利己的な世のまん中に住んでいますから,困難に遭遇したり,なんらかの不利な立場に追い込まれたりした場合に,同情的であわれみ深い父のところへ来て祈ると,本当に心がさわやかになります。父ご自身がモーセに次のように宣言されました。『エホバ憐れみあり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の大いなる神』― 出エジプト 34:6。
22 進んでエホバのもとに来るべきさらにどんな理由がありますか。
22 また,キリスト・イエスが祈りという取り決めの中で果たされる役割について学んだからには,はばかりのないことばで祈ることによりそのような神に近づくべき理由が,さらに加わるわけです。使徒パウロは,ヘブライ 4章15,16節で次のように述べて,イエスにわたしたちの注意を引きます。「わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできないかたではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のないかたを,大祭司として持っているのです。それゆえ,時にかなった助けとしてあわれみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか」。キリスト・イエスがまさにわたしたちの直面しなければならない,また忍耐しなければならない事柄を経験されたのを知っているわたしたちは,わたしたち罪深い被造物が,イエスを自分の贖い主また仲介者とし,イエスを通して神と和解するよう努めるとき,イエスがいかに深い理解を示し,わたしたちに対していかに大きな助けを与えることがおできになるかが分かります。―ヘブライ 7:25。
23 (イ)イエスはなぜみ父と語ることにためらいを感じられませんでしたか。(ロ)特にどんな時に祈られましたか。
23 イエスは地上におられたとき,天のみ父と自由に霊的交流を持たれました。エホバのもとから遠く離れておられた当時,祈りによって神と語ることをどれほど楽しまれたか,わたしたちにも想像することができます。イエスは神に話すべき重要な問題をお持ちでしたから,黙想しやすい寂しい場所に行かれました。福音書はすべて,イエスが祈りの人であったことを示しています。イエスはバプテスマを受けるときに祈られました。また群衆に食物を与えたときに,使徒を選ぶ際に,記念の夕食の時に,そして刑柱の上で,祈られました。すべてのことにおいてみ父を喜ばせ,ご自分の意志ではなくてみ父のご意志を行なうことを望まれました。(ヨハネ 5:30)ご自分の祈願と請願が聞き入れられたことをご存じだったので,イエスはご自分に与えられたわざを推進されました。(ヘブライ 5:7-10)迫害を避けるために妥協されたことは一度もなく,エホバの主権を支持して忠誠の生涯を送られました。その結果,天の被造物さえ,イエスが与えられた誉れと栄光にふさわしいかたであることを宣言しました。―啓示 5:11,12。
24 自分の道を切り開くことに成功するには,わたしたちは何をすることができますか。
24 祈りによってご自分の道を切り開かれたこの指導者であり主人であられるかたは,すべてのクリスチャンが従うべきなんとりっぱな模範を残されたのでしょう。イエスのように成功を収めたい人はみな,み父が望まれた事柄を毎日行なうことを切に願われたこのかたの模範に見倣うべきです。神に心から話しかけ,神のご意志を行なうための力と後ろだてを願い求めることは,それを願う者が創造者に喜ばれる歩み方また話し方をする助けになります。神に近づき,より頼む気持ちで懇願し,導きを求めるなら,気持ちが軽くさわやかになります。わたしたちはすべての煩いを神にゆだねるよう励まされています。(ペテロ第一 5:7)イエスの助言も,祈ること,そしてなんでも必要なものをあきらめずに神に願い求めることであったことを,あなたはおぼえておられるでしょう。―ルカ 18:1-7。
祈りつづけなさい
25 どうすれば,待つ態度を示せますか。
25 エホバとの霊的交流を正しく評価することは,祈願者が義の道を固く守る助けになると同時に,願うたびに答えが劇的な方法で与えられることを期待しない助けにもなります。実際,試練や懲らしめの下にあるときには,答えを待つのに非常な忍耐を働かせることが必要でしょう。祈りの力を過小評価すべきではありませんが,預言者ミカが『我が神われに聴きたまうべし』と言ったように,確信に満ちた期待を抱いて「待つ態度」を示すべきです。―ミカ 7:7。
26,27 (イ)どうすれば,祈りの力を信じていることを示せますか。(ロ)あなたは神への愛に動かされて何をすべきですか。
26 何か悪いことをしたあと,その時も,祈る資格がないかのように感じて神の恵みを求めることをやめる時ではありません。人の罪は『隠され』てはならないのです。(箴 28:13)その時は何も考えずにしたかもしれませんが,あわれみを望むなら,自分のしたことをどれほど後悔しているかを,あなたの神エホバに告げてください。問題を是正することに最善を尽したなら,神に謝罪することによって,祈りの力と,神が進んで許してくださることとを信じていることを示してください。このようにしてあなたは,助けを求めるあなたの叫びをエホバが聞かれ,あなたが本当に必要としているものをエホバが理解されるということへの確信を示すことができます。―詩 5:1,2。
27 祈りを聞かれるかたのもとへ来るようにとのあらゆる人への招待の意味を,あなたは十分に理解しておられますか。もし人が神に近づくことをある程度恐れたりこわがったりするとすれば,それは神に対する愛が,というよりもむしろ贖いの備えに対する感謝がいくらか欠けていることを示すものではないでしょうか。愛に富まれる神へすぐに近づくことを,自分の不完全さによって妨げられてならないことは確かです。それよりも,神への愛に動かされて,憐れみ深い創造者に自分の考えをためらわずに申し上げるべきです。―ヨハネ第一 4:16-18。
28 (イ)年長者たちはあなたにとってどのように祝福となりますか。(ロ)重い罪のある者が神に憐れみを求めた例がありますか。
28 とはいっても,エホバに助けを呼び求める自信を失うことがないとは言えません。良心に責めを感じていたり,何かがうまくいかなかったりすれば,自分はそれに価しないという消極的な気持ちになるかもしれません。そのような状態のときに神に助けを求めることを怠るのは非常に危険です。なぜ祈りをやめて問題を一層複雑にするのでしょうか。自分から神のところへ行って神にためらわずに話すことをしない人のためには,会衆内の年長者たちが代わって祈ることがよいかもしれません。会衆内のそれら資格のある人々は,あなたが神に近づくのを「雲」に阻まれ,また祈りが通じないよう妨げられているとあなたが感ずる場合の助けとしてそこにいるのです。(哀 3:44)ヤコブは互いのために祈ることについて,「義にかなった人の祈願は,それが働くとき,大きな力があります」と書きました。(ヤコブ 5:16)このように助けを求めることは,完全に義であられ,善であられ,神聖であられる神に,自分で心を注ぎ出すことをためらう人々のための,助言と祈りに関する愛のこもった取り決めです。一方,自分で神に近づく罪人は,神に憐れみを請う際に本当に大きな祝福を受けます。ユダのマナセ王にとって祈りは効力がありました。彼は祈りつづけました。彼の願いはついに聞き届けられました。―歴代下 33:12,13。
29 すべての人はなぜ正直に祈らねばなりませんか。
29 エホバ神に自分の願いを聴き届けていただきたいなら,人はみなエホバ神に対して率直かつ正直でなければなりません。どうして神に何かを隠そうとするのでしょうか。エホバは「すべての者の心を知っておられる」のです。ですからエホバを欺くようなことは決して試みてはなりません。(使徒 1:24。エレミヤ 17:10)祈るときには,自分が天の父に対して犯した罪や過ちをはっきり,率直に,そして正直に認めてください。忠節であったダビデが行なったことを深く認識し,あなたをくまなくさぐりあなたの心を知るよう神にお願いしてください。あなたの祈りに耳を傾け,あなたの懇願に注意を向けられるように請い求めてください。(詩 139:23; 86:6)正しい人の祈りは神にとって喜びであることを忘れないようにしましょう。ですから,神が聞きまた助けてくださることを期待して,ためらうことなく確信を抱いて祈りつづけるべき多くの理由を考えてください。―箴 15:8。
30 あなたはちゅうちょすることなくだれのもとにゆくべきですか。
30 あなたにはちゅうちょせずに頼れるかたがあります。そのかたは『祈りをききたまう』かたです。『祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたの請願を神に知っていただくようにして』,神を喜ばせるのはいかがですか。(フィリピ 4:6)そうすることによってあなたは,神がご自分のもとに来る者に対して抱いておられる愛を経験し,前進することができます。
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変わらない態度で常に祈りなさいものみの塔 1975 | 10月1日
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変わらない態度で常に祈りなさい
『神をうやまう者は……なんじに祈らん』― 詩 32:6。
1,2 (イ)人はなぜ神と霊的交流を持つべきですか。(ロ)神のご意志を高く評価していることを人はどのように示しますか。
最近では,大多数の人が,神のための時間をほとんど持っていません。日々の生活の中でなぜ神のことを考えないかについては,いろいろな言い訳がなされます。しかし,生ける真の神に仕えているというのであれば,その人は,自分の仕えるべきかた,すべてのことにおいて従うべきかたとして神により頼み,誠意を込めて神と霊的交流を行なうはずです。
2 エホバ神に奉仕する約束をしたあとは特に祈りのことを真剣に考えるはずです。祈りを義務と見るのではなく,むしろ特権として楽しむはずです。神のご意志を行なうことや,神権政治信奉者として神のご意志に従うことを優先させ,『エホバよなんじの大路をわれにしめし なんじの経をわれにおしえたまえ 我をなんじの真理にみちびき我をおしえたまえ 汝はわがすくいの神なり』と祈るでしょう。―詩 25:4,5。
誠実な気持ちで祈る
3 どうすれば誠実な気持ちで神にお願いすることができますか。
3 もし自分の願いに注意を向けていただくつもりなら,誠実な気持ちで至高者と語ることが必要です。心から真剣に,分別を最高度に働かせて,自分を正直に評価しなければなりません。神の義の道に忠節であるためには,自分の悪いくせやよくない態度を取り繕ってはいけません。わたしたちが申し開きをしなければならない相手は,欺かれるようなかたではありません。(ヘブライ 4:12)あることを祈り,その祈りに調和しない行動をするのは愚かなことです。
4 祈りを聞かれるかたを喜ばせるには何をすべきですか。
4 神の戒めを忠節に守る人々には次のような約束があります。「エホバの目は義人の上にあり,その耳は彼らの願いに向けられるからである。しかしエホバの顔は悪を行なう者たちに敵対している」。(ペテロ第一 3:12)もし許しを求めるなら,自分も心から許すことをしなければなりません。(マタイ 18:35)神の王国を祈り求めるなら,わたしたちは生活の中でそれを第一に求めるべきです。(マタイ 6:10,33)聖書の知識をもっと多く与えてくださることを神に祈っているなら,それを祈り求めると同時に神のことば聖書を勉強する時間をもうけることもしなければなりません。正確な知識で満たされるなら,より重要な事柄に注意を向ける助けになり,祈る時にもそうした事柄を考えながら祈るでしょう。―フィリピ 1:9,10。
神の道を守る
5 受け入れられない祈りについて説明しなさい。
5 神がご自分の令名と義の道を守られることは確かです。ことばや行動によって不忠節であること,あるいは邪悪な者であることを示す者たちの標準にまでご自分の標準を神が下げられることは決してありません。心から出るもののように見せかけて,ご自分の意志に沿わない祈りに,神がどうして注意を払う必要があるでしょうか。悪を行なう者の祈りは『罪となり』かねません。(詩 109:3-7)神に背を向けていながら祈りをささげるような偽善的な行ないをする人々は,好意をもって聞いていただくことは期待できません。箴言 28章9節に示されているとおりです。『耳をそむけて律法を聞かざる者はその祈りすらも憎まる』。高慢な誇り高ぶる人の長い祈りも,祈りの権威であるキリスト・イエスが説明されたとおり,歓迎されません。(マタイ 6:5,7。ルカ 18:10-14)もしわたしたちが,善を行なうことや神のことばに答え応ずることを学ばないなら,それは事実上神ご自身のことばを退けていることになります。そしてそれは,好意的な態度で祈りを聞いていただく助けになりません。
6 (イ)人のことばや行動は,その人の神への祈りにどのように影響しますか。(ロ)何が清く保たれるべきですか。
6 わたしたちの神また父とのすぐれた関係を固く保つには,わたしたちは神の高い道徳の規準を維持する必要があります。人は自分のことばおよび行ないあるいはそのいずれかによって,不道徳な行ない,またはそちらに傾く傾向をよしとするかしないかを示すものです。「エホバを愛する者よ,悪を憎め。彼はご自分の忠節な者たちの魂を見守っておられる」と,詩篇 97篇10節(新)は助言しています。いっさいの道徳感覚を通り越した人々は,その不品行によって神から離れています。(エフェソス 4:17-19)不道徳をならわしにしたり,それを大目に見ることさえ,祈りを無効にするでしょう。自分の祈りが阻まれたり妨げられないためには,高潔な者として,性と結婚に関する神の取り決めを忠節に支持しなければなりません。―ヘブライ 13:4。
祈りは妨げられることがある
7 祈りを妨げる恐れのあるものを幾つか挙げて説明しなさい。
7 神との霊的交流を保つには,この邪悪な事物の体制の中で注意深く歩むことが大切です。そうするときに,使徒ヨハネが書いている事柄に関し確信を持つことができます。「わたしたちが何を求めようと,神からいただくことができます。それは,わたしたちがそのおきてを守り,神の目に喜ばれることを行なっているからです」。(ヨハネ第一 3:22)もしわたしたちの行ないがわたしたちの懇願する事柄と調和していないなら,わたしたちが口でいうことばは,神のみ前に何の価値もありません。ある人は不注意から,神に対する自分の請願の効力をそいでいるかもしれません。したがって夫は次のように勧められています。「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻とともに住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい。あなたがたは,過分の恵みとしての命を妻とともに受け継ぐ者であるからです。そうするのは,あなたがたの祈りが妨げられないためです」。(ペテロ第一 3:7)この勧めをみると,人は家庭生活においてさえ,自分の祈りが神によく伝わることに影響する事柄を行なえることが分かります。この事実からわたしたちはみな次のことに注意を払わねばなりません。つまり,神の憐れみと同情につけ込むのではなく,生活のあらゆる面で正しく歩むことに非常に機敏でなければならないということです。
8 (イ)なぜ兄弟たちと仲良くしていかなければなりませんか。(ロ)何をおぼえておくのは良いことですか。
8 わたしたちが,わたしたちの仕える神との強いきずなを保つよう努力するとき,会衆内のクリスチャンの兄弟との平和な関係を維持することも重要です。もしわたしたちがマタイ 5章23,24節のイエスの助言に従うことに敏であるならば,わたしたちはわたしたちの兄弟との間の,大小を問わずどんな問題でも未解決のまま放置するようなことはしないでしょう。もし聖書的な方法で問題を正さないなら,わたしたちの祈りと犠牲はそのために神に受け入れられないものになるということを知らねばなりません。おそらくエホバは,わたしたち自身に対してしばしば憐れみを示し,忍耐をされ,わたしたちが間違った道を,あるいは非神権的な態度を改める機会を延長してくださったにちがいないことを,立ち止まって考えてみるのはよいことです。この点で神に倣うなら,わたしたちは他の人々,特にわたしたちの霊的兄弟として神と親しい関係を持つようになった人々にとり,大きな助けとなります。神の道を行なう者となるとき,わたしたちはより幸福になります。そして自分の祈りが,わたしたち自身の思慮に欠けた行為によって妨げられるようなことはなくなります。―テサロニケ第一 4:1。
9 どんなことが会衆の祈りを妨げる可能性がありますか。
9 会衆内で,祈りは清い方法でささげられねばなりません。他の人々に対しえん恨や憤りを抱いていてはなりません。賢明で理解力のある人は,知恵に伴う柔和さを培い,「どの場所でも男が祈りをなし,忠節な手を挙げ,憤りや議論から離れているように」という使徒パウロの願いに沿うよう努めます。―テモテ第一 2:8。ヤコブ 3:13,17。
10 会衆の平和を保つのに,愛と謙そんさはどのように助けになりますか。
10 謙そんな兄弟は,個人の想像上の権利を擁護または確立するためにクリスチャンの兄弟たちと論争をするようなことをしないでしょう。たとえあることをする自由があっても,築き上げる事柄だけを行なうよう心を配るべきです。平和を保つためには愛が要求されます。各人は無限に許すことができます。(マタイ 18:21,22)間違いを認めて許しを請うには謙そんさが必要です。そのような謙そんな行ないは結果としてその人個人と会衆に平和をもたらします。それはどんな屈辱感をもいやし得てあまりあります。それは人に謙そんさというすぐれた特質を養わせ,またその点で強めます。そしてそれは神の喜ばれることです。(ペテロ第一 5:5)クリスチャンであるみなさんは,『すべてのことを愛をもって行なう』とき,ためらわずにエホバの豊かな祝福を求めてください。―コリント第一 16:14。
11 神を喜ばすために何が勧められていますか。
11 会衆内の人々とすぐれた関係を維持するには努力がいりますが,それと同じくわたしたちは,わたしたちが大切にしているわたしたちの天の父との親しい関係が断絶しないように,できるかぎりのことをしなければなりません。父を喜ばせたいなら,わたしたちはすべての行ないにおいて清くなければなりません。(ペテロ第一 1:14-16)忠節心はクリスチャンを動かし,真理の道からはずれてこの世の汚れに染まる傾向をいっさい退けさせるでしょう。神の全能性と,神は軽く扱われたりあなどられたりするかたではない,ということとを認識するとき,人は,自分がつまずいて悪行を行なうことが少しもないよう,エホバの導きと保護を祈り求めるようになります。どんな面においても正しく歩んでいないなら,それはためらわずに祈るのを妨げるおそれがあります。―ガラテア 6:7。
神に近づくことが少なくなる
12 どんなことは神に近づくのをやめる原因になりますか。
12 自分は神に近づくことをしなくなっていると感じたり,祈ることがもうできなくなっていたりするなら,その人は自分の生き方を調べてみなければなりません。正しくない人生観,誤った行為の規準,またことによると心の特性のような,さらに深いところに原因があって,一つかあるいは幾つかの欠点があるかもしれません。また正しいと分かっているのにそれを行なわないということがあるかもしれません。神のことば聖書は,「正しいことをどのように行なうかを知りながら行なわないなら,それはその人にとって罪なのです」と述べています。(ヤコブ 4:17)神と語れる状態を保つには,わたしたちは,神に反対する立場に自分を置くような活動に自分の命を用いないようにしなければなりません。わたしたちが愛し崇拝する神のみ前におけるわたしたちの立場を危うくする危険のある何事かに巻き込まれないようにするには,わたしたちの側に知恵と分別がなければなりません。
13 どんなことは祈りをちゅうちょする原因になりますか。
13 義と真実の道から少しでもそれると良心に責めを感じ,そのために定期的に祈ることをちゅうちょするようになることもあります。神のご意志に従おうとしない人,あるいは神のご意志に反して勝手なことをする人は,神の知恵に導かれていないので,必ず間違いをします。神との交友が少しでも失われていることに気づいたなら,自分自身をよく調べ,交流の少ない原因をただしてそれを改めるのは良いことです。人は勝手な行動をしながらなお神を喜ばすことはできません。むしろ,神に対して忠節な人が,神の助けを期待することができます。すべての道で神の恵みある是認を受けるなら,わたしたちは神がわたしたちの願いを聴き入れ,ご自分の定めの時に,ご自分の方法で,わたしたちに報いてくださるということを確信できます。
真剣な祈り
14 (イ)どのようにして人は自分の考えを祈りのうちに伝えることができますか。(ロ)どうすれば祈りを自分自身のものにできますか。
14 実際祈りは神に話しかけるだけのことではありません。このことは,わたしたちの導きとなるよう神の霊感によることばの中に記録されている多くの祈りの中で強調されています。それらの祈りはもちろんその時と場合に適したものでした。今日でも請願者は神に自分の考えを伝えるのに,ある表現に拘束される必要はありません。祈りは,意味のない型にはまった日課となるべきでもなく,また自分が暗記しているある好きなきまり文句しか口にしないというものであってもなりません。聖書の例を見ると,祈りをよくした人々は,日常他の人々に話す時に用いたのと同じことばで語ったことが分かります。神と語るとき,特別の用語を用いる必要はありません。自分の真心から出た考えを表わすことばで祈ればよいのです。霊と真理をもって崇拝する人は,だれかにお金を払って自分の代わりに祈ってもらうとか,本の中に書かれているほかの人の祈りを用いることなどを,毛頭考えるべきではありません。―ヨハネ 4:24。
15 いつ祈ることができますか。そしてどのようにお願いすべきですか。
15 イエスが弟子たちに示された模範的な祈りは,わたしたちが至高者に祈る際に含めるべき一番重要な事柄を理解する助けになります。(マタイ 6:9-13)この祈りの手本を特徴づけているのは簡潔さです。ですから,わたしたちが,わたしたちの抱えているどんな問題でも解決できるかたのもとに来て祈るとき,その祈りも簡潔でなければなりません。自分の信仰が弱まっているのを感ずるとき,あるいは清い崇拝からそれそうな傾向があるのを感ずるときはいつでも,神に助けを仰いでください。昼夜の別なく,また危険や誘惑に遭遇したとき,事業に携わるとき,旅行中,うれしいとき,病気のときなど,あらゆる状況や企てにおいて,耳を貸してくださるかた,祈りを聞かれるかた,のもとに来ることを心から望んでください。「あらゆる祈りと祈願」とをささげ,この力の源をあますところなく利用してください。(エフェソス 6:18)恵みを,助けを叫び求めてください。感謝の声を上げてください。言語をつくられたかたは,むずかしいことばに感動されるのではないということを忘れないようにしましょう。自分の真情を神に吐露すればよいのです。―詩 62:8。
16,17 (イ)祈る前に黙想するのはよいことですか。なぜですか。(ロ)どうすれば筋の通った祈りをすることができますか。
16 神に近づく前に黙想することは有益です。そうすれば自分が話そうと思っていることを話すことができます。すぐれた考えが思いの中にあれば,とりとめのないことを言ったり,単調な調子で同じことを繰り返して言うのを防ぐことができます。あなたは近所の人やその他の人に話しているのではなく,宇宙で最も偉大なかたであられるエホバ神ご自身に話しているのです。受け入れられる祈りというのは,エホバ神にささげられるもので,しかもふさわしい事柄に関してささげられる祈りです。したがって,祈る前によく考え,より重要なことについて熟考するのは全く正しいことです。そのようにすれば,あなたの願いが形式に堕したり,重複して生彩を欠いたりするのを防げます。―マタイ 6:7。
17 祈るための静かな場所を捜し出すのはよいでしょう。イエスは祈りに時を過ごすために,人々や気を散らすものから離れようとされました。(マルコ 1:35。ルカ 9:18)静かであれば,必要な物や,自分と自分の愛する者たちにとって有益な事柄を思い返すことができます。自分の思いを神にお話しする前に考えることは,筋の通った祈りをささげる助けになります。
個人的にささげる祈り
18 (イ)わたしたち個人の祈りはどんな特質を持つものでなければなりませんか。(ロ)どのように感謝を表わすことができますか。
18 自分で個人的に祈るときには,へりくだった態度で神に来るべきで,神を感動させようとしたり,何をなすべきかを神に告げようとしたりすべきではありません。自分が取るに足りない者であることを忘れないで,エホバのみ前に自らを低くしなければなりません。(ヤコブ 4:10)声を出して祈ろうと,声を出さずに心の中で祈ろうと,あなたはダビデと同じ気持ちになるでしょう。『エホバ……よ わがくちの言わがこころの思念なんじのまえに悦ばるることを得しめたまえ』。(詩 19:14)わたしたちは,受け入れられる祈りをささげるだけにとどまらず,自分の心の奥底にある考えを天の父にお話しすることから喜びとさわやかさを得るべきでもあります。自分が神のものであることを認めているのですから,わたしたちは,わたしたちのみならず人類の他の成員すべてのためにも必要なものを神が備えてくださっていることを感謝するのはよいことです。どちらを向いても,極めて寛大で思いやりの深い創造者の存在を示す証拠が見られます。神の愛と恵みを受けている者として,わたしたちは各自が創造者に対し誠実な態度で定期的に,『ありがとうございます』と言うべきです。そうすることをわたしたちは次のようなことばで励まされています。「常に喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい」― テサロニケ第一 5:16-18。
19 祈りの内容は何に基づくものでなければなりませんか。例を挙げなさい。
19 個人の祈りには生活のどんな面でも含めることができます。ある聖句を考えてみると,神ご自身の霊感によることばが自分の考えを最もよく伝える,ということも時にはあるでしょう。祈りの内容を支配するのは,神のご意志に関する正確な知識でなければなりません。なぜなら,いくらあなたが願っても,エホバにはご自分の目的に反して事を行なうようなことはできないからです。もしあなたがエホバの主権に忠実であるなら,エホバのみ名は,あなたの生活のみならずあなたの請願の中にも存在するはずです。イエスが愛情を込めて弟子たちに教えられた祈りには,他の関連ある基本的重要事項も含まれています。「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」。その祈りの中で述べられている他の事項は,エホバに愛されて生きることを願う請願者の願いと関係があります。―マタイ 6:9-13。
20 神の霊を願い求めるのはなぜよいことですか。
20 神の霊も,あなたが願い求めてもよいものの一つです。この活動力は,正しい道,すなわち神の道を歩むように人を動かします。(ルカ 11:13)もしあなたの目的が,あなたの神とそのみ子イエス・キリストにきわめて有用な者となることであるなら,あなたは自分が資産を費やすに当たって最高の善を成し遂げることができるよう,引きつづき神の導きを求めるでしょう。確かに献身の生活を送ることは,自分のためによい時を買い取ることを意味します。(エフェソス 5:15,16)献身したあるクリスチャンの婦人は,自分の考えをこのように言い表わしました。「わたしが間違っているとき,またはクリスチャンらしくないときは,いつでもそれに気づかせてください,とわたしはエホバにお願いします」。キリスト・イエスのように成功を収めるには,神に完全に依存する必要があるということをもしわたしたちが敏感に認めるなら,心の秘密を知られる神はそのことを認められるでしょう。―詩 44:21。ヨシュア 1:8と比べてください。
21 神の関心事と,あなたが祈り求めるあなた自身の関心事とを幾つか挙げなさい。
21 祈り続けなければならないあらゆる理由を考え,また祈る必要のある事柄をすべて考慮するなら,あなたは祈る気持ちになるでしょう。「たゆまず祈り,感謝をささげつつ祈りのうちに目ざめていなさい」。(コロサイ 4:2)間違い,問題,その日の必要物,生活の中で生ずるかもしれない危機,自分の気持ち,喜び,失望,ざせつ感などについて祈りつづけてください。日々の生活が苦しくても,真の神の忠節な献身した崇拝者としてやっていくための一層の力が得られるよう祈ってください。わたしたちが王国の良いたよりを宣べ伝えることが強調されていますから,それを請願すべき事柄として常に忘れず,自分も勇気を奮い起こして熱心な活動ができるようにお願いしてください。(マタイ 24:14。ペテロ第一 1:13)自分の関心事だけではなくて神の関心事にも思いを集中するなら,あなたはいつも神のみ名を賛美しほめたたえることに機敏であることができ,また神を崇拝することを他の人々に忠実に勧めることができます。ほかの人々のためにできる事柄も忘れないようにしましょう。そして彼らがエホバを崇拝しエホバに奉仕すべく努力するときに,彼らにもエホバの祝福があるように祈りましょう。―ヘブライ 13:15,16。
一緒に祈る
22 家族の祈りの益について述べなさい。
22 食事の時や他の時,たとえば霊的食物を楽しんでいる時に,家族が一緒に祈りをささげる光景は美しいものです。家族でささげる祈りは,家族生活における従順や秩序を助長し,品位を高めるなど,家庭にすばらしい祝福をもたらします。家族は神の取り決められたものですから,それに関しては神の導きを求めるべきです。家族全員が祈ることを学べます。イエスもきっと,非常に幼い時から,ひざまずいて祈ることを家で教えられたに違いありません。成人された時,イエスは祈りの真価を十分に認識しておられました。事実,イエスは正しい祈り方を他の者たちに教えることに尽力されました。(マタイ 21:13。ルカ 11:1)子どもたちは,命を与えられていることや,神の王国の支配する楽園が来るという将来の希望があることを感謝し,子どもらしい純真さで敬意を込めて天のお父さまに話しかける方法を教わることができます。祈る習慣は,老若を問わず同じように培うことができ,そしてその習慣は,彼らがどんな状況の下にあろうとどこにでも携えて行くことができます。
23,24 (イ)集会の時に祈りはどのように用いられますか。(ロ)そういう時に祈るとよい事柄を幾つか述べなさい。
23 クリスチャンの集会は通常祈りをもって開かれ,祈りをもって閉じられます。なぜなら,集まっている人はみな,彼らの偉大な教訓者を自分たちの教えの本源として頼っているからです。この場合も,会衆を代表して神のみ前に立つ人が,出席者たちのために祈る前に注意深く考えるのはふさわしいことです。集会を始める時に神の祝福を求め,終える時には,学んだ事柄や楽しんだ事柄に対して感謝することができます。祈る人は,祈りの目的と場所柄とを念頭において,適切なことばを用いなければなりません。
24 マタイ 6章9節から13節の模範的な祈りに示されているように,わずかのことばで多くのことを語ることができます。祈る時には,この会衆は何を必要としているだろうか,と考えてください。区域内での証言活動について,具体的には,兄弟たちが音信を効果的に伝え,聖書の真理を教えることに熟達するようお願いすることができます。個人的な祈りと同じく,合同の公の祈りの内容も,多くの適切な考えを言い表わして,変化をつけられます。祈りは,同じ貴重な信仰を持つ人たちの定期的な交わりと同じく,会衆が栄え,愛が豊かになるための神の備えです。出席者はすべて,祈りが終わったときに「アーメン」と言うことができるように,祈りをはっきりと聞き取らねばなりません。―コリント第一 14:16。
25 エホバは何を喜ばれますか。
25 あらゆる人種の人々が,祈りを聞かれるかたのもとに来なさい,という招きに応じているのを見るのはすばらしいことです。祈りを聞かれるかたは寛大な父ですから,忠節に仕える者たちに報いることを喜ばれます。『エホバは……直くあゆむものに善物をこばみたまうことなし』。(詩 84:11)永遠の命の希望を抱いて信仰を表明する人はみなエホバに,父よ,と呼びかけることができ,エホバのご意志に従ってお願いするとき,エホバの温かい是認を期待することができます。
26 祈りを聞いていただくつもりなら,わたしたちはみな何を愛すべきですか。
26 わたしたちの祈る事柄を神は思いやりをもって聴いてくださる,とわたしたちは心から期待しますが,それと同じくわたしたちは,神が書物すなわち聖書の中でわたしたちに伝えておられることを愛さねばなりません。エホバのお考えと道を多く吸収すればするほど,わたしたちはわたしたちの仕え従うべきかたを一層深く理解し,また神およびわたしたちの伝達の経路であるそのみ子と結び得るすぐれた関係を十分に認識するでしょう。神のご意志に一致した生活をすることであなたがすでにどれほどの進歩を遂げていようと,上からの助けと導きを求めつづけてください。ベッドの傍らにひざまずいて,あるいは道を歩きながら祈ろうと,朝早く,あるいは夜遅く助けを求めようと,耳を作ったかたはあなたの祈りを聞くことがおできになるということを確信してください。―詩 119:62,147。
27 どんな喜びがありますか。だれのために?
27 祈りの答えを得る以上に大きな喜びがあるでしょうか。すぐに答えを得ようと,あるいは神の定めのときまで待つことになろうと,祈りの力に対する信仰を決して失わないようにしてください。忠節な人はみな変わらない態度で常に祈り,日ごとに豊かな祝福を受けて感謝し,祈りを聞くかたと永遠の交友を持つことを待ち望んでいます。
[601ページの図版]
あなたのご家族は定期的に一緒に祈られますか
[602ページの図版]
神のことばを勉強する時にも,神の祝福を求めることを忘れないようにしましょう
神の多くのご親切に対して毎日神に感謝するのは良いことです
[603ページの図版]
圧迫を感じるとき,冷静を保てるよう神に助けを求めますか
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わたしの聖書は完全だろうかものみの塔 1975 | 10月1日
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わたしの聖書は完全だろうか
聖書が完全であるためには,可能な限り原本に一致していることが必要です。また,「神の霊感を受け……教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益」な事柄すべてを含んでいるべきです。(テモテ第二 3:16)しかし,どうすれば自分の聖書がそうした要求にかなっていることを確信できるだろうか,と思われるかもしれません。
お気付きの方もおられると思いますが,幾つかの異なった訳の聖書には,トビト(トビアス),ユディット,知恵の書,集会の書,バルク,マカベ前書および後書などの“第二正典”もしくは“聖書外典”が含まれています。これは,第二聖典を含むこうした訳の聖書のほうが完全で,それを含んでいない訳の聖書は不完全であることを意味しますか。もし,それら第二聖典の書が霊感を受けた聖書の一部であるなら,それが省かれている聖書は完全でないことになります。しかし。実際にはどうでしょうか。
クリスチャン会衆が設立された時,こうした外典が霊感を受けた聖書の一部として認められていなかったことを示す明白な証拠があります。当時すでに,ヘブライ語聖書の正典は確立されており,その中に外典は一冊も含まれていませんでした。西暦一世紀のユダヤ史家ヨセフスは,「われわれは,互いに矛盾する無数の書物ではなく,その典拠性が正しく認められ,あらゆる時代の歴史を包含する22冊[現代の分け方によるヘブライ語聖書39冊に相当するもの]の書物を有している」と書いています。そしてヨセフスは次のようにことばを続け,彼が経外典の存在に気付いていたことを明らかにしています。「アルタクセルクセスの時代からわれわれの時代に至るまでのすべての事柄が記録されているが,その記録はそれ以前に書かれたものと同等の信頼性があるとはみなされていない。なぜなら,それ以降は預言者の厳密な継承が絶えてしまったからである」。―アピオンへの反論,第一巻,八節。(聖書解釈者辞典,第一巻,163ページ記載の訳文による。)
ラテン・ウルガタ訳聖書の翻訳者でもある学者ヒエロニムスの見解も注目に値します。ヒエロニムスは,ウルガタ訳の「ガレアトス序文」の中で,ヘブライ語聖典(この中では,ヘブライ語聖書39冊が22に分けられている)に一致してヘブライ語聖書の霊感による書を列挙し,次いでこう述べています。「このように22冊の書がある……聖書のこの序言は,われわれがヘブライ語からラテン語に訳す書物すべてに対して強力な決め手となり得る。ここに掲げたもの以外は,どんなものであれ外典の部類に入れなければならないことが分かるわけである」。自分の娘の教育を委ねていたロイタという名の女性に,ヒエロニムスはこう指示しました。「外典は一切読ませないで欲しい。万一娘が,教理の真実さを確証する目的でではなく,それら外典が真理を示しているという敬虔な気持ちからそれを読むことを望むなら,それらの書物が作者とされている人の名のゆえに著名であってもその人物によって著わされたのではないこと,また数多くの誤りを含んでいること,粘土の中から金を見つけ出すのは非常な慎重さを要求される仕事であることを告げて欲しい」。
経外典が霊感を受けた聖書の一部でないことは明白です。また,西暦初期の何世紀かにおいては霊感を受けた書物として認められていなかったことも明らかです。ですから,ある聖書翻訳にそうした経外典が含まれていないからといって,それが不完全であることにはなりません。
幾つかの古い聖書翻訳の中に見いだされるある特定の
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