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    ものみの塔 1965 | 7月15日
    • 19 イエスは復活して天に昇るまえに,忠実な11人の使徒に一つの命令を与えました。この命令は彼らだけに限られず,すべてのクリスチャンにあてはまります。イエスはこう言われました。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。(マタイ 28:19,20)使徒たち,および使徒の生きている間にキリストの追随者になった人々はみな,そのことを行ないました。そして喜びのうちにあらゆる機会を捕えて弟子をつくり,他の人を教えるように彼らを訓練しました。

      20 自称クリスチャンの間で伝道がまれなものになったことを説明しなさい。

      20 使徒や,使徒と親しい関係にあった人々が死んでからしばらくして,当時のいわゆるクリスチャンは背教しはじめました。教会制度がつくられました。伝道は,キリスト教の信仰をもつすべての人々の活動ではなくなり,牧師級だけの特権となりました。このことについて,マクリントックとストロングの聖書百科事典が述べていることに注目して下さい。「儀式が盛んになって,実際の福音伝道のみならず,福音を伝道するという考えまですたれたとき,伝道そのものが一つの儀式になり,それもついに,めったに行なわれない,まれな儀式になったことは少しも不思議ではない。平信徒ばかりでなく,教会の世話役ですら,監督の特別許可がないかぎり,伝道を禁止されていた。ところが一方,伝道する権威を自分たちだけのものにしていた監督の多くは,無知のためか怠惰のゆえに,その習慣をほとんどすててしまった」。牧師級が伝道して,一般の人は沈黙している習慣は,イエス・キリストの始めたものではなく,むしろこれらの背教者たちの始めたものです。

      今日のクリスチャンの義務

      21,22 なぜクリスチャンはいまでも伝道する必要がありますか。

      21 私たちは,キリストの時代から1900年以上ものちに住んでいますが,クリスチャンに伝道を命じた聖書のことばは変わりません。この命令には依然拘束力があります。クリスチャンであるということは,いまでも,聖書の真理の光を他の人の益のために輝かせることを意味します。クリスチャンの宣教は,世界人口の約30パーセントがクリスチャンであることを公言している今日でも,第1世紀の場合と同様に必要です。これら多数の自称キリストの追随者のクリスチャンらしくない行ないは,真のキリスト教が彼らの心に触れていないことを示すものです。神は,古代イスラエルの場合と同じことを彼らに言うことができます。「この民は口をもってわたしに近づき,くちびるをもってわたしを敬うけれども,その心はわたしから遠く離れ……」。―イザヤ 29:13。

      22 キリスト教国の見せかけだけのクリスチャンは,聖書の基礎的真理を学ぶ必要があります。彼らは神の国のよいおとずれを知らなければなりません。神の国による世界平和と正しい支配に対する希望を与えられることが必要です。彼らは,霊的ききんのなかにあって実を結ばなかったイスラエル人のようです。自分ではクリスチャンと称しながら,実は,栄養豊かな霊的真理をもつ真のクリスチャンに来てもらう必要があるのです。そして現在そのことをしているクリスチャンがいます。―アモス 8:11。

      23 今日クリスチャンの責任に目ざめている人はだれですか。彼らはなぜ初期クリスチャンに似ていますか。

      23 クリスチャンの宣教がすべてのクリスチャンの義務であることを認識しているエホバの証者は,使徒パウロと同じく,「公衆の前でも,また家々でも」,キリスト教の真理を教えることに励みます。(使行 20:20)彼らは現在194の国で,イエスの模範に従い,人々の中にはいり,人のいるところであればどこでも伝道しています。そして初期クリスチャンと同じく,御国の良いおとずれに答え応ずる人々を訓練して,彼らも他の人々に教えることができるようにします。したがって,エホバの証者の新世社会にくる人はみな,クリスチャンの宣教に参加するように励まされます。1カ月間にわずかの時間しか宣教できなくてもそれは問題ではありません。それでも人は,伝道しなさい,というイエスの命令に従うことができます。これら現代のクリスチャンは,使徒パウロの次の言葉を心に銘記しています。「人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」。―ロマ 10:10。テモテ後 2:2。

      24 イエスや使徒たちの行なった伝道と,今日の牧師の行なう伝道とを比較しなさい。

      24 クリスチャンと称する人の多くは,牧師が説教して自分たちは霊的に無活動でいるクラブのような取り決めに満足しているので,すべてのクリスチャンが宣教すべきである,というエホバの証者の主張に賛成しません。イエスが弟子たちに対してもっていた目的は,そのようなものではありませんでした。それはクリスチャンの宣教とは言えません。イエスは使徒たちだけに伝道したのではなく,使徒たちもそれを聞くだけに終わったのではありません。自分の小さな森や柱廊をもち,そこで共鳴者たちに話をした,エジプトやギリシャの異教の教師たちとは違い,イエスは公けの場所で人々に話しました。その人々はイエスに従う者ばかりではなく,なかには敵意をもつ者もいました。後に諸会衆が設立されましたが,その時も使徒たちは,いろいろな会衆に属してそうした信者の集まりだけに奉仕したのではありません。彼らは,クリスチャンの組織の外の人々にも伝道をつづけ,献身してクリスチャンになった人々すべてに良い手本を示しました。彼らのすぐれた指導は,諸会衆の霊的力と健康の維持に大きな助けとなりました。今日でも第1世紀と同じく,この種の建設的なクリスチャン活動が必要です。

      25 (イ)イエスの開始したキリスト教の宣教方法がすたれていない,と言えるのはなぜですか。(ロ)今日の宣教はどんな実を結んでいますか。

      25 エホバの証者は,イエスの開始したキリスト教の宣教を再び始めました。あらゆる人種,国籍の人々は,エホバが人間のために意図されたすばらしい事柄を聞く機会を与えられています。エホバの証者の新世社会の人々はみな,宣教に従事することを励まされ,またこの取り決めに神の祝福があるため,大群衆がエホバの組織に集められています。よい心をもつこれらの人々は,クリスチャンの宣教が自分たちの義務であること,また霊的に生きつづけるための神の定めた手段であることを認めます。彼らはそれが自分自身,および自分の伝道する人々の救いにとって重要であることを知っています。そしてそれにより彼らは,キリストをとおして神を賛美します。「わたしたちはイエスによって,さんびのいけにえ,すなわち,彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげようではないか」。―ヘブル 13:15。マタイ 24:14。

  • 教会会議での喫煙
    ものみの塔 1965 | 7月15日
    • 教会会議での喫煙

      ◆ 1964年4月14日付のニュージーランドヘラルド紙は次の事実を報道した。「聖公会の第36回教会会議の議長 ― またニュージーランドの首席司教そして主教をも兼ねている ― は,昨日の午前の会議を喫煙のために中断した。彼は『弱い兄弟たちには午前中いっぱいタバコを吸わずに通すことはできないだろうから』と述べた。司教は早速タバコに火をつけた。出席者の多数もそれにならった」。

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