ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 読者からの質問
    ものみの塔 1970 | 3月15日
    • をもうけねばならないという意味ですか。神はノアとその子らに,『生めよ,ふえよ,地に満てよ』と命じられましたが,今日の神のしもべ各自はこの命令を自分に適用すべきなのですか。―創世 9:1。

      そうではありません。聖書はこれが今日のすべての人の務めであるとは述べていません。『天の御国のために』結婚しない弟子たちがいることをイエスご自身が指摘されました。(マタイ 19:10-12)そして使徒パウロは霊感の下に,独身であれば主に仕えやすいことをはっきり説明しています。(コリント前 7:32-34,38)また,結婚したクリスチャンの中にも,より自由な立場で神に仕えるため,あるいは健康や経済事情のため,産児調節を実行して自分の家族の大きさを限定することに決めている人もいます。聖書は産児調節について直接には何も述べていません。それで各夫婦は右の諸点を考え,自分たちの決論を下すことができます。現在,子供を持たないようにする人は,クリスチャンに対する神の戒めを破っているのではありません。また,いま子供を持つ人も誤った道を取っているのではありません。―ガラテヤ 6:5。

      産児調節の手段は数多くあります。そのいずれかを選定,もしくは推奨することは当聖書協会の任務ではありません。夫婦が産児調節の実行を願うなら ― これは全く個人的な問題であることを強調しておきます ― その方法を自分で決めねばなりません。ある種の避妊法には身体的な弊害が考えられます。その点を考慮に入れるべきでしょう。考慮すべき別の面は,それがなんらかの点でクリスチャンの原則を犯す結果にならないかということです。

      たとえば“避妊リング”とも呼ばれる子宮挿入具がどのように作用するかについては専門家も十分には知っていません。国連世界保健機構の1968年の一報告は次のように述べました。「子宮に挿入されたリングが受精を阻止するかどうかは明確には証明されていない。……動物実験から言えば,子宮挿入リングの避妊効果は輸卵管内での卵子と精子の合体[受精]をはばむことにあるのではない」。(学術報告シリーズ,第397号。11ページ)もしこの器具が受精をはばむのではなく,受精した卵子のその後の成長を絶つのであるなら,それは聖書から見て一種の妊娠中絶となります。(妊娠中絶についてはのちに取り上げます)当協会は子宮挿入具の実験をしたわけではなくいずれとも断定できません。個々の夫婦が前述の要素を考慮し,神の御前で各自の決定に対する責任を負わねばなりません。

      世の多くの人が採用している避妊法の一つは不妊手術です。産児調節を目的として男子または女子を不妊にする手術が考案されています。元にもどせると唱えられ,これが「一時不妊手術」と称される場合もあります。しかし報告によると,この手術後,元にもどしてもらおうとする人が4%いるうち,実際に成功するのは半分以下であり,成功しても,婦人の場合にはその後の妊娠に普通以上の危険が伴います。それで,「不妊手術は永久的かつ逆行不能の処置と見るべきである」と論ずる人がいるのももっともです。(もとよりここでは不妊を目的とした手術について述べているのであり,子宮がんその他,病気におかされた組織を取り除く手術について述べているのではありません。後者による生殖力の喪失は悲しいながら避けがたい場合もあり,それ自体が手術の目的ではありません。)

      「一時的」と称されるかいなかにかかわらず,聖書は不妊手術をどのように見ていますか。神はイスラエル人にその種の処置を許されませんでした。むしろ,「外腎をそこないたる者または玉茎を切りたる者はエホバの会に入るべからず」と述べて,ご自分の民に去勢を禁じました。(申命 23:1)さらに,人の生殖能力を保護するための律法を与えられました。争い合っている男の生殖能力を危うくする女がいれば,その女はきびしく処罰されたのです。―申命 25:11,12。

      確かにクリスチャンはモーセの律法下にいません。(ロマ 6:14)しかし,不妊処置に関する神のお考えをほんとうに知ろうとしていますか。この問題について聖書にある情報は右に示したものだけです。霊的に円熟した人はここに神のお考えを洞察できることに感謝し,それに従って自分の行動を定めます。不妊手術を受ければ自制ということもあまり必要でなく,からだの弱い婦人にとっては妊娠に伴う危険もなくなると思う人がいるかもしれません。しかし,詩篇 143篇10節に言い表わされるような態度に注目すべきでしょう。「御心を行なうことをわたしに教えてください。あなたはわたしの神だからです。あなたの霊は良いものです。それがわたしを正義の地に導きますように」(新)。今日の円熟したクリスチャンも問題の決定にあたってこれと同じ態度をとります。

      この論議に伴って最後に取り上げるべきものは妊娠中絶です。世界では人工妊娠中絶に関する法律の改正を求める声がさかんです。「妊娠の継続が母親の身体もしくは精神上の健康をはなはだしくそこない,あるいは子供が身体もしくは精神上の重大な疾患をもって生まれる」と資格のある医師が判断した場合およびこれと類似の他の場合には中絶を認めるべきであると唱えられています。こうした法律的な問題においてわたしたちはいずれの側にもくみしませんが,妊娠中絶がクリスチャンに許されるかどうかという問題に関して聖書がなんと述べているかを指摘することができます。

      生命は神の賜物であり,神聖なものであるということがこの問題に関する聖書の基本的な見方です。大洪水後の人類の祖先であるノアとイスラエル国民の双方に対し,エホバは殺人もしくは他の者の命を奪うことを禁じられました。(創世 9:5,6。出エジプト 20:13)しかし人間の生命はいつをもって始めとするのですか。神学者および科学者はこの点をくり返し論じてきました。しかし,クリスチャンが問題にするのはエホバはどのように見ておられるかという点です。

      モーセを通じて与えられた神の律法の中で,成育過程にある人間の胎児は一個の生命もしくは魂とみなされました。神はこう宣言されました。「人もし相争ひて妊めるをんなを撃ちその子を堕させんに別に害なき時は必ず……つみせられ……もし害ある時は生命に生命を償(ふべし)」。(出エジプト 21:22,23)神は,妊娠開始後,一定の期間が経過したのちにこの律法があてはまるとは述べておられません。この点に注意してください。女が妊娠していた場合,その成長中の胎児 ― 正常な環境下ではやがて一個の独立した魂として生きるもの ― を死なせるような行為は殺人とみなされました。

      したがって,単に不本意な出産を避けるための妊娠中絶は人間の生命を故意に奪うのと同じです。(ヨハネ第一 3:15)妊娠を臨月まで続ければ母体の健康もしくは生命に害があるだろうという医師のことばだけで妊娠を中絶するのもこれと同じです。a 医師の見解はどれだけ誠実なものであるにしてもやはり一種の見解にすぎないことを忘れてはなりません。UPIの一報道によると,英国,ハル市の婦人は重い心臓病をかかえ,心臓の働きを助けるための電気装置をさえ使わねばなりませんでした。婦人が妊娠したとき,医師たちは「陣痛の苦しみには耐えられないであろう」と語り,妊娠中絶を勧めました。しかし婦人はこれをこばみ,他の医療処置を求めてなんとか命を保とうとしました。やがて婦人は健康な女児を出産しました。婦人は赤子を腕にだきながら,「努力した価値があります」と語りました。

      人間のからだがもつ不完全さのゆえに,どんな妊娠にも危険が伴っています。将来こうした事態を改め,人間の完全さと健康とを回復し,忠実を保った者を復活させてさえくださるという神のお約束は,ほんとうに感謝すべきものではありませんか。それで,自分の持つ命と健康を守る努力をしながらも,完全な状態でのとこしえの命の希望を失う結果になることすべてを避けるのは腎明です。―マタイ 16:25-27。黙示 21:8。

      結びに,産児調節および夫婦間の行為については数多くの個人的な見解があることにふれておきましょう。わたしたちはそのすべてを取り上げようとしたわけではなく,またその意志もありません。この記事の目的は聖書にある事柄を示すことです。こうした問題についてさらに細かな助言もしくは決定を求める人がいるかもしれませが,わたしたちはそれをできません。しかし,この論議が読者の助けになることを願っています。

  • 新たな希望を見いだした大学生
    ものみの塔 1970 | 3月15日
    • 新たな希望を見いだした大学生

      ● 世界の他の場所と同じく,チリにおいても学生がしばしば騒乱を起こしており,その結果,若者の多くは真の神をさがして,神に仕え,神に賛美をささげたいと願っています。ひとりの若者がエホバの証人の集会に来て聖書研究をしたいと申し出ました。彼は若い大学生で,人類に安全と幸福をもたらす政府はないものかと考え,政治にのみ関心をいだき,社会改革を求めて,大学生の過激グループの一指導者となっていました。しかし,ほどなくして,そうした努力もより良い世界をもたらすものではないことに気づき,最後の希望として聖書に心を向けたのです。御国の統治について学んだ彼は言い知れぬほど喜び,直ちに野外奉仕に参加して他の人々に話したいと述べました。それに加えて,仲間のふたりの学生に話したところ,それらの学生たちも彼とともに聖書研究に加わることになりました。今はこの学生は自分で六つの聖書研究を司会しており,研究生の数人は集会に出席しています。彼は11月の全国大会でバプテスマを受けることを楽しみにしています。この学生との聖書研究を司会している宣教者はこれらの3人の学生との聖書研究はとても大きな喜びであることは言うまでもありませんと述べています。

      ― エホバの証人の1970年度年鑑より

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする