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ヨハネ第一の手紙 5章7,8節には三位一体を裏づける何らかの証拠がありますかものみの塔 1975 | 6月15日
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れておらず)恐らく本文に忍び込んだ行間注であろうと考えられる」。
意義深いことに,問題の偽のことばは,ローマ・カトリックの最新の英訳である新アメリカ聖書にも含まれていません。とはいえ,それらのことばはいったいどのようにして聖書写本に忍び込んだのでしょうか。狂信的な写字生が三位一体の教えを支持しようとして故意にこの文を挿入したものと思われます。しかし,その偽りの教理を裏づける証拠はこの節あるいは聖書の他のどこにもありません。
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読者からの質問ものみの塔 1975 | 6月15日
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読者からの質問
● 現実に健康が脅かされる場合,堕胎は正当化されるでしょうか。
これは非常に深い人間の感情や気づかいが関係する問題ですが,神の完ぺきな助言によれば,母親あるいは子どもの潜在的な危険は堕胎を正当化するものではありません。
この問題に対する人間の見解は多種多様で,しばしば相いれません。しかし,聖書の見解の根底をなしているのは命と命に対する敬意です。人間の命は神に由来するとともに,人間の命には神から付与された目的があります。(創世 1:27。ヨブ 33:4。詩 100:3-5)聖書を読むと,その至る所に命に対する神の深い敬意が反映されていることがわかります。神は人間に対して,自分の命を大切にし,また他の人の命を神聖なものとして尊重するよう,愛情をこめて勧めました。神の律法を無視して他の人間の命を取った者は,それがたとえ子宮内の胎児の命であっても,有罪とされ,それとともに責任を問われました。―創世 9:5,6。出エジプト 21:14,22-25。
時として妊産婦がかなりの危険に直面することは否定できません。誠実な関心を示す医師は,糖尿病や高血圧あるいはその他の心臓・血管系の病気などの健康上の問題のゆえに,母親の命が危険にさらされているとの結論に達するかもしれません。そして母親は,『堕胎をするか,それとも自分が死ぬかのどちらかです』と告げられるかもしれません。あるいは,妊娠中に母親が風疹(三日はしか)に感染した場合のように,失明あるいは奇形の子どもが生まれる恐れがあると考えられるので堕胎を勧められるかもしれません。そのような場合の堕胎は実際には命に対する敬意を示すことになると論ずる人もいるでしょう。そうした問題の重大性や堕胎を勧める人の誠実さを決して過小評価するものではありませんが,人は母親と子どもの両方の命のことを念頭におくべきでしょう。
人間はすべて不完全ですから,今日,完全な妊娠というような事はあり得ません。(ローマ 5:12)そのようなわけで妊産婦はすべて,ある程度の危険に直面します。なかには健康な婦人でさえ,妊娠中や出産時に命を失う場合があるのは悲しい現実です。(創世 35:16-19)母親の命あるいは健康が危険にさらされているというだけの理由で妊娠はすべて中絶されるべきでしょうか。明らかにそうではありません。確かに,なかには妊産婦の年齢や健康状態のゆえに普通よりも危険が大きい場合もありますが,それでもなお異常な危険に直面する多くの人をも含めて,たいていの婦人は無事に子どもを産むのではありませんか。それに,いかに善意からであるにせよ,医学上の診断が誤る場合もありえます。では,命の神聖さに関する神の見解を受け入れる人は,潜在的な危険があれば堕胎は正当化されるなどとどうして結論できるでしょうか。胎内の成育中の子どもの命は,単に起こるかもしれない事柄のゆえに断たれてもよいのでしょうか。a
同様に,どんな妊娠の場合でも子どもが欠陥あるいは奇形を伴って生まれてくる可能性があります。「赤ん坊は14人につきおよそ1人の割合で遺伝的な障害を伴って生まれてくる。その障害は糖尿病から……ほんの数日間しか生きられない,どうしようもない不具に至るまでさまざまである」。(ニューヨーク・タイムズ・マガジン,1974年9月8日号,100ページ)こうした潜在的な危険があるからといって,妊娠はすべて堕胎に終わらねばならない
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