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制度を認める模範ものみの塔 1954 | 12月1日
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を保ち,その奉仕の地位に対してなすことのできる最善のことをするならば一番良い結果が得られるものです。そして,それは神権制度を正しく認めていることであります。支部やまたは奉仕制度の他の部門で移動変更がされ,あなたが低位するならば,ヨアブのように憤りの心を持つて振舞うとか,新しい任命者とその地位に対してねたみの心を持たないように注意しなさい。あなたの前の地位にいまついている新しい僕を遅らせたり,阻げたり,また重荷をつけたりしてはなりません。そして,あなたがその地位で得たものよりも,新しい任命者の方がより多くの成功を得るようにとの真心からの願いをさし控えてはなりません。なぜならば,それは神の制度とその仕事が繁栄する時だからです。
12 協会が移動変更をする時,ヨアブのような最期を遂げるのを避け,又はデオテレペスのようになるのを避けるためには,私たちは何をすべきですか?
12 協会が移動変更をすることに対して,憤つたり,不満になる感情をなくするため,その変化で得られる教訓を謙遜な気持ちでうけいれ,どんな面であろうとあなたがしなければならない点において,あなた自身矯正し,改善してゆきなさい。穏和な気持を持つて,制度に忠節を保ち,あなたの後に入れ代る兄弟と仲良く働きなさい。それは,制度の善と進歩に貢献するものです。ヨアブの終りのような悲惨な終りを避けなさい。デオテレペスのしたように,神権制度とその統治体を決して無視してはなりません。デオテレペスについて,使徒ヨハネはこう書きました。『私は(統治体の一員として)いくらかのことを会衆に書いた。しかし,デオテレペスは人々のあいだで首になりたく思い,私たちから来るものを尊敬せず,うけ取らない。それで私が行くならば,彼のしている仕事を思い起させよう。彼は悪い言葉を用いて私たちについてとやかく言つている。また,これらのことに満足せず,それに尊敬の心をもつて兄弟たちをうけいれない。そればかりでなく,兄弟たちをうけいれようとする者を妨げ,会衆から追い出そうとする。愛する者よ,悪いものではなく,善いものを見習らいなさい。』(ヨハネ第三書 9:11,新世)それですから,謙遜になり,僕たちについての制度の任命に忠節であり,従順でありなさい。
忍耐できないことは傲慢に導く
13 ある僕は,制度からいましめをうけた後に,ヱホバに待ち望められないということをどのように示しますか?
13 神権制度を認めるときに,私たちは次の忠告に必らず従わねばなりません。『ヱホバを待ちのぞみて,その道をまもれ。』『ヱホバを待ち望め,雄々しかれ,汝のこころを堅うせよ。必ずやヱホバをまちのぞめ。』(詩 37:34; 27:14)第一に,これはいろいろな面で制度より先走つてはならないことを意味します。人は消極的な方法でこのことをいたすかもしれません。どのように? 奉仕の地位において,人は誤つたり,また間違つた振舞をして制度からいましめをうけるでしよう。そのいましめを受けた人が『私の奉仕は,認められていない』と考えるならば,それは自分自らを過大に評価しており,自分のことのみを強く考えすぎて,いましめの要点を見ることに失敗しています。いましめを聞いて,ひどく腹を立ててしまい,もう奉仕の地位で役立たないものであると自分に言い聞かせたり,または仕返しをすべきであるなどと感ずるかもしれません。それで,自分勝手に考えて,通知なしで突然にその地位を止めたり,制度の統治体からのなんらの命令なしに出て行つてしまいます。そして,その奉仕の地位をうち棄ててしまいます。それは早まつた,考えの足りない行です。いましめは,地位から人を解除することではありません。いましめは,その地位とまたその地位を持つている人の益のために与えられる矯正なのです。いましめを価値あるものとうけとつて,より良く行うように努め,そして制度の教を為すときに正しく振舞うことこそ良いことなのです。それからまた,そのいましめられた人を解除するか,あるいは変化した道をとつていることと考慮して同じ地位に残すか,どちらにしても制度の次の動きを待ち望むのは正しいことです。『こらしめのいましめ(または教訓)は,生命の道なり。』(シンゲン 6:23,改訳。ア訳)を記憶しなさい。いましめによつて益をうけ,その神権制度によつて代表されるヱホバに待ち望み,そして生きなさい。
14 ある者は,円熟している又はずつと忠実であると感じて,どのように先走ろうとしますか? 1917年1918年の裁きの試錬のあいだにはどうでしたか?
14 ときにある人は早く円熟したと感じます。つまり,精神的にもまたは霊的にも特別早く進歩したと自ら感じ,後れて愚図愚図して進歩しないように見える会衆内の多くの人々と比べてずつと忠実であると感ずるのです。それらの人は,自分自身のことをあまりに高く考えて,他の者たちや,また神権制度全部とも忍耐することができなくなります。彼らは,指導をして,真の進歩は何であり,進歩した真の思想と理解は何であるかを制度に示さねばならぬと感じ,離れて行きます。その時に,できるだけ多くのいわゆる『進歩主義者』を連れさり,神権制度と分れて行きます。それから,自ら勝れたものであり,より進歩したと考える彼ら自身の社会を設立します。1917年と1918年のひどい裁きの試みのあいだ,『ものみの塔』協会の多くの著名な人々は,全くそのことをし,そして彼ら自身の多くの分離した制度は設立されました。しかし,36年過ぎたいま,それらの制度は今日どこにありますか? また,一方に,ヱホバの神権制度は今日何処にありますか?
15 モーセの模範は,ヱホバの制度を棄てて,自分自身の制度をつくるものたちを,どのように叱責しますか?
15 そのような我儘な忍耐のない仕方に対しては聖書に良い模範があります。例えば,モーセを考えてごらんなさい。ヱホバ神御自身が,モーセをその族長とする新しい模型的神権制度を始められるという機会がありました。その新しい模型的神権制度は,神の律法の契約を破つて,淫らな犢崇拝を行つた不忠実なイスラエルの民とは入れ代るべきものでした。しかも,その機会はモーセがつくり出したものではなかつたのです。ヱホバは怒りを感ぜられ,モーセにこう言いました。『私を止めてはならない。彼らに対して私の怒は燃え,彼らを亡しつくそう。そしてあなたを大いなる国民にさせよう。』しかし,モーセは心に思い高ぶることをせず,深いことを考えていました。エジプトから堂々と救い出した民を,ヱホバが荒野で亡してしまうならば,ヱホバの御名に非難をもたらすでしよう。エジプト人や他の異教の人々は,ヱホバの御名を嘲笑し,ヱホバに悪い悪意ある考えを負いかぶせる機会ともなりましよう。モーセは,アブラハム,イサク,そしてヤコブと結んだヱホバの契約を憶えていました,というのはその契約は彼らの子孫であるイスラエルの国民に影響したからでした。モーセは,ヱホバの新しい制度内で素晴らしい地位を得るというこの機会を大急ぎで摑むようなことをせず,ヱホバにお願いしてその我儘な民に憐れみを感じ,ヱホバ御自身の御名のための忠実な残れる者を考えていただきたいと申しました。(出エジプト 32:1-14,新世)モーセの取つたこの無私の道は,ヱホバの制度を棄てて自分自身の制度をつくるものたちに対して,なんという叱責なのでしよう!
16,17 ヱホバに待つということについて,ヨシュアとカルブは,どのように試みられましたか? しかし,彼らは何をしましたか?
16 ヨシュアとカルブも,忠実な奉仕を常に続けてヱホバに待ち望み,ヱホバより先走ろうと試みなかつたすばらしい模範です。エジプトから出て2年目に,12人の間者が乳と蜜の流れる約束の地を偵察した後,10人の間者は,その地についての事実を曲げ,人々を失意落胆させて,ヱホバ神に従つて直ぐに行進するのを止めさせ,また処罰されている異教の住民を亡してその地を占領し,ヱホバの契約を立証するのを止めさせました。しかし,ヨシュアとカルブは忠実な報告をして,敵を圧倒するヱホバの力を崇め,イスラエルの国民を勇気づけてその地に進軍し,勝利を得ました。イスラエルは全能の神に対する信仰が不足しており,そしてこの時ヱホバ神に対して公然と叛逆したために,ヱホバは,生存者たちを約束の地に導く前に不忠実な不平家たちは荒野で死んでしまい,全国民は40年間荒野でさまようであろうと宣告をくだしました。
17 この神の言われた決定のときに,ヨシュアとカルブは何をしましたか?『私たちにとつてこの国民は遅すぎて,あまりに臆病である。自分たちだけで先に行こう。』と言いましたか? イスラエルは進歩することなく,また勇気がなくてすぐに怖気ついてしまうからというので,ヨシュアとカルブはイスラエルから逃け去つて行きましたか? イスラエルは全くそのような者たちでしたので,約束の地に入るのは39年も延期され,その期間のあいだ静止しておらねばならぬという刑罰をうけたのでした。ヨシュアとカルブは,他の者とくらべてずつと忠実であり,より義しいと感じ,この延期の年月のあいだそのような国民とは係るまいと決定しましたか? いいえ,そうではありません。ヱホバはその処罰された時代の者たちの中で二人を生存させ,後の時にその地に入れさせる恵みを与えると約束しましたが,二人はそのヱホバの約束に確信を持つていました。二人はヱホバの力ある御手の下に自らを低くし,その国民の制度に固くついていました。なぜならば,ヱホバ御自身も,またモーセもその制度から離れなかつたからです。モーセは再び神にお願いし,国民を亡ぼさず,またモーセからは『彼らよりも大いにして力ある国民』をつくらないようにと述べました ― 民数紀略 13:25より14:38,新世。
18 彼らが,そのような道を選んだために,彼らは何ものも失いませんでしたが,それはどんな面においてですか? 彼らは何についての模範ですか?
18 カルブとヨシュアは,国民の悪い行いの結果を共に苦しんで,そして国民より先に機会をとらえ自分たちだけで約束の地に入ろうとはしませんでしたが,それでもつて何かを失うということは全然なかつたのです。延期されたこの39年のあいだ,彼らはその民についてのヱホバの力ある業をさらに見ることができ,貴重な経険を積むことができました。ヱホバの定めた正しい時が来た時,ヱホバは忠実なレビ人と共に例外としてこの二人をカナンに入れさせました。ヨシュアはモーセの後継者になつて国家的な指導をし,カルブはモーセの忠実な仲間の戦士としてヱホバの至上権を立証しました。当時において,ヨシュアとカルブは目に見える神権制度にどれ程価値ある者であつたか考えてごらんなさい! 神の業に対しての忠実さ,神権的な従順,十分の力ということについて,また神への忠節と献身に対する神の報いということについて,二人はなんという良い模範なのでしよう! 今日,試みをうけている私たちにとつて,二人は非常に良い模範です。
ほまれを捧げる者たちにはほまれ
19 (イ)私たちは,何の拡大のために働くべきですか? 私たちは,どのようにして住んでいる土地の信者を助けて,制度の広さを見させるべきですか?(ロ)私たちは,それに対するどのようにして正しい行の力強い模範になることができますか?
19 神の言葉である聖書は,制度の本です。そして聖書は励ましと薦めとを書き録しており,神権制度を人間自己より上のものとし,どのようなことがあろうと神権制度を認めて,又制度に忠節に従うようにさせております。私たちの努力は,制度を拡大し,神の祝福の下に制度が繁栄するのを見ることであつて,制度の事柄の中で自分自身を大きくし,制度内の人々の尊敬や声望をうけたりしてはなりません。なぜラハブのようにならないのですか? ラハブはイスラエルの間者と契約を結びましたが,それはエリコの奇跡的な落城のときに彼女自身を保護し生存させるためだけでなく,信仰を持ちそしてラハブの家で安全を求めたすべての親族をも保護し,生存させるためでした。(ヨシュア 2:1-21)私たちは他の人々を援助して,私たちの交り,そして私たちがその僕であり象徴である神権制度を見させるべきです。丁度ヱホバの証者たちは,ニューヨーク市のヤンキー野球場で開催された1953年の巨大な大会の時その様でした。私たちが外国の地で支部の僕または宣教者として働いているならば,私たちはその地の信者と証者を助けて神権制度についての深い認識を得させなさい。そのことは,単にその地方の制度というもの以上のことを意味するものです。このようにして,人々を助け,制度が何を意味するかについて限定された地方的な見方を取り除くことができます。制度に対する私たち自身の破れることのない一致と調和,その取り極めに対する私たち自身の従順,御国のたよりを熱心に伝道する者として私たちがその制度とともにしつかりと働くこと,これらは力づよい模範でありましよう。私たちは制度を愛しますので,その制度が清さを保ち,その大いなる創造者にして造り主ヱホバ神が用いるのにいつもふさわしく清いものであるように欲します。私たちは,制度を愛しますから,火のようなひどい迫害も私たちを制度から引き離しません。
20 私たちは,どんな行にたいして,制度から必要な助けをうけますか? そして,何をすることに対して,遂には高められますか?
20 私たちが常に大切に思う一つの考えはこうです。私たちが謙遜になり,熱心で忠実な従順と協力により,忠節をつくして神権制度を認めるならば,神権制度は私たちを認め,私たちを支持し,私たちのために働き,そして私たちを神の奉仕に止め保ちます。神権制度の巧みな創造者にして神の沿う規則は,神自身の言葉によるとこう述べられています。『我を尊む者は,我もこれを尊む。我を賤しむる者はかろんぜられるべし。』(サムエル前 2:30)私たちは神の是認する制度を献心の心をもつて認めて,神を尊び,そして神に最大の尊敬を示すならば,私たちは制度と幸福であつて,満足をもたらす関係を保ち続けることができ,そして現在制度と共に奉仕の多くの特権を楽しむことができます。最後には,ハルマゲドンの戦いの後の新しい世で,その神権制度の中にいる者には,ヱホバ神よりイエス・キリストを通して正しい報いが来るでしよう。このことは次のことを意味します。すなわち,私たちは神権制度なしには決して成功し得ることはできず,そして,その神権制度は私たちを助けて神に対する忠実を保たせ,全宇宙に対する神の至上権とキリストの支配下にある神の御国を立証するのに私たちを参加せしめます。私たちはいま神の大いなる御手の下にあつて自らを低くしていますが,それに対して永遠の生命を与えられると共にその時私達は高められます。
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最近にアフリカでものみの塔 1954 | 12月1日
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最近にアフリカで
あるキリスト教の奉仕者たちは,一人の善意者を訪問しました。その人は,霊符協会の指導者でもあり,また霊符の力を強く信じていました。キリスト教の奉仕者たちは,昔バアルの崇拝者たちについて聖書は何を記録しており,またヱホバが唯一人の生命の与え主であることについて聖書は何と言つているかその人に知らせました。証者たちの言つた言葉に深く注意を払つた後に,その人は,証者たちが霊符よりも力が強いならば,信じようと言いました。それで,取り極めた日に,証者たちは互いに集まり,また町の人をみな招待して,どんな事が行われるかを見させました。最初に聖書の講演がなされ,そして,それから霊符の偶像が皆の前で燃されました。ヱホバの恵みある御親切により,霊符のこの指導者がヱホバの証者になつたばかりでなく,この人は又他の善意者にも真の崇拝についての興味を引き起させました。そしてこの二人は洗礼をうけました。
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