ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 1957年の地域大会の顕著な点
    ものみの塔 1957 | 12月1日
    • 余地もないほどうめつくされました。そして美しい音楽の番組も特筆すべきものでした。

      メリーランド州バルチモアのメモリアル野球場では8月21日から25日に渡つて開催され,それはアメリカ合衆国で催された此の度に於ける最後の大会でした。ここでの顕著な点は,土曜日の午後,決議文が採決されたことです。それは現在ドミニカに居住するヱホバの証者に対してとられた残酷な行為と追放に関して,ドミニカの最高支配者に対する抗議でした。又追放された宣教者達が話した経験や,1034名という受洗者の数,又証者たちを収容した夥しい無料の宿舎なども著しい点でした。

      カナダでは7月中に3つの大会が開かれました。トロントの或る新聞は,紙面の上段を使用し2頁にわたつて,パノラマ式に大会の全景を掲載しました。エドモントン大会に集つた証者たちの中には,トラックに乗つてアラスカからはるばる2000マイルの旅をしてやつて来たグループもありました。

      英国とスコットランドでは4つの大会が行われました。新聞やテレビジョンも大会に注目し,何通かの友好的な手紙が新聞に載せられました。目立つた点は,これらの4つの大会に影響を与えたバスのストライキにも拘らず,前年の大会よりも20パーセント上廻る出席者の合計数でした。

      西ドイツでは3つの大会がありました。ドルトムンドでは,オートバイに乗つた護衛警官たちが受洗希望者たちを乗せた25のバスを,12マイル離れた洗礼の場所へ導きました。彼らが,証者たちのために道を開けさせたり,交叉点で通交を止めて通させたりしたことは外部の人々に深い印象を与えたものです。13年前に全部のヱホバの証者がナチの収容所に入れられていた時と,何という大きな違いでしよう。ミューニッヒでは,大会は殆ど1000フィートもある,2万2000人の収容力を持つ巨大なテントの中で行われました。かつてミューニッヒの人々が見たテントよりも4倍も大きいものでしたから,相当の話題をまき起しました。ドイツの大会を感動させたものは証者の教科書である『奉仕者になる資格』がドイツ語で出版されたことでした。

  • クリスチャン原則を決して妥協せず
    ものみの塔 1957 | 12月1日
    • クリスチャン原則を決して妥協せず

      『おおよそ世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである。』― ヤコブ 4:4,新口。

      1 原則とは何ですか。

      真のクリスチャンは原則によつて支配されます。原則とは基礎的な真理です。真理は事物の実体と一致しているもの故,原則は本質的には基礎の事実を述べたものです。上記の聖句にも明白に述べられているごとく,聖書には数多くの原則が記されています。パウロがロマ書 1章20節(新世)に述べた如く,他の原則は自然の本の中に出ているか,またはその中に見出されます,『神の見ることのできない性質すなわち永遠の力と神なることとは世の創造の時以来,造られたものによつて理解することができ明らかに見られる。』

      2,3 原則の例は何ですか。考究する際にはどのように原則を用いますか。

      2 原則についてのいくらかの例を挙げるなら,私たちの理解と推論において原則の果す役目を知るでしよう。ここにそのいくらかを記します,ヱホバは全地を支配する最高至上者です,ヱホバの外に神はありません。ヱホバは永遠から永遠までの御方です。イエスは神の創造の初めです。神はキリストの頭です。父はキリストよりも偉大です。子は神に従います。神はキリストを死人の中から甦らせました。神は以前よりも高い地位をキリストに与えました。聖霊は一つの位ではありません。人々は聖霊にみたされる事ができます。―詩 83:18。イザヤ 44:6。詩 90:2。コロサイ 1:15。コリント前 11:3。ヨハネ 14:28。コリント前 15:28。使行 13:30; 2:32,33; 2:4,17。

      3 これらの原則をどのように用いますか。これらの原則は,家を建てる際の設計図に従つて集めた建築材料であると考えても良いでしよう。これらの特定な真理の諸原則を,神の意図に従つて集めると,聖書にある真理の教理が形づくられます。一つの点がすぐに明らかとなります。すなわち,三位一体論者は,ヱホバ神,キリスト・イエスそして聖霊が「同等で等しく永遠の神」で一体であると言いますが,そのようなことは不可能です。ヱホバはキリスト・イエスよりも力ある方です。故に両者は同等ではありません。ヱホバは永遠ですが,イエスは神によつて創造されました。従つて両者は同等ではなく,イエスは永遠者ではありません。そして,聖霊は神の力であつて,一つの位ではありません。人々が一人の人でみたされるという事はできませんが,活動的な力すなわち聖霊でみたされる事はできます。牧師はこれらの聖書の原則について論ずることを拒絶し,三位一体の教理は神秘であると言いはります。結果として,牧師は,サタンの手先です。なぜなら神が至上でないことを示そうと,サタンは努力しているからです。三位一体の教理を教える牧師は,全能の神ヱホバを他のものとの同等な地位に引き下げようと努めているのです。聖書の諸原則と事実によれば,それは不可能なことです。このように,これらの原則を考究するとき,皆さんはキリスト教国の三位一体という教理が偽りであることを,明白に悟り得るでしよう。そして,もちろん『三位一体』という言葉は,聖書に出ていません。

      4,5 ヱホバの律法と原則との関係は何ですか。

      4 ヱホバの神権的な律法は,真理の原則に基づいています。例えば,今日でもなお有効な神の律法は,殺人を禁じています。人間は死ぬという簡明な原則すなわち事実の上に,この律法はもとづいているのです。従つて,聖書の数多い教えのすべては,真理の原則を用いて作り上げられているのですから,神の律法全部の背後には,真の原則が横たわつているのです。

      5 事実,モーセに与えられた律法契約は,何百という律法から成り立つていますが,その各々の律法は,一つか又はそれ以上の真理の原則を基にしています。律法契約が,啓示としてイスラエル民族に与えられたとき,数多くの正義の原則は,初めて人間の知るところとなりました。それでイエスが死なれた時に,神は律法契約の法的な拘束力を終結させましたが,律法契約によつて人間が知るようになつた真理の永遠の原則を抹殺しませんでした。律法の中に見出されるこれら真理の諸原則は,私たちのために今なお聖書の中に保存されていて,クリスチャンを正義の道に導きつづけます。―コロサイ 2:14。

      6 キリストの教えの下で生活するよりも,モーセの時代に生活する方が容易であつたのは何故ですか。

      6 モーセの置いた規則に従つて生活することは,キリストの原則にのつとる生活を学ぶことほど難しくなかつたのです。原則を生活全般の導きとするよりは,行を規則に合わせる方が遙かに容易です。モーセは規則を規定し,キリストは原則を教えて心に銘記させました。規則は子供のためであり,原則は円熟に成長したクリスチャン男女のためです。

      7 クリスチャンは全く原則だけに支配されますか。あるいはクリスチャンの守るべき律法がありますか。

      7 キリストは原則を教えて心に銘記させました。といつても,それはクリスチャンの活動を支配する律法が全然ないという意味ではありません。律法とは,上位者が下位者の行いを指図する行動の規則であり,従つてクリスチャンには神の律法を守る義務があるのです。クリスチャンに与えられた律法の例を挙げれば,血を食べてはならないこと,淫行を避けること,偶像崇拝から遠ざかること,集会に集り合うのを止めないこと,殺人を行わないこと,その他です。また,私たちはイエスが繰り返して述べられた二つの最大の律法すなわち,いましめを忘れてはなりません。『「心をつくし魂をつくし思いをつくしてあなた方の神であるヱホバを愛さねばならない。」これは一番大きな第一のいましめである。第二のいましめもこれと同じ様に「自分自身のごとくに隣人を愛さなければならない。」』これらの律法は,真理の原則に基づいています。これらの律法は,クリスチャンを円熟に向つて導くために述べられているのです。―使行 15:20。ヘブル 10:25。ロマ 13:9。マタイ 22:37,新世。

      8,9 (イ)どのように,クリスチャンは原則に支配されますか。(ロ)情欲に支配されるということは何を意味しますか。

      8 しかし,クリスチャンに与えられた助言とか指示は,しばしば一般的であつて,従うべき原則が述べられているに過ぎません。各人は自由な道徳行為者であり,定められている正しい原則に従おうと,あるいは自分の利己的な欲望に従おうと,その選択は各人に委ねられているのです。このようにして,神は,御自身に対する各人の愛と信頼がどれ程大きいか,そして神の御心を行う熱意の大きさはどの位であるかを,各人それぞれが証明するようにされているのです。

      9 二つの力はあらゆる人に働きかけています。その一つは情欲であつて,それは他の人々の影響によつてもたらされるもので,影響を受ける人の上に及びます。第二のものは原則すなわち律法であつて,正しい道を示している行動の規則つまり神の律法です。ヱホバに献身している人々は,ヱホバの律法によつて支配され,真理の原則に基づくヱホバのいましめに従います。故に,原則によつて支配されるとは,理性と良心に従い,事実の知識に基づいて行動することを意味します。情欲に支配されるという意味は,外部からの影響の故に行動すること,富,名声,権力,安全,感覚また本能の満足などの個人的な事情によつて動かされるという事です。

      10 欲情にしたがう人と原則に従う人とを,パウロは如何に対照していますか。

      10 サタンの下にある此の組織において,物事を評価する際に,情欲は大部分の人の心を導いています。この世は情欲に燃える肉欲の行いを是認する一方,今日の大多数の人類は神の言葉の原則を導きとする人々を嘲笑し,嘲けるという事は,ますます明らかになりつつあります。パウロはガラテヤ書 5章19-24節(新世)において,情欲に従う人々と神の正しい原則に従う人々を対照しています。そこで,私たちは情欲にしたがつてなす事柄がこの末の日にあつて急速に一般の人気を増しているのを認めることができます。『肉の業は明白である。それは,淫行,不潔,不品行,偶像礼拝,霊媒術,憎しみ,争い,嫉妬,怒り,党派心,分裂,分派,ねたみ,泥酔,宴楽,および,そのたぐいである。わたしは以前も言つたように,今も前もつて言つておく。このようなことを行う者は,神の国をつぐことがない。しかし,御霊の果は,愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和,節制であつて,これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は,自分の肉を,その情と欲と共に杭につけてしまつたのである。』

      11 (イ)パウロの言葉の中きわ立つて見られる二つの原則とは何ですか。(ロ)クリスチャンの正しい行いがヱホバに誉をもたらすという事を,ペテロは如何に示しましたか。

      11 ここに述べられている二つの原則に注意して下さい。肉の業を行う者は神の国をつぐことがありません。クリスチャンである人は,これらの業を行いません。クリスチャンは神の政府の下に生活したいと望んでいます。故に彼らは正しく原則に固くつき従わねばなりません。この理由で,ペテロはペテロ前書 2章11,12節(新口)において,次のように強く勧めたのです。『愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは,この世の旅人であり寄留者であるから,魂に戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあつて,りつぱな行いをしなさい。そうすれば,彼らは,あなたがたを悪人呼ばわりしていても,あなたがたのりつぱなわざを見て,かえつて,おとずれの日に神をあがめるようになろう。』クリスチャンの正しい行いは,善意者の目から見てヱホバに讃美をもたらしますが,しかし,この世の眼にはそのように映りません。この組織制度にあつて,原則に従うことは何らかの犠牲を伴います。それは,たとえ真理が不人気のものでも,真理を愛するという事を意味します。それは人を恐れるのではなく神を恐れることを意味します。また不正の利を追い求めずに,それを憎むという事です。新しい世にあつてヱホバに奉仕する人々に,ヱホバはこれらの性質を求められます。―出エジプト 18:21。シンゲン 29:25。

      原則 ― これを基礎にして建てる

      12 キリスト教の基礎となる原則の中に,パウロは何を含めましたか。

      12 使徒パウロは基礎となるもの,すなわち基本的な真理の原則について,特にヘブル人に手紙を書きました。この原則はすべてのクリスチャンが固くつき従うべきものです。パウロは次のように述べています。『時間というものを考えてみると,あなた方は教える者となつているはずなのに,神の言葉の初歩の原理を最初から教える人を必要としている始末である。あなた方はかたい食物ではなく,乳を必要としている。乳を飲む者は,幼児であるために,義の言葉を良く弁えない。しかし,かたい食物は成人,つまり善悪を見分ける感覚の力を働かせ訓練する人に属するものである。このわけで,キリストの初歩の教理を後にして,円熟にむかつて進もうではないか。いまさらに,死んだ業の悔い改め,神への信仰,洗礼や手を置くことの教え,死者の復活そして永遠の裁きというような基礎を再び置かないようにしよう。』― ヘブル 5:12–6:2,新世。

      13-15 (イ)初歩の教えを『離れて』と語つた時,パウロは何を意味しましたか。(ロ)この事は,数学の基本原則の使用と如何に比べられますか。

      13 基礎的な真理の教理の原則を『後にして』と言つたパロウは,何を意味しているのですか。これらのものを『後にし』たとパウロは語つています。しかし信ずるのを止めなければならないかとか,悔い改めや信仰を行うことを止めなければならない,と意味しているのでは決してありません。また,洗礼を信ずるのを止め,そして洗礼を行うことを止めるべきだと言つているのでもありません。使徒がここに示しているのは,これら凡ての事柄を何度も繰り返して学んではならないという事です。私たちは基礎となる事を知つただけで満足してはなりません。手紙を宛てたヘブル人が既に教える者となつている筈なのに,再び初歩の原則を人から教えられる必要があることをパウロは叱つているのです。彼らはこれらすべての事を理解し,他の人に教え得る筈でした。そして,これらの事柄に対して信仰をひきつづき持ちながら,神の御目的と御言葉の知識を増し加えているべきだつたのです。またそれだけに留らず,次のことを心に留めるべきです。キリストの追随者として全き進歩をなすためには,これらの問題に関する正しい教理が必要です。しかし,それに加えて必要なのは,意図している成果を得ること,すなわち神の言葉を弁えて理解することができ,その正義の原則に従つて行動し得る十分に成長したクリスチャンになることです。『円熟にむかつて進もう』と言つたパウロは,この事を意味したのです。

      14 このことは,子供が学校に行き,初めて掛算を憶え,次に足し算,引き算,割算を習う方法に比べることができます。これは数学の基礎となる原則であつて,もし子供が数年たつても未だこれらの原則を学んでいるなら,その子供は愚鈍か,それとも勉強が不注意であると考えられます。そして,子供は初歩の原則を離れて他のことに進むべきであると言うことでしよう。しかし,こう言つたからとて,初歩の原則を忘れてしまい,もうすつかり打ち棄てて考え起すことをしなくてもよいというのでありません。子供は初歩の原則を憶え,活用してその上に高度の数学を積み重ねて行かねばならないのです。その子供が技術者を志しているとすれば,更に高等数学を理解し,使用し得るまで進歩しなければならないでしよう。又,それに従つて加えられる原則をも学んで,それの導きを受けることが必要となります。学んだ原則をないがしろにするなら,技術者として成功することは覚つきません。基礎の構造に必要なものの算定が不正確では,その建築物は崩壊してしまうからです。

      15 クリスチャンも同じような立場にあると言えます。パウロによると,クリスチャンはキリストの初歩の原則を,霊的な円熟に進歩するための手段として用いるべきです。彼はキリストのより高い原則を学んで,それによつて導かれ,他の人にそれを教え得るようになるべきです。自分自身が,これらの原則を理解していないならば,それを自分の導きとすることはできません。また,それが理解できないなら,他の人にそれを教えることはできないでしよう。クリスチャンの教えは,話すことと手本の両方です。円熟したクリスチャンの生活の仕方を見て,円熟していない人々は倣うべき良い手本にします。その生活が正しい原則に基づいているなら,それは倣うに良いものです。この理由のためにも,円熟したクリスチャンは原則によつて支配されなければなりません。―ピリピ 3:17。

      16 初歩の原則から進歩しない人には,どんな危険がありますか。

      16 これに反し,私たちがキリストの初歩の原則を越えて進歩せず,幼稚にも悔い改め,信仰,洗礼,霊によつて生まれること,復活,人々の裁きなど,初歩の真理にぐずぐずと留まつているなら,危険が伴います。その危険とは何ですか。罪に逆戻りすることです。私たちはキリスト教の基礎の原則の上にしつかりと建てられた強い構造を持ち,建てつづけねばなりません。―ロマ 14:19。ユダ 20。

      17 初歩の原則を学んで後,クリスチャンの献身と洗礼を行わない人については,何が言えますか。

      17 悔い改め,信仰,そして洗礼は初歩の真理であることに注意して下さい。聖書が私たちに命じているのは,初歩の真理を越えて進歩し,円熟を得るということです。従つて,今日新世社会と交わつている人で,何らかの理由のためクリスチャン洗礼を受けない人は,キリストの初歩の原則さえも十分に理解していない,極めて未熟な者であることを表わしています。その人はすでに何年もの間,新世社会と交わつて会衆の集会にも出席してきたかも知れません。しかし,それでも,原則に支配されるよりは情欲に支配されているのです。これら初歩の真理を越えて進歩する人々は,神の霊の助けを得て円熟した霊的食物へと進み,神の言葉を深く弁え理解するようになるでしよう。神の霊すなわち神の活動力は明瞭にする力を持ち,私たちはこれによつて神の深い事柄をも探り窮めることができます。―コリント前 2:9,10。

      18 原則に支配されるために,神の言葉はどのような助けですか。

      18 この霊的な弁えは,すべて神の言葉に基づいています。従つて,神の言葉の知識に代るものはありません。私たち凡ては,神の言葉に日々思いをめぐらし,全能の神ヱホバの真理の原則を益々しつかりと心に留めることが必要です。基礎となる原則をとり入れればとり入れるほど,私たちは円熟さを増し,更にしつかりして,崩壊を避けるすなわち罪への逆戻りをより良く避けることができます。ユダヤの宗教指導者たちは,ユダヤ人の従うタルマドを作りました。これは万事に亘つて行いの規則を定めて居るので,論理を求め,神の原則を学ぼうとする人が,神の言葉に理性と考えをめぐらそうとしても,そうする機会は殆んど或いは全く残されていないのです。ヱホバはタルマドのような規則集をクリスチャン生活のために,キリストを通して備えられませんでした。ヱホバは若干の律法と規則を聖書の中に述べられています。それで,クリスチャンの従うべき原則は私たちのために記録されているのです。これらクリスチャン原則を毎日の生活に適用することは,クリスチャンにとつて必要です。聖書の中に見出される若干の事実を僅かに知つているだけでは不十分なのです。

      クリスチャンとこの世

      19 神の原則に従うことは,世に対するクリスチャンの関係にどのように影響しますか。

      19 神の言葉の正義の原則は,すく知られている聖書の事実を受け入れるという事よりも難しいのです。今日ヱホバの証者はこの世に生活しています。そしてこの世で多くの人はクリスチャンであると主張し,聖書の述べている原則を立派なものと語つていますが,全能の神が御言葉の中に示された原則と規則に何時もふさわしく生活しようと努めている人は新世社会外には極めて稀です。この世の大多数の人からヱホバの証者が変り者のように見られるのは,ヱホバの証者がクリスチャン原則に従つているからなのです。この世はヱホバの原則から余りにもかけ離れているため,ヱホバの証者はこの世のすべての人々とは違う者になつています。それで,この世のある政府は,ヱホバの証者を頑固な者,行動を共にしない者と見ているのです。サタンはこの世の神であり,またキリスト・イエスがこの世のものでなかつたように,クリスチャンもこの世のものでないというのは,聖書に示された原則ですが,支配者たちはこの原則を理解していません。(コリント前 2:14)この世の裁判官や支配者は,カイザルのものだけに留らず,それ以上のものをカイザルに納めることを,ヱホバの証者に要求しています。この世はイエスの命令の後の部分,すなわち神のものを神に納めることを忘れているのです。ヱホバの証者は税を収め,その国の学校教育を受け入れ,正義と真理の神の原則と全く一致している,凡ての国家の法律に従い,また,何処に住んでも,その国の色々な定めに従つています。また,他の人々と同じ服装をして,大部分は人々の習慣に倣います。しかし,ヱホバの証者がすることの出来ない,そして決してしない事が一つあります。それは,神の言葉に述べられている原則に従つて訓練された彼らの良心に背くことです。真のクリスチャンであるヱホバの証者は,全能の神の原則に固くつき従い,また神に属するものを神に納めます。―マタイ 22:21。

      20 多くの人が無視している顕著な原則は何ですか。

      20 人間は理解を持つているなら,ヱホバ神が宇宙の創造者にして全能の神であるという極めて重要な原則を無視できません。この世でいうところの科学の賢人は,この原則を敢えて無視しているため,生命の起源を理解しようとしても,それを妨げる大きな障壁を自ら築いているのです。そこで,如何に努めたところで,この基礎となる真理を持たない彼らは,生命についての十分な説明をすることは決してできません。―創世 1:1。

      21 (イ)創造者であるヱホバの権利は何ですか。(ロ)人が献身したヱホバの崇拝者となる時,世に関するその人の立場はどんなものですか。

      21 創造主であると共に全能者のヱホバは,地上の人間から専心の献身を受ける権利を持たれています。ヱホバはイスラエルに律法を与え,御自身でこの事を明らかにされました。『あなたは自分のために,刻んだ像を造つてはならない。上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水のなかにあるもの,どんな形をも造つてはならない。あなたはそれらを拝んでもならないし,仕えてもならない。あなたの神である私ヱホバは,専心の献身を求める神である。』(出エジプト 20:4,5,新世)これは真理の原則すなわち事実です。また,ヱホバの至上権が,この世の神であるサタンによつて挑戦されており,この世が全能の神ヱホバに敵対しているということも事実です。(ヨブ 1:11。イザヤ 14:13。ヤコブ 4:4)クリスチャンは,ヱホバに無条件の献身をなし,それによつて悪魔の世に対しては外国人となります。従つて献身は新しい世における市民権を申請するのにも似ており,洗礼という公けの儀式は,多くの証者たちの前でこの事実を確証する誓いにも似ています。キリスト教の基礎を置いたキリスト・イエスは,御自身の献身と洗礼によつて手本を残されました。そして,ヨハネ伝 17章4節(新口)において,クリスチャンに関し明白にこう述べました。『わたしが世のものでないように,彼らも世のものではないからです。』

      22 イエスがヨハネ伝 17章14節にある原則を述べたとき,クリスチャンの従うべき数多くの詳細にわたる細かい規則を与えなかつたのは何故ですか。

      22 この原則を述べたイエスは何を意味していられたのですか。なぜ,イエスはクリスチャンの従うべき数多くの規則を詳細にわたつて述べなかつたのですか。ヨハネ伝 15章19節(新口)の言葉を弟子たちに告げたイエスは,これより少し前,たしかにこの原則を述べました。『もしあなたがたがこの世から出たものであつたなら,この世は,あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし,あなたがたはこの世のもではない。かえつて,わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから,この世はあなたがたを憎むのである。』しかし,イエスはクリスチャンがこの世から孤立してこの世に伝道することから離れるのを望みませんでした。イエスはヨハネ伝 17章15節(新口)で,次のようにヱホバに祈つたからです。『わたしがお願いするのは,彼らを世から取り去ることではなく,彼らを悪しき者から守つて下さることであります。』この世の神からの危険が確かに存在しています。(コリント後 4:4)イエスは,神権的な原則をクリスチャンに告げました。しかし,聖書について考究すること,サタンの巧妙な罠に対処する仕方またこの組織制度にあつて如何に振舞うかの決定は,クリスチャンに任せたのです。

      23 キリストの模範的な生涯は神の言葉の原則に従いつつ,この世で生活する仕方を考えるクリスチャンを如何に助けますか。

      23 キリストと霊感を受けた使徒が如何に聖書の原則を考究したかを見ることによつて,今日の地上に住むクリスチャンは益を得ることができます。イエス御自身が,ヱホバに奉仕するため厳粛な献身をしました。その意味は,イエスがヱホバの大使すなわち奉仕者であつて,何よりも先ずヱホバの奉仕に専心しなければならないという事です。イエスは自分の立場の正しいことをはつきりと理解し,古い世の考え方,すなわち人間の偽りの考え方を全く避けて,真実の価値を認識しました。イエスは宝を天に貯えることを伝道しました。そして全時間の宣教に奉仕したイエスは,伝道したことを実際に行いました。すべてのものはヱホバのものであり,ヱホバの祝福は富ませるという原則を,イエスは理解したのです。イエスは,彼を王にしようとする人々の努力に反対して斥けました。イエスは,言葉においても行動においても積極的でした。イエスは,その立場と為すべき業とを十分に理解したのです。イエスはこの世の争い,政治,商業に対して中立を守りましたが,神の正義の原則を破ることに対しては,発言をためらわず,非難の言葉をためらわずに語りました。巧み過ぎるために,妥協するという事をイエスはしませんでした。イエスは彼の時代の偽りの宗教にくみすることを拒絶し,神の正義の原則に固く従つたので,宗教指導者たちの大きな反対を惹き起し,彼らはイエスをローマの支配者の前に連れ出したのです。そこで,イエスは原則を述べました。『わたしの国はこの世のものではない。』更に『もしわたしの国がこの世のものであれば,わたしに従つている者たちは,わたしをユダヤ人に渡さないように戦つたであろう。しかし事実,わたしの国はこの世のものではない。』― ヨハネ 18:36,新口。マタイ 6:20; 4:1-10; 23:4,5。

      [450ページの囲み記事]

      『されど悪しき者は地より亡ぼされ,もどる者は地より抜きさらるべし。』シンゲン 2:22

  • 妥協を拒絶する者たちは幸福
    ものみの塔 1957 | 12月1日
    • 妥協を拒絶する者たちは幸福

      1 イエスが原則に支配されていなかつたとすれば,どんな行動を採つたでしようか。しかしイエスはどんな行動を採りましたか。

      イエスはヱホバの原則に反する行いをしたなら,人々の好感を得た上に,彼の耐え忍んだ非難と苦しみをいくぶんか避け得たことでしよう。しかし,イエスは,世間一般の便宜主義に屈してしまうような人ではありませんでした。イエスは,ヱホバへの専心の献心に心を集中して,物質的な事柄やこの世のまつわりを拒絶し,ヱホバの永遠の祝福をかち得ました。私たちの偉大な模範者は,情欲よりも原則によつて支配され,神の律法はその心の中にありました。彼は決して妥協しなかつたのです。―詩 4:8。ヘブル 10:9。

      2,3 (イ)初期のクリスチャンの生活の中には,クリスチャン原則に従って生きたどんな信頼し得る模範がありますか。(ロ)ヤコブは妥協する人々の前に,どんな原則を置きましたか。

      2 使徒たちはイエスの模範を見ました。聖霊の助けを得た彼らは,イエスの模範を十分に理解したのです。彼らもまた,生命をヱホバの奉仕に献げ,洗礼を受けて,霊的な円熟に進みました。記録に残された彼らの行いと言葉は,真のクリスチャンが,正しい原則に導かれつつ,ヱホバに受け入れられるため,如何に振舞うかを強調しています。またその記録は,私たちのような不完全な人間でも,原則に従つて生き得ることを示しています。ペテロとヨハネは,迫害に面したときにも,彼らはイエスと同じように固く立ち正しい原則に従つたとの理由で彼らをむち打たせた支配者にこう言つています。『人間に従うよりは,神に従うべきである。』クリスチャン原則を妥協したなら,人間の手によつて肉体に受けた苦しみや非難を受けずに済んだかも知れません。しかし,妥協したならば,良心の呵責に苦しんだことでしよう。彼らは円熟したクリスチャンであつて,事柄を慎重に考えた抜いた上,採るべき唯一の行いは,率直な答を与えることであると悟つたのです。―使行 5:29,新口。ペテロ前 3:16,21。

      3 初期クリスチャンは,この世の是認を得るために,その立場や音信を妥協するなどの甘つたらしい追従をしませんでした。正しい原則にかたく従うために,世の憎しみを受けて,迫害を受ける,そして死にさえも遭うという事は,イエスが彼らに明日に告げたことでした。妥協することは,ヱホバの前にもつ自分の立場を犠牲にすることであると,彼らは知つていました。故に包みかくさずに言葉を述べたヤコブは妥協する者に対して,次のような強い言葉を述べたのです。『不貞のやからよ。世を友にするのは,神への敵対であることを,知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は,自らを神の敵とするのである。』― ヤコブ 4:4,新口。

      4,5 クリスチャン原則を考究することは,所謂,信仰合同の運動から,どのようにクリスチャンを守りますか。

      4 ローマ帝国の支配した当時にあつては,凡ての宗教が何らかの価値を持つものと考えられて居り,世の指導者は宗教の集合化,一種の融合宗教を行つていました。しかし,真のクリスチャンはそれからは離れていたため,その妥協しない態度の故に憎まれたのです。クリスチャンはそれ以外のことをどうして出来るでしようか。イエスは,彼らがこの世のものでないという原則を,述べていました。偶像崇拝は正しくなく,ヱホバの崇拝こそ正しいと彼らは知つていました。(コリント前書 10章14-22節において,パウロが原則と偶像崇拝について,如何に考究しているかを注意して下さい。)聖書の原則を考究することは,いわゆる信仰合同運動から凡てのクリスチャンを守るものです。マタイ伝 16章6-12節(新口)において,イエスは警告されました。『「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を,よくよく警戒せよ」。弟子たちは,これは自分たちがパンを持つてこなかつたためであろうと言つて,互に論じ合つた。イエスはそれと知つて言われた,「信仰の薄い者たちよ,なぜパンがないからだと互に論じ合つているのか。まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき,幾かご拾つたか。また,七つのパンを四千人に分けたとき,幾かご拾つたか。わたしが言つたのは,パンについてではないことを,どうして悟らないのか。ただ,パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。そのとき彼らは,イエスが警戒せよと言われたのは,パン種のことではなく,パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟つた。』このように,その考究をするとき,彼らは事実を心の中に留めておくことが必要でした。そして,イエスは彼らに学ぶのを助けたのです。後になつてパウロは,当時に緊急な問題となつた信仰合同の問題を明確に論じて居り,コリント後書 6章14-17節(新世)で次の言葉を書くことにより,仲間のクリスチャンの考究を助けました。『不信者と,つり合わないくびきを共にしてはならない。義は不義とどんな係り合いを持つのか。光は暗やみとどんな交りを持つのか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。私たちは,生ける神の宮である。神がこう仰せになつている,「私は彼らの間に住み,かつ出入りをするであろう。そして,私は彼らの神となり,彼らは私の民となるであろう」。だから,「彼らの間から出て行き,彼らと分離せよ,とヱホバは言われる。そして,汚れたものに触れてはならない。』パウロの論理は明確です。このことに関する原則を悟つたコリントのクリスチャンたちは,清さを保つことができました。

      5 それで,『信仰合同』という言葉は,聖書にないということからも,今日の真のクリスチャンはクリスチャンの原則に従つて居り,信仰合同運動,牧師の合同あるいは妥協を図る教会会議に加わつていないのです。分裂している偽りの宗教の集合化は今の世に広く行われていますが,私たちはこれに全く参加しません。なぜですか。私たちは聖書の原則を考究して,この世におけるクリスチャンの立場を理解しているからです。クリスチャンとして,私たちは清さを保たねばならず,この世の好感を得る為に神の正義の原則を曲げるという事があつてはなりません。

      6 輸血に関して,クリスチャンはどのように神の原則と律法を考究すべきですか。

      6 聖書の中に特に言葉では述べられていませんが,しかし神の原則と律法に従つて考究しなければならない別の例は輸血です。神の原則を無視している人々は,いとも容易に情欲と感情に動かされます! 輸血が行われるようになつたのは最近のことであり,聖書時代には決してありませんでした。しかし,神の原則と律法は明らかです。すなわち肉の生命は血にあります。血を食べてはなりません。血は流さねばならず,貯えてはなりません。輸血は静脈に栄養を補給することと同じであり,血を食することです。故に,輸血は聖書に反する行いであると考究しなければなりません。原則は感情に打ち勝ちます。真のクリスチャンは妥協せず,どんな形態の血であつても,血を体内にとり入れて,ヱホバの不興を蒙ることをしません。全くのところ数週間あるいは数年間生き延びたいために,新し世の永遠の生命を失うのは道理に合わない事です。

      7 輸血に関して,クリスチャンはどんな圧迫を受けるかも知れませんか。

      7 しかし,この世のかきたてられた感情と真理の原則との戦いに,人が個人的に捲きこまれた時,それは試練です。誰もそのことを否定できないでしよう。表面的には,輸血は価値のあるものに見えませんか。輸血をして生きながらえるなら,もつと良く神に奉仕できると,論ずることはできませんか。議論を始めることは,何の役にも立ちません。血液の代用品は血と同じ働きをしない事は,真実かも知れません。しかし,神の原則は定められて居り,クリスチャンは神の律法に固くつき従つて,医学的な論議をしりぞけます。それで,献身したヱホバの僕は,常に生命についての大問題に面しています。そして,クリスチャンが妥協を避ける唯一の方法は,冷静かつ慎重に,また明確に事柄を思案して,注意深く,祈りの気持を以てヱホバの御意を探り究めることです。

      妥協することの危険

      8 たとえ一つの妥協でも避けるのは何故ですか。

      8 妥協することは危険なことです。一つの妥協をすることは,正しい良心を打ちこわします。そして,次々と容易に妥協を重ねることになるのです。一つの嘘を言うと,初めの嘘をかくすために更に多くの嘘をつく人に比べることができるでしよう。

      9 世に対する中立は,クリスチャンにとつて何を意味しますか。

      9 ヱホバの言葉に導かれる良心は,正しい原則に固くつき従い,世に対して正しい中立を保つことを助けるでしよう。献身したヱホバの僕は,世の人とは全く違う立場にいるのです。彼はヱホバの義にくみすることを言葉においても,行いにおいても,積極的に表わすという契約の下にあり,その契約から身を引くことはできません。(伝道之書 5:4,5)クリスチャン原則と良心を犯す事に加わりさえしなければ,クリスチャンは世に対して中立なのだ,とある人は考えるかも知れません。しかし,大切なのは,あなたが何々をしない人であるという事ではなく,あなたはどういう人かという事なのです! 世に対して中立を保つという事は,新世社会の関心事を増す行いをしないという事ではありません。それは活発なクリスチャン宣教 ― 新しい世を積極的に支持することを意味します。この活動がないなら,私たちの信仰は死んでいると表わし示されます。いま要求されている活動は,イエスの述べた次の原則に基づいているものです。『御国のこの良いたよりは,すべての国民に証をするため全世界に伝道されるであろう。それから全き終りが来るのである。』良心のすすめる業は,ヱホバのこの御目的の成就に与るということです。―ヤコブ 2:26。マタイ 24:14,新世。

      10 宣教から引き離す企てがなされた時,クリスチャンは何について考えるべきですか。そして彼は何をしますか。

      10 人がいつたん,宣教を始めても,自ら宣教を止めるなどのことを,どうして良心的にすることができますか。時には特別な種類の奉仕をするようにとこの世から求められることがあります。その奉仕とは,今まで良心を訓練して来た聖書の原則とは反対のものか,又は収入の多い余分の仕事というものです。しかし,それをするために宣教がおろそかになつてしまうでしよう。ここで,その人は神の言葉の原則を考究しなければなりません。その人は古い世に専心して仕えるために,宣教から離れようとしますか。拒絶するならば,自分の身に生ずることを恐れるべきですか。現在の生活手段を失うことになりますか。宣教を行いつづけるなら,物質や名声をいくらか失うでしようか。迫害を受けるでしようか。これは原則・対・情欲の戦いです。私たちと世との関係を示すクリスチャン原則に基づいて,パウロはテモテ後書 2章3,4節(新口)でこう述べています。『キリスト・イエスの良い兵卒として,わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は,日常生活の事に煩わされてはいない。ただ,兵を募つた司令官を喜ばせようと努める。』私たちはクリスチャン兵士であり,キリストに代る大使です。私たちの仕事は神から与えられたものです。これらの原則をしつかりと心に留めたクリスチャン各人は,家族また世の隣人が次のように言われたイエスの言葉を理解しなくても,自分の良心に従います。『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう。』― コリント後 5:20。マタイ 6:33,新口。

      11 牧師はどのように神の言葉の原則について妥協しましたか。牧師とキリスト教国にとつてどんな結果になりますか。

      11 私たちの眼前には,サタンの組織制度に関するヱホバの御目的が,はつきりと示されていますが,これは全くヱホバによるものと深く感謝しています。私たちの立場は,牧師や世の人の立場とは何と異なつているのでしよう! 無神論,共産主義,異教の哲学が洪水の如くキリスト教国の戸口にまで押し寄せ,彼らの制度に浸透して行くのを見て,牧師たちは心配懸念しています。しかし,私たちは驚きません。イエスはルカ伝 21章20-22節の予言の中に,その事を予言されたからです。キリスト教国の指導者は,人々に対する支配を保とうとして躍起の努力を払つています。彼らの支配力は嘗て非常に強いものだつたのです。しかし,彼らは,神の清い原則を教えて信仰の固い基礎を人々に与えることをしていません。それで,人々は押し流されています。牧師たちは,神の言葉の基本的な原則を何度も妥協してきました。そして妥協を正当化しようとして聖書を曲げているのです。彼らは群を集めておこうと試みたあげくに,賭博,見せ物,社会の行事を教会の中に採り入れてきました。また,政治家と同盟を結んで,彼らはこの世のものであることを暴露しています。アメリカのキリスト教会国家会議は,1956年9月10日のニューヨーク・タイムスに報ぜられた如く,『諸問題をよく考慮して政治にくみするのは,牧師の義務である。』と声明して,この事を証明しました。キリスト・イエスと使徒たちは,そのような事を決してしないでしよう。牧師たちは流血の戦争を祝福し,これに参加してきました。しかし,妥協を重ねて,政治家と同盟をしても,彼らはキリスト教国の破綻をくいとめ,人々の支配を保つことには失敗してしまつたのです。彼らは分裂し,不一致で霊的に弱くなつています。

      12 (イ)妥協はキリスト教国をどの方向に導きましたか。(ロ)それと対照して,ヱホバの証者の立場は何ですか。

      12 妥協するキリスト教国にこの状態が見られることは,ヱホバの証者の期待していたところです。神の言葉は,この状態がますます悪化して,原則に従わないキリスト教国が遂に倒れると示しています。その倒れは,来るべき事を予言的に示したキリスト前607年の不忠実なエルサレムの滅びよりも甚しいでしよう。それで,ヱホバの証者は,妥協の道をとる不忠実な牧師とその道に係り合うことを少しも望みません。神の裁きによつて,キリスト教国は亡びに定められています。原則に従うヱホバの僕と,原則に従わない偽りの崇拝者との間には,大きな淵が横たわつています。最高潮が近づくときに,ヱホバの制度は清さを保ちます。ヱホバの真の証者は神の原則に固くつき従つて,清さを保ちます。私たちがこの地上にいるのは,古い世の人気を得るためでなくて,清い崇拝を擁護するためなのです。

      この世から離れて耐え忍ぶ

      13 イタリーにおける業に関連して,ヱホバの僕はどのように忍耐強い,そして妥協しない態度を表わし示しましたか。その結果は何でしたか。

      13 清い崇拝を擁護するには,クリスチャン原則に固くつき従うかたわら,忍耐し辛抱することが必要です。世界の多くの場所にいる私たちの兄弟は,最も大きな試錬にさらされながら,ヱホバの原則にしつかりと従つて生きることを要求されてきました。ヱホバは彼らを強くされました。全体主義の国々にいる私たちの兄弟の事を考えてごらんなさい。彼らは情に動かされた便宜主義のために,原則を捨ててしまいましたか。イタリーの例を振り返つてごらんなさい。何年もの間,ムッソリーニのファシスト党は,ヱホバの証者が御国の良いたよりを伝道することを妨げました。バチカン法王庁は条約を結んでこの世との友好関係を保ちましたが,イタリーにいた少数のヱホバの僕は激しい迫害を受けました。イタリーの内にいるものも,外にいるものもヱホバの証者は,何百万人のイタリー人に伝道することの可能性をいぶかつていました。それは長い年月のように思われましたが,ヱホバの証者は忍耐しました。彼らは信仰を失わずに,できる処で伝道しました。ヱホバの原則がイタリーにおいて知らされる時が来ました。「ローマ・カトリック教会の剣」は取り除かれました。業が開始されると,それは急速にイタリー全土に押し進められ,急速に拡大している新生社会の一部は日がさんさんと照る明るいイタリーでいま繁栄しています。

      14 他の全体主義の国々において,どのようにヱホバの証者は世から離れて耐え忍び,ヱホバの祝福を得ましたか。

      14 ナチ・ドイツの兄弟たちは耐え忍び,ある兄弟たちは生命さえ失いました。ドミニカ共和国やアルゼンチンにいる兄弟も忍耐しました。クリスチャンはこの世から離れている一方,多くのことに耐え忍ばなければならないと知つています。しかし,ヱホバの助けを待ちつつ,彼らは良いたよりを伝道しつづけます。ヱホバは彼らの信仰を祝福されました。激しい戦をなして,正しい事をまげず,妥協しなかつたケベックの兄弟の場合もそうでした。ヱホバは勝利を与えられ,今日これらの国々で,良いたよりは公やけに伝道されて居り,ヱホバに讚美をもたらしています。ヱホバの僕は,たとえ最悪の事態に見えたときでも,ゆるぐことのないヱホバの原則の上にしつかりと立つてきました。自分の立場が正しいことを強く確信して勇敢に戦つたヱホバの証者は,ヱホバの助けによつて,遂にヱホバの原則に固く従う人々が持つ法律上の権利を,多くの支配者と裁判官に納得させました。それで,今日これらの国々において,良いたよりは公けに伝道されて居り,ヱホバに誉まれを与えています。また,反対している牧師たちは歯がみしているのです。

      15 ヱホバの証者が共産主義者の激しい迫害にも耐えることができたのは何故ですか。彼らは忍耐しつつ何をしますか。

      15 すでに何年もの間,共産主義の国々にいる兄弟たちは激しい迫害に耐え忍んできました。妥協させようと図る共産主義者の努力は,極めて巧妙かつ絶え間のないものでした。忠実なヱホバの証者がクリスチャンの原則につき従つたことは,支配者と支配される者に対して大きな証言となりました。今後どれぐらいの間,兄弟たちがこの状態に耐えねばならないか,私たちには分りません。彼らは,イエスの語つた次の原則を心に留めています。『最後まで耐え忍ぶ者は救われる。』(マタイ 24:13,新口)また,使徒パウロの言葉は理解を与えます。『あなたは,わたしの教……信仰……忍耐,迫害,苦難に,よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが,主はそれらいつさいのことから,救い出して下さつたのである。いつたい,キリスト・イエスにあつて信心深く生きようとする者は,みな,迫害を受ける。』(テモテ後 3:10-12,新口)それで,彼らは耐え忍びつつ伝道し,ヱホバは彼らを用いて,更に多くの他の羊を集められます。終りの日におけるヱホバの僕の忍耐という記録は,ただヱホバの助けによつてのみ立てられたのです。そして,私たちは凡ての感謝と讃美をヱホバに捧げます。原則に導かれ,栄光ある戦に耐え忍んだ人々は,なんと幸福なのでしよう!―ヤコブ 5:11。

      16 (イ)神の言葉の原則を考究する方法をいま知ることは,なぜ大切ですか。(ロ)どうすれば,人間の考え方による罠に陥ることを避けることができますか。

      16 サタンは火のような迫害を用いて,真のクリスチャン原則によつて生きる人々を征服しようとしましたが,それは殆んど不成功に終つています。しかし,サタンはずるい敵であり,まだ戦をあきらめていません。サタンは表面はよいことの様に見えても,実はヱホバから離れさせる事を提案して,イエスを試みませんでしたか。(マタイ 4:1-11)イエスは,如何に聖書の原則を考究すべきかを知つていました。そして固く立つたのです。今やサタンは自分の時が短いことを知つて居り,ヱホバの僕をも含めて凡ての人を呑みつくそうとしています。サタンは巧妙な罠を用いて,ヱホバの僕を妥協させ,彼らを打ち倒してその崇拝を奪おうと望んでいます。私たちは,クリスチャンが経験してきた中でも最大の試錬の時に入ろうとしています。それですから,私たちの考え方,論理の仕方に注意を払いましよう。神の正義の律法と,原則に固くつき従いなさい。私たちに身近かな人,交わりのある人々でさえも,神の原則に従わずに人間の考え方に従うため,悪い忠告をすることがあるのです。辛い試錬を受けたヨブは,自分の妻から大そう悪い言葉を聞きました。(ヨブ 2:9,10)それはイエスと親しく交わつたペテロが,イエスの苦しみを受けて殺される必要はないと言つて強く反対した時,イエスでさえも,危険な言葉に警戒しなければなりませんでした。『イエスは振り向いて,ペテロに言われた,「サタンよ,引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思つている」。』それから,ペテロが正しく考えるのを助けるため,イエスはすべてのクリスチャンに関する一つの原則を述べました。『自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。』(マタイ 16:22-25,新口)故に私たちは,ヱホバの言葉と制度が与える正しい助言を求めましよう。ヱホバは正しい原則を与えて下さいました。私たちはそれらの原則に思いをめぐらすべきです。そして私たちがこれらの原則に従うことによつて心を強くしている限り,サタンに屈することはないでしよう。

      17 なぜ,妥協に対して,いま警戒すべきですか。クリスチャン原則を決して妥協しない人にはどんな結果が生じますか。

      17 霊的な戦いのさなかにあるヱホバの僕が,自分の行つていることを冷静に考える時は,いまです。私たちはサタンという狡猾な敵に面して居り,私たちを捕えて霊的な眠りに引き込み,あるいは,生活の中で第一のものである,神の御国から私たちを離して世に引き入れようとする沢山の罠が仕掛けられています。献身を試みる試錬に会う度毎に,私たちは感情を平静に保たねばなりません。また,奉仕を危くするかも知れない行動を採る前に,忍耐づよく事柄を考え神の言葉と制度からの助言を注意ぶかく考慮しなければなりません。私たちは,正しい決定を下すことのできる霊的な成長を遂げたクリスチャンとならねばなりません。世はますます便宜主義である情欲に従つて原則を無視しています。しかし,ヱホバの僕はいよいよ固くクリスチャン原則に従い,肉の欲を捨てます。私たちはクリスチャンです。私たちは献身しました。義のためには,私たちは喜んで苦難に耐えます。私たちは世のものではなく,また,そうなることを決して欲しません。いまは最後の裁きの時です。永遠の生命を得るか否かの時なのです。神の事柄に考えをめぐらし,神の事柄で導かれなさい。クリスチャンの原則を決して妥協しないことによつて,永遠の生命を得なさい。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする