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諸国民の間で正しい行いを保つものみの塔 1960 | 10月15日
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を備えます。カイザルはある程度の警察の保護を与えます。彼は天候の予報や暴風雨の警報を出します。子供たちのために限度のある教育施設を備えます。これらのもの全部や他の多くのものはカイザルが備えたので「カイザル」のものです。それでエホバの証者は,これらのものに対してカイザルに払います。彼らは気前良く税金を払うだけでなく,それらの設備の使用についてカイザルの述べる規則通りにするのです。そうすることは正しいものです。なぜなら,エホバはその支払いを命じているからです。―ロマ 13:7。マルコ 12:17,新口。
14 (イ)私たちは,どのように神に属するものを神に払うことができますか。(ロ)第1世紀のクリスチャンたちは,どんな類似の立場を取りましたか。どんな結果をもたらしましたか。
14 一方,神は生命と生命を支えるために必要なすべての手段,たとえば食物,水,空気,その他を与えます。それで,健全な心を持つ人は,創造者のものを創造者に返します。すなわち彼らは創造者からいただいた生命を神の奉仕にささげ,創造者からいただいた生命の手段を宇宙の主権支配者の賛美と誉のために用いるのです。そして,このところでエホバの証者はしばしば困難にぶつかります。なぜなら,残忍で貪欲な支配者たちは,自分たちのものを要求するだけでなく,創造主に当然属する被造物の献身,崇拝,そして奉仕をも欲するのです。この問題に関して,エホバの証者は,ペテロや初期クリスチャンたちの取つたと同じクリスチャンの立場をかたく保ちます。彼らは,当時の豚のごとき支配者たちにこう語りました,「神に聞き従うよりも,あなたがたに聞き従う方が,神の前に正しいかどうか,判断してもらいたい」。「人間に従うよりは,神に従うべきである」。この正しい聖書的な道を保つことにより,理性の心を持つ多数の支配者,裁判官,法律家,そして警察の役人たちは,アグリッパ王のごとく,こう認めるでしよう,「おまえは少し説いただけで,わたしをクリスチャンにしようとしている」。―使行 4:19; 5:29; 26:28,新口。
刑務所内の正しい行い
15 幾千人という多数のエホバの証者は,政治的な扇動家であるために刑務所に投げこまれましたか。
15 地上の多くの場所で,エホバの証者は刑務所や収容所内でつらい思いをしています。そのようなつらい環境の下にあつて,彼らは刑務所の役人や看守たちに対して,どのような行いをするべきですか,彼らは秘かな脱獄や公然とした反逆を計画すべきですか。そのようなことは絶対にあつてはなりません ― 先ず最初に,これらのエホバの証者は,そのような仕打をうけるにふさわしい悪事をひとつもしていないのです。彼らは政治的な扇動者でもなければ革命家でもありません。このことの真実さを証するものとして,次のような歴史的な記録があります,すなわち幾万という証者たちは,ヒットラーの不潔な収容所や,カトリックの勢力の強いカナダのケベック地区の刑務所,あるいはドミニカ共和国とかフランコの支配するスペインでも刑務所内に投げこまれたのです。そして,現在の証しとしては,このいまの瞬間でも幾千という証者たちは,共産主義者の支配する国々の刑務所内で苦しみをうけています。これら忠実なエホバの証者たちが,支配者たちや,政治政府をくつがえそうとはかつた例はひとつもありません。刑務所に入れられたこれら証者たち各人は,囚人であつたパウロが語つた言葉と同じ言葉を語ります,「よくご承知のとおり,わたしは………何も悪いことをしてはいません。もしわたしが悪いことをし,死に当るようなことをしているのなら,死を免れようとはしません」。―使行 25:10,11,新口。
16 (イ)それではなぜ,そんなにも多くの証者たちは投獄されたのですか。(ロ)聖書によると,不当な迫害をうけるとき,人はどのような行動をするべきですか。
16 実際には,これらのエホバの証者たちは神に対して正しい良心を保つているために刑務所に入れられたのです。これはまた,エホバの御心であるなら,彼らが不当な投獄にもよろこんで耐えしのぶ別の理由でもあります。「もし誰かが,神に対する良心の故に,不当な苦しみをうけて,そのつらさを耐え忍ぶなら,それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ,それを忍んだとしても,なんの手柄になるのか。しかし善を行なつて苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである」。「善をおこなつて苦しむことは ― それが神の御旨であれば ― 悪を行なつて苦しむよりも,まさつている」。(ペテロ前 2:19,20,新世。3:17,新口)キリスト教の設立者自身も,この面について正しい手本を示し,見ならうべき完全な模範を残しました。なぜなら,彼は「ののしられても,ののしりかえ」さなかつたからです。イエスはまた,エホバの仲間の証者たちというすばらしい名誉と特権を持つ者たちに対して,はつきりしたいましめをも与えて,次のように語りました,「敵を愛し,迫害する者のために祈れ。こうして,天にいますあなたがたの父の子となるためである」。イエスの弟子たちのひとり,使徒パウロはかつて「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」と書きました,このパウロは,次の言葉を書き送つたとき,主のいましめを反復したのです,「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して,のろつてはならない。」「だれに対しても悪をもつて悪に報いず…」。―ペテロ前 2:19-23。マタイ 5:43-48。コリント前 11:1。ロマ 12:14,17,新口。
17 投獄された証者たちがこのような正しい行いをしたことは,どんな結果になりましたか。
17 前述の聖句全部を判断してみるとき,なぜ『善を行なつたために』投獄されたエホバの証者が,上官に抵抗するようなことを一度もせず,坐りこみストライキや絶食ストライキをすることもせず,組織化された刑務所の暴徒の一部になつたり,刑務所破りに参加しない理由は,なるほどと理解できます。刑務所の役人たちは,彼らの「神に対する良心」を見て,これらの事実に十分気づいています。そして,しばしば彼らは次のような趣旨の言葉を述べます,「エホバの証者が刑務所を去つて行くのを見て,残念に思う。いつでも,エホバの証者を信頼して,責任を課することができるからだ」。それで,刑務所内であろうと刑務所外であろうと,エホバの証者の正しい行いの故に,次のことを証する多くの証言がつみあげられています。すなわちエホバの忠実な民は全く新しい,すぐれた世の社会に属しているということです。
18 この正義の新しい世の支配下で生活するため,人はいま何をしなければなりませんか。
18 もし人がそのような正義の新しい世の支配下で,そしてイエスが祈り求めよと言われたその神権的な天の御国の支配下で生活したい,と希望するなら,たとい恐ろしい迫害がのぞもうとも,まずこの古いサタンの世とその悪い振舞や行いをことごとく打ち勝つて征服しなければなりません。苦しみが来ることは,疑問の余地がありません。なぜなら,この新しい世の油そそがれた王は,次のように述べていたからです,「あなたがたは,この(古い)世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝つている」。それで,それは避けることができません。エホバの真実のクリスチャン証者たちは,この同じ道に従いつづけねばなりません。彼らはその信仰と忠実のうちに歩きつづけ,そして正義のわざによつてその信仰を裏づけて行かねばなりません。「すべて神から生れた者は,世に勝つからである。そして,わたしたちの信仰こそ,世に勝たしめた勝利の力である」。―ヨハネ 16:33,ヨハネ第一書 5:4,新口。
19 いま賢明で理解のある人々は,何をしなければなりませんか。
19 それは古い世から笑われて嘲けられていますが,実際にはこれだけが生活の唯一つの価値ある道なのです。その道だけが知恵と理性のある道で,追い求めるにふさわしいものです。それは実際的な知恵の道です。霊感をうけた聖書の記者ヤコブは,「あなたがたのうちで,知恵があり物わかりのよい人は,だれであるか」と尋ね問うています。その問に対して肯定の答ができる資格を持つ者に対して,彼は次の助言を与えています,「その人は,知恵にかなう柔和な行いをしていることを,よい生活によつて示すがよい」。(ヤコブ 3:13,新口)それで,証者たちがその敬虔な行いによつて自分自身を明白に表わすのはいかり高ぶつた仕方とか,誇りや傲慢によるのでなく,誠実な謙遜とキリストのごとき柔和なのです。
20 なぜいまは,諸国民のあいだで善を行なうことを断念すべき時ではありませんか。
20 あらゆる時代の最高潮は,いまここにあります! 時はつきているのです。たしかにいまは妥協すべき時ではなく,また神が善と言われていることを断念しようなどと考える時でもありません。全くのところ,試練の下にあつても神と人間の両方に対して正しいわざを証明すべき時はいまです。なぜならエホバの立証される今日以上にすぐれた機会は決してないからです。「わたしたちは,善を行うことに,うみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる。だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか」。(ガラテヤ 6:9,10,新口)エホバの証者は,この行いによつて,自分自身をハルマゲドンの滅びから救うだけでなく,彼らの正しい行いを見る多数の他の者たちをも救うでしよう。なぜなら,これらの者たちも大いなるエホバをあがめて讃美することに参加するからです。―テモテ前 4:16。ペテロ前 2:12。新口。
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「国の飢饉」ものみの塔 1960 | 10月15日
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「国の飢饉」
ずつと昔の預言者アモスは,国内に霊的な飢饉があると予告しました。今日その飢饉は,キリスト教と称する国々で明白に示されています。その責任は,キリスト教国の教会の負うべきものです。クリスチャン・レコーダーは,次のように述べていました,「今日の教会は,供給源から切りたたれたさびのついた水管のようである」。ニュージーランドの洗礼派連合の会長はこう語つています,「我々は教会の維持と多数の教会制度運営に忙しいため,福音を世に伝えるだけの時間も力もない」。別の牧師は,シャーロッテ・ニュースのなかでこう述べています,「私は時折り思うのだが,教会内の我々は,パンを求める子供たちに石を与え,子供たちが真実に神を欲する時に,小道具を与えているのではないだろうか」。
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