ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 刑務所問題 ― その解決策は?
    目ざめよ! 1977 | 8月8日
    • 刑務所問題 ― その解決策は?

      昨年の8月16日,私はニューヨーク市ブルックリンの事務所で電話を受けました。声の主は古くからの友人であることが分かりました。彼は,「ルイジアナ州のアンゴラ刑務所で幾つかの講演をしてもらえないだろうか」と言いました。

      「いいですとも,是非そうさせてください」。私はそのような機会を与えられてうれしく思いました。

      それより一年ほど前,私は同刑務所で行なわれている囚人更生計画が非常な成功を収めていることについて読み,自分の目でそれを確かめてみたいと思っていました。a 1976年11月4日に,私が飛行機で同地に行くよう手はずが整えられました。

      私は,刑務所にも,また囚人を更生させる活動にも深い関心を抱いています。それは主に,自分も1940年代に二年近く刑務所の中で過ごした経験があるからでしょう。私が刑務所に入れられたのは犯罪行為のためではなく,銃を取って戦争に行くことを自分の良心が許さなかったからです。

      刑務所は長い間様々な問題を抱えてきました。中でも最近大きな問題となっているのは,その定員過剰ぶりです。私は,昨年デンバー・ポスト紙に載せられた次の記事に目を留めました。「刑務所の建設は,1970年代最大の成長産業になろうとしている。……現在新築または増築計画が524件進められている」― 1976年4月25日付。

      しかし,より多くの刑務所を建設すれば問題が解決するでしょうか。犯罪者を刑務所に送り込むことが彼らを扱う最善の方法なのでしょうか。

      過去数年の間,刑務所の真の目的は何であるべきかについて交わされてきた論争は,私にとって興味深いものでした。

      刑罰それとも更生

      論争の的となってきたのは,刑務所が主に犯罪者に刑罰を加えるための場所なのか,それとも犯罪者を更生させるための場所なのかという問題です。しかし,歴史を調べてみると,犯罪者はそれとは全く異なった方法で扱われていたことが分かります。

      昔は,私たちの知っているような刑務所は存在していませんでした。当時,犯罪者は処刑されるか,体罰すなわち身体刑を課せられるかしました。身体刑の中には,むち打ち,焼印刑,切断刑などがありましたが,その刑が加えられると犯罪者は解放されました。

      その後,18世紀および19世紀になると,死刑の対象となる犯罪の種類は減少し,身体刑はしだいに廃止されてゆきました。そのころから,犯罪者を刑務所へ送ることが多くなりました。それらの刑務所は害虫のはびこる,不潔で混雑した所であり,食べる物も少なく,囚人たちは長時間働かねばなりませんでした。状態が余りにもひどいため命を落とした人も大勢いました。そのような刑務所に人を送り込む主な目的は,刑罰を加えることにありました。

      ずっと後代になって,考え方の変化が見られるようになりました。過去一世紀ほどの間に,刑務所に人を送り込む主な目的は,囚人を矯正する,つまり更生させることにあるという概念が発達しました。最近では1970年に,囚人更生問題に関するニクソン元米大統領直属の特別委員会は,囚人更生計画をこれからの刑務所政策の支柱とすべきであるという結論を出しました。

      しかし,最近になって,囚人を更生させる活動は批判の的となっています。人々の見解がこのように突然変化したことに私は関心を抱きました。

      更正はどうなっているか

      1975年1月4日付のザ・ナショナル・オブザーバー紙には次のような見出しが載りました。「犯罪者を更生させようとする150年の努力の末,改革推進者でさえ……改革が失敗に終わったことを認めている」。

      サイエンス誌はこう述べています。「少なくとも現在の形のような“更生”に対する幻滅は非常に深刻なもので,多くの著名な社会学者や刑罰学者はわずか数年間で,一時はもてはやされた哲学を捨てるに至っている」― 1975年5月23日号。

      ニューズ・ウィーク誌は次のような結論を述べています。「刑務所問題の専門家たちは……犯罪者を監禁して刑罰を加え,犯罪者の悪行から社会を守ることが刑罰制度の主要な機能となろうとしているという点で意見の一致を見つつある」― 1975年2月10日号。

      ニューヨーク市に住む私は,犯罪者から社会を守るという面が再び強調されていることに大賛成です。米国デラウェア州ウィルミントン市のトーマス・マロニー市長の語った次の言葉は,残念ながら当を得ていると言わねばなりません。「一般市民は今や鎖,錠前,かんぬき,鉄格子などで自宅に監禁されているも同然である一方,犯罪者たちは外を自由に歩き回っている」。法を守りながら,犯罪の犠牲者となる人々の権利が主な関心事とみなされるようになったことを称賛する人は少なくありません。犯罪者に自分の行為に対する責任を取らせなかった結果,彼らがより常習的な犯罪者になってしまったことは明らかです。もちろん,このことは次のような大きな問題を提起します。増加の一途をたどる犯罪者たちを,懲役刑によって処罰することができるだろうか。

      どこに収容するかという問題

      実のところ,犯罪を厳重に取り締ろうとした結果,米国の刑務所はどこもすでに人であふれています。1973年1月から1977年1月までの間に,米国の連邦および州立刑務所の収容人員だけでも45%も増加し,19万5,000人から28万3,000人になりました。ウォール・ストリート・ジャーナル紙は次のように伝えています。「大半の州は,すでに既存の刑務所の隅々にまで囚人を詰め込んでいる。既決囚の中にはトイレの上の出っ張り,シャワー室や体育館の中で寝ている者もいる」― 1976年7月20日付。

      大規模な連邦および州立刑務所に加え,郡立および市立の刑務所が幾千となくあります。ニューヨーク・タイムズ紙は,昨年の6月,毎年6万人の男女がニューヨーク市の八つの刑務所に収容されると伝えていました。また,一人の犯罪学者は,毎年200万人余りの人が米国の刑務所の門をくぐると推定しています。

      警察に通報される大きな犯罪だけでも毎年1,000万件余り,すなわち過去三年間に3,000万件を優に超えてしまうことを考えると,問題は手に負えないもののように思えます。犯罪者すべては言うに及ばず,警察が逮捕できた犯罪者だけを収容するための施設も足りなくなっています。しかも,納税者たちの負担はすでに驚くほどの額に上っています。

      私は昨年の9月に,「ニューヨーク市の刑務所では,単に保護管理のためだけで囚人一人につき毎年1万2,000㌦(約360万円)」を費やしているというニューヨーク・タイムズ紙の記事を読んで驚かされました。いずれにしても,連邦および州立刑務所に25万人の囚人を収容しておくだけで,毎年30億㌦(約9,000億円)もの経費がかかるのです。そして新しい刑務所を建てるとなると,その建設費は囚人一人当たり4万㌦(約1,200万円)にもなると伝えられています。

      刑務所問題は確かに大きな問題であると言わねばなりません。ある刑務所問題の専門家が,1980年代の半ばには連邦および州立刑務所に収容される囚人は40万人に上るであろうと予告していることを考えてみればなおさらのことです。ではどんな解決策があるのでしょうか。

      更生させることは望ましい

      問題から逃避してはなりません。私たちすべては,犯罪者たちが改心して,法律を守る有用な市民になることを願います。そして,刑務所内での囚人更生計画の大半が失敗しているとはいえ,各人がそのような変化を遂げることは不可能ではありません。最近,米国の刑務所局長ノーマン・カールソンはまさにその点を次のように語りました。「囚人の更生は,概念として吹聴されすぎた。……現在我々は,どんな囚人でも更生させることができるわけではないことに気付くようになった。我々は囚人たちに更生するための機会を提供できるにすぎない」。

      私個人としては,ふさわしい機会が与えられれば,自分の行ないを改めようとする犯罪者もいることを確信しています。というのは,米国ケンタッキー州アッシュランドの連邦刑務所に収容されていた際,私はある囚人が心を動かされて,その全生活を変革するのを目の当たりにしたからです。

      ですから私は11月の旅行,そしてルイジアナ州のアンゴラ刑務所で成し遂げられている事柄をじかに見るのを楽しみにしていました。同刑務所の敷地は1万8,000エーカー(約7,200ヘクタール)あり,米国で二番目に大きい州立刑務所です。1975年の一報道によると,同刑務所の定員は2,600人ですが,実際には4,409人が収容されています。

      やがて,11月4日,木曜日になり,私は旅路に就きました。

  • 成功している更正計画
    目ざめよ! 1977 | 8月8日
    • 成功している更正計画

      木曜日の晩,飛行機はルイジアナ州バトンルージュに到着しました。友人が出迎えてくれ,私たちは車で近くのニューローズにある彼の家へ向かいました。その晩私たちは,アンゴラ刑務所でどんなことが行なわれているかについて詳細に至るまで話し合いました。

      友人は,刑務所内で行なわれる定期的な教育計画を司会する六人のクリスチャン男子から成るグループの一員でした。毎週交替制で彼らのうちの一人が出掛けて行き,受刑者たちの集会を司会します。それらの集会には,平均して40名ほどの受刑者が出席します。

      「実を言うと,この計画は刑務所内部からの要請で始まったものなのです」と友人は説明しました。1973年の初頭,エホバの証人の出版物を読んでいた二人の受刑者が,自分たちを訪問してほしい旨を記した手紙を書きました。そうする間にも,この二人の受刑者は,自分たちの学んでいる事柄について他の受刑者たちに話し,彼らの関心を呼び起こしました。

      刑務所内で初めての集会が開かれたのは1973年10月のことで,その集会には18人の受刑者が出席しました。やがて,毎週水曜日と日曜日に集会が開かれるようになりました。集会に出席する受刑者の数は増加し続け,あるときには60人以上が出席するまでになりました。そのような広範にわたる関心が呼び起こされたのはなぜでしたか。

      教育計画

      友人の説明によると,集会は他のエホバの証人の王国会館で開かれているものと,基本的に言って同じ方法で司会されています。日曜日には一時間の聖書講演があり,それは大抵の場合,近隣の会衆から派遣された講演者によって行なわれます。そのあと,「ものみの塔」誌の最近号の記事に基づく聖書研究が行なわれます。

      水曜日の晩には神権学校が行なわれます。これは,聖書に対する研究生の知識を深め,同時に話す能力を向上させるために設けられた聖書教育の課程です。また奉仕会では,アンゴラ刑務所で仲間の受刑者たちに聖書の音信を語る最善の方法について討議されます。

      自分たちが新たに見いだしたキリスト教の信仰について他の人々に語る面で,これらの受刑者たちがいかに活発であるかを知って私は驚かされました。ある月など,彼らは50人以上の受刑者仲間と週ごとの聖書研究を司会しました。そして昨年一年間に刑務所内で,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌および神の目的を説明した書籍などが5,000冊近く配布されました。

      最初に研究を願い出た受刑者たちの熱意は,その研究生たちにも受け継がれました。この計画が成功を収めている一因はそこにあります。

      資格を満たす

      集会が開かれているのは刑務所内の教育ビルの一室で,その部屋は学校の教室に似ているとのことでした。しかし,受刑者たちが集会に出席するには,自分の名前を“呼び出し”名簿に載せてもらわねばなりません。そうすると,広大な刑務所の敷地内で自分が監禁されている場所を離れ,中心部に位置するこの場所に来て,“呼び出し”を受けたグループと集まり合えるのです。

      刑務所内で開かれる集会にだれが出席するかを決める権限がエホバの証人にゆだねられているのを知り,驚かされました。だれでもやってくることができるわけではないのです。そして,それには理由があります。受刑者たちが,刑務所から早く出所できるよう助けてもらいたいと考えて,あるグループに加入することは珍しくありません。では,エホバの証人はどのようにしてある受刑者が誠実で,集会に出席する資格があるかどうかを見極めるのでしょうか。

      まず,個人的な聖書研究がその人と行なわれます。その人が純粋な関心を示した場合にのみ,その人の名は“呼び出し”名簿に載せられます。しかし,病気など正当な理由もなく,一か月に四回以上集会を休むなら,その人の名前を“呼び出し”名簿から削除するよう刑務所当局に連絡が取られます。そうなると,再び集会に出席するためには,一定の期間純粋な関心を持っていることを証明しなければなりません。

      初期の成功

      私は,この計画の初期の成功について,1974年10月15月号(日本語は1975年1月1日号)の「ものみの塔」誌に載せられた地域大会の報告の中で読んで知っていました。その記事は次のようなものでした。

      「ルイジアナ州バトンルージュの大会では人々を感動させる場面が見られました。エホバの証人は,何か月もの間,アンゴラにあるルイジアナ州立刑務所の囚人たちとの研究を司会してきました。それらの人々の中には,聖書の知識の点で進歩し,自分の行ないを急激に変化させて刑務所の職員を驚かせた者も多くいました。それで大会に出席できるよう,そのうちの八人をバトンルージュへ連れて行く許可が与えられました。足かせと手錠を付けられたこれらの人たちは,車から降り,その日バプテスマを受けるため他の人々と一緒に中に案内され席に着きました。それは心温まる瞬間でした」。

      さて,忘れてならないのは,エホバの証人の一員としてバプテスマを受けるには聖書的な高い資格を満たしていなければならないということです。そして各人は,その資格にかなっているかどうか審査されます。その人は,少なくとも80の聖書的な質問に答えることができなければなりません。それらの質問の中には,次のようなものが含まれています。

      「神の王国とは何ですか」。「地球に関する神の目的は何ですか」。「再婚の自由を与える離婚の唯一の聖書的根拠とは何ですか」。「うそを言うことはなぜ避けなければなりませんか」。「クリスチャンは泥酔をどう見るべきですか」。「淫行,姦淫,同性の他の人との性関係その他の不品行について聖書は何と述べていますか。そのような行ないに関係している人はバプテスマを受けられますか」。

      この最後の質問に対しては,いいえ,というのが答えです。しかし,お気付きのように,刑務所に収容されていない人々でさえそのような悪行にごく普通に携わり,それで良いと考えています。しかし,これら八人の受刑者たちはより優れた道徳規準を身に付け,それに従って生活するようになったのです。やがて,他の人々もそれに加わりました。

      1974年の初秋には,さらに八人の受刑者がバプテスマを受ける資格を得ました。友人はこう私に言いました。「もし刑務所内で外部からの訪問者たちに見守られながらバプテスマを施せたらどんなにかすばらしいことだろう,と私たちは考えました」。それが可能かどうか問い合わせがなされ,この教育計画のもたらした結果に深い感銘を受けた刑務所当局者は,それを許可しました。1974年10月5日,この特別な大会が開かれました。「目ざめよ!」誌の次のような描写に注目してください。

      「外部から到着した人々のために刑務所はいつもとは違った光景を呈しました。刑務所の入口には,身なりのきちんとした黒人や白人から成る男女子供が,合計337人集まりました。中には1,000㌔以上も離れた所からやって来た人たちもいました。

      「名簿から名前が確認されると,訪問者たちは順番に門を通って中に入りました。そこから彼らを乗せた数台のバスは3㌔ほど奥へ走り,大きな獄舎が幾棟もある所に着きました。バスを降りた訪問者たちは,鋼鉄製の門を通って大講堂に入りました」。

      私はこの報告を「目ざめよ!」誌で読み,深い興味を覚えました。しかし,この更生計画がさらにどんな結果をもたらしたかについては余り聞いていませんでした。ですから,夕食後くつろいだ時に,私は家の主人が話す事柄に注意深く耳を傾けました。

      驚くべき増加

      友人は次のように説明してくれました。「あの10月の大会は,私たちの計画に拍車をかけました。出席していた百人近くの受刑者たちは,幾百人もの訪問者たちの示す愛と温かさから深い感銘を受けました」。

      その結果,それらの受刑者たちの多くは聖書研究をしたいと申し出,優れた進歩を示しました。友人はさらに言葉を続けてこう語りました。「やがて,さらに多くの人々が,バプテスマの資格を得るのに必要な生活上の変化を遂げました。そこで,もう一度,しかもさらに規模の大きい大会を開く計画が立てられました。刑務所当局は再びその申請を認め,今度は刑務所のロデオ・スタジアムを使用させてくれました。こうして,1975年4月26日,土曜日の朝早く,幾百台もの自動車に分乗したエホバの証人がアンゴラ刑務所に集まりました」。

      今回は車のまま刑務所内に乗り入れることができました。検問所では,「銃を携行しておられますか」と尋ねられただけでした。検問が済むと,車はまっすぐロデオ競技場へ入って行きました。合計2,602名の訪問者が出席しました。さらに12人の受刑者にバプテスマが施されたときに,集まりは最高潮に達しました。バプテスマを受けた人の中には,すでに刑の確定した死刑囚もおり,その人はバプテスマを受けるため,鎖につながれたまま連れて来られました。彼は死刑囚用の監房のただ中で,一年ほどエホバの証人と聖書を研究したのです。

      刑務所の当局者たちは,この一日の大会が整然と執り行なわれ,さらにそれが受刑者たちに良い影響を及ぼしたことを喜んでいました。ですから,秋にもう一度一日の大会を開く計画を快く受け入れてくれました。その時,1975年11月29日,土曜日には,何と3,200名もの訪問者たちが出席しました。そして,さらに八人の受刑者がバプテスマを受けました。

      「今度の土曜日がその次の,刑務所内の特別な大会になるわけです。この大会のために来ていただけて本当にうれしく思います」と友人は言いました。

      私は以前にも増してこの刑務所を訪れたいと思うようになりました。それは驚くべきことでした。すでに36人の受刑者がバプテスマを受け,土曜日にはさらに六人がバプテスマを受けることになっているのです。翌日の金曜日,刑務所になじみ,幾人かの当局者たちと会見するため,友人は私をアンゴラ刑務所へ連れて行ってくれました。

      自分の目で見る

      私たちは昼食を済ませてから出発し,湿地帯の中を一時間半ほど車で走り,フェリーでミシシッピ川を渡りました。それからゆるやかに起伏する丘を越え,ようやく刑務所の正門に着きました。門衛は私の友人と顔見知りの間柄と見え,ちょっとした冗談を交わしていました。それから私たちは合図を受けて,刑務所の中へ入って行きました。

      ロデオ・スタジアムに向かって車を走らせる間目に入る景色は,大きな農園を思わせました。道の両側には造られたばかりの木のさくがほとんど一面に見られました。ここには耕作中の畑があり,受刑者たちが自分たちの食糧の大半を作っていることを私は知りました。ついに安全極限地帯にまで到達しました。幾つもの門を通ってから,私たちはロデオ・スタジアムに裏から入って行きました。

      グランドの一方の端ではステージが組み立てられているところでした。エホバの証人の受刑者が幾人もいて,ペンキを塗ったり,床にカーペットを敷いたりして,ステージの最後の仕上げに余念がありませんでした。彼らに会えたのはうれしいことでした。14人の人たちは暖かく,友好的で,社交性に富んでいました。彼らは翌日の大会のために場所を整えるよう,当局者から特別な許可を与えられたということでした。

      刑務所における教育計画の先頭に立った受刑者である,アービン・セント・アマンドは,私たちが刑務所当局者と会えるよう取り決めておいてくれました。そこで,私たちはその約束を守るために出かけてゆきました。アービンが私たちと一緒に車に乗って行けないのは意外でしたが,それが刑務所の規則なので,私たちは喜んでそれに従いました。彼は義足をつけているにもかかわらず(彼はずっと以前に脱獄を企てて自分の足を失っていた)車について素早く移動し,先の方で私たちと一緒になりました。

      車を駐車させてから,私たちはほかの受刑者たちのそばを通り過ぎましたが,その人たちと今し方別れてきたばかりの人々との違いに注目せざるを得ませんでした。ある者はものうげに地面に寝転がり,他の者は一か所をじっと見つめていました。彼らは将来への希望も大してなく,自分たちの運命をあきらめているかのようでした。何と対照的なのでしょう。

      当局者からの賛辞

      管理ビルに着くと,私たちはリチャード・A・ウォール少佐(後に中佐に昇進)の執務室に招き入れられました。社交性に富んだ人である同少佐は,私たちの教育計画に満足を覚えているようでした。彼は長年の間,刑務所関係の仕事をしており,受刑者たちを更生させるための努力がほとんどの場合に効を奏さないことをよく知っていました。ところが,同少佐は私たちの計画の価値を賞賛するのに十分な言葉を見いだせないようでした。

      私はアービーの過去の行動について聞いていました。彼は本当に問題ばかり引き起こす,意地の悪い人間だったのです。そこで,ウォール少佐に,「あなたはこの人を信頼しますか」と率直に尋ねてみました。

      少佐は即座に,「私はセント・アマンドを全く信頼しています」と答え,さらにこう付け加えました。「あなたがたの組織は,仲間の人々によく注意を払っているのでよいと思います。もしだれかが悪い道へ進み始めるなら,あなたがたはその人を助けようとします。しかし,もしその人が悪い道を歩み続けて止めようとしないなら,その人を自分たちの組織の中から除きます。あなたがたは口で言ったことを実行するので信頼できます」。

      エホバの証人の受刑者たちが,この役人に深い感銘を与えていたことは明らかでした。しかし,余り長居もしていられません。

      次に刑務所内の洗濯部門を訪れ,そこで洗濯部門の監督官であるローレンス・ワッツに紹介されました。その人は,1973年に,刑務所内での私たちの計画の保証人になってくれた人でした。彼は私にこう語りました。「あなたがたの援助した受刑者たちの良い模範は,幾分伝染性のものであるようです。その結果,受刑者たちの全般的な振舞いが向上したように思います。いや,確かに向上しています」。

      私たちがアンゴラ刑務所で成し遂げている事柄をこの人が高く評価していることは私たちにもよく分かりました。気持ち良く談笑した後,私たちは受刑者たちに別れを告げるため,ロデオのグランドへ車で戻りました。私たちは翌日また会うことを約束して,帰路に着きました。

      大会

      翌朝は膚寒さを感じさせる天気でした。私たちはプログラムが始まる二時間前の7時半にロデオ・スタジアムに到着しました。私はバプテスマを受ける予定の六人の人たちと親しくなりたいと思いました。彼らと話し合ってみて,私はその人たちの誠実さ,そして神のみ言葉に対する認識に心を動かされました。

      時間はすぐにたってしまい,プログラムが始まりました。午前10時に,私は「神のご意志,それとも自分の意志,そのどちらですか」という主題で話をしました。それに続いてバプテスマの話が行なわれ,その話が済むと,1,970人の訪問者たちの見守る中で,六人のバプテスマ希望者はステージ近くに設けられた水槽に入り,バプテスマを受けました。受刑者たちが水の中から上がってくるたびに,大きな拍手がわき起こりました。私は,水をしたたらせながら,「今日は人生で最も幸福な日です」と言わんばかりに満面に笑みを浮かべた一人の人の顔が忘れられません。

      バプテスマの後には二時間の休憩がありました。ニュー・ローズ会衆はすべての人のために,わずかな値段で求められる食べ物を用意しました。聴衆の中から自発的な奉仕者が出て,食事を出すのを手伝いました。受刑者たちが外部から来た人々と一緒に食事をすることは許されませんでした。彼らにはステージの近くで食事が出されました。

      私は受刑者たちの集まっているグランドの中に自由に入ることができ,エホバの証人の業に関心を抱き始めている幾人かの人々との話し合いを楽しみました。一人の人は,「あなたがたは自分たちの宗教の教義などを伝道する必要はありませんね。ある人と友だちになればよいのです。そうすれば,振舞いや友好的な態度によって,やがてその人を自分たちの側に引き入れることになるのです」と私に話しました。

      二時間はすぐにたってしまい,プログラムが再開される時間になりました。公開講演は,「神の王国,現実のもの」という主題で行なわれました。それに続いて,バプテスマを受けた受刑者たちによって,「ものみの塔」研究の要約が行なわれました。彼らは立派にその割り当てを果たしました。

      午後4時になって,閉会の歌と祈りの時が来ました。古くからのエホバの証人で,私の友人である婦人の述べた次の言葉は,私たちの多くの感情をよく言い表わしていました。「私たちがこれまでに出席したどんな大会よりも,深い暖かさと愛を感じました」。

      ルイジアナ州立刑務所の受刑者たちの発行している出版物「アンゴライト」は次のように論評しています。「これはエホバの証人がアンゴラ刑務所で開いたこの種の大会の四番目のものであった。そして,エホバの証人はますます多くの受刑者たちの心を捕えているので,今後もさらに多くの大会が開かれる見込みである。彼らの払った努力は,自らを向上させ,より有意義な生活をするよう当刑務所の受刑者たちを説得し助ける面での各種の宗教団体が払ってきた努力の中でもその規模と一貫性において際立っている」― 1976年11月,12月合併号。

      唯一の計画か

      私が自分の見聞きした事柄から深い感銘を受けたと言っても,それは決して言い過ぎではありません。ニューヨークへ帰ってから,私は様々な手がかりを尋ね,手紙を書いて,刑務所内で行なわれている計画についてできるだけ調べてみました。その結果,アンゴラ刑務所で行なわれている事柄は,その規模と大きな成功の点で際立ってはいるものの,ほかにもそうした例があることが分かりました。ほんの幾つかの例をここに挙げることにしましょう。

      エホバの証人の一長老は,毎週水曜日に,オハイオ州にあるチリコーシ嬌正施設を訪れます。この長老は,平均して8人ないし14人の受刑者の出席する聖書研究を司会しています。そのうちの二人はバプテスマを受け,さらに別の二人がバプテスマを受けることを考えています。

      1,700人の囚人を収容する,オハイオ州のロンドン嬌正施設では,エホバの証人が四つの集会を開いています。これらの集会はすでに二年近く続いており,三人の受刑者がバプテスマを受けました。バプテスマを受けようとしていた別の人は,今年の一月に釈放されました。

      オハイオ州ルーカスビルの南オハイオ嬌正施設で実施されている計画は大きな成功を収めています。その計画は1972年の秋に始まりました。集会の平均出席者数は22人ほどで,最近行なわれた特別な集会には33人が出席しました。1975年4月と1976年3月に,七人の受刑者は,浸礼という特別な機会のために購入された散水用水槽の中でバプテスマを受けました。

      メリーランド州立刑務所では,1973年の末に,優れた計画が実施されるようになりました。間もなく受刑者たちと多くの聖書研究が行なわれ,やがてエホバの証人の長老たちが定期的に集会を司会するようになりました。これまでに八人の人が,(刑務所の付属病院の浴槽で)バプテスマを受けました。

      ニューヨーク市ライカーズ・アイランドでは,刑務所内で受刑者たちとの聖書研究を司会するために,八人の長老たちが毎週訪問しています。また,同市内の他の刑務所を訪問している長老たちもいます。

      では,刑務所および犯罪に関する大きな問題が,エホバの証人の手になるこうした教育計画によって解決されるというのでしょうか。決してそうではありません。確かに,問題全体を解決する上でこのような計画が果たす役割は微々たるものです。しかし,この計画は真の解決策への鍵を示していると思われます。

      [6ページの拡大文]

      『集会が開かれているのは刑務所内の教育ビルの一室でした』。

      [7ページの拡大文]

      「検問所では,『銃を携行しておられますか』と尋ねられただけでした」。

      [8ページの拡大文]

      「あなたがたは口で言ったことを実行するので信頼できます」。

      [9ページの写真]

      バプテスマの直前に,講演者の前で起立している六人の浸礼希望者。後ろに見えるのは聴衆の一部

      [10ページの写真]

      バプテスマを受け,まだ水をしたたらせている,この受刑者の顔は喜びで輝いている

  • その解決策は?
    目ざめよ! 1977 | 8月8日
    • その解決策は?

      刑務所内での聖書教育は,少なくともある限られた数の受刑者にとって解決策となりました。そうした人々は,自分たちの受けた健全な情報に基づいて,表面的にではなく,根本的に自分たちの生活を変化させました。

      過去三年間に,ルイジアナ州アンゴラ刑務所では42人の受刑者がバプテスマを受け,そのうちの14人は釈放されました。私は彼らがその後どうしているか関心があったので,調べてみました。釈放された人々の中で犯罪行為に戻った人はわずか一人だけでした。

      他の人々はうまく順応していっています。そのうち少なくとも一人は,会衆内で奉仕のしもべとして仕えています。それでも,前に述べたとおり,刑務所内でのこの聖書教育計画は,刑務所問題全般に対する解決策とはなりません。この計画は,受刑者たちに機会を提供し,それを活用したいと願う人々を助けることができるにすぎません。

      しかし,聖書は犯罪者を処罰することに関して特別な指示を与えています。それを実施するなら,刑務所および犯罪の問題を大いに軽減できるに違いありません。

      被害者に対する償い

      古代イスラエル人に与えられた神の律法の中には,懲役刑の取り決めは見られません。盗みや詐欺など財産に関係した犯罪の基本的な罰は,被害者に償いをすることでした。

      しかし現在では,犯罪の被害者に対する救済措置はほとんど,あるいは全く設けられていません。盗まれた金は返って来ないのが普通ですし,身体や財産上の被害を受けてもそれが償われることはありません。ところが聖書は,犯罪者が自分の行為に対して責任を取らねばならないことを示しています。どのようにしてですか。

      古代イスラエル人に対する神の律法の規定によれば,一頭の雄牛あるいは羊を盗んだ者は,被害者に二頭の雄牛または羊を返さねばなりませんでした。そして,もし盗んだ動物を殺してしまっていたなら,二頭よりもさらに多くの動物を返すべきでした。もしそれを返すことができないなら,その者は被害者に対して自分の負っている物を支払い終えるまで,雇われ人として働かねばなりませんでした。―出エジプト 22:1-9。

      このようにして,犯罪者に自分の行為に対する責任を取らせることの価値は明白であるはずです。第一に,被害者は自分の失った物を償われ,その上迷惑を被ったことに対してさらに多くの物が支払われました。第二に,律法を破った者には有益な教訓が与えられました。そして第三に,刑務所の維持費を地域社会に負担させるようなことがありませんでした。

      こうした取り決めは限られた規模で,現在試みられています。1975年12月19日付のミルウォーキー・ジャーナル紙は次のように伝えています。

      「獄中で社会に対する負い目を償う代わりに,レイは社会に復帰して被害者に償いをするために働いている。レイは,ミネソタ州矯正局の設立した損害賠償センターで働くために釈放された,87名の泥棒や偽造犯人などの一人である。この既決囚たちは,三年前にこの計画が始まって以来,合計1万5,000㌦(約450万円)を被害者に返した」。

      また,1977年2月6日付のUPI至急報は次のように述べています。

      「犯罪者を投獄する代わりに,労働によって被害者に償いをする,という考え方を普及させるため,政府は200万㌦(約6億円)を費やしている。……この考えは幾つかの地域で実行に移され,有望視されている」。

      しかし,被害者の失った物を犯罪者に償わせる以外にも必要とされる事柄があります。

      死刑

      古代イスラエル人に与えられた神の律法はまた,殺人,誘かい,近親相姦,および獣姦などを含む多くの罪を死罪に定めていました。(民数 35:30,31。出エジプト 21:16。レビ 18:6-23,29)処刑は通常石打ちにより,公衆の面前で行なわれました。―申命 17:5。

      当時,死刑は大いに犯罪を抑制する力となりました。そして,死刑が速やかに,しかも一貫して実施されるなら,それは今日でも犯罪を阻止するのに役立ち,刑務所問題を大いに軽減するはずです。確かに,この問題に関して神の知恵を受け入れようとしない人々の多くは,「残酷だ!」と声を上げるでしょう。しかし,そうした人々のやり方は,私たちにどんな結果をもたらしたでしょうか。これまでにないほど多くの残酷な行為が,犯罪者ではなく被害者の身の上に降りかかっています。

      ここでもやはり,死刑の執行や犯罪の問題を解決しようとする他のどんな試みがなされても,人間の力では犯罪の問題を除去できないということを認めねばなりません。しかし,完全で,満足のゆく解決策があります。

      確かな解決策

      ハーバード大学の政治学の教授ジェームズ・Q・ウィルソンは,自著「犯罪について考える」の中で,何が必要とされているかを明らかにしています。同教授はその著書の最後の一節でこう書いています。「邪悪な人間は存在しており,そうした者たちを罪のない人々から隔離しない限り,何をしてもむだである」。

      確かにその通りです。しかし,だれが邪悪な者で,だれが潔白な者かを裁き,邪悪な者を刑務所に収容しないで永遠に隔離できる人がいるでしょうか。全能の神にはそうすることが可能であり,またそうすることは神の明確なお目的なのです。神のみ言葉はこう約束しています。「廉潔な者たちこそ地に住み,とがめのない者たちこそ地上に残されるからである。邪悪な者は地から断たれる」― 箴 2:21,22,新。

      それから後,人々は神の律法によって治められます。そのような律法は,愛のこもった,しかも確固とした政府によって施行されます。その政府こそ,クリスチャンが祈り求めるようにと教えられてきた,キリストの下にある神の王国です。その時,刑務所の必要は全くなくなり,地に住むすべての人を友として信頼できるようになるのです。そのような時代に生活できるとは何とすばらしいことなのでしょう。(マタイ 6:9,10)― 寄稿。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする