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  • 「信仰」を得たのちも前進する
    ものみの塔 1980 | 8月1日
    • ものでなければならない顕著な特質です。この種の愛は,クリスチャンの兄弟たちだけに示すべきものではありません。わたしたちは霊的兄弟たちに対して愛情を抱いていますが,愛は全人類に対して示すべきものです。この愛は相手の道徳状態のいかんに左右されません。人類に対する神の愛のように,それは敵に対してさえ示されます。イエス・キリストは山上の垂訓の中で次のように言われました。

      「『あなたは隣人を愛し,敵を憎まなければならない』と言われたのをあなたがたは聞きました。しかし,わたしはあなたがたに言いますが,あなたがたの敵を愛しつづけ,あなたがたを迫害している者たちのために祈りつづけなさい。それはあなたがたが,天におられるあなたがたの父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです。というのは,自分を愛してくれる者を愛したからといって,あなたがたになんの報いがあるでしょうか。収税人たちも同じことをしているではありませんか。また,自分の兄弟たちにだけあいさつしたからといって,どんな格別なことをしているでしょうか。諸国の人びとも同じことをしているではありませんか。ですから,あなたがたは,あなたがたの天の父が完全であられるように完全でなければなりません」― マタイ 5:43-48。

      26,27 ペテロが列挙した重要な事柄を信仰に加えるならどうなりますか。

      26 信仰に徳,知識,自制,忍耐,敬神の専念,兄弟の愛情,それに愛が加わるならばどんな結果が生まれるでしょうか。使徒ペテロはこう答えます。「これらのものがあなたがたのうちに在って満ちあふれるなら,それはあなたがたが,わたしたちの主イエス・キリストについての正確な知識に関して無活動になったり,実を結ばなくなったりするのを阻んでくれるのです」― ペテロ第二 1:8。

      27 そうです。結果として生みだされるものは活動であり豊かな実です。使徒が列挙した重要な事柄を信仰に加え,それらを満ちあふれるまでに身につけるなら,わたしたちは静止した無活動の状態,霊的に死んだ状態になることはなく,霊的に進歩をつづけ,キリストに似た人格,および「良いたより」を他の人々に語るという実を示すことでしょう。神を敬う特質が心の内に宿っており,それが本当に身についたものであれば,わたしたちは神が是認されるような考え方をし,語りまた行動するように動かされるでしょう。―ルカ 6:43-45と比較してください。

      進歩の重要性

      28 クリスチャンであることを公言する人で霊的に進歩するのを怠る人は,どんな状態にありますか。

      28 クリスチャンとして進歩するための努力を怠る人がもしいるとすれば,その人は霊的に非常に危険な立場に立つことになるでしょう。使徒はそういう人についてこう言いました。「これらのもの[前に挙げたもの]の欠けた人がいれば,その人は盲目で光に対して目を閉じているのであり,ずっと以前の自分の罪から清められたことを忘れているのです」― ペテロ第二 1:9。

      29 キリストに似た人格という実を結んでいない人はなぜ自ら選んで盲目になっていると言えますか。

      29 霊的に進歩することを怠る人,信仰を告白しながらキリストのような人格という実に欠ける人は,霊的に盲目です。クリスチャンであることが何を意味するかを悟っていません。この盲目は意識的なものです。というのは,「良いたより」を受け入れたなら,主人であるキリストに一層似る者となるように努力することが求められたからです。

      30 『罪から清められる』クリスチャンはそれに動かされて何をすべきですか。

      30 そういう人はまた,イエスの流された血に基づいて自分の罪が清められた事実を見失っています。本来ならその人は,バプテスマを受けたクリスチャンとなったときに受けた清めに調和してその清さを保つように,それどころか,神がお定めになった神聖さの規準に一層よく順応するように,努力をつづけるべきでした。このことを怠るなら,背教は容易であり,神のみ子の犠牲をわけなく完全に退けてしまうようになるでしょう。

      31,32 クリスチャンとしての進歩を怠る結果生ずる重大な危険を考えて,ペテロのどんな助言に注意を払うべきですか。

      31 クリスチャンとしての進歩を怠ることに霊的危険があるのであれば,神の像を反映する点で進歩することに努力するのは良いことです。ペテロはこの点に触れ,次のように言っています。「このようなわけで,兄弟たち,自分の召しと選びを自ら確実にするため,いよいよ力をつくして励みなさい。これらのことを行なってゆくなら,あなたがたは決して失敗することはないからです。事実,そうすることによって,わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国に入る機会が,あなたがたに豊かに与えられるのです」― ペテロ第二 1:10,11。

      32 神の民となるべく神によって『召され,選ばれた』人はみな,その立場を保つよう努力する決意が確かに必要です。信仰にキリストのような特質を加えつづけていくとき,彼らはその信仰の目標である救いに必ず到達することを,霊感によるペテロの手紙は示しています。イエス・キリストの「永遠の王国」に入るのを妨げるものは何もありません。その王国に入る機会は「豊かに与えられるのです」。

      33 クリスチャンが王国に入る機会を「豊かに与えられる」ことには,何が関係していますか。

      33 その王国に入る様は栄光に満ちたものとなり,そのとき彼らはキリストに似た特質をさん然と反映することでしょう。しかし,「豊かに与えられる」という表現は,命を得るための競走で実際に努力した人々が享受する祝福の度合がきわめて大きいことをも指しているようにも考えられます。―フィリピ 3:14。

      34 祝福の度合がきわめて大きいことはどんな例えで示せますか。

      34 特別の祝福の伴う人生とそれの伴わない人生との違いは,二隻の船のそれぞれの船長に例えられるでしょう。一人の船長は船を巧みに操縦してあらしを切り抜け船を無事に岸に着けます。しかしもう一人の船長は同じあらしの間に遭難し,命だけが助かります。両方とも命は助かりましたが,喜びや誉れは,船の無事だった船長のほうが大きいでしょう。―コリント第一 3:12-15と比較してください。

      35 永遠の命は神の賜物ですが,それでもそれを得るのに個人的な努力が求められるのはなぜですか。

      35 命は神の無償の賜物ですが,天の父に喜ばれることを最善を尽くして行ない,その賜物を心から望んでいることを示すようわたしたちは求められているのです。命は賜物です。罪深い人間は自分の功績によってこれを得ることは決してできないからです。しかし,もしわたしたちの生き方に,この賜物の真価を本当に認識している証拠やこの賜物を望んでいることを示す証拠が見られなければ,この賜物を受けることはできないかもしれません。ですから,態度や言葉や行動において本当にクリスチャンらしくあるように努めたいものです。そうすれば,神の助けによってわたしたちは確かに成功し,命を失うことも,また実を豊かに結ぶことに対して天の父が与えてくださる付加的な祝福を失うこともないでしょう。

      36 ペテロが示した通り,どんな要素は,わたしたちに助言が必要でないことを示すものではないと言えますか。

      36 したがって,忠実であることの大切さを思い起こすのは良いことです。これこそ使徒ペテロが,彼の二番目の手紙を読む人々に望んだことでした。彼は次のように書きました。

      「このようなわけで,わたしはこれらのことをあなたがたに思い出させたいという気持ちを常にいだくことでしょう。もっとも,あなたがたはそれを知っており,またあなたがたのうちにある真理に堅く据えられてもいます。ですが,わたしがこの幕屋にいるかぎり,思い出せる意味であなたがたを鼓舞するのは正しいことであると思います。わたしは自分の幕屋をまもなく脱ぎ捨てることになるのを知っているからです。それは,わたしたちの主イエス・キリストがわたしたちに示されたとおりでもあります。それで,わたしは,自分の去ったのち,あなたがた自身でこれらのことを話し合えるよう,時あるごとに力をつくして励むつもりでもいます」。(ペテロ第二 1:12-15)

      ペテロから語りかけられた1世紀の人々のように,わたしたちは,「良いたより」を宣べ伝えることや,キリストに似た人格を示す点で向上をはかることの重要さを知っているかもしれません。また,自分が持っている知識の範囲では,キリスト教の真理に固く立っているかもしれません。しかしそれでも,とりわけ試練に面したとき,また偽教師の巧妙な議論に面したときなどもそうですが,ペテロが述べたことを思い出す必要があります。

      37 助言を与える点でペテロはどのように優れた模範でしたか。

      37 ペテロがこの助言を書いた理由を思いにとめておくのは良いことです。使徒は自分が間もなく死ぬことを知っていました。イエス・キリストから自分が殉教することを直接に告げられていたからです。(ヨハネ 21:18,19)そういう前途であることがわかっていても,ペテロは関心を失って陰気になることはありませんでした。それどころか,兄弟たちを強め,彼らが活動的で豊かに実を結ぶよう励ますことに残された時間を使う決意をしていました。そのために兄弟たちはペテロの死後も彼の助言から励ましを得,また互いに鼓舞し合うのにその助言を用いることができました。

      38 ペテロの手紙に記されている助言をどうすべきですか。

      38 わたしたちの願いは,ペテロの手紙からわたしたちも励ましを得,またその助言に注意を引くことによって他の人々を強めることです。そしてエホバのすばらしい約束の成就を確信して引き続き「良いたより」をふれ告げ,天の父とそのみ子に似る者となるよう一層まい進することです。

  • 『他の人を裁いてはなりません』
    ものみの塔 1980 | 8月1日
    • 『他の人を裁いてはなりません』

      不完全な人間はとかく自分を他の人と比べ,仲間の人間の価値について判断を下しがちです。大抵の場合,そうした判断は個人の好みや趣味に基づいていたり,背景や教育の相違に影響されたりします。

      しかし,真のクリスチャンは誤った見方で他の人を見ないよう自らを守らなければなりません。クリスチャンの使徒パウロは,食物を食べることについて論じた際,生活のこの重要な領域に関して平衡を保つのに役立つ原則を明らかにしました。パウロはこう書いています。「食べる者は食べない者を見下してはならず,食べない者は食べる者を裁いてはなりません。神がその人を迎え入れられたのです」― ローマ 14:3。

      エホバ神はご自分の意志を行なおうとする者すべてを迎え入れてくださいます。そうであれば,人が個人として行なう事柄について,なぜその人を見下したり,裁いたりしなければならないのでしょうか。考慮の対象になっている事例では,健全な良心を抱いて肉を食べる人は食べない人を見下し,細心に過ぎる極端な人とみなしたかもしれません。一方,食べない人は肉を食べる人を誤って裁き,律法違反者,すなわち罪人としたかもしれません。そのような生活上の領域で平衡の取れた見方を取るクリスチャンは,問題が飲食や娯楽や服装などどんなことにかかわるものであろうと,自分は神の僕,つまり奴隷に過ぎず,自分の個人的な意見に基づいて他の人を評価するような権利がないことを認めます。ですから,個人の選択や好みの関係する問題になった場合,平衡の取れたクリスチャンは仲間の信者を見下げることも,悪行者として裁くこともしません。

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