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  • 終わりの時におけるあなたの交わりに気をつけなさい
    ものみの塔 1961 | 10月1日
    • ません。神の新しい世に決して住むことのない人を友とすべきではないのです。このような悪い交わりによって自分の将来をあやうくしてはなりません。良いもの,信仰を強めるもので心をみたしなさい。そのためには誰を親しい友にするか,何を読むか,何を見て楽しむか,どんな会話に耳を傾けるか,これらすべてのことに注意しなければなりません。いまの終りの時にあって正しい交わりを求め,それによってクリスチャンの忠実を守り,エホバ神との間にもつ良い関係を保ちなさい。

  • 「キリスト教に対する弱い証人」
    ものみの塔 1961 | 10月1日
    • 「キリスト教に対する弱い証人」

      キリスト教国のこの世的な教会が行なっているキリスト教の型について,カリフォルニア州の監督派教区の監督ジェームス・エイ・パイクは,1960年12月20日の「ルック」誌にこう書いています,「キリスト教は後退している。確かに外面的な証拠はその反対を示しているように思える。過去15年間のこの国教会員の増加は,そのまえの15年間の3倍であった。…しかし,すべての証拠を吟味すれば,衰微しはじめているのみか,あの盛り上がりそのものも実質的なものでなかったことが実証されるだろう。…海外においては,キリスト教の後退と共産主義の前進の間に関係がある。…ある場合の無神論者たちの進出は教会のせい ― 教会の牧師,教会の最も責任ある地位にいる会員のせいである。いったい何がわれわれをしてキリスト教に対する弱い証人にしたのであろうが。第1に,教会は励ますものであるかわりに社会と全般的に提携している。…キリスト教の後退の第2の原因は,キリスト教自信の分裂にある。…後退の第3番目の原因は,われわれが神を中心にするよりも人間を中心とする傾向をもっていたことである。…キリスト教の後退の最後的な原因はキリスト教が次第に生活にあてはまらないものになってきたことである。」

  • ガリラヤから預言者は出ない?
    ものみの塔 1961 | 10月1日
    • ガリラヤから預言者は出ない?

      「富は北に,知恵は南に求めよ。」これはキリストの時代のユダヤ人のことわざでした。なぜこのことわざが作られたのですか。パレスチナの北にあったガリラヤはパレスチナの中で最も富んでいましたが,宮,ユダヤの最高会議,知識階級は南のユダ,エルサレムに見出されたからです。

      しかしこのことわざの言わんとしていることは真実ではありませんでした。たしかにガリラヤには裕福な都市,栄えた町々があり,地味は豊かで幸の多い湖があり,鉱産物にも富んでいました。しかしユダヤとエルサレムはその自負にも拘わらず,知恵の点でまさっていたと言うことはできません。神の言葉にある如く「ヱホバをおそるるは知慧のはじめ」であり,神は「へりくだる者を公義に導き,へりくだる者にその道を教えられ」ゆえに,真の知恵を示したのはユダヤでなくてガリラヤでした。ガリラヤの人々ははるかに柔和で教えを受け入れ,エホバに対する恐れを表わしたからです。これこそ神の知恵を得るための第1の条件です。―詩 111:10; 25:9。

      独りよがりのパリサイ人ほど大きな間違いをした者はありません。ニコデモがガリラヤ人イエス・キリストについて「わたしたちの律法によれば,まずその人の言い分を聞き,その人のしたことを知った上でなければ,さばくことをしないのではないか」と言ったとき,パリサイ人は答えました,「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい,ガリラヤからは預言者が出るものではないことが,わかるだろう。」うぬぼれの強いパリサイ人は何と大きな間違いをしたのでしょう。この後にも起こることのない地上で最大の預言者はガリラヤ人でした。そのうえこのガリラヤ人の預言者が選んだ12人の使徒のうち,忠実を守り通した11人は同じくガリラヤ人で,裏切者となった一人はユダヤの出でした。―ヨハネ 7:51,52。

      どういう訳でパリサイ人はガリラヤについてこのように語りましたか。ユダヤとガリラヤの間にはこの言葉の示しているような著しい相異がありましたか。たしかに多くの面で相異があったのです。ユダヤとガリラヤ,イエスの伝道と教えるわざの主な舞台となったこの二つの土地は,気候,地形,天然資源,肥沃さ,人々の気質と教育そして最も大切なことはイエス・キリストと使徒たちの伝道に対して示した反応において異なっていました。これらの相異を知るならば,イエスの生涯をしるした霊感の記録に出てくる多くの事柄を更によく理解し,認識することができます。またそれを知ることは,真理を求めるすべての人にとって大切な教訓を学ぶことになります。

      ガリラヤ人対ユダヤ人a

      キリストの時代のガリラヤは,全世界ではないにしてもパレスチナにおいて最も風光の美しい土地でした。常春の気候,まれに見る美しい景色,肥沃で多産の土地,豊富な果物と堅果,はち蜜と穀物に恵まれ,都市は競い立ち,栄えていました。

      このすべてとは著しい対照をなしていたユダヤは当時のパレスチナで最も景観にとぼしく,地味のやせた土地で,その多くの都市は傾き,あるいはすでに廃墟となっていました。ガリラヤにくらべて夏は暑く冬は寒く,魚の満ちあふれたガリラヤの海とは反対に,ヨルダン河を通って死海に達した魚はすぐに死んでしまいました。

      ガリラヤ人とユダヤ人との間には二つの土地の間に見られたと同じほどの相違がありました。ユダヤ人はガリラヤ人を多少なりとも公然と見下しました。ガリラヤ人の中にはそれよりも1世紀前,マカベ人の手によって強制的に割礼を施された人々がいたので,彼らはユダヤ人ほど純粋の血統でないという事情もあり,また一般にガリラヤ人はユダヤ人ほど教育を受けていない事実も手伝って,このような態度が生じたのです。

      ユダヤ人は高慢で打ち解けず,律法を守る者をもって自らを任じていました。ヘブライ語聖書は主にユダヤで書かれ,書き写されませんでしたか。たしかにパリサイ人とサドカイ人は何時も論争していましたが,低いガリラヤ人に対しては一致して同じ態度をとりました。「モーセの座にすわって」言うだけで実行せず,「重い荷物をくくって人々の肩にのせるが,それを動かすために,自分では指一本も貸そうとはしない」学者やパリサイ人は主にユダヤ人で,その宗教のくびきの下で苦しんでいたのがガリラヤ人でした。―マタイ 23:2-4,新口。

      それとは反対にガリラヤ人は暖かい心の持ち主で,外見は粗野なところもありましたが親切で熱意のある人々でした。熱情的なペテロや「雷の子」と名づけられたヤコブとヨハネはその典型的なものです。ガリラヤ人は「その気候のように健康で,その空のように明るい」と言われていました。宗教的な偏狭にかられて行動したときにも,彼らはユダヤの人々とは違った行いに出ました。ナザレの会堂でイエスの言われた率直な言葉に激怒した彼らは,偽りの証人を得て罪に定めることをせずに,丘のがけからイエスを突き落そうとしたのです。―マルコ 3:17。ルカ 4:28-30。

      エルサレムの宗教的な指導者は普通の人,農夫,漁師など労働に従事した正直な人々を見下げていました。ガリラヤ人の大部分はそのような人々でした。ガリラヤ人は名声を重んじ,ユダヤの宗教家は金銭を求めました。ガリラヤ人は律法の細かい点をやかましく論ずることはしなくても,神の崇拝をまじめに考えました。ガリラヤ人はしるされた律法を,ユダヤ人は先祖からの言伝えを重んじました。

      ガリラヤ人は年毎の祝いのため忠実にエルサレムに上りました。ユダヤ人は祭司に多くのものを捧げましたが,ガリラヤ人はエホバ神への捧げ物に心を用いました。ユダヤ人にとって宗教は主に形式の問題でしたが,ガリラヤ人には心の問題であり預言者が強調したように神と個人的な関係を保つ事柄でした。ユダヤ人はローマのくびきから自由になることを政治問題と考え,ガリラヤ人はそれを自由と正義の勝利と見なしました。

      イエスのガリラヤ伝道

      エホバ神はイエスがユダヤのベツレヘムで生ま

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