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  • あなたはどこに信頼をおきますか
    ものみの塔 1975 | 10月15日
    • ば,世界の諸問題の解決を人間の指導者に頼ってはいないでしょう。むしろエホバ神とその確かな約束に信頼をおいていることでしょう。神の約束は現在の不義の事物の体制を一掃し,その王国政府によって全地に良い状態を確立することです。

      十分な根拠に基づいて神の約束に信頼するには,聖書の知識が必要です。エホバの証人はあなたがこの聖書の知識を得られるように喜んでご援助します。土地のエホバの証人にご連絡くださるか,本誌の発行所にお知らせくだされば,だれかが無償であなたを訪問するように取り計らわれます。

  • なぜ彼らは国民としての存在を失ったか
    ものみの塔 1975 | 10月15日
    • なぜ彼らは国民としての存在を失ったか

      ペルシャ人,ギリシャ人あるいはエジプト人に会ったことのある人はいるでしょう。そのすべては非常に古い歴史を持つ国民です。しかしモアブ人,アンモン人あるいはペリシテ人に会ったことがありますか。いいえ,そのような人はいません。それは驚くべきことではありません。ひとつの国民としての彼らの存在は,何世紀も前に全く失われてしまったからです。

      しかしモアブ人,アンモン人,ペリシテ人はかつては古代イスラエル人の隣人でした。モアブの領土は死海の東岸に沿って北はアルノン川から南はゼレドの谷川にまで及んでいました。アンモン人は,曲折するヤボク川の上流から砂漠にむかって東に広がる地域を領有していました。ガザからヨッパに近い地点に至る地中海沿岸の土地は,ペリシテ人の領土でした。歴史のさまざまな期間において,ペリシテ人,モアブ人およびアンモン人はイスラエル人を悩ませました。

      サウル王の治世の初めごろ,ペリシテ人はイスラエル人の領土の中に駐とん軍を置いていました。彼らは強力で,イスラエル人に自分たち自身の鉄工を持つことを許さなかったため,イスラエルの国は武器を全く持つことができないようにされていました。(サムエル前 10:5; 13:1-3,19-22)こうした外国の圧迫は非常に強かったので,同胞に敵してペリシテ人に組する利己的なイスラエル人も少なからずいました。(サムエル前 14:21)しかし,とくにダビデが王となって後は,ペリシテ人の力は弱められました。それでも彼らはその後何世紀ものあいだ,ひとつの国民として存在し続けたのです。

      アンモン人およびモアブ人について言えば,彼らは西暦前七世紀の後半にユダの地を荒廃させたバビロニア人に協力しています。(列王下 24:2)その後ほどなくしてアンモン人とモアブ人自身,彼らの土地を奪われました。ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば,ネブカデネザル王はエルサレムを荒廃させてのち五年目にアンモンとモアブを攻めました。考古学上の証拠は,アンモンとモアブの占めていた土地から西暦前六世紀の中ごろまでにおおかた住民が絶えたことを確証しています。西暦三世紀までにはアンモン人は明らかに全く消滅しました。モアブ人もまた歴史から姿を消してしまったのです。ネボ,ヘシボン,アロエルなどモアブ人の町は,今日,廃虚になっています。他の多くの町々はその所在さえも知られていません。

      モアブ人,アンモン人およびペリシテ人がなぜ消滅したかについては,今日まで伝わる古代の歴史の記録が唯一の説明を与えています。その記録とは聖書です。大英百科事典も認めているように,聖書の預言者が与えている説明を別にしては,他のどんな説明も真に妥当なものではありません。たとえば,モアブについて次のことが述べられています。

      「宗教の歴史の上でイスラエルは強大な国として残ったが,モアブは消滅した。モアブが砂漠の遊牧民によって絶えずおびやかされた土地の状態は,いく筋も連なる廃虚と化した城塞や城が如実にそれを物語っている。ローマ人でさえそうした城塞や城の構築を余儀なくされたのである。しかし比較的に言ってモアブが微々たる存在であった理由は,地理的な事情だけで説明されるものではない。またその説明は政治の歴史に求めることもできない。イスラエルとユダもまたモアブと等しく外敵に悩まされたからである。その説明はイスラエル自体の内部,預言者の働きの中に見いだされる要因中に求められるべきものである」― 11版,第18巻,632ページ。

      そうです,モアブ人,アンモン人,ペリシテ人が消滅したほんとうの理由は,神の裁きが彼らに敵するものであったからです。エホバはその預言者エゼキエルに対して次のように宣言されました。

      「人の子よ,あなたの顔をアンモンの人々に向け,これに向かって預言し,アンモンの人々に言え……あなたはわが聖所の汚された時,またイスラエルの地の荒された時,またユダの家が捕え移された時,ああ,それはよい気味であると言った。それゆえ,わたしはあなたを,東の人々に渡して彼らの所有とする。彼らはあなたのうちに陣営を設け,あなたのうちに住居を造り,あなたのくだものを食べ,あなたの乳を飲む。わたしはラバを,らくだを飼う所とし,アンモンびとの町々を,羊の伏す所とする……

      「モアブは言った,見よ,ユダの家は,他のすべての国民と同様であると。それゆえ,わたしはモアブの境界の町々,すなわち国の栄えであるベテエシモテ,バアルメオン,キリアタイムの横腹を開き,これをアンモンの人々と共に,東方の人々に与えて,その所有とし,モアブの人々をもろもろの国民の中に記憶させない……

      「ペリシテびとは恨みをふくんで行動し,心に悪意をもってあだを返し,深い敵意をもって,滅ぼすことをした。それゆえ,主なる神はこう言われる,見よ,わたしは手をペリシテびとの上に伸べ,ケレテびとを断ち,海べの残りの者を滅ぼす」― エゼキエル 25:2-16,口。

      この預言の成就したことを示す圧倒的な証拠があります。アンモンとモアブは確かに「東方の人々……の所有」となりました。考古学者のG・M・ランデスは次のように述べています。

      「考古学上の踏査から明らかになったところによると,アンモンの地における定住的な占有は,西暦前六世紀の中ごろに達しないうちにやんだ。……バビロニア人の破壊的な侵攻によって生じた真空状態のところへ,『東方の人々』すなわち砂漠の遊牧民がふたたび流れ込んだ。彼らは今やこの地域に組織されていた以前の政治活動をすべて破壊し,半自治的なアンモン人の国家に終わりをもたらした」―「聖書考古学者リーダー」,第二巻,87,88ページ。

      モアブについて,A・H・バンジールという学者は次のことを書いています。

      「モアブの運命は苛酷であった。バビロニア人によって国家権力がひとたび破壊されると,東方の人々は耕地に侵入することができた。城塞で要所を固め,過去の世紀にはあれほど勇敢に国を守った以前の住民は連れ去られてしまったからである。これらの城塞や,附近にみられる陶器類の遺物が今なお果たしている役割といえば,西暦前六世紀の最初の四半世紀にモアブ人の王国と文明が滅びたことを物語ることだけである。この国外追放ののち,モアブ系の個人については消息を聞くことがあっても,西暦前六世紀の最初の二十年が過ぎてのちは,モアブの国民また国家について聞くことは全くない」―「モアブ人」,157,158ページ。

      ペリシテ人に臨んだ災いについて,解説者用聖書辞典は次のことをしるしています。

      「ネブカデネザルは,ペリシテ人の独立の残り火を全く消してしまった。彼は支配階級と国民の両方を追放した。アンガーとワイドナーの出版したリストにガサ,アシドドの王たち,またアシケロンの君たちの名があげられていることは,それを示している」― 第3巻,795ページ。

      アンモン,モアブ,ペリシテの最後は聖書預言の正確な成就をなんと強力に証ししているのでしょう。エホバ神の裁きは,むかし神の契約の民であったイスラエル人のがんこな敵に対して確かに執行されました。たしかに神の預言のことばは信頼できるものです。イザヤ書 55章11節(口)はそのことを次のように述べています。「わが口から出る言葉も,むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし,わたしが命じ送った事を果す」。ゆえにエホバ神がご自身を愛する人々のために備えられている祝福にあずかることを望むならば,エホバ神のご意志を学び,それに一致して生きるのは当然のことです。

      [613ページの地図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      ペリシテ

      大海

      ヨッパ

      ガザ

      アンモン

      ヤボクの谷川

      死海

      モアブ

      アルノンの谷川

      ゼレドの谷川

  • 僧職者,ナチスおよび共産主義者の迫害にもめげず堅く立つ
    ものみの塔 1975 | 10月15日
    • 僧職者,ナチスおよび共産主義者の迫害にもめげず堅く立つ

      エルンスト・セリガーの経験

      わたしと妻は二人合わせて40年余も強制収容所や刑務所の中で過ごしました。なぜですか。それは悪行や政治運動への介入のためではなく,神に対する堅い信仰のためでした。

      僧職者は,ナチスや共産主義者と同様,わたしが神の王国を宣べ伝える業に携わることに反対しましたが,わたしは神に忠実に仕えたいとの願いから,幾年にもわたって確固とした立場を保ちました。

      若いころの生活

      若いころから,わたしは牧師になりたいと思っていました。そしてある日,母にそのことを話すと母はこう答えました。「とてもじゃないけど,うちは貧し過ぎるよ」。それを聞いて悲しくなりましたが,自分でも,牧師にはとてもなれないという考えに落ち着き,その代わり薬剤師になろうと思いました。

      第一次大戦直後の1918年,ドイツのシレジアで薬局での見習いを始めましたが,耐えねばならなかった様々のつらい事のため,自分の命を絶つことを考えたことさえ何回もありました。しかし,見習い期間が終わって数か月後に,たまたま一枚のプラカードを見かけました。そのプラカードは聖書研究者,つまりエホバの証人による,「創造の写真-劇」と題するスライドと映画の上映について知らせていました。

      わたしはこう独り言を言いました。「誠実に聖書を学んでいる人々こそ,わたしが求めていた人なのだ」。「写真-劇」により,目からベールが取り除かれ,神の目的が理解できるようになりました。わたしは直ちにものみの塔協会発行の「聖書研究」全七巻を注文し,聖書の講演会に出席するようにとの招きに応じました。聖書の真理を学ぶ点で進歩を遂げたわたしは,神に献身し,1923年2月にバプテスマを受けました。ついに神のしもべになれたのです!

      僧職者からの圧力

      同年,カトリックの司祭がわたしたちに対して問題を引き起こし始めました。彼はゴッテスベルクの町で聖書研究者を非難する話を行なうと発表しました。わたしの雇い主は新教徒でしたが,カトリック教徒の営業部長は,わたしがそこへ行くべきであると断固とした態度を取りました。当時わずか18歳であったわたしは,クリスチャン兄弟たちとその問題を話し合いましたが,結局そこへ行き,ノートを取り,機会があれば聖書の真理について何か発言することに話が決まりました。

      到着後直ちに営業部長は,およそ250人ほどのカトリック教徒が集まっている会場にわたしを連れて行き,後部の二階さじきへ引っ張って行きました。後で雇い主から聞いて分かったのですが,部長とその仲間はわたしを二階さじきから投げ落とす計画だったのです。しかし彼らの悪巧みを知らずに,わたしは本会場に下りて行き,後列の後ろに立っていることにしました。午後八時に司祭が他の僧職者を伴って会場に入って来ました。わたし

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