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  • 良心の問題に立ち向かう
    ものみの塔 1973 | 1月15日
    • 的問題が生じた場合,わたしたちは,自分自身の良心に基づいて決定を下さねばならない人の審判者になるようなことをすべきではありません。また,『境界線』的問題に対するその人の決定が,自分ならこう決定するだろうと考えていたことと全く同じでなくても,その人のことを,まだ是認された神のしもべの立場にいる,というような見方をして,過失を犯したという自覚に悩まされるようなことがあってもなりません。神がその人の審判者なのです。(ロマ 14:4,10-12)一方,クリスチャン会衆内で責任のある地位にいる人びとも,会衆を監督するにさいし自らの良心を働かせなければなりません。彼らは,特定の問題において,ある兄弟が下した決定に対し,自分なら別の決定を下しただろうと考えることがあっても,聖書がその問題を明らかに個人的決定の範囲に入れているために,彼らの良心の抗議はきわめて穏やかなものかもしれません。もしその人が,明らかな良心をもって行動した証拠を示すなら,彼らの良心は,その人に責任をゆだねること,あるいは責任のあるなんらかの地位に推薦することを許すかもしれません。しかしそうは言っても,彼らの良心が問題について十分に強い力をもって語るので,そのような仕方ではその人を良心的に推薦することができない,という場合もあるでしょう。この場合もやはり神が彼らの審判者であって,彼らを非とすべきではありません。

      14 ここで次に考慮すべきどんな質問が生じますか。

      14 そうしたこれらの『境界線』的問題は職業の分野においてしばしば生じます。あなたの職業は,あなたが神のみ前に清い良心を持つことのできるものですか。それは,イエス・キリストの真の追随者として『自分をあらゆる人間の良心に推薦する』ことのできるものですか。次の記事でこれらの重要な質問を考えてみましょう。

  • あなたの良心とあなたの職業
    ものみの塔 1973 | 1月15日
    • あなたの良心とあなたの職業

      1 クリスチャンの職業はクリスチャンが良心を働かさなければならない重要な分野です。なぜですか。

      わたしたちは,目を覚ましている時間の大部分を仕事に費やします。確かにクリスチャンは自分のする仕事について清い良心を持ち,『何ごとをするにも神の栄光を表わす』ようにしなければなりません。(コリント前 10:31)あなたの仕事はそのようなものですか。

      2,3 (イ)どんな職業は明らかによくない職業ですか。そのような職業を持つクリスチャンはその責任を免れることができますか。(ロ)ある職業は,それ自体は悪いものではありませんが,それでも良心の問題が生じます。なぜですか。

      2 神のことば聖書によって明らかに非とされている行為,あるいは神のことばの原則と調和しない行為のどちらかを直接,またおもに要求する仕事は,明らかに悪い仕事です。クリスチャンは,悪に対する責任を雇用者だけに負わせてすますわけにはいきません。しかし,労働そのものは神のことばに反してはいなくても,もしそれが神のことばに反する目的を追求する活動の一部であるとすればどうですか。その場合にはどうなりますか。

      3 簡単なたとえをあげますと,自動車の運転手として勤めることや自動車を運転すること自体はまともな職業です。しかし,自分はクリスチャンであると公言する人が,どうして銀行破りのギャングの運転手として働くことができるでしょうか。あるいは,クリスチャンが,売春宿の玄関番またはメイドになって売春宿と関係のあることをどうして示せるでしょうか。しかし,一方,あなたがそこに牛乳または新聞を配達しているとしましょう。あなたが牛乳のびんや新聞をそうした評判のよくない家に配達することは,不道徳な商売の片棒をかつぐことになりますか。

      4 (イ)人または商売が悪行に関係している場合,そのような人や商売のためにサービスを行なう者はすべて必然的にその悪行の共犯者になりますか。(ロ)悪行者の行ないの片棒をかつぐことなく,悪行者に対してあるサービスをすることについて,神ご自身はどんな模範を示していますか。

      4 悪行の共犯者であることと,普通だれに対しても無差別に行なわれているある種のサービスをすべての人にするだけの者であることとの間には,明らかに相違があります。人びとが義にかなっているかあるいは義に欠けているかを問わずに,個人の必要物を備える神ご自身がそのよい例です。イエスが弟子たちに指摘したように,エホバ神は,「悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者にも正しくない者にも雨を降らして下さる」のです。(マタイ 5:45,口語)パウロも,創造者なる神は,「すべての人々に[差別なく]命と息と万物を与え」てくださると,述べています。(使行 17:25,口語)神は悪人の畑の上にさえも雨を降らせるので,そのために彼らの悪行の罪にあずかっていると言えますか。たとえば,罪人アダムとエバに衣を着せたとき,神はそうすることによって,彼らの悪行を大目に見たとか支持したとかと非難される立場に自ら立たれたのでしょうか。むしろそれは,神の過分の親切に基づく行為のひとつにすぎませんでした。―創世 3:21。

      5,6 (イ)クリスチャンは明らかにカイザルの家で仕事をしていましたが,どのようにしてなお善き良心を保つことができましたか。(ロ)現代においても,同様のどんな状況が広く存在しえますか。

      5 ピリピのクリスチャンたちにあてた手紙の中で,パウロは「カイザルの家の」クリスチャンの兄弟たちのあいさつを伝えています。(ピリピ 4:22)明らかにそれらのクリスチャンたちは,宮廷の召使いでした。奴隷であったか自由人であったかは記録は示していません。おそらく彼らはそこで,皇帝の家族や侍臣たちのために料理やそうじ,またそれに類する仕事をして仕えていたのでしょう。すでに見たとおり,人間の政府は,神の目に,非とすべき行ないをした罪もありますが,法にかなった働きも確かにいくらか行なっています。(ロマ 13:1-5)カイザルの家のそれらのクリスチャンがどんな仕事をしていたにせよ,彼らがそれを,ネロの政治,宗教,または軍事的試みや企てに加担しているという感じを持たずになしえたことは明らかです。

      6 現代においても同じことです。わたしたちが他の人びとのために,ただ仲間の人間に対するものとして,相手の義,不義にこだわらずになしうる行為はたくさんあります。先ほどあげた簡単な例の場合のように,売春婦に牛乳を売ることは,論理的にいって,彼女の不道徳を許している者と見なされる原因にはならないのではありませんか。また,音楽を教えるためにある政治家に雇われることも,当人がその雇用者の政治活動の支持者であることを示す正当なしるしとはなりません。

      7,8 神のことばは,道理にかなった,現実的な見方をどのように示していますか。良心の問題に聖書の原則を適用するさい,これをどのように導きとすべきですか。

      7 エホバ神は義に関しては不動な立場を取られますが,また道理も重んじられます。(ヤコブ 3:17)問題の評価や,神を喜ばせる者たちに対する要求においては全く現実的な見方をされます。このことは,コリント前書 5章9,10節の,霊感を受けた使徒パウロのことばに見られます。パウロは,『淫行の者と交わるな』という,以前に与えた指示をコリントのクリスチャンたちに思い出させたのち,こう言いました。『この世の淫行の者,または貪欲のもの,奪う者,または偶像を拝む者とさらに交わるなと言うにあらず(もししかせば世を離れざるを得ず)』。クリスチャンは,『良い習慣をそこなう悪い交わり』を避けることに努めますが,隠とん者になって,洞穴や,荒野,または島にひとりで住むわけにはいきません。なぜですか。「世の光」として奉仕すべき彼らの使命そのものが,自らは『世のものではなくても世にいること』を要求するからです。(コリント前 15:33。マタイ 5:14-16。ヨハネ 15:19; 17:15-18)その使命を遂行し,同時に世から完全に離れていなさいと要求するのは,矛盾した要求をすることになります。神はそういうことはしません。したがって,わたしたちも,神のことば

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