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人間はどこに導きを求めるべきか目ざめよ! 1971 | 4月8日
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もってエホバ神を愛し,また,隣人を自分自身のように愛することをわたしたちに教えてくれるのは聖書にほかならない。そこには,『わたしがあなたがたを愛したと同じように,互いに愛し合いなさい』との,イエスの命令もしるされている。地上のすべての人々がそうした命令に従い,その結果,『水の海をおほへるごとくエホバをしるの知識が地にみつる』時,この世界はなんと大きく変化することであろう。―イザヤ 11:9。マルコ 12:29-31。ヨハネ 13:34,35,新。
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詩篇を用いて祈ることができますか目ざめよ! 1971 | 4月8日
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詩篇を用いて祈ることができますか
神はどんな祈りを聞かれますか
月面に立った宇宙飛行士の声が,何十万キロものかなたから伝えられ,それがきわめて短時間のうちに,地球上の各地で聞かれたとき,多くの人は感嘆の声を放ちました。この偉業は,電波の働きによって可能にされました。
宇宙旅行や放送におけるこの劇的な進歩は,偏見をもたぬ人々に,つぎのことを暗示します。それは,月および広大無辺の宇宙空間に散在するすべての星を創造したかたと,人間が交信するのは決して不可能ではないということです。そうです,その創造者に向けられる祈りは,それよりもさらに信じやすいこと,また望ましいことです。
しかし,重要な問題は,どのように祈れば最善の結果が得られるか,ということです。人間は常に,力のある聞き手,自分が問題を克服するのを助けてくれることのできる聞き手の耳に,自分のさまざまなわずらいごとを打ち明ける必要を感じてきました。ですからどのような宗教を奉じているにせよ,人は,仏教徒,ヒンズー教徒,アラーの崇拝者,キリスト教世界の諸教会の成員のいずれを問わず,みな,祈りをします。ある人々は,自分の崇拝する神に直接話しかけます。また,他の人々は,「聖人」とか像,聖遺物などの媒介物を通して祈ります。
しかし聖書ほど,祈りについて,教訓的で理性にかなったことがらを多く述べている宗教書はありません。その始めから終わりまで,聖書は,昔の時代の人々,つまり唯一の真の神に信仰をもっていた人々が,どのように祈ったかを伝えています。祈りの中で彼らが言ったこと,祈りの偉大な聞き手に近づいたときの彼らの態度について述べています。(詩 65:2)また,彼らが何にかんして,どんな理由で祈ったかも告げています。
迷信的な祈り
キリスト教世界には,たとえばカリブ諸島のいくつかの島の場合のように,おそらく無意識とは思われますが,迷信的な祈りにふける人がたくさんいます。ある人々は,聖書にしるされているというだけの理由で,特定の祈りが神のみまえに大きな力をもつ,と考えているようです。そういう祈りは,彼らにとって一種の呪文のような性格を帯びます。
この点,聖書の中でとくに注意をひく部分は詩篇です。詩篇には,ダビデ王や,神に忠実であった他の人々が,さまざまな状況のもとでささげた,多くの祈りが収められています。しかし,見のがされがちなのは,それらが,単なる個人的な祈りであるにとどまらず,はるかに重要な意味をもつということです。事実,その多くは明らかに預言的な意味をもち,イエス・キリスト,および神の目的の中におけるイエスの役割と関係があります。たとえば,使徒パウロは,詩篇 40篇を,主イエス・キリストに適用しています。―ヘブル 10:5-10。
ところが迷信深い人たちは,生活の中で生ずるある特定の問題を解決するのに,特殊の詩篇が使えると信じているのです。ある詩篇は商売を繁盛させ,他の詩篇は悪霊を追い出し,別の詩篇は仕事口を見つけさせ,さらに別の詩篇は大漁を約束すると言われています。「こうこういう場合には,どの詩を使うといいですか」と,人が尋ねているのを耳にすることすらあります。どの詩篇を使ってよいかわからない場合,その相談にのってくれる専門家さえいるのです。
失業中ならば,道路の四つ辻に立って,詩篇 20篇と22篇を唱えなさい。配偶者との折り合いが悪い? では9日のあいだに詩篇 1篇から9篇までを唱えればそれでよろしい。最初の日は詩篇 1篇,2日目は1篇と2篇というふうにして,9日目に9篇全部が唱えられるようにしなさい。商売があまりうまくいっていません? では詩篇 25篇がよいでしょうと,このように指示されるわけです。
詩篇 109篇は,これを唱えると,敵から自分を保護し,敵を退去させ,あるいは永久に滅ぼすほどの力を発揮すると言われています。この詩篇は,片手に灯をともしたロウソクを持ち,のぼる太陽の方に向かって唱えることになっています。人々は,ペットやほかの家具の上に聖書を置いて,ページを開いておいたり,時にはその特別のページの上に,ロウソクをともして置くことまでします。そうすれば悪霊が寄りつかないとか,悪霊が家の中にはいれなくなると思うのです。
しかし悲しいことに,そのように迷信的な仕方で詩篇を用いても,失業問題やその他の諸問題は解決されてはいません。敵の数も減ってはいません。悪霊もあい変わらず現われては,迷信深い人たちの生活を悩ましています。不幸や貧困は,そうしたものからのがれようとして,人々が詩篇を唱えている国を依然として容赦なく襲っています。
これはどういうことですか。人々が聖書に対してもつべき確信とは,この種のものでしょうか。祈りによって神に近づく正しい方法とはこういうものなのですか。神がこうした祈りを聞いてくださる,と考えるべきですか。
神のことばからの助言
これらの質問に対しては,聖書そのものが神の答えを与えてくれます。聖書は,数多くの祈りの実例をのせているだけでなく,崇拝者たちがどのように祈るべきかをも教えています。神ご自身の御子イエス・キリストの生涯と宣教において,祈りは重要な位置を占めました。イエスは弟子たちに,自分の模範にならうように教え,またどのように祈るかをも彼らに教えられました。マタイ伝 7章7,8節(新)でイエスはこう言われています。「求めつづけよ。そうすれば,それはあなたがたに与えられるであろう。追求しつづけよ。そうすれば,あなたがたは見いだすであろう。たたきつづけよ。そうすれば,それはあなたがたに開かれるであろう。求める者はだれでも受け,追求する者はだれでも見いだし,またたたく者には,だれにでもそれが開かれるからである」。
しかしイエスは,わたしたちが求めるものはなんでも与えられる,という意味でこう言われたのでしょうか。決してそうではありません。というのは,イエスの弟子ヤコブが,『まちがった目的のために求めているゆえに』祈りを聞いてもらえない人々について書いているからです。(ヤコブ 4:3,新)そしてイエスご自身,神のご意志にそわないことを祈り求める危険を感動的な仕方で指摘されました。ゲッセマネの園で祈られたとき,イエスはこう言われました。「わたしの父よ,もしできることでしたら,このさかずきをわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしが望むようにではなく,あなたが望むようにしてください」。(マタイ 26:39,新)
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