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解決は精神科医の治療にかかっているか目ざめよ! 1975 | 7月22日
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と考えるようになりました。そのため,寝ている夫を金づちで襲ったのです。
彼女は,「神経症の徴候があり,落ち着きがなく,錯乱状態にある」と診断されました。そして入院後6年目には,回復の見込みのない精神異常者と断定されました。それから7年の歳月がたったころ,ある新しい医師が着任し,その患者に関心を持ちました。医師は甲高い声で話す彼女の不平に辛抱強く耳を傾け,同情を示し,できるときはいつも話にうなずきました。また一緒に散歩しては,妄想を取り除くよう巧みに助けました。彼女の眼鏡の度を直し,看護婦を付けて読み物を与え,一緒に雑談させました。
その婦人の声の調子は徐々に変化し,ベッドを整える手助けができるようになり,やがて院内の敷地を独りで歩くことが許されました。ほどなくして,数日外泊することも許されました。そしてついに76歳という高齢で,老婦人を世話する付き添い看護婦の職に就いたのです。何年か後のこと,その婦人の娘から次のような知らせが寄せられました。「母は協力的で非常によく働き,みんなの役に立っています。……年齢を問わずわたしの知っている女性の中で,最も計画的に仕事をする人の一人だと思います」。
精神障害者を助ける点で成功を収めたこうした例は,それらの患者がどんなタイプの治療を特に必要としているかを示唆しています。何年か前のこと,精神衛生研究財団の会長ジェフリ・ビッカース卿はこう説明しました。「精神科学における最も意義のある発見は,精神を守り,かつ健全な状態に戻す愛の力である」。
そうです,今では,精神病患者を効果的に治療する上で,愛,親切,辛抱,そして理解が肝要なものとして一般に認められるようになりました。しかし先に触れたように,多くの場合,精神科医は患者の回復になんら助けとなっていません。それには,何か根本的な理由があるのでしょうか。
治療にあたる姿勢に見られる基本的な誤り
周知のとおり,悲惨な事態に面して耐える力を得るためには,人は自分が存在する理由,つまり人生にはどんな目的があるかを知ることが必要です。しかし精神科医は,こうした知識を与える上で最も優れた立場にあると言えますか。「自分はなぜここにいるのだろう」。「生命とは一体何だろう」。「前途にはどんな運命が待ち受けているのだろうか」。こうした基本的な疑問に人々が答えを見いだすよう,精神科医は助けを与えることができるでしょうか。
実際のところ,人間にはだれもこうした疑問に満足のゆく確かな答えを与えることはできません。それができるのは人類の創造者である全能の神だけです。そして神は,わたしたちが希望と慰めを得られるように,みことば聖書の中にそうした答えを備えてくださいました。しかし,精神科医は一般に神についてどう考えていますか。
1970年に行なわれたある調査は,その点を明らかにしています。インタビューを受けた精神科医のうちその55%の人が,神に対する信仰は“幼稚”で,“現実にそぐわない”と考えている,と語りました。
なんという理性に欠けた非論理的な結論なのでしょう。考えてみてください。至高の神の存在を認めないとすれば,生命の起源をどのように説明できますか。また,愛についてはどうですか。健全な精神を保つ上で極めて肝要なこの驚くべき特質はどこから生じましたか。この点について論理的で道理にかなった説明を与えているのは聖書だけです。そして聖書の説明によれば,愛に富む至高の創造者がまさにそれらの根源であられるのです。(詩 36:9。ヨハネ第一 4:8-11)どうみても“幼稚”とは思えない,科学の分野で傑出した人々の中にも,そのような神に対する信仰を表明した人がいます。
サイエンス・ダイジェスト誌はそうした人々の一人についてこう報じています。「かつては,科学史家のほとんどが,アイザック・ニュートンこそ世界の生み出した最も偉大な科学者であると断言したものである」。そして,そのニュートンは主著「プリンキピア」の中でこう述べました。「その方の真の支配領域からすれば,真の神はまさしく生きておられ,知性に富み,力あふれる実在者であられることがわかる。また,他の卓越した面を考慮すると,神は至高者,つまり最も完全な方であられる。神は永遠無窮,全知全能であられる」。
世の精神科医が犯している基本的な誤りは,精神または情緒の乱れている人を治療するに際し,一般にこの真の神に知恵や導きを求めていないという点にあります。あらゆる専門医の間で精神科医の自殺率が最も高いことは,確かに精神科医の取るこうした態度の必然の結果と言えます。精神科医の一人は,その点に触れて,『精神科医の[自殺]率が他と比べて最も低くなるまで,その教えのすべてには疑問が残る』と語っています。―アメリカ医学学会誌。
基本的な誤りがさらにもたらす影響
神のみことば聖書の健全な教えの価値を無視する精神科医が,平衡の取れた仕方で愛を示すのはまれなことです。例として,麻薬を断ち切らせるために,10代の息子を精神科医のもとにあずけたある父親の場合を挙げることができます。どんな結果になったでしょうか。父親は2,000㌦(約60万円)を支払いましたが,息子は少しも快方に向かいませんでした。
父親は息子を助けたいと思いました。しかしその父親も,また精神科医も,愛を表わす上で肝要な事がらは親切のうちにもき然とした態度で懲らしめを施すことであるという神のことばの教えの真価を認めてはいませんでした。(ヘブライ 12:6-9。箴 23:13,14)ついに健全な助言に耳を傾けたその父親は,麻薬中毒者更生施設に進んで入りたいと思うようになるまでは家に戻ってはならない,と息子に命じました。後日,息子は父親にこう言いました。「わたしはお父さんとお母さんに家を追い出されて初めて,お二人がわたしを本当に助けたいと願っておられることが分かりました」。その息子は今では麻薬中毒から立ち直っています。
神を認めず,道徳に関する神の教えを無視する精神科医の一般的傾向は,非常に有害な結果をもたらしてきました。例えば,「同性愛グループ,青少年に対するわいせつ行為で告訴さる」という見出しが,ロングアイランド・プレス紙の第一面に掲げられたことがあります。同誌はこう報じました。「国際的にも知られている幼児精神科医を含む4人の男が……昨日,青少年に対する男色,強制わいせつ行為および不法共謀のかどで起訴された」。
こうした事件は例外かもしれませんが,男性の精神科医が女性の患者と性関係を持つといった事件はそう珍しくありません。例えば,結婚生活がうまくゆかず欲求不満に陥っていたクリスチャンのある婦人は助けを求めて精神科医のもとに行きました。ところがその精神科医は,精神科医に見てもらうよう夫に勧めるか,離婚するか,あるいは“ボーイフレンド”と情事を行なうか,三つのうちのどれかを選ぶように,そして必要なら自分が喜んで“ボーイフレンド”になって上げる,と言いました。
また,ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙に報じられた次のような理由で訴えられた精神科医もいます。同紙によると,「[その精神科医は,]治療と称して自分と性関係を持たせ,その上“治療費”を請求」しました。別の精神科医は,精神病の治療と偽って患者に自分と性関係を持つよう強要したため,125万㌦(約3億7,500万円)の賠償金を支払うようニューヨーク州最高裁判所に訴えられました。事実ある精神科医は,自分の著わした本の中で,「『強要』してはならないが,患者の性的必要を満たすために自分を役立てる」よう,精神科医に勧めています。著者は,その本に“愛の治療”という表題を付けました。
アメリカ有数のセックスクリニックを開業している二人の臨床医は,自分たちが治療した800名の患者のうち相当数の人が同診療所内の精神科医やカウンセラーと性関係を持つことに同意した,と語りました。こうした報告の中には,単なる空想や願望的思考や誇張した自慢話などもあることでしょう。しかしながら,医師の一人はこう述べました。「こうした特殊な報告のわずか25%が正しいものであるとしても,この分野における専門家にとって,これはやはり深刻な問題である」。
世の精神科医に対しては,明らかに十分注意を払う必要があります。というのは,助けの得られることがある反面,神の義の原則に反することを行なうよう促される場合も実際にあるからです。しかしたとえそこまではいかないにしても,一般に精神科医は精神病の特効薬ともいうべき神から与えられた愛の特質の正しい適用の仕方を知らないのですから,そのような治療にあまり期待することはできないでしょう。
ということは,精神に関係した問題を徹底的に究明し,解決するための助けの得られる信頼の置ける精神療法はどこに行っても受けられないという意味でしょうか。幸いなことに,そのような助けを得ることができます。この混乱した世界の中にいても,そうした助けにより健全な精神を取り戻した人は少なくありません。
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精神の健康を回復させる最善の方法目ざめよ! 1975 | 7月22日
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精神の健康を回復させる最善の方法
精神病にかかるなら,それは関係者にとって大きな悲しみをもたらすものとなります。しかし,そのようなことが起きたとしても,家族が恥ずかしく思う必要は少しもありません。精神病にかかるのは,ちょうど流感や心臓病などの身体的病気にかかるのと同じ様な場合が少なくないのです。また,身体的な原因が主要な要素ではない場合でも,なお希望を持って積極的な態度を取るべき理由があります。それでなし得る最善の策は何かという疑問が生じてきます。
多くの場合,幾つかの治療法を併用するのが一番良いとされています。しかし,最も肝要なのは,精神病で苦しんでいる人が,真の希望や励ましを与えることのできる理解ある家族の者や友人からの助けを受けることです。助けを与える側の人々は,精神病も他の病気の場合と同様,時がたつにつれて体そのものが順応して治癒するので,たいてい自然に治ってゆくということを考えれば,慰めを得ることができます。また,自然に治らないとしても,苦しんでいる人を助けるためにできることは少なくありません。
精神病を患っている人々が最も必要としているのは愛されることです。その重要性は今や医学関係の文献の中で幾度となく強調されています。このことは,精神病を患っている人が風変わりで無責任な行動を取ったり,道理にかなっていなかったり,さもなければ気むずかしかったりする場合でも,家族や友人たちはその人に対して忍耐を示し,辛抱強く接すべきであることを意味しています。
精神病を患っている人のために,この必要な助けを与え得る最善の場所はどこでしょうか。どこかの精神病院や施設ですか。まずそうではないようです。事実,4人の医師が著わしたある書物はこう述べています。「主要なねらいは,できるかぎり患者を入院させないことである。ある場合には,それだけでも勝利と言える。というのは,現在の精神病院の中には,自宅にいたほうが患者にとってまだましであると言えそうな病院が少なくないからである」。
患者にとって自宅は住みなれた環境です。患者は,本当に関心を持ってくれる人々に見守られていますし,回復あるいは快方へ向かわせることを目的とした世話をも受けられます。では,そうした助けを与えるには,精神医学を教える世俗の学校で教育を受けることが必要でしょうか。
精神医学の教育は必要か
興味深いことに,精神病医自身が精神医学教育の欠点を認めています。例えばデービッド・S・ビスコットは次のように述べています。精神医学会が与える認可は,「優れた治療専門家になるため
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