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クリスマスについて考えていますかものみの塔 1960 | 1月1日
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を期待しないで与えることであると,知つてます。キリストは次のように語りました,「午餐または晩餐の席を設ける場合には,友人,兄弟,親族,金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし,それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ,宴会を催す場合には,貧亡人,不具者,足なえ,盲人などを招くがよい。そうすれば,彼らは返礼ができないから,あなたはさいわいになるであろう」。「自分によくしてくれる者によくしたとて,どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ,それくらいの事はしている」。―ルカ 14:12-14; 6:33,新口。
たしかに,クリスマスの時には物質的な事柄のために霊的な事柄が影をひそめてしまいます。またクリスマスを祝う人々は,友人や親戚をよろこばすために気をつかい,時間をかけます。しかし,彼らはキリストをよろこばすことには殆ど考えをめぐらさないのです。霊的な事柄がこのように欠けていることは,イエスがマルタを戒めたときのことを思い起させます。マルタは物質の事柄に心配して気をつかいましたが,実は霊的な事柄に第一の関心を払うべきでした。―ルカ 10:38-42。
おそらく,次のような考えが浮かんでいることでしよう,すなわちキリストは自分の誕生日を祝えとクリスチャンたちに命じましたか。聖書を読んでいる人々は,そのような命令がないことを知つています。キリストは,彼の死を祝えと弟子たちに命じました,「私を記念するため,このように行いなさい。」(ルカ 22:19,新口)聖書の中のどこを見ても,クリスチャンが誕生日を祝つていることは述べられていません。聖書の中では異邦人だけが誕生日を祝いました。
それですから,初期のクリスチャンたちがクリスマスを祝わなかつたと新聞や雑誌の記事がしばしば述べていることも全く当然と言えます。
クリスマスの起源について,「アメリカナ」のような信用し得る百科辞典内の言葉を読むとき,疑問の気持を感ずるでしよう。この権威ある書は,「クリスマス」という見出しの下に,次のように述べています,「その祝は,クリスチャン教会の1世紀には行なわれなかつた。……5世紀になつて西洋の教会は,太陽の誕生についてのミスライック儀式の日と,サツルヌス神祭の終つたときに祝いをするよう命じた。キリストの誕生日についての正確な知識は存在していなかつたからだ。「ドイツとケルト民族の間では,冬至は1年の中で重要な時と考えられていた。そして,太陽の復帰を祝う為に,ユールの大祭を行なつた。これが,他の異教の祝いと同じようにクリスマスになつたのである。いまクリスマスにむすびつけられている多くの習慣は,もともとクリスマスの習慣ではなく,キリスト教以前の習慣そして非キリスト教の習慣であつた。……12月の中旬に祝われたローマの祭り,サツルヌス神祭は,陽気なクリスマス習慣の母型になつた」。
それでは,私たちはクリスマスについてどう考えるべきですか。キリストは12月に生まれたのでなく,10月の初旬頃に生まれたということを,聖書からどのように知りますか。これらの質問や,あなたが考えておられる他の質問についての答を得ることができます。ヱホバの証者は,無料でしかもあなたの聖書から,これらの質問によろこんで答えるでしよう。ヱホバの証者におたずね下さい。
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「御心が地に成るように」(その25)ものみの塔 1960 | 1月1日
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であつた彼女の父親が死んだだけでなく,「彼の子孫」である彼女自身も死にました。ラオディスの計画通り彼女はその幼児の息子と共に殺されました。彼女を連れてきた者たち,すなわち彼女をエジプトからシリヤに伴つてきた従者たちも苦難を受けました。このことでラオディスの気持はしずまりませんでした。物語りに言われているごとく,おそらく彼女によつて,ラオディスを再び迎えたアンテオカス2世(テオス)は毒殺されたのでしよう。「神」の終りとしては,何という終りでしよう! 彼女が再び離婚されるのを防ぐためにこのことが行なわれたにちがいありません。それで,ベレニスを産んだその父と,彼女をしばらくの間得たシリヤの夫は,両人ともに死にました。かくして,ラオディスの長子,セレウカス2世は,父親の正当な後継者となりシリヤの王位に即くことになりました。これによつて,平和がかためられなかつたことはたしかです。
23 ベレニスの「根」は誰でしたか。
23 これには反動があると,御使は予め告げて次のように語りました,「そのころ,この女の根から,一つの芽が起つて彼に代り,北の王の軍勢にむかつてきて,その城に討ち入り,これを攻めて勝つでしよう」。(ダニエル 11:7,新口)ベレニスの「根」は,もちろん彼女の両親,すなわちプトレミイ2世(フィラデルハス)と彼の妹 ― 妻アーシノエです。
24 「女の根から一つの芽」はどのように立ちましたか。そして,どのように北の国の城に勝ち入つて,そこにいる者たちを処置しましたか。
24 「女の根から出て」父の代りに立つた特定な「芽」は,彼女の兄弟でした。彼はプトレミイ3世として「南の王」になり,エバーゲテス(「恩恵者」)という名前で呼ばれました。彼は,父が死んだときに王権を取ることにより「立ち始め」ました。シリアのアンテオケの首都で自分の姉妹ベレニスが殺されたことに対して,彼はただちに復讐を図りました。彼は軍隊をひきつれてシリヤの王,セレウカス2世カリニカスに向かつて進撃しました。その母ラオディスは,セレウカス2世を使つてベレニスと彼女の幼い男の子を殺しました。プトレミイ3世は,北の王の城に討ち入り,女王である母親ラオディスを殺しました。それだけに止まらず,彼はシリヤを征服し,首都アンテオケの要塞と,その海港セルキヤを占領しました。それから彼は,北の王の「広範囲な領土」を通つてバビロニアとスサを掠奪し,はるか東方のインドの岸辺まで進撃しました。このようにして殺人王セレウカス2世は,シリヤの王位から引きおろされることになりました。
25 彼は宗教的な面でどのように怒りを晴らしましたか。このことによつて彼はどんな名前を得ましたか。
25 南の王は宗教的な面でも,その怒りを晴らすでしよう。ヱホバの御使は,そのことをも予めに告げました,「彼はまた彼らの神々,鋳像および金銀の貴重な器物を,エジプトに携えて去り,そして数年のあいだ,北の王を討つことを控えます」。(ダニエル 11:8,新口)それより200年以上のむかし,エジプト王プサメティカス3世の時代中,第4番目の世界強国ペルシャの王キャンビセスは,エジプトを征服しました。そして,征服したエジプトの神々である「鋳像」を戦利品として持ち帰りました。南の勝利の王プトレミイ3世は,以前のペルシャの首都スサやバビロニヤを掠奪したとき,そこに運ばれていた古代エジプトの神々を取りもどし,宮の盗人たちから守りました。そして,故郷に連れ戻したのです。このために,彼は感謝の念を持つたエジプト人たちより,エバーゲテスすなわち恩恵者という名前を受けるにいたつたのです。
26 なぜ彼は「数年の間,北の王を討つことを控え」ましたか。彼は母国に何を持ち帰りましたか。
26 はるか南のエジプト国内の問題が生じたため,征服王プトレミイ3世はナイルの地に戻つてきました。母国の叛乱をしずめねばならなかつたため,彼は北の王に対する成功を十分に利用することができませんでした。それで,北の王に害を及ぼすことをひかえることにしました。プトレミイ3世は,エジプトから盗まれた神々を持ち帰つただけでなく,戦利品として2500を下らない「金銀の貴重な器物」を持ち帰りました。彼はキリスト前221年に死にました。それが自然の死であつたか,または殺されたのであるかは,分らず,その問題については,歴史は一致していません。しかし,彼は復讐を果したシリヤの王セレウカス2世よりは長く生き延びました。
27 なぜ北の王は,南の王の国に来て後に戻りましたか。
27 北の王は,この状態につけこんで何をしましたか。御使は,次のことを予めに告げました,「北の王は,南の王の国に討ち入るが,自分の国に帰るでしよう」。(ダニエル 11:9,新口)恥かしめを受けたセレウカス2世は復讐の反撃をして,南の王の国に攻め入りますが敗北します。キリスト前242年,彼は生き残つた僅かな数の軍隊と共に不面目な敗走を行い,シリヤの首都アンテオケに戻りました。彼の異名キャリニカス「栄誉に輝く勝利者」は,不適当な名前と判明しました。彼を恥ずかしめたエジプトのプトレミイ3世が死ぬ前に彼は死にました。そしてキャラウナス(「雷電」)という異名の彼の息子セレウカス3世が後継者になりました。セレウカス3世は暗殺されて,3年にも満たない彼の支配は突然終りました。彼の弟はアンテオケ3世としてシリヤの王位をつぎ「大王」と呼ばれるにいたりました。
28,29 (イ)北の王の長男には何が生じましたか。(ロ)次男はどのように進んで行つてみなぎりあふれ,また行つて憤激の行動をしました。
28 シリヤの王セレウカス2世キャリニカスのふたりの息子については,御使は次のように預言しました,「その子らはまた憤激して,あまたの大軍を集め,進んで行つて,みなぎりあふれ,通り過ぎるが,また行つて,その城にまで攻め寄せるでしよう。」― ダニエル 11:10,新口。
29 息子たちの一人,セレウカス3世(セラウナス)は,西方の小アジアに向つて軍事行動をしていたとき,暗殺者の刃にかかつて死にました。その弟であるもう一人の息子,アンテオカス3世大王は,大軍を集めて南の王の国を攻めました。そのとき南の王は,ヒロペイターという名前のプトレミイ4世でした。新しい北の王アンテオカス3世は,興隆してきたローマ強国と遂に戦うにいたりました。しかし,最初にエジプト人の占拠していたところを奪回するために軍勢をみちびいて行きました。そして,セルキヤの海港,コエレーシリヤ(シリヤ低地),ツロとプトレマイスの海港都市および近くの町々を取り戻しました。プトレミイ4世がさし向けた最初のエジプトの軍隊は,敗北しました。アンテオカス3世は,パレスチナのユダヤ地方の多数の都市を占拠しました。冬のあいだ勝利を得たアンテオカス3世は6万名の戦士とともにツロより約25マイル南方にあるプトレマイスの避寒地に行きました。翌年の春(キリスト前217年)彼は「また行つて,その城にまで攻め寄せる」ことをしました。
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