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  • 極寒地帯で「良いたより」を宣べ伝える
    ものみの塔 1974 | 6月1日
    • は時々,自分の夫ベイッコの許可を得て,他の村にまで伝道旅行に行きました。時には,かなり遠くの村にまで行くこともありました。こうした旅行は夏には徒歩で,また冬にはスキーを使って行なわれました。この姉妹は,スキーをはいて1日に2,30㌔走ることもありましたし,数日を要する旅行では合計100㌔も滑りました」。

      アホ姉妹は,人々のもとに行こうとしてどうしてそれほどの努力を払ったのでしょうか。それについて姉妹自身がこう説明しています。「すべての家を訪問しなければなりません。わたしたち夫婦はそのようにして見いだされたからです」。

      聖書の真理を学びたいという熱心な願い

      極寒地帯に住む人々の中には,神に関する真理を学びたいという熱心な願いをいだく謙そんな人が少なくありません。彼らは,地上に楽園が回復されるという考えに快く答え応じます。しかしこうした謙そんな人々に音信を伝えるには,多くの場合,わかりやすい説明やたとえ,また絵などが必要です。

      1972年と1973年の夏に,カナダ,ケベック州のセチルに住む二人の全時間奉仕者モリス・チャーランドとブライス・スミスは,同州の北東部にある27の村落を訪問しました。彼らはそこで,神の王国の「良いたより」に熱心に耳を傾ける人々を見いだしたでしょうか。二人はこう報告しています。

      「かなりの村人は音信を一度聞いただけでは満足しませんでした。彼らは,家から家を訪問するわたしたちのあとを,大きな列を成してついてきました。ある家では,あまりに大ぜいの人がいたため,かがんでカバンの中から文書を取り出すことさえ難しいほどでした。その家には,王国の音信を聞くために少なくとも30人の人が集まっていました」。

      アラスカのシャクトリクという小さな村で,一人のエホバの証人が年配のエスキモー人に話しかけました。そのエスキモー人は,数㌔離れたところで釣りをしている妻と孫たちを連れに行くため,雪ソリに乗ろうとしているところでした。しかし証人の訪問の目的を知ると,その人は自分の代わりに息子を迎えにやり,こう言いました。「これは,家族の者を迎えに行くことよりももっと重要です。どうぞ,中にお入りになって,全部話してください」。ほどなくしてこの人の妻が帰ってきました。彼女も,慰めを与える聖書の約束を聞いて非常に喜びました。兄弟がその家を去ろうとすると,二人は戸口のところに駆け寄って,「どうぞ,行かないでください。わたしたちは全部を聞きたいのです!」と言いました。

      時には,エホバの証人が一度訪問するだけで,真理を愛する人の関心を呼び起こすことがあります。1972年のこと,ノルウェー北部に住むあるポピュラー・ミュージック・バンドの年若いリーダーは,「神が偽ることのできない事柄」という本を手に入れました。この本を読んだ後,青年はさらに深く知りたいと思い,ノルウェーにあるものみの塔協会の事務所を訪れました。ボードに住む長老の住所を教えてもらったその青年は,半日がかりでその長老に会いに行きました。そして,たくさんの質問をして,その答えを得ました。話し合いは数時間にも及びましたが,青年はそれを聞き直すことができるように,テープに録音しました。ほどなくしてその青年は,バンドを解散し,教会から籍を抜き,それまで属していた政党から脱退しました。真理を初めて聞いた時からわずか数か月後の1972年6月に,この青年はバプテスマを受けてエホバの証人となりました。

      幾つかの困難

      極寒地帯に住む大多数の人々は,友好的で,聖書の真理を快く受け入れます。しかし,こうした地域で「良いたより」を宣べ伝えるにはある程度の困難も伴います。その一つは,現住民は多くの場合非常に内気で,真の関心を持っているのかどうか見定めることがむずかしいという点です。その結果,近所の人から異なって見られるような生活面での変化を遂げようとしない人がかなりいます。

      宗教上の偏見も難しい問題を引き起こす場合があります。フィンランドの北部に住むある僧職者は,新聞の紙上で,「エホバ主義者はプダスジェルビの厄介者である」と述べました。またこの僧職者は,エホバの証人は共産主義を教えていると言って,偽りの非難を浴びせました。こうした反対のために,その町に住む二人のエホバの証人は落ち着いた住まいを見つけるのに1年以上も探し回らなければなりませんでした。もう一つの例はある実業家に関するものです。その人は,「自分の所有している事務所で,エホバの証人が集会を開くのを許可した」という理由で,教会員の面前で3回公式の警告を受け,最後に破門されました。しかし,ものみの塔協会のフィンランド支部から最近寄せられた手紙によると,ある程度の反対はあるものの,「この地方に住むすべての人々に,『良いたより』が宣べ伝えられています」。

      反対者から,神の熱心なしもべへ

      しかし,反対が示される場合でさえ,「良いたより」は,正しく答え応じる人々の心に達しています。事実,以前に反対していた人が,今では熱心なエホバの証人になっている場合もあります。たとえば,ケベック州の東部に住んでいるあるエホバの証人は,既婚の若い男の人に会いました。その人は,エホバの証人は『自分の宗教を売りつけよう』としていると言って,初めのうちはエホバの証人に対する敵意をむき出しにしていました。しかし,イエスご自身も「村から村へ」良いたよりを宣べ伝えたことが説明されると,その人は,「とこしえの命に導く真理」という本を受け取りました。(ルカ 8:1; 13:22)彼はその本を一晩で読んでしまいました。そして証人に,土地のカトリック司祭と会合を持つことを提案しました。その会合は次のような結果に終わりました。

      「その司祭は非常に礼儀正しい人でした。わたしは,この青年が関心を持っている三位一体を初めとした問題に話題を向けていきました。司祭はたくさんの質問をしましたが,聖書に書かれていることにはいつでも同意しました。がまんしきれなくなった青年は,自己弁明するようにと司祭に強く勧めました。すると司祭はこう答えました。『自己弁明だって。あなたと同じように,わたしも真理を求めているのです』。

      「翌朝のミサのさいにこの司祭は,聖書を学びたいと思う人はエホバの証人と話すように勧めました。驚いたことに,それからわずか数か月後には,青年は聖書の真理を心から受け入れ,近所の人の家を戸別に訪問して,それを伝えるほどになっていました。前述の司祭がどうなったかは知りません。わたしたちが話し合った直後に,彼は別の教区に移されたからです」。

      もう一つの経験は,カナダの南部にある自分の家を出て,インディアンの間に真の兄弟愛と幸せを見いだそうとして北方にやって来たある男の人に関するものです。エホバの証人と会った時,その人は初め反対しました。しかし後に,「ものみの塔」誌の中の「良いたよりはどのように人類を一致させるか」という記事を読んで深い感銘を受け,家庭聖書研究を望むようになりました。そして数か月後に,この人はバプテスマを受けました。それからしばらくして,この以前の反対者は「良いたより」の全時間奉仕者となりました。聖書の真理を学ぶことについて,彼はどう感じていたでしょうか。彼自身,次のように語りました。「わたしが探し求めていたすべてのもの,つまり一致,平和,人種的偏見のない真のクリスチャン愛,不正のない世界がもたらされるという希望などを,わたしはエホバのみことばと地上の組織の中に見いだしました」。

      イエスが予告したように,良いたよりは人の住む全地で,そうです,人口のまばらな極寒地帯においてさえ宣べ伝えられています。

      「したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,柔和,そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなくゆるし合いなさい。エホバが惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたもそのようにしなさい。しかし,これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」― コロサイ 3:12-14。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1974 | 6月1日
    • 読者からの質問

      ● 聖書に言われているポルネイア(はなはだしい性の不道徳)には手淫も含まれますか。そして手淫は聖書が許す離婚の有効な根拠となりますか。―エクアドルの一読者より

      聖書には,手淫もしくは自涜のことについては何も述べられていません。また,ギリシャ語のポルネイアにこの行為の含まれることが暗示されている箇所もありません。

      手淫は明らかに清くない習慣です。そのことは次の事実からわかります。モーセの律法によると,無意識に精液を漏らした場合でも,その人は夕方まで汚れました。(レビ 15:16。申命 23:10,11)ですから,手淫による意識的な射精はそれ以上に汚れた行ないだったにちがいありません。しかし,ギリシャ語のポルネイアということばで呼ばれた,はなはだしい性の不道徳ほど重大な罪ではありませんでした。たとえば,モーセの律法のもとでは,姦淫,同性愛,獣姦(ポルネイアの変形)などは死罪でした。したがって生き残った配偶者に再婚の道を開きました。(レビ 20:10,13,15,16)しかしこれが手淫の場合にも適用されたことを示す証拠をあげることはできません。

      とはいえ,聖書は汚れた習慣をきびしく戒めています。霊感を受けた使徒パウロは仲間の信者に,「神はわたしたちを,汚れを容認してではなく,聖化に関連して召してくださったのです」と書き送りました。(テサロニケ第一 4:7)ですからクリスチャンは,手淫を含め,汚れた習慣をすべて避けるよう,いっしょうけんめいに努力すべきです。a

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