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  • あなたは本当に近づきやすい人ですか
    ものみの塔 1974 | 10月15日
    • とさえ思えるかもしれません。ところが,持ち出した人にとっては,それは非常に大きな問題なのかもしれません。中には,一見小さな事と思えるある種の問題を持ち出したことで子供を無視したり,あるいは子供を嘲笑したりさえして子供を「いらいらさせ」,気落ちさせる罪を犯す親がいます。長老たちは会衆内で自分たちが仕えている人たちに関して同様のことをしないよう警戒すべきでしょう。なぜなら,明らかにエホバ神はそのような方ではないからです。ヤコブ 1章5節が述べるとおり,エホバ神はご自分の高い見地からすれば確かに非常に小さな事がらと思える,わたしたちの問題に関してわたしたちに助けを与えるのを“惜しむ”ような方ではなく,そのような問題を持ってやって来たとして厄介に思ったり,わたしたちを非難したりせずにわたしたちの言うことを聞き,寛大な態度で援助してくださるのです。

      ある時のこと,ある親たちが子供たちを神のみ子のもとに連れてきました。イエスの弟子たちはそれをとどめさせようとしました。明らかに弟子たちは,『わたしたちの主人には専ら時間をかけ,注意を払うべきもっとずっと重要な事がらがある』と感じたのです。しかし,それを見たイエスはおこって弟子たちを叱責し,子供たちを両腕で抱いて,その求めに応じて子供たちを顧みられました。―マタイ 19:13,14。マルコ 10:13-16。

      イエスとそのみ父が残された立派な模範は,わたしたちもまた本当に近づきやすい者であることを示すよう,確かにわたしたちを動かすものです。そうするなら,わたしたちは神の会衆に宿る優れた精神,つまり暖かさや確信,愛や兄弟愛という真のクリスチャンの抱く霊の点で貢献できます。そうすれば,わたしたちは他の人びとにとって祝福となり,次いで豊かに祝福されるでしょう。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1974 | 10月15日
    • 読者からの質問

      ● 聖書の出エジプト記 4章11節には,『おふし みみしい めあき めしいなどを造る者はたれなるや 我エホバにあらずや』とあります。これは耳しいやめしいなどの欠陥は,すべての場合に神に責任があるという意味ですか。―アメリカの一読者より

      そうではありません。そうであるとすれば神の性質全体に反することになります。聖書はこう述べています。「悪い事がらでもって神が試練に遭うということはありえませんし,ご自身がだれかに試練を与えることもない(の)です」。(ヤコブ 1:13)神のなさることには常に目的があります。神がそれなりの理由なしに人に災いを下すことは決してありません。神は「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物」の源です。(ヤコブ 1:17)『そのみわざはまったく その道はみな正し またまことある神にましまして悪しきところ無し ただ正しくして直くいます』― 申命 32:4。

      以上のことと一致する点ですが,わたしたちが見るとおり,最初の人間夫婦アダムとエバが完全性を失い,またそれによって完全な子供を生む能力を失ったのは彼ら自身の選択の結果でした。(ヨブ 14:4)彼らの子孫が結婚してゆくにつれ,めしいや耳しいなど身体的な欠陥を含む数々の不完全性が人間のあいだにいっそう明らかになってきました。こうした事態を許されたがゆえに,エホバ神は,ご自身のことを,おし・耳しい・めしいなどを「造った」者と言えました。(ローマ 8:20,21と比較)その上,神は,そうした障害の状態とその原因について十分に理解しておられます。

      また,エホバ神は,不従順な行為が人体にもたらす悲惨な結果から人を保護することは行なってこられませんでした。神の不変の法則は,「なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになる」ということです。(ガラテア 6:7)そのため,近親相姦の結果として生まれる子供は,生まれつきの欠陥を持っていることがあります。そうした理由で生まれた時から,めしい・耳しい・その他の障害を持つ場合があるのです。性の不道徳行為にふける人は性病にかかり,その結果としてめしい,耳しい,あるいは狂気にさえなる場合もあります。性病にかかった女の人から生まれる子供についても同じことが言えるでしょう。

      その道と目的にかなっている場合,エホバ神は人を文字どおりめしい・耳しい・おしなどにならせることができます。バプテストのヨハネの父親ゼカリヤはこのことの一例です。年老いた妻エリサベツによって一人の息子の父親になるとの知らせに疑いを表明したゼカリヤに対して,み使いガブリエルはこう語りました。「これらのことが起きる日まで,あなたは黙ったままで語ることができないでしょう。わたしのことばを信じなかったからです。それは,定めの時に成就するのです」。(ルカ 1:20)その後ゼカリヤはしばらくの間おしになり,その子供が八日めに割礼を受けるまで話すことができませんでした。―使徒 13:8-11も参照。

      神がおし・耳しい・めしいなどを「造る」さらに別の方法は,霊的な意味においてです。もし人が神からの音信に対して耳しいやめしいになることを選ぶなら,神はそうした人々が不信に固執することを許されます。預言者イザヤの時代の不忠実なイスラエル人の場合がそれでした。イザヤはこう告げられました。『往きてこの民にかくのごとく告げよ なんぢら聞きてきけよされどさとらざるべし 見てみよされどしらざるべしと なんぢこの民のこころを鈍くし その耳をものうくし その眼をおほへ 恐らくは彼らその眼にて見その耳にてききその心にてさとり ひるがえりていやさるることあらん』― イザヤ 6:9,10。

      エホバ神は,不忠実なイスラエル人の心の状態を知っておられたので,ご自分の音信に対してその民が反抗することを予知しておられました。イザヤが彼らの注意をエホバのことばに向ければ向けるほど,彼らはそれに対して自らをかたくなにするのでした。こうしてイザヤの預言の業は,彼らが霊的な面でどこまでめしいであり耳しいであるかを表わし示しました。

      こうして,エホバ神が行なってこられた事,また行ないうる事がらに基づいて,聖書は,神がおし・耳しい・めしいなどを「造る」と述べているのです。しかし,そうした身体障害のすべてについて神が直接に責任をもっておられるという意味ではありません。そうした身体上の欠陥は,おもに,神が罪ある人類の存在を許されたことによってもたらされました。幾つかの場合に,そして特別の目的のもとに,エホバ神は実際のめしいやおしの状態を生じさせました。また,神のことばや音信に信仰を働かせない人々の霊的なめしいや耳しいの状態を明白にされたこともあります。一方,神は,ご意志を行なおうとする人々に霊的な視力や聴力を与えることもされました。そして,キリストによるその王国を通し人類をあらゆる身体障害から解放されるのです。―イザヤ 61:1,2。啓示 21:3,4。

      ● 今日,クリスチャンは,悪霊に取りつかれている人のために祈ることによって,悪霊を追い払ったり,追い出したりすることができますか。―アメリカの一読者より

      聖書は,悪霊の支配下からある人を解放するには,単にその人のために祈りをささげる以上の事がらが関係していることを示しています。

      確かに西暦一世紀当時,すべてではないにしても,あるクリスチャンたちは,悪霊を追い出す力を神の霊によって授けられました。(コリント第一 12:29,30。マタイ 10:8と比較)普通,このことは,悪霊に対して,その霊に取りつかれている人から出て行くよう,イエス・キリストの名において命ずることによって行なわれました。―使徒 16:16-18。使徒 19:13-16と比較。

      しかし,悪霊を即座に追い出し得る能力や他の奇跡的な霊の賜物は幾世紀にもわたってクリスチャンとともにずっと存続してゆくものであることを示す箇所は聖書には一つもありません。それとは逆に,奇跡的な賜物はなくなることになっていました。霊感を受けた使徒パウロは,次のように書きました。「預言の賜物があっても,それは廃され,異言があっても,それはやみ,知識[奇跡的に与えられた]があっても,それは廃されるのです」。(コリント第一 13:8)奇跡的な霊の賜物が他の人に譲り渡される場合はいつも,イエス・キリストによって直接選ばれた使徒たちが一人かそれ以上その場に居合わせました。(使徒 2:1,4,14; 8:9-20; 10:44-46; 19:6)ですから,そうした賜物を譲り渡すことは使徒たちの死とともに終わりを告げ,またその種の賜物を持っていた残りの人びとが亡くなるにつれて奇跡的な賜物自体もなくなったとの結論を下すのは理にかなったことです。

      その上,奇跡的な賜物が与えられた主な理由の一つは,それまではユダヤ人の会衆が神の是認を受けてきましたが今や,クリスチャン会衆が神の是認を受けるようになった事実を確証することにありました。(使徒 2:32,33,38-41。ヘブライ 2:1-4)今日では,その事実を確証するのに奇跡的な賜物は必要ではありません。今日のユダヤ人の会衆は,モーセの律法の要求を果たすことはできません。なぜならその会衆はアロンの家系の祭司を持ってはいませんし,エルサレムの昔の場所に神殿を持っているわけでもないからです。

      それにまた,どちらが神の是認を受けているかを確証する最も決定的な証拠は,外見上の奇跡的なわざを行なうことではありません。イエス・キリストは,次のように言われました。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしはあなたの名において預言し,あなたの名によって悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。でもその時,わたしは彼らにはっきり言います,わたしはいまだあなたがたを知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ」。(マタイ 7:21-23)ですから,イエスは,「不法を働く者たち」でさえ悪霊を追い払える場合があり得ることを示しています。明らかに,悪霊たちの長であるサタンは,そのような不法を「働く者」を一見「義の奉仕者」のように思わせる,そのような芸当を行なわせることでしょう。(コリント第二 11:13-15)しかしイエスは,ご自分の真の弟子を見分ける紛れもないしるしについて次のように言われました。「あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:35。

      今日,真のクリスチャンは悪霊を追い払う超人的,つまり神から与えられた何らかの力を持っていると主張してはいないにしても,このことは,悪霊に悩まされて苦しんでいる人を助けられないと言う意味ではありません。クリスチャンは,悪霊を即座に追い払おうとするのではなく,悪霊に取りつかれた人びとが悪霊の攻撃に抵抗する霊的な力を得られるよう祈ることができます。真のクリスチャンはまた,邪悪な霊の勢力に抵抗することに関して聖書が何と述べているかを指摘できます。(エフェソス 6:10-18)次いで,悪霊によって悩まされていると思う人は自分自身,そのような悩みからの解放を求めて個人的に努力し,聖書の助言に誠実に従いたいと願わねばなりません。そうすれば,自分たちの誠実な断固とした努力をエホバが祝福してくださるとの確信をいだけるでしょう。(ヤコブ 4:7)これまでの個々の事例は,多くの人びとがそのようにして悪霊の攻撃から解放されたことを示しています。

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