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現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本ものみの塔 1974 | 1月15日
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た開拓者たちでした。ドン・ハズレットは1966年2月20日に最後の息を引き取り,亡くなりました。葬儀の時に彼のひつぎを運んだ6人の兄弟たちは,ドンと個人的に聖書を勉強した青年たちで,当時全員が開拓奉仕に携わっており,後にベテルで奉仕しました。メーブル・ハズレットは東京支部の宣教者ホームで,引き続き宣教者として奉仕しています。メーブルは今78歳ですが,依然,奉仕に毎月100時間近くを費やし,新しい人びとが真理の知識を得るよう助けています。
しかし,拡大はさらに進んでいます。外人の宣教者によって開始された業は,今や日本人の開拓奉仕者の大きな一団によって押し進められています。ほとんど毎月のように,正規開拓者の新最高数が得られ,100名以上の新しい開拓者が名簿に載せられる月さえあります。右に掲げる表は,その年の4月に得られた奉仕者の最高数です。この表から,開拓奉仕の面における進歩の様子をある程度知ることができます。
1973年の9月には,5,491人という開拓者の最高数に達しました。その月には,伝道者4人につき1人以上が開拓奉仕に携わったことになります。現在こうした開拓者が多数,人口3万から5万のまだ伝道されていない都市に出かけて行くことを求める招待に答え応じています。そのうえ,会衆の伝道者は真の開拓者精神をいだいて働いています。そのことは,1973年8月の伝道者の野外奉仕平均: 19.5時間の奉仕時間,8.7の再訪問,1.1以上の聖書研究および18.0冊の雑誌配布の記録からも明らかです。エホバは,こうした熱意を祝福してくださっています。1963年10月に現在の東京支部が仕事を開始した当時日本には106の会衆がありましたが,今では日本の709個所でエホバの証人が働いており,組織の新しい取決めによってそのほとんどすべてが会衆です。ですから,支部の仕事は10年前の約5倍にも増えています。親切にも,ものみの塔協会の会長ノア兄弟はこうした進歩に正しく対処できるよう助けを備えるために,日本支部の活動をわたしたちが想像もしていなかったほど大きな規模に拡大することを取り決めました。
(この続きは次号に載せられます)
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読者からの質問ものみの塔 1974 | 1月15日
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読者からの質問
● 自分の注意を良い事がらに向けようと努力している時でさえ,悪い考えが時々思いに浮かぶのはなぜですか。―アメリカの一読者より
それは人間が罪のうちに生まれ,不完全だからです。ヨハネ第一 1章8節にはこう書かれています。「『自分には罪がない』と言うなら,わたしたちは自分を惑わしているのであり,真理はわたしたちのうちにありません」。神に献身していた使徒パウロは,悪い性向に関連した自分自身の戦いについてこう書きました。「そこでわたしは,自分の場合にこの法則を見いだします。自分では正しいことをしたいと願うのに,悪が自分にあるということです。わたしは,内なる人にしたがえば神の律法をほんとうに喜んでいますが,自分の肢体の中では別の律法がわたしの思いの律法と戦い,わたしをとりこにして肢体の中にある罪の律法へと引いて行くのを見ます」。このことは,使徒パウロをかなり惨めな思いにさせました。―ローマ 7:21-24。
わたしたちはパウロと同様,神の求めに完全に付き従おうとするわたしたちを妨げる,罪深い欲望や情欲と戦わなければなりません。わたしたちは正しい事を行ないたいと真に願っているかもしれませんが,罪深い肉的な性向にじゃまされてそのようにできないでいる自分に繰り返し気づきます。神の律法の義と正当性を認識しているわたしたちは,その律法のうちに真の喜びと満足を見いだします。しかし,それにもかかわらず,わたしたちは環境に刺激されて何らかの行為に駆り立てられることがありますし,悪い考えをわたしたちの頭の中にかもし出すような事がらが生じることもあるのです。自分でしたいと思っていることを十分に行なえないという事実はわたしたちの内に苦しい戦いを引き起こします。そうではあっても,わたしたちはパウロの場合のように,キリストの犠牲に基づいて罪からの許しを得ることができ,それによって神と人との前に清い良心を保てます。
また,わたしたちが自分の身を神の霊の導きに委ねるなら,わたしたちは罪を習わしにする者とはなりません。ガラテア 5章16節にはこう書かれています。「霊によって歩んでゆきなさい。そうすれば,肉の欲望を遂げることは決してありません」。つまり,罪深い肉的な欲望が思いの中に『突如浮かぶ』ことがあっても,わたしたちはそれを退けて,そうした欲望を充足させたり,果たしたりはしません。わたしたちは,自分のうちに宿る罪の傾向を考慮に入れて,悪い欲望が心の中に根を張り,それがはらんで罪を産むことがないように,絶えず懸命な努力を払わなければなりません。(ヤコブ 1:14,15)自分の経験を通して,使徒パウロはわたしたちにこうさとしました。「[わたしは]自分の体を打ちたたき,奴隷として連れて行くのです。それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないためです」― コリント第一 9:27。
わたしたちは,クリスチャンを正しい道からそらして,悪い考えを思いめぐらすようにさせることを望んでいる邪悪な霊の勢力,つまり悪霊がいることも常に念頭に置いているべきです。わたしたちは,自分の身が悪霊たちの影響下に入るのを許してはならず,彼らに抵抗すべきです。「わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,……邪悪な霊の勢力に対するもの……です」― エフェソス 6:12。
わたしたちは,自分の考えや欲望を絶えず制御するための助けをどのようにして得ることができるでしょうか。わたしたちは誘惑をもたらすような交わりや環境を避けなければなりません。万一,悪い欲望や考えが思いに浮かぶなら,わたしたちはそれに従ってはならず,身を徹して抵抗すべきです。直ちに考えを変えるように努めて,自分の思いを正しいことや築き上げることに集中させるべきです。神のことばはこう勧めています。「なんであれ真実なこと,なんであれまじめなこと,なんであれ義にかなっていること,なんであれ貞潔なこと,なんであれ愛すべきこと,なんであれよく言われること,またなんであれ徳とされることや賞賛すべきことがあれば,そうしたことを考えつづけなさい」― フィリピ 4:8。
エホバ神に助けを願い求めることも重要です。わたしたちは,悪い欲望や罪深い傾向の情欲がわたしたちを支配することがないように,神がわたしたちを助けてくださるとの確信を持てます。神は,わたしたちが試練に対処するのに必要な知恵を与えてくださいますし,またご自分の霊を働かせて,わたしたちの思いに良い行状を保つことに関する聖書にかなった理性を取り戻させ,その結果正しいことを行なうようにわたしたちを動かしてくださいます。(フィリピ 4:6,7。ヤコブ 1:5)さらに,悪い考えや欲望に悩まされている人は,エホバのクリスチャン会衆内の霊的な資格を備えた長老たちから聖書に基づく助けを得ることができます。―ヤコブ 5:14,15。
● 輸血を受けないという自分の決意に反した法廷命令を受けて輸血を施される場合,その人は血の神聖さに関する神の律法を破った罪に問われないでしょうか。―アメリカの一読者より
それは種々の事情に依存しています。もちろん,いかなる法廷命令も至高の立法者であるエホバ神の律法を無効にすることはできません。(使徒 5:29)たとえ法廷が命令したとしても,殺人や恐かつを働いたり,圧力に屈して姦淫を犯したりする行為をクリスチャンが正当化できないのは明白です。
では,法廷命令に基づく輸血のような場合,何がその人に責任をもたらしますか。機会があった時に説得しようとせず,その後も輸血に反対しなかったことが,不本位な輸血を招いた一因となった場合もあります。何人かの判事の裁決に重大な影響を与えたひとつの要因は患者の信念,つまりその人が神の前に負っている責務感でした。ですから,法廷命令に基づく輸血に患者が反対するという意志表示が全くなされない場合,判事はたいてい,医師や病院の訴えをいっそう簡単に認める傾向があります。
法廷命令に基づく輸血の可能性が生じた時,多くのエホバのクリスチャン証人は,神の律法を破る危険を避ける手段を講じました。中には家族や親族の人を,神の律法を破らない医療を施している他の病院に移せた人もいます。患者の容体が非常に危険で死ぬ恐れがあるなら,たとえ短日時であっても病院から出すことは事実上不可能ですから,明らかにこの方法は取れません。
もちろん中には,神の律法のそうした違犯を食い止めるための精神的また肉体的手段を失ってしまった人もいることでしょう。その人は意識を失ってさえいるかもしれません。あらゆる努力を払ったにもかかわらず,輸血が強要されるのであれば,その人はエホバのあわれみを信じつつ問題をエホバのみ手に委ねるべきです。このような場合,その人の置かれている立場は,絶えず叫び声を上げ,力のかぎり暴漢に抵抗しているにもかかわらず犯されてしまう婦人の立場と似ています。モーセの律法によると,そのような婦人には罪がありませんでした。(申命 22:25-27)しかし,もしその婦人が叫び声を上げなかったなら,彼女には非難されるべき点がありました。(申命 22:23,24)したがって神は,今日のクリスチャンが血に関するご自分の律法の違犯に加担することがないよう,(神のみことば聖書に反さない)可能なあらゆる手段を講じることを望んでおられます。
● もし,以前に神に対する誓いをし,今になってそれが賢明でなかったとわかる場合,その人はその誓いを引き続き守らなければなりませんか。―アメリカの一読者より
それは,誓いの性質や,誓いをした時のその人の状況に左右されます。しかしまず最初に,聖書的な意味における「誓い」とは何であるかを考えてみることにしましょう。
聖書の中に記録されている誓いは,人間あるいは人間の一団に対してではなく,神に対してなされた厳粛な約束でした。また,聖書に記されているすべての誓いが常に条件付きであったということも特異な点です。つまり誓いをする人は,事実上神に対して次のように言ったことになります。『もしあなたがこのように(おそらく,重大な危険から救い出してもらうこととか,ある程度の努力を払うことにより,成功や勝利を与えてくださるといったことを)してくださるなら,わたしはこのようにします』。もし神がその人のために行動されたなら,誓いをした人は,自分の約束した事がらを履行すべき責務を負うことになりました。多くの場合誓いを果たすことには,動物の犠牲を捧げたり,財産のいくらかを神の奉仕のために献納したりすることが含まれていました。(レビ 7:16; 22:21)誓いをした人が,その約束の履行を ― 神の助けによって ― 特定な望みが達成される時まで控える旨,誓いに含めていたため,誓いの条件が考慮される場合もありました。―次の聖句を比較してください。創世 28:20-22。民数 21:2,3; 30:2-4。士師 11:30-39。サムエル前 1:11。詩 132:1-5。
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