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  • 世界を一周 ―「永遠の福音」大会とともに
    ものみの塔 1964 | 1月1日
    • 週大会に1万6267名の新しい奉仕者がバプテスマを受け,57万932名が集まって公開講演を聞いたのです!

      ですからノア兄弟は,献身したクリスチャンの大聴衆に向かい,エホバ神がご自身の組織に集めておられる羊のような人々の世話をよくして,自分の責任を全うするように激励しました。またノア兄弟は,宣教者の精神にならうように彼らを励ましました。各大会をとおして805名の宣教者が出席していました。将来の大会の計画をあらまし述べたのち,ノア兄弟は,エホバの組織に固くつき従うようにとの心のこもったすすめをもって,世界一周大会の幕を閉じました。

      世界一周旅行と直接関係のなかった都市でも大会の開かれたところがありました。115名が公開講演を聞いたイスラエルのハイフア,702名が「神が全地の王となるとき」を聞いて歓喜したキプロス島のニコシアでの大会などがそれです。すべての詳細な事柄については,間もなく出版される,写真のたくさんのった200ページの大会報告に説明されているでしょう。

      たしかに全世界の多数の人はこの叙事詩的な「永遠の福音」大会の益を楽しみました。また世界を一周した大会参加者にとって,新世社会が全世界に拡大しているありさまを見るのはすばらしいことでした。多くの人が神の真理を知りました。彼らは大いなるバビロンの束縛から解放されたことを心から喜んでいます。そして「永遠の福音」にあずかってエホバに賛美をささげ,楽しい生活を送っています。

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1964 | 1月1日
    • 読者よりの質問

      ● マタイ伝 24章19節は,クリスチャン会衆内の人にあてはまるのですか,それとも会衆外の人にあてはまるのですか。―アメリカの一読者より

      キリストの預言した患難の時が臨むゆえに,妊娠した婦人また乳のみ子を持つ婦人は大きな苦しみを味わいます。マタイ伝 24章19節においてキリストは言われました,「その日には妊りたる者と乳を哺する者とはわざはひなるかな」。西暦70年ローマの軍隊がエルサレムを襲い,ユダヤ人をほとんど壊滅させたとき,みごもった者と乳を飲ませる者はキリストの言葉にたがわず大きな苦しみをなめました。何千人の人が苦しんで死にました。食糧不足が甚しく,それだけでも悲さんな状態でした。暴徒と化したユダヤ人が同じユダヤ人に加えた仕うちについて,ヨセハスは次のように書いています。

      「自分の食糧を確保した老人は打たれ,あるだけのものを隠した女は髪の毛をひき抜かれた。老人も子供も容赦されなかった。彼らは,わずかな食物にかじりついた子供のえり首をつかんで持ちあげ,手に持った食物をはなすまで子供をゆさぶった」― ユダヤ人の戦争,第5巻10章3節。

      自分の目の前で子供,乳のみ子さえもがひどい目にあうのを見た母親の気持を考えてごらんなさい。また目の前で自分の子供を殺された母親の恐怖を考えてごらんなさい。そのような事さえ起きたのです。自分の愛する者,家族を思いやるのは,女の入の自然な情です。子供たちの安全や生命がおびやかされる恐ろしい事態に面した時,その心配はどんなに大きいことでしょう。それで当時の女の人の苦しみを小さなものと考えてはなりません。妊娠した女の人にとって事態は更に困難でした。災に見舞われるとき,子供を守ろうとする母親の本能はいっそう強くなります。ですから1世紀のエルサレムにいて子供が残酷な仕打ちにあり,苦しめられるのを目撃した母親の大きな苦しみ,救いようのない絶望感は容易に想像できます。たしかにそれは,みごもった者と乳を飲ませる者にとって災の時でした。

      人は母親の愛情を容易に理解できます。たとえばパウロは,テサロニケのクリスチャンに対するその情を次の言葉で表わしています,「汝らの中にあって優しきこと,母の己が子を育てやしなふ如くなりき」。(テサロニケ前 2:7)危機に臨んで子供の身を案ずる妊娠中の婦人また乳のみ子をかゝえた婦人の気持は,容易に想像できます。それでマタイ伝 24章19節において,イエスは起ころうとする事柄が人々にとってどんなに苦しいものかを説明するためきわめて人間的な,したがって理解できる言葉を使われたのです。前途には非常に苦しい時がありました。

      身ごもった女また乳のみ子を持つ女が災であるといわれたイエスの言葉は,今日もあてはまります。この預言は,終りの時であるいま,大きな成就を見ています。そしてイエスの言葉は,クリスチャン会衆の中の人にも外の人にもあてはまるのです。ハルマゲドンにおけるこの古い世の終りが近づくにつれ,前途にあるのは患難また災の時です。それはだれにとっても容易な時ではありません。

      しかしマタイ伝 24章19節のイエス・キリストの言葉は,クリスチャンの夫婦が終りの時に子供をもつことの是非を論じているのではありません。そのことに注意して下さい。子供を持つことは今日のクリスチャンに命ぜられていません。しかし子供を持つな,という命令もありません。これはそれぞれの夫婦が決める問題であり,当事者だけの問題です。―ガラテヤ 6:5。

      この世が終りに近づくにつれ,すべての人は容易でない時を迎えます。妊娠中の婦人や乳のみ子をかかえた婦人も,決してその例外ではありません。身ごもっている人や乳のみ子を持つ婦人の場合,その事情が妨げとなってこの世から逃れられず,またキリストを通して神に献身することもせずに終るならば,神の保護を得そこなうことになります。しかし時があるうちに安全なエホバの「山」に逃れる母親は保護されます。たしかに苦しい時に遭遇するでしょう。しかしエホバの保護は母親と乳のみ子また胎内の子供にも及ぶのです。

      ● マタイの時代にヘブル語はすたれていたのに,ものみの塔の出版物はなぜマタイが最初ヘブル語で福音書を書いたと述べているのですか。―アメリカの一読者より

      マタイが最初ヘブル語で福音書を書いたと信じてよい理由はいくつかあります。その一つは,ヘブル語が死語だったと考えられないことです。G・アーネスト・ライトは自著「聖書の考古学<ビブリカル・アキオロジー>」(240頁)の中で次のように指摘していています。「ローマの兵士や役人はラテン語で話したかもしれない。しかし正統派のユダヤ人の間では,後期のヘブル語,すなわち古典ヘブル語と,アラムに似ていながらそのどちらでもない言葉,が使われたに違いない」。また,アルバート・エドワード・バイレーは「聖書時代の日常生活」という本の中で,ゼベダイの子ヤコブの時代におけるユダヤ人の青少年の訓練を生き生きと描いています。

      「男の子は非常に幼い時から神を敬うことを教えられた。これは彼らが神の律法を知っていることを意味した。彼らは律法を読み,書き,またそれをはっきり説明することによってそのことを示した。…男の子たちは教師のほうに向いて半円形に地面にすわった。その場所でヤコブは,レビ記からはじまる律法をヘブル語で教えられたのである。もし神によみせられるように生活を律することを願うなら,ユダヤ人はすべてその律法の内容を知る必要があった。そして敬けんな態度で,正確に言葉を発音しなければならなかった。ヘブル語はユダヤ人にとってなじみのうすい言葉だった。というのは,家にいる時や遊ぶ時にはアラム語を使い,家業を始めるようになるとギリシャ語を使わねばならなかったからである。ヘブル語は会堂だけで使う言葉だった。…字が読めるようになると次に書くことを習った。ヘブル語を習うこともあったが,アラム語は必ず習った」。―248,249頁。

      マタイが最初ヘブル語で福音書を書いた証拠についていえば,西暦2世紀から4世紀までの著述家たちが述べた言葉がたくさんあります。そのいくつかをここにあげますと,1世紀と2世紀に住んでいたパピアスは次のように書いています。「マタイは〔主の〕さとしをヘブル語でまとめた」。(「ニケア以前の教父<ザ・アンテ・ナイシンファーザース>」第1巻,155頁)2世紀と3世紀のオリゲンは,マタイの福音書は,「ユダヤ人の信者のためにつくられて,ヘブルの文字で書かれた」。(「マクリントック・アンド・ストロング・エンサイクロピディア第5巻,890頁)この事典にはまた,3世紀

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