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    ものみの塔 1973 | 12月15日
    • のこの地域大会の公開講演には536人が集まりました。

      1957年にはいってまもなく,ものみの塔協会の副会長フレッド・W・フランズが日本を訪問しました。それは,その後何度か行なわれた同兄弟の日本訪問の最初のものでした。

      寒い冬のさなかの1月22日から24日にかけて,日本各地の兄弟たちは京都の岡崎公会堂に集まりました。出席者は日を追って増加し,日曜日晩の副会長の公開講演には605人もの聴衆が出席しました。1月30日の晩,フランズ兄弟は東京の渋谷区公会堂で日本の兄弟たちにさらに話を行ない,その時は446人が出席しました。日本の伝道者たちはこの特別の訪問を感謝したでしょうか。1月から8月にかけて野外の伝道者の数は増加し,645人から843人になりました。その結果,1957奉仕年度の伝道者は54%も増加することになりました。

      日本における王国の拡大の別の里程標となったものは,1963年8月21日から25日にかけて京都で開催された「永遠の福音」大会でした。140万以上の人口を擁し,1,500の寺院と3,500の神社のある京都は日本文化の中心地の一つとしてよく知られており,この理由で第二次大戦中は爆撃を免れました。京都は幅の広い街路や大きな並木道のある近代都市ですが,同時に古風な日本家屋や美しいながめの庭園を備え,日本古来のふん囲気を漂わせています。京都は,世界中の訪問者のやって来る理想的な大会都市でした。訪問者たちはいろいろな場所を見物している間に,キリスト教世界の信条や儀式の多くが仏教のそれと非常によく似ていることを知り,興味をそそられました。そうした信条や儀式としては,たとえば,火の燃える地獄の教理,意味のわからないことばを繰り返し唱えて祈ること,じゅず,聖水,ろうそくの使用,後光をいただいた“聖人”の崇拝などがあります。確かに,すべての宗派的宗教は古代バビロンという,ただ一つの源に起源を発しています。

      (この続きは次号に載せられます)

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1973 | 12月15日
    • 読者からの質問

      ● ガラテヤ書 5章19節の「不品行」ということばは何を意味していますか。―アメリカの一読者より。

      (ギリシャ語,アセルゲイアに由来する)この語は程度の軽い,あるいはそれほどはなはだしい仕方で犯されたのではない不道徳を指すと推測する人がいるかもしれません。しかし,聖書や,このことばの出ている古代ギリシャ語の一般の文献から得た証拠に照らしてみると,こうした推論は正しいと言えません。このことばは性的な不道徳行為だけに限って適用されるのではありません。それは何かささいな,あるいは程度の軽い性質の悪行を指しているのではなく,むしろ恥知らずな態度を表わす行為,または規範や法律や権威に対して不敬を示したり,それらを無視したり,さらにはべっ視さえしたりする行為のことを明らかに述べています。ですから,行状の『不品行性』は主として弱さによるのではなく,不敬,ごうまん,または恥知らずな態度に基づいています。

      この点を支持するものとして,ギリシャ語の辞典はアセルゲイア(およびこのことばの他の語形)をこう定義しています。「非道な行為」「放縦,抑制されない暴力」「ごうまん」「野卑な悪口」「獣性」(リデルおよびスコット);「あらゆる面(例,ことば,行状)に関する不節制,たんでき,ごうまん」(ロビンソン);「放逸な肉欲,……非道,恥知らず」(セヤー);「抑制されない不法でごうまんなふるまい」(トレンチ)また,バークレイ編の新約聖書語彙集にはこう書かれています。「プラトンは[アセルゲイア]を『無遠慮な行ない』の意味で用いた。……このことばは,『侮辱的言動やあつかましい態度を伴う暴力』と定義できる。……それは,抑制されることの全くない精神,また移り気で放縦なごうまんさを連想させる行為をあえて行なう精神を示す」。

      西暦1世紀のユダヤ人の歴史家ヨセハスは,異教徒の女王イゼベルがエルサレムにバアルの宮を建てたことを記述するにさいしてこの語(アセルゲイア)を用いました。こうした行為は驚くべき侮辱行為,つまり恥知らずにも世論や良識を侮る行為でした。

      一般のギリシャ語文献に見られるアセルゲイアの使用法は,クリスチャン・ギリシャ語聖書におけるこの語の用法とも対応しています。たとえば,使徒パウロは諸国民について語ったさい,彼らは「その心の無感覚さ」のために,「いっさいの道徳感覚を通り越し,貪欲にもあらゆる汚れを行なおうとして,身を不品行[アセルゲイア]にゆだね」るようになった,と述べました。(エペソ 4:17-19,新)使徒ペテロはアセルゲイアを,「欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝」など,人びとを「放とうの下劣なよどみ」に導く諸国民の慣行と関連づけています。(ペテロ前 4:3,4,新)また,ソドムの住民の行為に苦しんでいたロトについて言及したさい,使徒は,「不品行」を行なうソドムの人びとの「不法」の態度を強調し,当時の特定の人びとを『向こう見ずかつ片意地』で「主たる者の地位を見下」し,栄光ある者たちを「あしざまに言う」ことを恐れず,『なんの益にもならない大言を吐く』者たちと対照させています。(ペテロ後 2:7-10,18,新)こうした表現のすべては,ギリシャ語アセルゲイアの語感には恥知らずで放縦な行状という概念が関係していることをよく示しています。

      同様に,弟子ユダは,神の過分のご親切を「不品行の口実」にする不敬虔な者たちについて書き,義の権威に対する彼らの不敬で,侮べつ的かつごうまんな態度を強調しました。性的またはその他の不道徳によって『肉を汚した』ことだけでなく,『主たる者の地位を無視し,栄光ある者たちをあしざまに言った』ことなどもすべて「不品行」でした。彼らは,「動物的な人間であり,霊性を備えていません」。―ユダ 4-8,19。

      今日,アセルゲイアということばで示されているこの態度は世界じゅうで非常に顕著になっています。すべての束縛をかなぐり捨て,社会風俗を踏みにじるのをなんとも思わず,権威をごうまんにも侮り,親や他の人びとをあしざまに言う若者は少なくありません。しかし,若者だけがそうしているのではありません。劇場や映画館,また雑誌の中には,あからさまな裸体や性交場面だけでなく,卑わいでわいせつ的な話を伴ったサディスト的な野蛮行為も演じられたり,掲載されたりしています。聖書的な意味において,こうしたことがらすべては「不品行」になります。

      しかし,「不品行」(アセルゲイア)が「淫行」(ポルネイア)および「汚れ」(アカタルシア)と組み合わさって言及されている個所が幾つかあることに気づかれるでしょう。(コリント後 12:21,ガラテア 5:19,新。ロマ書 13章13節[新]と比べてください。)これらのことばはどのように異なっていますか。

      これら3つのことばのうち,「汚れ」(アカタルシア)が最も意味の幅の広いことばです。たとえば,ポルネイアと違って,「汚れ」には性的な不道徳だけでなく,話,行為,あるいは霊的な関係におけるあらゆる種類の不浄が含まれます。(テサロニケ前 2:3。コリント前 7:14。コリント後 6:17と比べてください。)さらに,アセルゲイアと違って,このことばの適用は汚れている人の動機や態度に依存しません。また,「汚れ」はその重大さやゆゆしさの度合いに幅の広い範囲を許しています。ちょうど,衣服がわずかに汚れていることもあれば非常にきたないこともあり,それによってその人の「汚れ」は程度の軽いものであったり,ゆゆしいものであったりするのと同じです。このことばは,悪行や悪い状態の鼻持ちならない性質を強調しているという点に基本的な特徴を備えています。

      一方,「淫行」(ポルネイア)はもっと限られていて,厳密に性的な性質のゆゆしい不道徳行為のことを述べています。すべてのポルネイアはもちろん汚れていますが,この特定なギリシャ語は行為のみだらで不正な性質を強調しています。それはちょうど売春宿で行なわれているような行為のことであり,たとえそれが売春宿以外の所で行なわれたとしても「淫行」と呼びます。

      「不品行」(アセルゲイア)は性的不道徳に限定されていないという点で「汚れ」と似ていますが,行為の放縦さと恥知らずのごうまんさを強調している点でそれと異なっています。ですから ― これらのことばはみな悪行に関係しており,時には互いに重複する意味を持つこともあるものの,それぞれのことばには独特の語感や鋭さ,また強意のあることがわかります。

      この点を指摘して,バークレーの新約聖書語彙集は聖書およびギリシャ語学者ライトフットの次の説明を引用しています。「ある人が『汚れて』(アカタルトス[アカタルシアの形容詞形])おり,しかもその罪を隠している場合,その人はアセルゲース([アセルゲイアの]形容詞形)であり,風俗を乱している。ここにアセルゲイアの本質がある。つまり,その魂にアセルゲイアが宿っている人は……自分の邪悪な欲望を充足できるかぎり,他の人が何を言おうが,また何を考えようが気にかけない。……たいていの人には自分の罪を隠そうとする意識が残っているが,アセルゲースな者はそうした意識も捨て去ってしまっている」。

      これを実際の例で示すために,婚約中のクリスチャンのある男女が互いに愛情を示し合っている時に思わず,清さと慎みに欠ける行為をしてしまう場合を考えてみましょう。聖書がポルネイア(ゆゆしい性的不道徳)と呼んでいる罪を犯してはいないものの,婚約中のそのふたりは,熱情的なしかたで抱擁し合ったり,手がいつのまにか陰部に触れてしまったりすることにより,ある程度「汚れ」た者となります。ふたりはそのことを恥じて,二度とそのようなことは繰り返すまいと決意します。では,彼らは「不品行」(アセルゲイア)の罪を犯したと言えるでしょうか。

      そのことば本来の聖書的意味からすれば,彼らは「不品行」を犯していません。なぜなら,彼らは故意に,また軽べつ的な態度で義の規範を侮ったのではないからです。もちろん,もしふたりがそうしたみだらな行為を意識的に行なったのであれば,それは清い事がらを意に介さない態度,つまりアセルゲイアの示す恥知らずで不敬な態度の表われです。ですから,ある若者が結婚するという健全な意図を持っていないにもかかわらず,利己的にも女性に言い寄り,その少女と ― あるいは次々と相手を変えて ―『ヘビー・ペッティング』をすることは,聖書が「不品行」と定義している放縦な貪欲の表われであると言えます。そうした若者は,自分がどれほどの害や苦痛を引き起こしているかを全く意に介していません。同様の歩みをする少女についても同じことが言えます。

      ですから,クリスチャン会衆内の霊的な監督の任についている人びとが,聖書に出てくるこれらのことばの違いを理解しておくのはよいことです。悪行の問題の取り扱い方に関するクリスチャン会衆の長老たちの決定は,こうした理解に影響される場合があります。それは,犯された行為のゆゆしさの度合いをより鮮明に把握する上で,長老たちの助けとなります。理性的な判断力を働かせ,また環境や事情や態度を考量することがどんなに大切かをも知ることができます。

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