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  • 『こうべを上げ』て救いを知らせる
    ものみの塔 1969 | 6月15日
    • 二人は大喜びし,どこで買ったのかと尋ねたので,姉妹は自分の畑で作っていることを話し,二人の依頼に喜んで応じ,その家にイチゴを届ける約束をしました。こうして姉妹は,知りたいと思っていた事柄を知ることができたのです。数日後,二人の家を訪問した姉妹はやがて聖書について話し合いました。すると突然,主人は,「特にお見せしたいものがあります。だれにも言わないでくださいね」と言って,「ハルマゲドンを生き残って神の新しい世へ」と題する,ものみの塔協会の本を姉妹に渡したのです。姉妹はたいへん驚きました。その本を使って聖書研究が始められ,いまその伝道者は,この夫婦がエホバの賛美者に仲間入りする日を待ち望んでいます。

      ハンガリー

      昨奉仕年度中,ハンガリーの兄弟たちは熱心に働き,その努力は祝福されました。御国のわざは非常に発展し,多くの人々がキリストの弟子になりました。政府当局はわたしたちのわざに対してむしろ寛大な態度を取ってきましたが,新聞は依然としてエホバの証人に対する中傷的な記事を掲載しています。

      家庭が分裂している場合,真理の側にある配偶者は激しい試練に直面する場合があります。しかし次の一姉妹の経験が示すように,忍耐と寛容を保てば,いつかは実を結ぶでしょう。その姉妹の住んでいる村では,兄弟たちがこれまでに宗教上の熱狂的な反対を受け,真理のゆえに死の脅迫さえ受けました。姉妹とその夫は姉妹の父親と一緒に住んでいますが,特にその父親は真理に激しく反対していました。それで義理のむすこをそそのかしてエホバの証人を憎ませ,さらに義理のむすこの妻,つまり自分の実の娘をも憎ませたのです。こうして義理のむすこは妻に残忍な仕打ちを加えるようになり,妻をなぐってしばしば失神させるほどでした。しかし姉妹はエホバへの忠実を保ち,しかも幾年ものあいだ愛と忍耐とをもって夫に仕えました。あるときには父親と夫を前にして優しい,しかし確固とした態度で「お望みなら,わたしを殺してください。しかし,たとえ殺されようとわたしはエホバにより頼みます」と述べました。夫はその村の司祭の片腕として信頼されていました。なぜなら,自分の妻さえ容赦しないほどにエホバの証人を憎み,自分の教会のために戦ってきたことをその司祭は知っていたからです。その夫は自分の教会のためにあまりにも熱心に尽くしたため,近隣の村の司祭さえその働きを模範としてほめるほどでした。

      ある日,その夫が司祭と個人的に話し合った際,司祭は聖書について話し,聖書を手にしてはならないと語りました。このことばに大きに衝撃を受けた熱心な教会のこの支持者は「では,聖書を読むのは罪ですか」と司祭に問い正しました。司祭は,それは罪ではないが,もし聖書を読めば,やがて妻と同様の信仰をいだくことになるだろうと答えました。すると夫は,ひどい仕打ちを加えてきたにもかかわらず,妻がいつもいかに愛と忍耐を示してきたかを司祭に告げ,聖書を読んでそれほどのひととなりが築かれるのであれば,聖書を読むのは有益なことではないかと話しました。こうして教会のために尽力することをやめ,神の国について妻が語るのを聞き,集会に出席しはじめ,やがて真理を伝道するようになりました。今では司祭は彼にあいさつさえしなくなりました。会衆の兄弟たちはかつてそれほど真理を憎んでいた人が集会に出席するのを見て大いに喜んでいます。これは不信者の配偶者を持つ姉妹たちすべてにとって,確固とした立場を保ち,忍耐し続けるための大きな励みとなっています。憎しみをいだいていたその父親はどうなりましたか。彼はハンガリーを去って親類を尋ね,そこで死にました。こうしてこの姉妹の事情は一変してしまいました。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1969 | 6月15日
    • 読者からの質問

      ● テモテ前書 2章15節の使徒パウロのことばによれば,女は「子を生むことによって救はるべし」とあります。これはどういう意味ですか。

      ここでパウロは霊感の下に,女性としての正しい態度や働きについて論じています。クリスチャンの妻の身の守りとなる尊い役目の一つは子供を養育することです。パウロはこう書きました。「女は,健全な考えを持ち,信仰と愛と清さとを保つなら,子供を生むことによって守られるであろう」― テモテ前 2:15,新。

      しかしR・A・ノックス訳のこの句は,出産そのものが女性に永遠の救いをもたらすかのようにとれますが,それはこの句の正しい意味ではありません。男女を問わず,人は,主イエスを信じ,正確な知識を持ち,信仰を働かさなければ永遠の救いにあずかれないことを,他の多くの聖句が示しているからです。―使行 16:30,31。ヨハネ 17:3。ロマ 10:10。

      他の翻訳によれば,この句は,神に仕えた婦人たちが出産をするとき,神がそのすべてを守られるという意味にとれます。(モファット訳,新アメリカ標準訳)しかし当時まで,またそれ以後の出産のすべてがそうであったわけではありません。(創世 35:16-18)信者あるいは不信者の別なく,無事出産を終えた人もあれば,出産中に不幸にして死亡した人もいます。したがって出産時に守られるという意味ではありません。健全な考えを持ち,かつ信仰と愛とを表わしているなら,子供を生み,それに伴う種々の責任をになうことによって,婦人は安全に守られるという意味です。

      前述のとおり,パウロはここで女性としての正しい心の持ち方や義務について論じています。会衆内で女性は,おとなの男子の上に権威を振うべきでないことを知り,服従の態度を示さねばなりません。使徒パウロは,女が自分の立場を認めない場合に生ずるむずかし問題を例示するため,エバの例をあげています。エバはアダムに先んじて事を運び,欺かれて違反に陥りました。―テモテ前 2:11-14。

      パウロはこの同じ手紙のあとの部分で,クリスチャン婦人の種々の活動について注意しています。当時の若いやもめの中には,「懶惰に流れて家々を遊びめぐ(り),ただに懶惰なるのみならず,言多くしてむだごとにたづさはり,言ふまじき事を言ふ」者がいたのです。そうした行為にふける女は,実際には夫あるいは会衆内の任命されたしもべの責任に属する事柄に関して助言したり,決定をしたりするなど,さまざまの問題を起こします。ではどうすれば若いやもめをこうした危険から守ることができますか。一つの方法は「嫁ぎて子を生み,家を理め」ることであるとパウロは述べました。―テモテ前 5:11-15。

      したがってパウロが,女は「子供を生むことによって守られる」であろうと書いたのは,有意義な仕事に忙しく従事していなければならないという意味だったのです。家事を果たし,心をこめて子供を訓育するのは,女性のすぐれた役目であり,また神はそのためのすばらしい能力を女に与えました。それでこの役割を果たす女性は安全に守られ,神権的な考え方の欠けた女の陥るわなにかからないですむでしょう。また,こうした務めは神への奉仕に関する諸活動を補うものとなり,また「信仰と愛と清さとを保」つ助けになります。

      結婚していない,あるいは子供のいない女性は,クリスチャンの男子と同様,霊感の下にしるされたこの勧めのことばに含まれる原則から多くを学べます。わたしたちすべては有意義なわざに忙しく携わっているように心を配らねばなりません。ゆえに神のみことばである聖書はわたしたち各人にこう勧めています。「あなたがたは十分に注意して,賢くない者ではなく,賢い者のように歩き,自分のために,よい時間を買い取りなさい。今は邪悪な時代だからである」― エペソ 5:15,16, 新。

      ● イエスは癒された者たちに対し,そうした奇跡についていっさい人に話すなと言われたのはなぜですか。また,ご自分がキリストであることをだれにも告げるなと弟子たちに言われたのはなぜですか。

      イエスは二人の盲人に視力を回復させたのち,「きびしく戒めて…『つつしみてたれにも知らすな』」と言われました。(マタイ 9:30)また,ひとりの癩病人を癒したのち,「やがて彼を去らしめんとて,きびしく戒めて言ひ給ふ,『つつしみてたれにも語るな,たゞゆきて己を祭司に見せ,モーセが命じたる物を汝の潔のためにさゝげて,人々に証しせよ』」と言われました。しかしこの男がその奇跡について人々に語り広めたので,イエスは群衆に妨げられて「あらはに町に入りがた(い)」事態に陥りました。(マルコ 1:40-45)また,言語障害に悩まされていた一人のつんぼの男を癒した時にも,「たれにも告ぐなと人々を戒め」ました。(マルコ 7:33-36)キリスト・イエスがこのように戒められたのは,ご自分のことがちまたでもてはやされたり,一般民衆がそうしたうわさに基づいて判断したりすることを望まなかったからです。彼は,人々が自分で見聞きし,イエスに関する個人的な経験に基づいて判断することを望んでおられたのです。

      イエスが弟子たちに対し,ご自分がメシヤであることを公に宣伝してはならないと禁じられたのもこの同じ理由からでした。メシヤについてちまたで公に宣明し,弟子たちの話に基づいて,そうした公の場所で人々に判断させようとするかわりに,各自に調べさせ,証拠に基づいて人々に自分自身で判断させようとなさったのです。それでイエスは,人々が彼のことをどんな人物とみなしているかを弟子たちに尋ねた時,ある者はイエスをエリヤ,あるいはバプテスマのヨハネ,もしくはエレミヤ,その他の預言者のひとりと考えていることを知ったのです。それからイエスは弟子たちの考えを尋ね,そしてペテロは,「なんぢはキリスト…なり」。と答えて自分たちの確信のほどを表明しました。「こゝにイエス己がキリストなる事をたれにも告ぐなと弟子たちを戒め給へり」。弟子たちとのこうした話し合いから明らかなように,人々はそれぞれ自ら判断し,様々な結論に達していたのです。それで人々に各自自分で判断を下させました。ヘブル語聖書を持ち,メシヤに関する預言を知っていた彼らは,イエスの行なうわざを見,その話を聞くことができたのですから,自ら判断すべきでした。―マタイ 16:13-20。

      それで,いらだったユダヤ人が興奮して,「汝キリスト

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