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    ものみの塔 1974 | 5月1日
    • 覚えていますか

      あなたは最近の「ものみの塔」を注意深くお読みになりましたか。そうでしたら,次の点を覚えておられるでしょう。

      ● 会衆の成員のひとりがなにかの助言を求めている場合,二人以上の長老がその論議に加わることは,なぜしばしば益となりますか。

      二人以上の人が知恵と経験を寄せ合うなら,結果としてより平衡の取れた見方ができるようになる。またそれにより,長老の言ったことが誤って引用される危険も少なくなる。―734ページ。a

      ● クリスチャンは,性的不道徳に陥るような事態をどうすれば避けられますか。

      そのためには,自制心を保ち,自分の考えを健全なものに向け,情欲を刺激するような読み物や娯楽を避けることが必要。(フィリピ 4:8,9)清さを保ちたいと願っている独身のクリスチャンは,不義な情欲を刺激するような仕方で異性を見たり,さわったりすることがないように,懸命な努力を払うべき。―50-52ページ。b

      ● イエスはどのように『世を征服』しましたか。

      イエス・キリストは,憎しみに満ちた世に似ることは全くなく,世に征服されることもなかった。迫害を受けていたにもかかわらず,彼は人々を愛し続け,霊的に助け,彼らの持つ苦しみをいやした。イエスは,自分の完全な命をささげるという自己犠牲の道から少しも離れなかった。―77,78ページ。

      ● 『良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられていた』と語った使徒パウロのことばにはどんな意味がありますか。―コロサイ 1:23。

      それは,世界じゅうの人々ひとりびとりに良いたよりが伝えられたということではなく,伝道の業が地の隅々にまで押し進められていたことを意味する。―107ページ。

      ● ルカによる書 19章の,ミナに関するイエスのたとえ話の中で,「高貴な生まれの人」「遠くの土地」「十人の奴隷」「十ミナ」は,それぞれ何を,まただれを表わしていますか。

      「高貴な生まれの人」とは,ダビデの王統に生まれたイエス・キリストのことである。王権を確かなものとするために彼が出かけて行く「遠くの土地」は,霊の領域内の,み父の住んでおられるところを表わす。たとえ話の中の「十人の奴隷」によって表わされていたイエスの弟子たちは,イエスの大々的な宣べ伝えて教える業によって整えられた活動の畑という象徴的なミナを受けた。弟子を作り,バプテスマを施しなさいという命令をイエス・キリストから受けた時,彼らはその象徴的な「十ミナ」を分け与えられた。それゆえ,イエス・キリストがなさったと同じように宣べ伝えて教えることにより,イエスの弟子たちは,イエス・キリストが整えてくださった畑を産出的なものにし,自分たちと同じ弟子たちをさらに多く産み出すことができた。―136-139ページ。

      ● 「大患難」の破壊的な風が吹き始める前に完了しているはずである,『証印を押す』ということはどういうことでしょうか。―啓示 7:2,3。

      ここで言及されているのは,天の資産を受け継ぐ14万4,000人のひとりとして受ける最初の証印のことではない。それは最終的な証印であり,最初の証印の永続性を確実にするものである。(エフェソス 4:30と比較せよ)―154,155ページ。

      ● 神に献身した民でさえハルマゲドンの苦難を経験するのはなぜですか。

      聖書は,その時エホバ神が,地上の敵たちに対し,激しい疫病,地震,その他の自然の力を用いて行動されることを明らかにしている。そのため,公共一般に奉仕する政府機関はその機能を停止するか,あるいは崩壊するであろう。エホバのしもべたちは,こうした影響から完全に守られるわけではない。『諸国民の憎しみの的』となる彼らは,国家主義的な政府に,いろいろなもののないこうした状態のもとで特に恵まれた処置や例外を期待することなどできない。むしろ,個人的な自由がますます制限されることが予期される。彼らの経済また生活状態は,きわめて低いぎりぎりの水準にまで押し下げられるであろう。しかし,エホバに忠節につき従う彼らは,こうした事態の結末について確固とした信念を持つ十分の理由がある。―182,183ページ。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1974 | 5月1日
    • 読者からの質問

      ● 啓示 20章5節は,「残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった」となっています。この聖句は,キリストの千年統治後,死人の復活があることを示すものですか。―エクアドルの一読者より。

      いいえ,この聖句はそのように解釈する必要はありません。このことばは,使徒ヨハネが最初に書いたものの中にはたして実際にあったのかどうか,いくぶん不確かなところさえあります。4世紀のシナイ写本には確かに見あたりません。もし原本にあったとしても,やはり文脈と聖書の他の部分に照らして考えなければなりません。

      啓示 20章4節から6節には次のように書かれています。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた。実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストと共に千年のあいだ王として支配した。(残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)これは第一の復活である。第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である」。

      「第一の復活」にあずかる人たちが,千年統治の終わる前に生き返ることは明らかです。彼らは同期間中に,彼らの主とともに支配するからです。しかし,天の命への復活である「第一の復活」にあずからない人びとは,『千年が終わるまで生き返らない』と述べられています。問題は,この『生き返る』という表現は,彼らの復活を指しているか,ということです。

      そうではありません。文脈から考えると,また他の聖句に照らして見ると,そうでないことは明白です。啓示 20章11節から13節には,復活のことが次のように説明されています。「またわたしは,大きな白い座とそれに座しておられるかたとを見た。そのかたの前から地と天が逃げ去り,それらのための場所は見いだされなかった。そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」。

      そして啓示 21章1節には次のように記されています。「わたしは,新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地はすでに過ぎ去って(いた)」。

      文脈はこのように,死人の全般的な復活は,「以前の天と以前の地」が過ぎ去った後にあることを示しています。では以前の天と地はいつ過ぎ去るでしょうか。ペテロの第二の手紙 3章10節によりますと,それらは「エホバの日」に過ぎ去ります。3節から6節までのことばによると,その日は,ノアの日の洪水のように,嘲笑者たちを不意に襲います。したがって,キリストの千年統治に先行します。

      ノアの時代には,文字通りの地も,文字通りの天も滅びませんでした。しかし,悪い霊の勢力の支配下にあった邪悪な人間社会は,洪水で滅びました。同様に,「今ある天と地」の滅びも,文字通りの地と物質の天の終わりを意味しません。(ペテロ第二 3:7)しかし,不敬虔な人間社会は滅びます。そして,不従順な人類を支配する「天」のような存在であった悪魔サタンとその配下の悪霊は,活動を停止させられる,つまり底知れぬ深みに入れられます。―啓示 20:1-3。

      啓示 20章11節から13節は,死人の全般的復活を『天と地が過ぎ去る』ことと結びつけていますから,その復活は,サタンが底知れぬ深みに入れられている千年間に起こるに違いありません。したがって,啓示 20章5節に見られる,千年統治後に死人が『生き返る』という表現は,ハデスにいる死人の復活に当てはめることはできません。では,(もしそれが実際に霊感によって書かれた聖書のテキストの一部であるとすれば)これはどのように理解すべきですか。

      聖書の示すところによると,神の見地からすれば,生きている者をも『死人』とみなすことができます。イエス・キリストは,「死人に自分たちの死人を葬らせなさい」と言われました。(マタイ 8:22)また,信仰をもってイエスを受け入れる人びとを,「死から命へ移った」者として語られました。(ヨハネ 5:24)同じく使徒パウロも,天で支配することになっている人びとについてこう記しています。「あなたがたは自分の罪過と肉に割礼のないことによって死んでいましたが,神はそのあなたがたを彼[キリスト]とともに生かしてくださいました」― コロサイ 2:13。

      そこで次のことが理解できます。つまり人は罪深さに由来する有罪宣告から自由になるまでは,神の見地からすれば生きた者にならないということです。イエス・キリストとともに支配する人びとの場合,エホバは,み子の犠牲にもとづいて「彼らを義と宣」せられ,そうすることによって,彼らがまだ人間として地上にいる間に,彼らを罪のない完全な者とみなされます。(ローマ 8:33)しかし,キリストの千年統治中に復活した人たちを含め,人類のなかの他の人びとは,罪深い性向とその強い影響からすぐには自由になりません。事実,キリストの贖いの益が彼らに適用されず,彼らがそれを利用しないならば,地上に復活した人たちはまた死ぬでしょう。キリストの千年統治中に,罪深い性向から最後に解放されることは,コリント人への第一の手紙 15章24節から28節に確証されています。そこには,イエスは「最後の敵として,死」が無に帰せしめられて初めて,「王国を自分の神また父に」渡されると書かれています。この『王国を渡す』ことは,キリストの千年統治が完了して初めて行なわれます。そのあとサタンは底知れぬ深みから解き放たれ,人類を最後の試みにかけることを許されます。―啓示 20:3,7-10。

      この試みを通過した人びとは義と宣せられて永遠の命を与えられます。こうして彼らは,義とされた,つまり義と宣せられて永遠の命を与えられたという意味で「生き返る」のです。罪,すなわち罪の強い影響力はもはや彼らのうちに働きません。彼らは,「腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子どもの栄光ある自由を持つ」神の家族の成員として生き返ります。―ローマ 8:21。

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