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言葉の背後にある事実を知りなさいものみの塔 1959 | 2月15日
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やその他のいかなる物質を所有するよりもまさつています。それと同じく,神の御前に良い名をつくり上げた生涯の終りの死は,神の前に良き名をすこしも持つていない,また将来築き上げる名が果して良いか悪いかも分つていない誕生の日よりもまさつているのです。普通は生涯の終りよりも始まりの方がよく,悲しむよりも喜ぶ方が良いですが,私たちがその言葉の裏にあるものを理解すれば,この言葉が特別な意味で使われており,ある状況の下では真実であることをさとることができます。
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「御心が地に成るように」(その4)ものみの塔 1959 | 2月15日
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「御心が地に成るように」(その4)
私たちはまだ,『御心が地に成るように』という本の『誰の御意』と題する第1章にいます。クリスチャン使徒ヨハネの見たまぼろしの中で,彼は神の御座のまえにいた四つの生物を見ました。これらの四つの生物全部は,神の叡智ある被造物で成り立つ制度を象徴しました。神はそれらの被造物に公正,力,愛そして智恵という四つの神のごとき属性を与えました。これらの被造物は神を崇拝します。また象徴的な24人の『長老』たちも神を崇拝します。彼らは万物の存在することは神の御意によると告げます。イエス・キリストは,天的な御父であるこの神に祈りを捧げよ,そして神の御名があがめられるように祈れと弟子たちに教えました。この神は,名前のない御方ではなく,ヱホバという名前を持つています。『イエス』という名前自体もその御名を崇めます。なぜなら,それは『ヱホバは救い』という意味だからです。
45 (イ)誰がその名前を神に与えましたか。どの位のあいだ,人間はその名前を知つて用いてきましたか。(ロ)何時それは崇められ,潔められますか。そして,なぜ?
45 イエスの弟子たちは,このヱホバを『天におられる私たちの父』と認めて,この御方に祈りを捧げました。アブラハム,イスラエル人,ユダヤ人,またクリスチャンの存在し始める前でも,神はこの御名を御自分につけられていました。そして,神はその時よりその御名を保ちつづけました。地上の最初の男と女は神の御名を知つていて,その御名を口に言い表わしました。(創世 4:1)ノアの日の洪水前500年以上の昔でも,一般普通の人々は神の専有の御名を用いていました。まつたく,最初の人間の孫の時代でも彼らはそうしていたのです,『この時,人々ヱホバの名を呼ぶことを始めたり。』(創世 4:26)人類が急速に動き進んでいる新しい世では,その来るべき世に生き残る人々はみなヱホバの御名を尊び,あがめ,きよめ,そして神聖なものにするでしよう。そうなるように祈りなさいと,イエス・キリストは御自分の弟子たちを教えました。その時から19世紀間中,イエスの忠実で従順な弟子たちは,そうなるようにと祈つて来ました。それは実現されるでしよう,なぜなら御自分の御名を尊ぶ天の御父は,愛する御子と御子の弟子たちが信仰を抱いて祈つて来られたその祈りに答えられるからです。
46 イエスの模範の祈りによると,誰の御心が地上で成されるかについて何はたしかにしますか。
46 しかし,この祈りについての論議から別の事に移る前に一つの重要な質問があります。それはこうです,誰がこの地球を支配し,地上の人々の行わねばならぬことを決定しますか。その質問に対する答は,誰の御心が地上に行われるかということを決定します。その質問に対する答えはあるのであつて,それは一つの有能な政府によつて与えられます。誰の政府ですか。神御自身の政府です。イエスは,御自分の父であると共に弟子たちの父に,模範的な祈りを捧げて次のように祈りました,『御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』
47 新しい世の政府はなぜ空間からのものではありませんか。
47 来るべき新しい世では,この地は,この地上の人間の手による政府によつて支配を受けることはないでしよう。大きな富や力を持つ政府とか,科学的に進歩している政府によつて支配を受けることはないでしよう。そのような政府は,空間における人間の『究極の地位』を支配して,その優利な立場から地上の人々にその意志を無理やりに行わせ,もし行わないなら,空間からその結果を甘受せしめます。空間内にある人間の『究極の地位』よりも高い政府によつて,地球は支配されるでしよう。地球は,真実に天的な政府,すなわち神の御国によつて支配され,かくして正義で完全な罪の無い政府,神権的な政府を愛するすべての人の祈りは答えられるでしよう。
48 数多くのいわゆる神々が存在している故,その御国が誰の政府であると,どうして分りますか。彼の御心が地上で成されるのは,なぜ必至ですか。
48 今日,神々と呼ばれる者は数多くあるのですから,イエスが模範的な祈りを捧げたこの天の御父なる神の御名を知らないならば,神の御国とはいつたい誰の政府であると,どうして知ることができますか。しかし,誰の御国を祈り求めるかということについては,不たしかな点はすこしも存在しません。それは,天におられる大いなる生命の与え主の御国であつて,その方の御名は敬われ,崇められねばなりません。その天的な王は,全能者なるヱホバ神であつて,24人の象徴的な『長老たち』は,その方が栄光と名誉と力を受けるにふさわしいと呼びました。地と地上の人間は,ヱホバのみこころによつて創造されました。彼のみこころが地上に行われるのは正しいことであると共に必至の事柄です。彼のみこころは,宇宙の主権者として支配している天で行われています。創造者によつて生存を許されているこの地上の人間は,彼のみこころを行つていません。私たちの小さな地球より測り知れぬ程大きな天では,彼のみこころが行われています。新しい世では,彼のみこころは天で大規模に行われているごとく,この地上でも必ず行われるでしよう。
49 神は,地に関してどんな大きな目的に向かつて働いて来られましたか。その実現は,地にとつて何を意味しますか。
49 ヨハネが霊感を受けたまぼろしの中で見たその方のみこころが地上で成されるとき,新しい世における地上はなんとすばらしいものでしよう! その方は光り輝く美につつまれ,公正,力,愛,そして智恵によつて行う被造物の制度に取りまかれているのです。幾千年ものあいだ,変ることもなく,また何ものも反抗できぬヱホバ神の目的は,その大きな目的に向かつて働いて来ました。地上の出来事がどのように変化して行こうとも,全能の力を持つヱホバ神は常に状態を制御して居られ,いつも人間や悪魔より先んじていました。彼の目的,彼の御意の完全な達成に関しては,彼は何ものの干渉をも許しませんでした。
50 なぜ神は,人間よりも幾千年もの先を見ましたか。彼の御心が地でも行われるということについては,私たちはどのように大きな保証を受けますか。
50 ヱホバ神は,御自分の業を始めから終りまで御存知であられるため,被造物より幾千年も先のことを見ておられます。(イザヤ 46:10)最初から彼は御自分の目標に向かつて着々と事を運ばれてこられました。いまや,その目標は,すぐ眼前にあります。神御自身の御名にかけて与えられた予言に照らし合わせつつ,幾千年にも亘る人間歴史の周知の事実を一わたり急いで調査する時,ヱホバ神が御自分の約束と予言に忠実を保たれたこと,そして御自分の正義の目的を成し行うための完全な先見と能力というものを一層良く認識するでしよう。私たちは,いま地上に起つていることの意味をいまだかつて無い程に良く理解するでしよう。このことにより,ヱホバ神の御心が天で行われるように地上でも行われるということについては,更に大きな保証を受けるでしよう。
第2章
なぜ地上で行われるのか
1 人間が移動して行ける他の場所は,なぜないのですか。滅びをもたらす艱難の中に,人間はどのように落ちこみますか。
この地上の生活は,人類にたいしてますます危険なものになつて来ています。身体面だけに限らず,道徳的にも霊的にも危険なものになつてきています。そのようなことは,あつてはならないのですが,実状はそうです。しかし,人類の移動し得る別の場所はありません。艱難から脱け出るために,人類は地球よりも小さな月とか,また人間が金星,水星,火星と名づけた他の惑星に移動することはできません。地球に属する月とか太陽系の他の惑星では,人間は楽な状態で幸福の中に永遠に生きることはできません。人間はロケットを月にまで,または月の周辺に打ち上げることができるとか,人間の操縦する原子力の宇宙船を月や,月よりもはるか遠いところに送れると誇るかも知れませんが,この地球から国民を運び出して月とか太陽系内の他の惑星に移そうとしている国家は一つもありません。さらに,正常な心を持つ人でそこに住みたいと欲する人がいますか,又そこで生きられますか。人間はこの地にしばられているのです。人間は危険がその最高潮に達するときここにいなければなりません。人間は滅びをもたらす苦難の中に落ちこみますが,それは主として人間自身のつくり上げたものです。
2 この核空間時代は,なぜ生活をするのにすばらしい時ではありませんか。科学の進歩は何を変えていませんか。
2 この世の科学の進歩と共に,核時代が突如として人類に臨みました。何もかも自分の手に入れようとする貪欲な敵は,愛の心からそのことを為さず,むしろ実際には野心,競争,そして恐れの気持から私たちに強制したため,現在はこの世の人々の生活にとつてすばらしい時というわけではありません。現代の便利品がひろまつたり,人々の生活水準が上つたり,科学者の数が増加したり,また宇宙空間とか地球の構成に関する人間の理解が拡大して行つても,重大な状態はいぜんとして昔のままに存在しています。今でも猶分裂した世界です。単に東と西が分裂しているというもの以上のことです。数え切れぬ程多くの仕方で人々は分裂しています。つまり人々の支配したいと欲する政治的,社会的,そして宗教的な意志に関して分裂しているのです。独裁権力とか支配制度は,大きな地域内の人々を支配します。人気のある政府でさえも,その活動を続行し,保護を図る為に,更に多くの力を持つことが必要であると認識しています。それですから,人々は強力な武装を持ち,莫大な経済力を握る独裁支配者たちの意志に,否応なく屈しているのです。
3 いま或る大陸が孤立することは,なぜ過去のものですか。将来の全体戦争のとき,なぜ兵器を発射する者達だけでなくすべての人々も苦しみを受けねばなりませんか。
3 いろいろの抗議にもかかわらず,戦争の原子兵器や核兵器の試験爆発は引きつづき行われ,空や海および降雨や雪をも汚しているのです。人類生命をことごとく滅ぼしてしまう兵器をこれ以上つくつたり,試験したりすることに対して,諸国家は中止を提唱しています。その理由はそのような兵器の貯蔵が大きくなり過ぎたと感ずるためか,又は究極の兵器を得たので,これ以上の試験は必要でないと感ずるためです。核爆発にともなつて生ずる放射能降下物の危険は全世界にひろまり,その犠牲者となつていると感ずる無力な者たちの間に不安をひき起しています。安全を図る為と,敵を驚かす為に,一層危険な破壊兵器の発明や製作は,今でも引きつづき行われています。ICBM(大陸間弾導弾)や,IRBM(中距離弾導弾)を海中から発射することができたり,また極海の氷山の下にもかくれ得る原子力潜水艦や現代的な潜水艦が登場して来た現在,或る大陸が『すばらしい孤立』を保つということは過去のものになつています。すべての大陸は,戦争弾導弾の距離内にあり,またすべての平民たちも距離内に入つているのです。人の密集しているところとか,工業中心地に戦略的な爆撃をすることは,戦場とか最前線にいる人々に対して戦略的な爆撃を加えるのと同じ程に熱い戦争の勝利を得るのに肝要なものです。回避することのできない全体戦争と国民総動員の場合,兵士たちを支持して供給をなしているすべての人々は,科学的な戦争兵器を発射する人々と同様の苦難を受けます。
4 天候の制御は,核兵器と較べたときに,どんな可能性を持つていますか。
4 脅威を更に増し加えるものに,天候の制御があります。それは核兵器よりも一層危険な可能性を持つています。アメリカ天候制御顧問委員会の議長は,敵が天候を制御するなら原子力の発見よりも更に悪い災害をアメリカに及ぼすと警告しました。それと同じ頃,マサチューセッツ工業大学の地球科学研究所の所長は,その警告を裏づけてこう語りました,『現在,天候変化の国際管理は,核エネルギーの管理と同じぐらい世界の安全に肝要なものである。』そして,アメリカはソビエト・ロシヤに先んじるか又は同列でなければならぬと強くすすめました。a
5 反対し合う諸国民の共存とは,真実に何を意味しますか。『冷い戦争』は,遂にはこの世界にとつてどんな難しいことを成さしめますか。
5 全く異る政治理念や制度に従う諸国家には,平和共存がすいせんされて来ました。共存は,諸国家間の兄弟愛を意味するものではありません。戦々競々としながらお互いどうし我慢し合うという意味です。その間に,原子の爆発と核爆発で武装された危険な弾道弾を発射するときのような大きな音を出さなくても,世界の優越と支配を狙う競争と争いは,静かに行われているのです。ただ戦争の温度がちがつて,冷いだけなのです。1957年11月,インドのニューデリーで行われた世界宗教会議のとき,インドの首相ジャワハーラル・ネールは代表者たちに向かい,世界は惑星旅行の冒険に向かつて『大きな一歩』を取つたと語りました。新しい力が,遂にはどのように使用されるかについて,誰も確かでないと彼は語りました。しかし,彼は一つの事を明白に知つたのです,すなわち『冷い戦争』が続行するなら,この世界の生存は難しいものになるということです。b ネール以外の人々も,警告の言葉を発しています。
6 人間が地上で生き残る為には,誰の超国家的な意志が地上で行われねばなりませんか。そのことは,人間を創造した目的にどのように影響しますか。
6 生活にふさわしいこの地上で,人類や動物が保存される為には,利己的に分裂した諸国家,そして疑惑を持つ諸国家の意志よりも高い意志がこの地上で遂行されねばなりません。霊界内の者は,地上の諸国民よりも高くて,はるかに力の強いものです。しかし,それは,そのような霊界内の或る者の意志以上でなければなりません。なぜ? 聖書の警告によると,諸国民は人間と人間の創造者の最悪の敵サタン悪魔に支配されているからです。サタンは,実際のところ,目に見えぬ『この世の支配者』『この組織制度の神』です。(ヨハネ 12:31; 14:30。コリント後 4:4,新世)それでは,どういうことになるのですか。永遠の住居であるこの地上に人間と動物が生存する為に,地上で成されねばならぬ超国家の意志とは,創造者なる神の意志です。創造者は次のように言われています,『われはヱホバなり。これわが名なり。我はわが栄光をほかの者に与えず,わがほまれを偶像に与えざるなり。』(イザヤ 42:8)人間と獣が地上の生命を永遠に楽しむために,彼の御心は地上で成されねばなりません。このようにして,人間と動物を地上に創造した神の目的は,公正,正義,善愛あるものと立証されます。かくして神の目的は立証され,正義のものと証明され,不滅の栄光が彼に与えられます。イエスの教えた模範の祈りを祈る者たちは,神の御心が天で成されるよう地にも成されて神の目的が立証されるようにと祈ります。
地は永続するもの
7 地が永久に存在するのは創造主の御心であると,どうして確かに信ずることができますか。
7 しかし,地球が永遠に存続して,人の住む惑星として存続するのは創造者の御心であると,どうして確かに言えますか。互いに反対し合うキリスト教国の宗教に行つても,このことを確かに信ずることはできません。創造者御自身の書かれた御言葉である聖書に行くことにより,このことを絶対たしかに確めることができます。聖書をつくるに際しては,神は忠実な神の人々を用いましたが,ともかく御自分の御霊なる活動力によつて聖書をつくられた方であられます。『聖書の預言はすべて,自分勝手に解釈すべきでないことを,まず第一に知るべきである。なぜなら,預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によつて語つたものだからである。』(ペテロ後 1:20,21,新口)宗教的な祭司たちは,人々から聖書を取り離し,自分たちの信条すなわち信仰についての人間製の言葉にしたがい,聖書を解釈したり,または悪く解釈します。しかしながら,神はすべての人が聖書を読むか,又は読んでもらう為に聖書をつくり出しました。それは,人々がその本の中で神の言われることを知るためです。
8 (イ)イエスは,どんな書き物と一致して,その模範の祈りをつくりましたか。(ロ)神の御国が来るとき,地を滅ぼす理由はなぜありませんか。
8 イエス・キリストは,創世記からマラキ書までヘブル語聖書の39冊の本を持つていました。それらの本は,イエスが地上で生活する以前に,神の御霊の霊感の下にすでに書かれていたものです。イエスは,それらの本からこの地に対する神の御心が何であり,また地を創造して地上に人間を置かれた神の目的が何であるかを知つていました。イエスは,ヘブル語聖書からこの事柄を知つていましたから,弟子たちに模範の祈りをつくつたのです。彼は,天にいる御父に次のごとく祈れと弟子たちに告げました,『御国がきますように。みこころが天に行われるとおり,地にも行われますように。』それでは自問してみましよう。火とか他の手段によつてこの地が亡んでしまい,人間や動物がこの地から居なくなるようイエスは人々に教えていますか。イエス御自身の祈りに答える為,天的な御父の御国がこの地に来るのなら,その時にせよ又はその後の時にせよ,なぜこの地は滅ぼされねばならないのですか。神の御国は,将来の永遠にわたつてこの地に止まる為に来ます。地上に住む人々の故に,神が地を滅ぼす必要はありません。そのようなことはないのです,まつたく神の御心が,天で行われているごとく,神の御国の支配する地上の人々によつて行われるとき,地を滅ぼす必要はありません。聖なる霊者たちは,天で神の御みこころを行つているのですから,天を滅ぼすことは必要ではありません。それと同じように,神の御国の支配下にあるこの地上で人間が神の御こころを行うとき,なぜ地を滅ぼすことが必要ですか。
[脚注]
a 1958年1月28日のニューヨーク・タイムス紙に報告されているホワード・テイ・オービルとヘンリー・ジー・ホウフトン博士。
b 1957年11月18日のニューヨーク・タイムス紙3頁。
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賞に目をつけよものみの塔 1959 | 2月15日
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賞に目をつけよ
『あなた方は知らないのか。競技場で走る者は,みな走りはするが,賞を得る者はひとりだけである。あなた方も賞を得るように走りなさい。』― コリント前 9:24,新口。
1 なぜ聖書は,競走に関する言葉をしばしば用いるのですか。
走れ,走ること,競走 ― おそらく,このような言葉は,聖書を読む際,特に使徒パウロの手紙を読む場合にしばしば気づいた言葉でしよう なぜ使徒は,競走に関する言葉をしばしば用いるのですか。なぜなら,競走はクリスチャンの前に置かれている道を良く表わし示すからです。なぜなら,走ることは動作,活動,前に行くことを表わし示すからです。クリスチャンは神の新しい世での永遠の生命という賞を得る為に努力をしなければなりません。使徒がその努力を述べ表わす際に,走るということは最も力づよい強烈な言葉の一つなのです。
2,3 昔のコリント人たちは,競走についてどんな知識を持つていましたか。それで,使徒はどんな助言をコリントのクリスチャンたちに与えましたか。
2 コリントのクリスチャンたちを励まして賞を得るような走り方をさせる為に,パウロは昔の競技についての実写の言語を用いました。昔の世界で最も盛大に行われた四つの競技の中,一つの競技はコリントの近くのコリント・イススマスの競技場で行われました。イススマス競技で最も重んぜられた競技の一つは,競走でした。コリント人の殆ど全部の人は,一度はたいていこの競技場に行つて競走を見たのです。クリスチャンでないコリント人が競走を見るのは必ずと言つても良いぐらいでした。それは国家的な娯楽または競技でした。しかし,現在の競技の場合よりも当時の競争はもつと重要なものだつたのです。そのような競技は,昔のギリシヤの宗教と深い結びつきを持つていました。パウロは,コリントの読者たちが競走ということを熟知しているのを知つていましたから,次のように適切に問うことができました。
3 『あなた方は知らないのか。競技場で走る者は,みな走りはするが,賞を得る者はひとりだけである。』彼らは知つていました。クリスチャンであるそれらのコリント人は,多くの者が競走してもその中の唯一人だけが賞を得るということを知つていました。また,走る者はみなその賞を得る為に全身全力をつくして努力をしなければならぬ。そして走る者はその賞を得ることを目標に走つたということも知つていました。クリスチャンも類似の仕方で走らねばならぬと,パウロは示しています,『あなた方も賞を得るように走りなさい』ほんとうに,勝を得るために走りなさい! 昔の競走では,唯だ一人の者だけが賞を得ましたが,クリスチャン競走は,それと異なり良く走つたすべての人,決勝点に達するすべての人に賞が与えられます。―コリント前 9:24,新口。
4 昔の競走の場合,賞についての習慣は何でしたか。このことは,どのように走者に影響しましたか。
4 それについての疑問はありません。昔のギリシャ人の競走者は,賞を勝ち得る為に走りました。彼らは競走したいためだけで走つたのではありません。彼らはなんと熱心に賞を得ようと求めたのでしよう! なんという真剣さで走つたのでしよう! 傍目もふらずなんと真直ぐに見つめつづけたのでしよう! 競走の終る地点のところでは,良く見える場所に賞を置くのがならわしでした。その賞を見ると,競技者はあらん限りの力をしぼつて努力し,賞を得ようという一つの目標以外には,すべてのものを忘れてしまつたのです。彼らは目を賞につけて走りました。クリスチャンは猶更いつそうにそうすべきではありませんか!
5 昔の人は,どんな種類の賞を求めて走りましたか。
5 クリスチャンの賞にくらべて,それらの競走者が熱心に求めた賞は何でしたか。『彼らは朽ちる冠を得る為にそうするが,私たちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。』と使徒は語りました。昔の競走者に対する賞は,オリーブの木か,月桂樹か,又は松の木の栄冠でした。イススマスの競技のときには松の木の栄冠でした。この栄冠と,それにつづく栄誉を得ようと,昔の競走者は,自分の持つ全力をつくして走りました。しかし,松の栄冠は時経つ中に枯れて干乾びました。彼らの賞は,朽ちて,かれて滅びてしまいました! 枯れて行く栄冠 ― だが,その栄冠を得ようと,彼らは目を賞につけつつ,なんと全力をこめて努力したのでしよう!―コリント前 9:25,新口。
賞を評価する
6 異教の走者に与えられた賞と比較してみて,良く走ることに対する神の愛ある報いは何ですか。
6 使徒はクリスチャンたちに次のことを告げています。すなわち競走を終りまで走り抜く者たちには賞が待つているということです。その賞は,昔の競技の朽ち行く栄冠とは異り,決して朽ちることのない賞です。使徒ペテロは,この冠について次のように書きました,『大牧者が現れる時には,しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。』あるいは,脚註の示すように,しぼむことのない冠を『賞として運ぶ』。天的な御国に召されている油注がれたクリスチャンたちにとつて,なんとすばらしい賞なのでしよう! この世の提供する賞は,神の提供する賞 ― 不滅性の賞,王なるキリストと共に天的な栄光の中に永遠の生命を受けるという賞 ― に比較することができますか。今日,幾十万人というクリスチャン走者で,天的な御国において神の霊的な子になるよう神より油注がれていない人々がいます。神は,それらの者たちにも朽ちざる賞を提供します。それは,天の御国の支配する地上で完全の中に永遠の生命を受けるという賞です。クリスチャン走者の目をつけている賞が,どちらのものであろうとも,昔の競技の走者たちの為したのと同じ熱意と力をこめて努力する価値は十分にあります。全くのところ,クリスチャンはいつそう大きな決意と熱心をこめて走るべきです,なぜなら神が愛の御心の中に約束されている賞は,決して朽ちることがないからです。『これが,彼自ら私たちに約束された約束であつて,すなわち,永遠の生命である。』― ペテロ前 5:4。ヨハネ第一書 2:25,新口。
7,8 使徒パウロの例から分る通り,クリスチャン走者は神の提供する賞をどのように見なすべきですか。
7 クリスチャン走者の前に置かれている賞は,他のいかなるものとも比較できないすばらしいものです。そのような賞を心に留めるとき,この世の賞に対する見方は,どんなものでなければなりませんか。パウロの見方のようでなければなりません。彼は次の言葉を述べました,『私は……私のキリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに,いつさいのものを損と思つている。キリストのゆえに,私はすべてを失つたが,それらのものをふん土のように思つている。』それで,パウロはどのように走りましたか。『兄弟たちよ。私はすでに捕えたとは思つていない。ただこの一事を努めている。すなわち,後のものを忘れ,前のものに向かつてからだを伸ばしつつ,目標を目ざして走り,……賞与を得ようと努めているのである。』― ピリピ 3:8,13,14,新口。
8 昔の競技に加わつた走者たちが,目を賞につけて,他のすべての賞や過去の一切のことを忘れ,前のものに向かつて体を伸ばして走つたごとく,パウロも走りました。使徒の言葉を説明すれば,次のようになります,『私を信じて下さい。全世界に価値あるものは唯一つしかないのです ― それは私の目をつけている賞です。他の何ものもそれと比較することはできません。全く何ものも比較することはできないのです。この世の提供するすべてのもの,例をあげるなら車が非常に立派であろうと,邸宅がどれ程広いものであろうと,衣服がどれ程華美なものであろうと,また快楽の限りをつくそうと,私はその全部のものを屑のように見なし,投げ捨てる塵あくたのように考えます。私は賞を得ることに心を集中したいためです。私の目標が疑わしいものであるかのように,私は不定期な無関心の態度で走つているのではありません。私は心の目標をしつかり保ち,目を一つの事だけに向けて走つています。私は目標を見つめています。その目標から目を外ずす理由がなぜありますか。私は生きるかぎり走ります ― 私の目を賞に向けて走ります!』
9 どんな危険はクリスチャン走者に面し,正しい心構えを持つことは肝要となりますか。
9 パウロは賞についての実際的な見方を取りました。彼はそれに正しい価値を置きました。彼は又,この世の提供する賞にも正しい見方を取りました。彼は,クリスチャン走者にむかい同じことをするよう告げています,『だから,私たちの中の円熟した人々は,このような心構えを持つべきである。』この世の賞,すなわち立身出世の賞,快楽の賞,持ち物の賞などが倍加している現在の『終りの時』にあつて,このことはなんと肝要なものでしよう! それですから,私たちは危険を見ます。すなわち,クリスチャン走者がよろこびながら,熱心に競走を始めながら,後になるとこの世の賞のために心を乱され,生命の賞から目を外ずすという危険です。すると,何が生じますか。走者は走る調子をおくらして歩くようになり,不注意なぶらぶら歩きをするようになります。その走り方は,なんとあやふやなものでしよう。もはや生命の賞を得ようと努める走り方をしません。後ろのもの,この古い世の賞は,彼の心をかき乱し,走ることに対する励ましと刺激を失わせるに至らせました。その励ましと刺激は前に置いてある神からの賞に目をつけることによつてのみ得られるものです。パウロの仲間の走者であつたデマスは,その賞から目を外ずしました。この世の賞は,彼の心をかき乱し,彼は走ることを止めました。この世の賞に対して正しい心構えを持つことが必要です,『すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父から出たものではなく,世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠にながらえる。』― ピリピ 3:15。テモテ後 4:10。ヨハネ第一書 2:16,17,新口。
10,11 (イ)なぜこの世の提供する賞は,神の提供する賞から目を外ずすだけの価値がありませんか。(ロ)富という賞を追い求めた人々は,使徒の言葉と対照して,一生の終りに近づくとしばしばどのように感じますか。
10 それで,この世の賞はどんな価値を持つているのですか。その賞は,昔の走者の植物の栄冠と同じように,必ず過ぎ去つて朽ちてしまうものではありませんか。この世の提供する最大の賞,すなわち今日の多数の人々が一生の目標にしている所謂経済安定は,生命の賞から私たちの目を取りはずす程に価値あるものですか。一瞬といえども,そのようなことはありません! クリスチャン走者は,生活の必要品をまかなわねばなりませんが,しかし同じ時に賞から目を外ずしてはなりません。パウロは,自分の必要品をいくらかまかなう為に天幕をつくりました。しかし,天幕をつくつた為に,賞から目を外ずすことを決してしませんでした。それで,パウロは経済安定という実の結ばぬ目標を追い求めなかつたのです。金や,富や,持ち物は,生命が無いなら価値のないものであると,パウロは知つていました。巨額な金を貯蓄して,経済的な安定を得たと思うような者たちも,一生をかけて得た賞が朽ちて行くはかないものであるとの認識にしばしば達しています。『クリスチャン世界の宝』(英文)という本の中に,次の記事が出ています,『ティー・ピー・オコーナー氏は,アンドルー・カーネギー氏との会見をこう報じている,「駅に向かつて自動車を運転しながら,私はカーネーギー氏の富をうらやましく思うと語つた。彼は『うらやまれる身ではありません。私にとつて,私の富が何の役に立つのですか。私は60歳で,食物を消化することができません。若さと健康が得られるなら,私の財産をみなやるでしよう。』と言つた。私はカーネーギ氏の次の言葉を決して忘れないだろう。私たちは,ちよつとの間だまつていたが,急にカーネーギー氏は向き直り,ひしやがれた声でそしていまいましそうな,また形容のできない深い感情をこめてこう言つた,『もしファーストの取引ができるものなら,私はよろこんでする。私の生命を再び新しくやり直せるなら,私はすべてのものをよろこんで売るだろう。』そして,彼は語りながら,手をぎゆうとにぎりしめているのを私は見た。」』
11 天的な賞を追い求めるために生涯を費した使徒パウロの言葉と,それは何と異るのでしよう。彼は次のように言い得たのです,『私は戦いをりつぱに戦い抜き,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした。今や義の冠が私を待つているばかりである。かの日には,公平な審判者である主が,それを授けて下さるであろう。』― テモテ後 4:7,8,新口。
一筋に見つめることによる忍耐
12 パウロは,自分の忍耐の力を主として何に依るものとしましたか。
12 パウロは,一つの目的を持ちつづけましたから,非常な忍耐を保つことができました。そして,彼は賞に目を保つことにより,一つの目的を保ちつづけたのです。それですから,賞に目をつけることは,私たちの忍耐の力に大きな影響を及ぼします。そのことについて間ちがつてはなりません。忍耐は必要なのです。『私たちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこう。』クリスチャンの競走は,短距離のものでなく,長いもので難しいものです。最終の線を踏みきるまでは,賞を勝ち得るわけではないのですから,努力をずつとゆるめるべきではありません。イエスの語つた最も強烈な譬話の中に出発は良いものでありながら,終りまでやり通せなかつた者たちの失敗を指摘する譬話がありました。―ヘブル 12:1,新口。
13 種子播き人の譬話の中で,イエスは走者が躓いて賞を失う原因は何であると示しましたか。特物についてイエスはどんな助言を与えましたか。
13 種子まき人の譬話の中で,イエスは石地といばらの中に落ちた種子の意味を説明しました。『石地にまかれたものというのは,御言葉を聞くと,すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので,しばらく続くだけであつて,言葉のために困難や迫害が起つてくると,すぐつまずいてしまう。また,いばらの中にまかれたものとは,御言葉を聞くが,世の心づかいと富の惑わしとが御言葉をふさぐので,実を結ばなくなる人のことである。』それで,或る走者たちは『困難や迫害』につまずいて競走から落伍します。他の人々は,『世の心づかい』の為に忍耐の力を失います。塔を建てることについての譬話と,王が戦争に行くことについての譬話について論じた後,イエスは次のように註を述べられました,『それと同じように,あなた方のうちで,自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては,私の弟子となることはできない。』― マタイ 13:20-22。ルカ 14:33,新口。
14 クリスチャンは,物質の持物をどのように見なすべきですか。
14 クリスチャン走者は,自分の物質的な持物を捨てて無くさねばならぬという責務を負つているわけではありません。しかし,イエスの述べられた原則の下に服しているのです,すなわち自分の持物のために生命の賞に目を注がないようになるなら,そのような注意を奪う品物を投げ捨てる方がよいのです。それは,そのような品物を保つて,競走に負けるよりはずつと良いことです。特物であろうと,物質の財産であろうと,その中のものが極めて重要なもの,生涯中に大きなものとなつて,走者の目が賞から外ずれるというようなことは決してあつてはなりません。しかし,今日の世界では一つのものを持つだけで賞から目が外れるということは先ずありません。むしろ,たくさんのものの集まつたもの,財産や快楽,道楽,生活の心配,そして注意を外らす他の事柄の集まつたものです。注意を外らす他のすべての事柄が重なつて強い力を生じ競走に対する聖書のいましめに従うことは難しいものとなります。しかも,聖書のいましめに従うことは今まで以上に肝要なものなのです。『なんじの目は正しく視,なんじの眼瞼は汝の前を真直に視るべし。なんじの足の道を考え慮り,なんじのすべての道を直くせよ,右にも左にも偏ることなかれ。』目を一つの方向に向けて行くことは,私たちの忍耐の力に多くのものをつけ加えます。それは各走者の解決せねばならぬ問題です。―シンゲン 4:25-27。
注意を逸らすものの多い時代
15 『この組織制度の心づかい』について,この世の一講演者は何と言いましたか。
15 バーナード,エム・バルウは『この組織制度の心づかい』ということについての註を述べています。彼は,ニューヨーク市,シテイ大学の研究生の一群に向かつて次のように語りました,『すばらしい通信の手段,高速度の印刷機械,ふんだんに挿絵のついている雑誌,ラジオ,映画,テレビジョンで,人類がかくも誇つていることは,歴史上かつてない。しかし,奇蹟的と思えるこの通信形態がこんなにもありながら,思想に貢献しないように見える。森林内の一本の丸太が森林に貢献しない以上である。全くのところ,ジェット噴進の流線型の通信手段は,思想の敵のように見える。それは,心の集中を妨げるいろいろな事柄で日々私たちを攻める。私たちの力は……主要でない事柄に費されてしまう……すこし先頃では,現在は「開明の時代」と甘く考えられていた。しかし,ますます「注意を外らすものの多い時代」になつて来ている。』― 1953年6月,「この日の肝要な講演集」(英文)
16,17 (イ)多くの事柄で心のかき乱されている人々は,イエスのどんな助言を採り入れるべきですか。(ロ)現代文明において注意の外らされることにつき,一婦人記者は何と言いましたか。
16 注意を外らすものが多くなればなる程,クリスチャン競走に必要である目を一つの方に向けて行くことは益々むずかしくなつて来ます。明白に分るごとく,今日ではイエスの時代よりも注意を外らすものがずつと多いのです。しかしイエスの時代でも人々は注意を外らされていました。或る時,イエスは或る村に入りました,『すると,マルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが,主の足もとにすわつて,御言葉に聞き入つていた。ところが,マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし,イエスのところにきて言つた,「主よ,妹が私だけに接待をさせているのを,なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におつしやつてください」。主は答えて言われた,「マルタよ,マルタよ,あなたは多くのことに心を配つて思いわずらつている。しかし,無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは,彼女から取り去つてはならないものである。」』マリヤは,心の集中を妨げるものを取り去つて,自分の霊的なまぼろしを鋭いものにしました。マルタは多くの事柄に心がかき乱されてしまい。主の足許に坐つて知識を取り入れようとしなかつたのです。しかし,そのことこそ彼女が真実に必要とするものでした。―ルカ 10:38-42,新口。
17 現代の世界には,マリヤのような人よりもマルタのような人がずつと多くいるのです。心の集中を妨げるものがその理由です。現代の主婦の直面する思い煩いということについて,アン・モロウ・リンドバーフは「海からの贈物」(英文)という本の中で次のように書いています,『私は簡素な生活をする積りです……しかしそのような生活をしていません……妻として,また母親として私の選んだ生活は,まつたく複雑極まりないものです。郊外の家ということが関係して来る。また家庭の骨折り仕事か家庭の手助けということもある……食物とか住居,食事,計画,買物,勘定,そして千通りの仕方で収支を償わねばならない。肉屋,パン屋,ローソク台製作者,そして数え切れぬ程多ぜいの他の専門家たちが現代の私の現代的な家に取りつけてある「簡便品」(電気,水道,冷蔵庫,ガスストーブ,石油燃焼機,皿洗い機,ラジオ,自動車,そして数多くの他の労力節約手段)の働きを正しい状態に保とうとする。健康,医者,歯医者,約束,医薬品,肝油,ビタミン。そして薬局まで行かねばならない。霊的なもの,理知的なもの,肉体的なものの教育とか学校……訓練,キャンプ,キャンプの設備そして輸送ということがある。衣服,買物,洗濯,クリーニング,修繕,スカートの裾を長くしたり,ボタンをつけたり,あるいはそのことをする為に別の人を見つけたりしなければならない。私の夫の友人,子供たちの友人,そして私自身の友人ということも入つてくるし,一緒になるための果てしない取り極めということも入つてくる。手紙,招待,電話そしてここかしこへの旅行……,生活がこんがらがつているための問題は,アメリカの婦人だけが直面しているだけでなく,アメリカの男子も直面している。それはアメリカ人だけの関心事だけでなく,現代文明すべての関心事である。』
注意を逸らすものを切り捨てる必要
18 パウロの例と訓戒は,私たちにとつてどれ程価値あるものですか。クリスチャン走者は,何を学ばねばなりませんか。
18 現代生活は心づかいと注意を逸らすもので一杯です。この中にあつてクリスチャン走者は一筋の目的を保ち続けねばなりません。そして,自分の目標に向かつて進歩をしているということに確信を持たねばならないのです。使徒パウロは,『この世の心づかい』のために賞から目をはずすということをしませんでした。『私は目標のはつきりしないような走り方をせず』と彼は言いました。パウロは自分の目標を見つめていました。それについての疑問はすこしもなかつたのです。賞を勝ち得るためには,そのような決意を以つて,そしてそのように一筋に見つめつつ走らねばなりません。注意を逸らすものがいろいろな方面からやつて来て,その大部分は押しやることができないのですから,いつたいどうするならば,そうすることができますか。クリスチャン走者に与えたパウロの助言の原則を適用することができます『いつさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,私たちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。』それで,忍耐をして行く為に,クリスチャン走者は,注意を逸らすものを切り捨てる技術,重荷をかなぐり捨てる技術を学ばねばなりません。注意を逸らすものとか重荷は,いつしよに集められると賞から人の目を取りはずし,生命の競走において引きとどめるものです。―コリント前 9:26。ヘブル 12:1。
19 注意を逸らすというこの事柄は,結婚についてのパウロの助言にどう支配しましたか。それで,クリスチャン生活の基礎は何ですか。
19 注意を逸らすものをすくなくすることにより,競走を行つて賞を勝ち得ることに心を集中する時間をつくります。クリスチャン生活の多くの面に入つてくるのは,つまり注意を逸らすものを最少限度に保つということです。結婚は注意を逸らす多くの事柄をもたらすと使徒パウロは知つていました。それで,『余念なく主に奉仕』することができるため,独身でいる方が良いと彼はすすめました。しかし一方,情熱は心を乱す,危険なものであるとパウロは知つていましたから,次のように書きました,『情の燃えるよりは,結婚する方が,よいからである。』注意を逸らすものから遠ざかろうとすること,― それはクリスチャン生活の基礎であります。―コリント前 7:35,9,新口。
20 時間を生かして用いる為,クリスチャンは進んで何を為すべきですか。必要でない物品については如何ですか。
20 賞に目をつけて行く為には,クリスチャン走者は,注意を逸らすものの中どれを正しく,そして有効に切り捨てるべきであるかを進んで決定しなければなりません。そのように切り捨てて行くことにより,彼は自分自身の時間を生かして用います,そのことは次のいましめに一致するものです,『そこで,あなたがたの歩きかたによく注意して,賢くない者のようにではなく,賢い者のように歩き,今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。』時間を生かして用いる事柄に熱心でなければなりません。そして,注意をまぎらすものを最少限度に保とうと努めるべきです。人は物を得たいという気持を持つているのですから,品物を持つということだけでも注意を逸らす大きな事柄になります。家具とか,雑誌とか,本とか,衣服とか,道楽としての身廻品,得体の知れないいろいろな物などをたくさん蓄積してしまいます! 実際に必要でない多くの品物を蓄積しようとする傾向は,全く驚く程です! 押入れの中に積み重ねておいたところで,実際に必要でない品物は注意をそらすものとなります,場所が必要になつて来るだけでなく,時間とか,掃除,洗濯,置き換えその他が必要になつて来ます。注意をそらすものを切り捨て,必要なものだけを保つことにより,私たちはずつと幸福に感じます,そしてなによりも先ず,私たちの目を賞に保ちつづけることができます。―エペソ 5:15,16,新口。
21 注意を逸らすものを最少限度に保つ為,私たちはどのように自分自身を助けることができますか。
21 注意をまぎらす物を最少限度に保つ為に,選択をすることは重要な助けです。この世の商業家たちは,あなたが注意深く選択するのを好みません。人々を誘いすすめて,必要であろうとなかろうと,品物を集積させようと最善をつくしています。それですから,買物をするとき,読書するとき,時間の選び方において私たちは選択をする必要があるのです。忘れてはなりません,イエスが言つたごとく,必要なものは『多くはない。』
決意と訓練
22 走ることと訓練について現代の一走者は,何と言いましたか。なぜ,同じ原則はクリスチャンの競走にも適用するのですか。
22 注意をまぎらすものを切り捨てることによつて時を買い取ります。そして,その時を生かして用い,私たちは競走に専念することができます。『競走』という言葉は,クリスチャンの生活全部,特に良いたよりを伝道しようという私たちの熱心な努力を含むのですから,私たちが競走の為に訓練することは絶対に必要です。訓練をしないで良く走れる走者は一人もいません。1954年,1マイルを4分以内で走つた最初の人ロジャー・パンスターは,勝利を得た後に新聞記者たちにこう語りました,『勝とうと思わないなら,競走する意義はありません。その為には,訓練が必要です。もし訓練する時間がないなら,競走に入るべきではありません。』クリスチャンの競走は,実際には多く異るものですか。『あなたがたも,賞を得るように走りなさい。』とパウロは賞について語りました。彼は又,次のようにも助言しました『信心のために自分を訓練しなさい。』賞を勝ち得ようと決意しないで,なぜクリスチャンの競走に入るのですか。そして,勝ちたいと決意するなら,なぜ訓練なしに走るのですか。しかし,或る走者は訓練をしないで走ろうとしました。彼らは新世社会の会衆の集会で得られる霊的な訓練をおろそかにしています。これらの集会は肝要な役割を果します,すなわち賞に目を保ちつづける私たちを助けます。集会を定期的に欠席する人々が競走から落伍して行くのも当然です。それらの人々は,賞についてはつきり見ることができず,その忍耐の力は弱まつてしまいます。―コリント前 9:24。テモテ前 4:7,新口。
23 励ましを受ける為,私たちは目を一筋に保ちつづけたどんな模範を心に思いめぐらすべきですか。
23 競走の為の訓練をする際に,良く走つた人々,例えばアブラハムとかモーセのような人々の模範について思いめぐらすことが必要です。アブラハムは『ゆるがぬ土台の上に建てられた都を待ち望んでいた。』そしてモーセは『報いを望み見ていた。』彼らは賞に目をつけていたのです! 特に私たちは完全な走者キリスト・イエスの模範に思いをめぐらす必要があります。『私たちの走るべき競走を耐え忍んで,走ろうではないか。信仰の指導者であり完成者であるイエスをしつかりと見つめなさい。イエスは御自分の前に置かれていたよろこびのために,恥辱もいとわないで,刑柱を耐え忍ばれ,神の御座の右にすわられたのである。』イエスの歩調にあなたの歩調を揃えなさい。―ヘブル 11:10,26; 12:1,2,新世。
24 いま競走をすることになぜ後れてはなりませんか。私たちは,どのように走るべきですか。
24 イエスや,パウロやむかしの忠実な証者たちは,みな賞に目をつけて走りました。彼らの走つたように走りなさい。いま,そのように走るため時間をつくりなさい。明日になれば,状態が良くなつて,注意を逸らすものがすくなくなるということは,先ずあり得ません。この世がその滅亡に近づくにつれ,注意をまぎらすものは,増加するでしよう。今日のうちに競走の為の時間を生かして用いなさい。賞を正しく評価しなさい。定期的に訓練しなさい。重荷や注意を紛らするのをふり捨てなさい。必要なものだけの状態になるよう,かなぐり捨てなさい。勝つ為に走りなさい。賞に目をつけて走りなさい!
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躓かずに競走するものみの塔 1959 | 2月15日
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躓かずに競走する
『すべて心たかぶる者はヱホバに悪(にく)まれ……たかぶりは滅亡にさきだち,誇る心はたおれにさきだつ』― シンゲン 16:5,18。
1 なぜヱホバは,御自分の御言葉の中で特定な規則を述べていますか。どんな規則が繰り返し表われていますか。
競走をする規則は,ヱホバからその御言葉を通して来ます。『われ智恵の道を汝に教え,義しき道筋に汝をみちびけり。歩くとき汝の歩みはなやまず,走るときもつまづかじ。』クリスチャンを助けて躓かせないため,ヱホバは特定な規則を聖書の中で再三再四述べています。その中の一つは,躓きの原因となる誇りを取りのぞけという命令です。誇りははなはだしい重荷であり,クリスチャン競走における進歩を難かしいもの,不可能なものにすると見なして,取りのぞきなさい。『一切の重荷をかなぐり捨てよう』とパウロは言いました。―シンゲン 4:11,12。ヘブル 12:1,新口。
2,3 (イ)ヱホバが心に高ぶつている者を忌み嫌う理由を知るのは,現在なぜ適当ですか。(ロ)聖書の禁じているこの誇りとは何ですか。誇りを持つことは,人の競走にどう影響しますか。
2 なぜ,ほこりがヱホバに忌み嫌われるのか,また『信仰の戦い』において良く走る際のつまづきになるかを理解することは,この『終りの時』にあつて適当なものです。まつたく,現在は『終りの時』であつて,多数の人々は『自分を愛する者』『大言壮語する者』そして『高慢な者』です。―テモテ前 6:12。テモテ後 3:1-4,新口。
3 躓ずきにみちびくこのほこりとは何ですか。それは自分のことを高く考え過ぎることです。それは使徒の示した道とは反対の道を走ることです,『あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思い上ることなく』『高ぶつた思いをいだかず』それは,自分は重要な者であると思い上つた考えで,ちよつと銘釘の気分を持たせるものです。誇りを持つ人は,自分を思い高ぶつているのです。そのような人が『規則に従つて』クリスチャン競走をすることは,酒に酔つた者が躓かずに走ることと同じ位むずかしいものです。なぜなら,『人の心のたかぶりは滅亡に先だつ。』― ロマ 12:3,16。テモテ後 2:5。シンゲン 18:12。
4 ヱホバとキリストは高慢な者をどのように見なしますか。どんな結果が生じますか。
4 ヱホバは誇り高ぶつている人を憎む故に『たかぶりは滅亡にさきだつ』のです。彼はそのような者を忘み嫌います。彼は彼らに反対します。『神は高ぶる者をしりぞけ』ヱホバの魂の忌み嫌う七つのものの中に『たかぶる目』があります。知恵の疑人化されたキリスト・イエスは,次のように言つています,『我はたかぶりとおごり,悪しき道といつわりの口とを憎む。』地上におられたときにキリストは,不変の規則をこう述べました,『だれでも自分を高くする者は低くされ』それですから,誇りの結果はヱホバとキリストの反対を受け,自分を高める高慢な者たちは遂には低くされるでしよう。―ヤコブ 4:6。シンゲン 6:16,17; 8:13。マタイ 23:12。
なぜヱホバに忌み嫌われるか
5,6 なぜ心に高ぶつている者は,ヱホバに忌み嫌われますか。
5 心に高ぶつている人々が『ヱホバににくまれる』わけを知るのは容易です。彼らは神を求めておらず,また神から来る真理を求めていません。『悪しき者は傲慢にも探り求めることをせず,その考えはみな「神なし」ということである。』そのような人々は,どのようにすれば自分を高めることができようかと考えることです。彼らはヱホバに栄光と賛美を与えるのを拒絶します。―詩 10:4,新世。
6 誇り,傲慢,高ぶること ― これらはみな悪しき者たちの特徴です。『たかぶりはかざりのごとくその頸をめぐり』『高ぶる目とおごる心とは悪人の光にしてただ罪のみ』心に高ぶつている人は,神を求めないばかりか,神とその僕たちに反対します。この反対は迫害の気持をひき起します。『悪しき人は高ぶりて苦しむものを甚だしくせむ。』誇り高ぶつたパロは,イスラエル人をはげしく追跡し,その傲慢な行為の結果に苦しみました。誇りは,あらゆる種類の悪の基礎となつており全く偽りの宗教を教えるという極めて悪質の悪の基礎となつているのです,『もし違つたことを教えて,私たちの主イエス・キリストの健全な言葉,ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば,彼は高慢であつて,何も知らず,ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから,ねたみ,争い,そしり,さいぎの心が生じ,また知性が腐つて,真理にそむき,信心を利得と心得る者どもの間に,はてしのないいがみ合いが起るのである。』高慢な者,誇り高ぶつている者たちが,ヱホバに忌み嫌われるのも当然です! そのような人は人間からも忌み嫌われます,神からはどれ程忌み嫌われることでしよう!―詩 73:6。シンゲン 21:4。詩 10:2。テモテ前 6:3-5,新口。
7 誇りについての聖書の警告は,なぜクリスチャン走者の関心を持つべきものですか。誇りは滅亡の前にあると,誰が良く表わし示していますか。
7 誇りが悪しき者たちの特質であるなら,なぜ誇りについての警告がかくも多くあるのですが,なぜクリスチャン走者にとつて,それは関心を払うべき事柄ですか。なぜなら,誇りはクリスチャン生命を断ち切り,災害をもたらすものであり,そして誇りは『古い人格』の一部だからです。『規則に従つて』走る為には,クリスチャン走者はそのような『古い人格』を脱ぎ捨てねばなりません。新しく改宗した人が,監督の地位にすいせんされない理由は,使徒の語るごとく,『高慢になつて,悪魔と同じ審判を受けるかも知れない』からです。まつたくのところ,現在は悪魔になつている霊者も,最初は良いものでした,しかし誇りを持つたために失墜しました。ハルマゲドンのとき,彼は滅亡といういやしめを受けるでしよう。『なんじその美わしさの為に心に高ぶり,その栄躍のために汝の知恵を汚したれば,我なんじを地に投げ打ち,汝を王たちの前におきて,観物とならしむべし。』― テモテ前 3:6。エゼキエル 28:17。
8 人は何を持つと誇りを持ち易くなりますか。歴史は,このことをどう確証していますか。
8 サタン悪魔の例や,また新しく改宗したばかりの人が監督として奉仕することについての警告からも分る通り,権威と責任を持つた人は誇りを持ち易くなります。誇り高ぶり権力をもつていたハマンがいました。彼は誇り高ぶつた為に滅びを受けました。(エステル 3:5; 7:9)高慢なネブカデネザルもいました。彼は誇り高ぶつて,得意気にも『この大なるバビロンは我が大いなる力をもて建てて京城となし,これをもてわが威光を輝かす者ならずや』(ダニエル 4:30)と言つた後に正気を失いました。高慢なベルシャザル王がいました。ダニエルは彼に向かつて『ベルシャザルよ,なんじは彼の子にして……なおその心を卑くせず』と言いました。(ダニエル 5:22)ベルシャザルは,国と自分の生命を失いました。(ダニエル 5:22)ヘロデの高慢もありました。彼は神に栄光を捧げる代りに自分自身を尊びあがめたため,『虫にかまれて息が絶えてしまつた。』(使行 12:21-23,新口)本当に,歴史は強力な人々や国家の滅亡をずつと長く記録しているものです,そして『たかぶりは滅亡に先だつ』という事実を証明しているものです。
僭越は不名誉に先立つ
9 ウジヤ王は,どんな不信仰の行いをいたしましたか。彼がそのような愚行をしたのは,何が動機でしたか。
9 富を持つと誇りの気持を持ち易くなります。『富者はおのれの目に自らを智恵ある者となす』と神の言葉は述べています。ユダのウジヤ王に起きたことを見てごらんなさい。彼はヱホバの忠実な崇拝者でしたが,誇りが彼の生活内に入つたとき,彼はつまづきました。後年になつて彼は強くなり繁栄しました,『しかるに彼盛んになるにおよび,その心に高ぶりて悪しき事を行えり。すなわち彼その神ヱホバに向いて罪を犯し,ヱホバの宮に入りて香壇の上に香を焚んとせり。』思い上つたウジヤ王が,こうするのは間ちがいのことでした。それで,祭司たちは彼を叱り『聖所より出よ。汝は罪を犯せり。ヱホバ神なんじに栄を加え給わじ』ウジヤ王は,この叱責から益を受けましたか。受けなかつたのです。なぜなら『ウジヤ怒を発し香炉を手に取りて香を焚かんとせしが,その祭司にむかいて怒りを発しおる間に,癩病その額に起れり。時に彼はヱホバの室にて祭司等の前にあたりて香壇の側におる。』額に癩病が生じたのです! 死ぬときまで癩病人であつたウジヤは王者としての地位を失い,彼の息子が代りに支配しました! なんと悲しい終末なのでしよう! 長年のあいだヱホバに忠実に仕えた者の上に,そのことは生じたのです。しかし,規則はたしかです,『たかぶりきたれば,恥もまた来る。』― シンゲン 28:11。歴代志略下 26:16-21。シンゲン 11:2。
10 私たちはどのようにウジヤの経験から益を受けますか。
10 責任の地位についていない者でも,今日のヱホバの僕たちは,ウジヤの経験から益を得ることができます。経験してみなければ決して確信しないという人々のようになつてはなりません。誇りの後に来る滅亡を経験する理由はありません。それでは,どのようにして益を受けますか。自分には何の用向きもない事柄について,自分を重要な者と考えて語つたり,行つたりする僭越な行いをしないようにすることです。神権制度内のあなたの立場を保ちなさい。そして誇りの気持を抱くために悪い道に走り,ついには滅亡に落ちこむというようなことがあつてはなりません。
誇りは叱責の益を妨げる
11,12 誇りを持つていたため,ウジヤ王はどんな益を受けることができませんでしたか。私たちは,それからどんな教訓を受けるべきですか。
11 ウジヤのようであつてはなりません。彼は叱責と矯正から益を受けませんでした。彼は祭司たちの叱責を聞き入れて,直ちに聖所を立ち去ることができたはずです。そのようにしたならば,あれ程までの不面目な失墜を受けずに済んだことでしよう。しかし,彼は誇りを持つていたため,叱責を受けようとしなかつたのです。『なんじ己の目に自らを知恵ある者とする人を見るか。彼よりも却つて愚かなる人に望みあり。』おごり高ぶつたウジヤは叱責を軽んじ,そして激しく怒る程になりました。誇りを持つていたために,彼は叱責の益には盲目でした。―シンゲン 26:12。
12 矯正とこらしめは,ヱホバの僕すべてに来るのですから,私たちはヘブル人に告げたパウロの言葉を記憶する必要があります,『あなた方を子どもとして呼びかけている次のさとしを,あなた方はすつかり忘れている,「私の子よ,ヱホバのこらしめを軽んじてならない。彼にこらしめられるとき,弱り果ててはならない。ヱホバは愛する者をこらしめ,子として受け入れるすべての者をむち打たれるからである。」』もしクスリチャンが,制度を通してヱホバから来るこらしめを軽んじ,神の御言葉と一致する叱責を受けようとしないなら,その人はウジヤのようです。その人は,誇りを持つている為に叱責の益を受けようとしません。使徒は,こう説明しています,『確かに,こらしめはその当座には楽しくなく,悲しみに見えるが,しかし後になつて,それによつて訓練される者は平和の実,すなわち正義を結ぶであろう。』それですから,矯正がヱホバの制度から来るとき,その益を受けなさい。誇りによる妨げを受けるようなことがあつてはなりません。こらしめは,最初は悲しみに見えますが,しかし平和の実である正義と力を産み出します。『かたく教えを取りて,離すこと勿れ。これを守れ。これは汝の生命なり。』『教えのこらしめは生命の道なり。』― ヘブル 12:5,6,11。シンゲン 4:13; 6:23。
13 誇りは,どのように誤解と躓きの原因になりますか。
13 誇りが,時にはクリスチャン会衆内で誤解の原因になるのも驚くに当りません。誇りがあるなら,誇りによつて生ずるものも,おそらくそこにあるでしよう ― 怒り,争い,神経過敏,ねたみ,その他です。『心に貧る者は争いを起し』誇りは平和と一致を妨げます。もし誇りの入つて来るのを許さないら,誤解を訂正することはいともたやすいでしよう。誇りは超鋭敏な感受性をすぐに惹き起します。神経過敏な人は,自分の誇りが傷つけられたと感ずると,つまづきと倒れにみちびく事柄をいたします。例えば,神の僕と称する者が集会の出席を止めて神の制度との肝要な関係を断ち切りました。なぜ? 多くの場合に,他の者のした不適当な行為の故にその誇りが傷つけられたからです。実際には頭で考えただけの悪い事柄でしよう,しかし誇りは嵩じてすべての事柄を非常な誤解にまでしてしまいました。しかし,たとえヱホバの他の僕が『規則に従つて』競走をせず,またたとえその者が会衆内の僕であろうと,誇りの故に競走から落伍するというようなことを生ぜしめてはなりません。永遠の生命の賞は,私たちの誇よりも価値の少ないものですか。その質問にいつていくらか考えをめぐらしてごらんなさい。誇りを私たちの競走の妨げとするとき,躓きが来ます。『高ぶりは滅亡にさきだち,誇る心は倒れにさきだつ。』― シンゲン 28:25; 16:18。
14,15 誇りは,どのように腐つた骨にみちびきますか。誇りの結果を考えて見るとき,私たちは何を為すべさですか。
14 誇りは,危険な競争の精神にみちびき,すぐれた贈物を持つ他の者たちを妬むようになるでしよう。妬みは,今度は冷やかさと調和の不足にみちびきます。それで,『互いにいどみ合い互にねたみ合つて,虚栄に生きてはならない。』私たちは『ねたみは骨の腐なり』ということを知つていますから,私たちの前に置かれているクリスチャン競走をする際に誇りでもつて私たちの頑丈な霊的な骨をくさらしてはなりません。いつたい,腐つた骨を持つていて良く走れる人がいますか。―ガラテヤ 5:26。シンゲン 14:30。
15 誇りから生ずる悪い結果のいくらかを見,また誇り高ぶる人はヱホバの御前では全く忌み嫌われるということを知りましたから,誇りに対して身を守りなさい。しかし,どのようにすれば誇りに対して身を守ることができますか。神の御言葉はその方法を示しています。
愛と謙遜で誇りを癒す
16 なぜ愛は誇りに打ち勝つ程強いのですか。謙遜にはどの種類の愛が必要ですか。
16 愛は,誇りとその悪い結果全部に打ち勝つ程力づよいものです。『愛は……ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みをいだかない。』愛は誇りに対して勝利を得ます。しかしその為には『律法の中で最大のいましめはどれですか』という質問に答えられた際に,イエスの指摘した愛を持たねばなりません。イエスは次の様に言われました,『「心をつくし,魂をつくし,思いをつくしてあなたの神であるヱホバを愛さねばならない。」これは一番大きな第一のいましめである。第二のいましめもこれと同じ様に「自分自身のごとくに隣人を愛さなければならない。」』この種の類の愛は,かならず誇りに打ち勝つものです。なぜならそれは真実の謙遜にみちびくからです。―コリント前 13:4,5。マタイ 22:36-39,新世。
17 賞を勝ち得る為の競走の際に,私たちはどんな衣服を必要としますか。そしてなぜ?
17 謙遜と誇りは,なんと正反対なのでしよう! 『人の心の高ぶりは滅亡に先だち,謙遜は尊まるる事に先き立つ。』誇りは滅亡にみちびき,謙遜は栄光にみちびきます。生命という栄光に輝く賞を得る為には,私たちは謙遜を必要とします。良く走る為には謙遜を必要とします。それですから,クリスチャン走者は謙遜という衣服を着なければなりません。『また,みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ,へりくだる者に恵みを賜うからである。だから,あなた方は,神の力強い御手の下に,自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。』― シンゲン 18:12。ペテロ前 5:5,6,新口。
18 多数のこの世の人は,謙遜をどのように見なしていますか。
18 高められて栄光を受ける前に来るこの謙遜とは何ですか。現在のこの世では,謙遜ということは殆ど理解されておらず,またそのことの示される場合はほとんどありません。多数のこの世の人々は,謙遜を低く見くびつています。謙遜を臆病と気の弱さと混同しており,謙遜とは臆病者と弱虫の徳であると言います。謙遜とは又,力の欠如あるいは能力の欠如をかくす仮面であるとも見なされています。
19 昔の異邦人のいくらかは,誇りをどのように見なしましたか。コロサイのクリスチャンたちのいくらかは,にせの謙遜によつて,明らかにどう欺かれましたか。
19 謙遜について今日の人々が誤解していたり,人気の無いことなどは,何も事新しいことではありません。パウロの時代でも,この世の人々は真の謙遜について理解しておらず又行わなかつたのです。尊ばれたものは,誇りか又はにせの謙遜でした。アリストテレスの列挙した美徳の中で,誇りと高ぶつた思いは『美徳の冠』と呼ばれています。物質はそもそも悪のものであると他の者たちは教えました。コロサイのクリスチャンたちは,一種のにせの謙遜,すなわち煩わしい難行苦行で欺かれていたように見えます。これには二重の危険がともなつていました。つまり,物質を否認する否定的な行いをする者のみに生命の賞が与えられると,人は信じるに至りました。第二に,それは陰険な形式の物質主義を生ぜしめました。というのは難行苦行をする者の禁制は,物質の事柄に人の興味と注意を惹いたからです。それで,難行苦行は,その目的を達しませんでした。それは,けいべつすると称していた事柄,すなわち『使えば尽きてしまうもの』に主として人の注意を惹きました。そのような形式の謙遜は人をつまづかせ,そして生命の賞を失わせるものであると,パウロはコロサイ人に警告して,次のように書きました,『偽わりの謙遜……体の苦行をよろこぶ人によつて,あなたの賞をうばわれるようなことがあつてはならない。』真の謙遜は難行苦行ではありません。―コロサイ 2:18-23,新世。
20 謙遜とは何ですか。それについての偽わりの見方からどんな結果が生じますか。
20 『謙遜<ヒューミリテイ>』という言葉は,ずつとむかしのラテン語ヒュームスから来ています。その意味は『地』ということです。謙遜とは,文字通りには,へりくだる思いを持つこと,この地にまで下つていることです。クリスチャンはこの特質を衣服として着なければなりません。『あなた方は,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,へりくだつた思いを身に着けなさい。』すなわち,脚註の示すごとく謙遜を身につけなさい。それですから,謙遜は高ぶつた思いの反対です。しかし,『謙遜』は屈従,卑屈,臆病または力の不足とは何の関係もありません。謙遜とは弱いことであるという偽りの考えは,真の謙遜の豊かな祝福を失わせるものです。真の謙遜がどのように培われるかを見てみましよう。―コロサイ 3:12,新口。
謙遜の基礎
21 謙遜は何と共に始まりますか。そして,その基礎は何ですか。
21 謙遜は,知識,愛そして神を恐れることから始まります。謙遜は,私たちの弱少なること,そして神の大いなることを認識したときに生じます。人間はローソクの火のほんの一まばたきに過ぎないが,『永遠の王』である神は真昼の太陽のまばゆいばかりの輝きより,更に明るい栄光を持つていると認識するとき,謙遜はしつかりと根づきます。(エレミヤ 10:10)まつたく,これこそ謙遜の基礎であります。すなわち,神の無限の御稜威と私たち自身の弱少さを認識することであります。そのような認識は,知識から来るものです。ヨブ記 38章から41章までに記録されているごとく,ヱホバがヨブに与えたごとき知識から来るのです。その知識の助けで,ヨブは『神の力強い御手』の下に謙遜になることができました。私たちはこの種類の知識を必要とします。それは私たちを神との正しい関係に置かせ,ヤコブ書 4章10節(新世)の言葉に従わせます。『ヱホバの御前にあなたがた自身を低くしなさい。そうすれば,ヱホバはあなた方を高くして下さるであろう。』
22 お互いに対する心の謙遜さは,どんな基礎に依存していますか。そのような謙遜は,どのようにクリスチャン走者を助けますか。
22 ヱホバの御前で自分自身を謙遜にすることにより,私たちは仲間の者に対する謙遜の基礎をも置きます。なぜなら,人間に対する真実の謙遜は,究極には神の御前における真実の謙遜に依存するからです。真実の謙遜を持つとき,人は真実の自分を見ることができます,そして同様に他の者の実体をも見ることができます。他の者の性質とか成功を軽んずることがないため,他の者の実体とその行いを心から認識することができます。謙遜を持つている故に,人は思うべき限度以上に自分を考えることをしません。『知識は人を誇らします』が,真実の謙遜を持つている人は,たとえ高等教育を受けていようとも,誇りの気持を持たず,またその誇りの故に躓くということはありません。真の謙遜を持つクリスチャンは,規則に従つて競走を走ることができ,『何事も党派心や虚栄からするのでなく,へりくだつた心をもつて互に人を自分よりすぐれた者とし』ます。―コリント前 8:1。ピリピ 2:3,新口。
謙遜についてのこの世の見方は偽り
23,24 キリストは,この世の謙遜についての見方の偽りをどのように暴露していますか。それで,謙遜についての私たちの見方は何でなければなりませんか。
23 謙遜とは弱いことであるとか,または弱いことをかくす為の仮面であるとかいう,謙遜についてのこの世の見方はなんと歪曲しているのでしよう! 全くのところ,誇りは弱いものであり,謙遜は力のあるものです。キリスト・イエスは地上にいた人間の中でいちばん謙遜な人でした。しかし,彼は一番強い者,いちばん勇気のある者,一番賢明なる者,弱いことを知らず,そして御自身に罪を持たなかつたのです。彼はなんと大きな業を成したのでしよう。しかし,個人的な栄誉をすこしも取らなかつたのです!(ヨハネ 5:19)彼のごとき偉大な指導者で,しかも弟子たちの足を洗い,そして『私があなたがたにしたとおりに,あなたがたもするように,私は手本を示したのだ。』と言い得た人が,いたでしようか。『すべての事は父から私に任せられています。』というのですから,なんと大きな権威を持つていたのでしよう! しかし,彼はまたなんと謙遜だつたのでしよう!『私は柔和で心のへりくだつた者である。』― ヨハネ 13:15。マタイ 11:27,29,新口。
24 謙遜は叡知や力の欠如をかくす仮面とは全くちがいます。それは真の力であり健康であります。それは栄光に達する踏石です。『自分を高くする者は低くされ,自分を低くする者は高くされるであろう。』『人の傲慢はおのれを卑くし,心にへりくだる者は栄誉を得』― ルカ 18:14,新口。シンゲン 29:23。
25 キリストの心持は何でしたか。そして,その結果は何でしたか。それで,私たちは何を為すべきですか。
25 謙遜について聖書の述べているすべての事柄は,一つの大きな例である,キリスト・イエスの中に表わし示され,確証されています。私たちは私たちの心と生活をイエスにならつて行かねばなりません。このことは,かくも肝要なものであるため,使徒は次のように命じています。『あな方は,キリスト・イエスと同じ心持を持ちなさい。』どんな心持ですか。『彼は自らを卑くし,……死に至るまで苦難の杭の死に至るまで従順であられた。それ故に,神は彼を勝れた地位に高めた。』まつたく,『それ故に』つまりキリストが自分自身を謙遜にし,神に服して従つたため,彼は宇宙内の被造物の持ち得る最高の地位に高められたのです。『謙遜は尊貴に先だつ』ということは,なんと真実のことでしよう!―ピリピ 2:5,8,9。シンゲン 15:33。
26 神は謙遜な者をどのように見なしますか。誇る者は,何を失うに至りますか。
26 たしかに謙遜は力です。私たちの前に置かれている競走をするには,この種の力が必要です。神は謙遜な者だけに力を与えます。『しかし,私が顧みる人はこれである。すなわち,へりくだつて心悔い,わが言葉に恐れおののく者である。』『いと高く,いと上なる者,とこしえに住む者,その名を聖ととなえられる者がこう言われる,「私は高く,聖なる所に住み,また心砕けて,へりくだる者と共に住み,へりくだる者の霊をいかし,砕けたる者の心をいかす。」』走る者が誇りを持つ為に神の生気づける力を否定するとは,なんと愚かなことでしよう! 誇る者は,どうして神から力を頂けますか。たとえ彼らが祈るにせよ,彼らの祈りは聞かれません。それについては,イエスはパリサイ人の例を示しました。このパリサイ人の祈りは,自己偽善にもとづく誇りを反映したのです。―イザヤ 66:2; 57:15。(新口)。ルカ 18:10-14。
27 謙遜を持つとき,人は何をすることができますか。監督の職を求めている人々は,何を記憶すべきですか。
27 真実の謙遜を持つとき,規則に従つて競走することは重荷ではありません。真実に謙遜な者は,教えを素直に受け入れます。そして叱責から益を受けます。彼らは競走で争い合つているのではなく,またすべての者は神の愛ある報いを得るために一致団結して走らねばならぬと悟ります。それで彼らは互いに助け合い,励まし合います。謙遜のあるとき,どんな状況の下にあつても,すべての人に『御言葉を宣べ伝える』ことができます。謙遜のあるとき,御国奉仕の為の訓練を受け,宣教学校から助言を受け,そして家から家に良いたよりを告げる仕方を学ぶことができます。謙遜によつて,責任の地位を持つ人々はイエスのように,謙遜でしかもいつも近づき易い人になれます。もし人が監督の職務を求めているなら,誇りは神の制度内における有用さと大きな奉仕特権に対する妨げであると記憶させなさい。なぜなら,神は誇る者を忌み嫌い,誇る者に反対するからです,『謙遜は尊貴に先だつ』ということを記憶させなさい。イエスの次の言葉をも記憶させなさい,『あなた方の間で偉くなりたいと思う者は,仕える人となり,あなた方の間でかしらになりたいと思う者は,僕とならねばならない。』― マタイ 20:26,27,新口。
28 競走のために,クリスチャン走者はどのように衣服を身につけますか。どんな結果が得られますか。
28 それで,躓きの原因となる誇りや重荷を脱ぎ捨てなさい。競走のための洋服屋仕立の衣服を身につけなさい。『みな互に謙遜を身につけなさい。』そして,『謙遜を……身につけなさい』とパウロは命じています。これは躓かずに走るための衣服です,なぜなら『謙遜とヱホバを畏るることの報は,富と尊貴と生命となり。』― シンゲン 22:4。
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