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  • わたしたちの神の救いに感謝する
    ものみの塔 1973 | 11月1日
    • たのではなく,神から生まれたのである」― ヨハネ 1:12,13,新。

      10 イエスが血筋上の家族をもうけなかったのはなぜですか。

      10 罪を贖う価値のあるイエスの犠牲を通してとこしえの命を得,イエスの地上の家族となる人々についても同じことが言えます。彼らもイエスの血に対して信仰を働かせねばなりません。それは,彼らが罪と死から買い取られるための基となっているものです。(ヘブル 9:12,28。ロマ 5:8-11)完全な人間として,イエスは結婚して自分自身の家族をもうけることもできました。それは,有能で,傑出した家族となったことでしょう。しかし,それはイエスの望んだことでしたか。それはイエスを地に遣わしたエホバの目的でしたか。イエスは自分の父の意志を行なうことに関心を持っていました。それは,イエス自身の新しい家族を始めることよりはるかに重要な問題を含む事がらでした。(ヨハネ 5:30; 6:37-40)イエスは何よりも,エホバの聖なるみ名と目的が初めの人間家族との関連において立証されることを願っていました。神は,パラダイスの地をアダムの義なる子孫で満たすという壮大な目的が七千年の『休み日』の終わりまでに成し遂げられることを確信して,ご自分の創造の業から休んでおられたからです。―創世 2:1-3; 1:27,28。

      11 (イ)イエスはどのようにして『とこしえの父』になりますか。(ロ)神はだれをまず霊的な子とされますか。

      11 神の創造物としての人間は当初完全だったのであり,その完全さを取り戻すための道がありました。したがって,新しい人間家族を始める必要がどこにあるでしょうか。ここで求められたものはむしろ,完全な人間イエスによる犠牲であり,それは,アダムの子孫のうち,神を愛する従順な者たちがイエスの家族の中に移し入れられ,いわばその家族の養子とされ,その贖いによって,イエスを『とこしえの父』とするような関係に入るためでした。(イザヤ 9:6)しかし,まず神の目的のもとに,「初穂」,つまり,アダムの家族のうちの少数の者が,イエスの犠牲に対する信仰に基づいて霊的な子とされ,霊的な復活を受けて,人間家族を治める天の王国においてイエスと共になります。―ロマ 8:23。ヤコブ 1:18。

      12 (イ)贖いは人類にとって何を可能にしますか。(ロ)わたしたちは贖いの備えに対してどのように答え応じるべきですか。

      12 この贖いは,人類全般に対する比類のない祝福の道を開きます。すなわち,全地に復興されるパラダイス,義を愛する大ぜいの人々がそのパラダイスに生き残ること,幾十億という死者の復活,そして,病気・罪・死が取り除かれることです。これは,平和と満足感,そして,エホバの創造物すべての調和を可能にします。(詩 37:10,11; 72:7,8。ヨハネ 5:28,29。イザヤ 33:24)これらきたるべき数々の栄光について思いめぐらすとき,わたしたちの心は,み子を通して表わされたエホバの驚嘆すべき愛と過分のご親切に対する感謝の念に燃えないでしょうか。まさにわたしたちは,「過分の親切の上にさらに過分の親切を受けた」のです。(ヨハネ 1:14,16,17,新)イエスの弟子たちが贖いに関して深い感謝をこめて書き記したのも不思議ではありません。(ロマ 3:21-26。ペテロ前 1:18,19。ヨハネ第一 1:7。ユダ 20,21)あなたの心も,贖いを備えてくださった神の偉大な愛,およびその結果として来るすべてのものに対する感謝の念にあふれないでしょうか。―ロマ 8:38,39。イザヤ 65:17,18。

      わたしたちの感謝を示す

      13,14 (イ)贖いに対する認識はどんな点でわたしたちを満ちあふれさせるはずですか。(ロ)罪をならわしにするようなことを避けさせるものはなんですか。

      13 仲間の信者たちにあてて使徒パウロはこう書き記しました。「わたしはこう祈りつづけています。あなたがたの愛が,正確な知識と十分な識別力に伴って,いよいよ満ちあふれるようにです。それは,あなたがたがより重要な事がらを見きわめるようになり,こうして,キリストの日に至るまできずなく,他の人をつまずかせることなく,また,イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光また賛美となるためです」。(ピリピ 1:9-11,新)贖いに対する認識が愛の点でわたしたちをいよいよ満ちあふれさせるなら,悪を憎むという点でもわたしたちをいよいよ満ちあふれさせるはずです。

      14 神はイエスの犠牲に基づいて罪のゆるしのための備えをしておられますが,これはわたしたちが罪を自由に犯してもよいという意味ではありません。確かに,ヨハネ第一の書 2章1節が述べるとおり,受け継いだ不完全さのために「だれかが罪を犯しても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられ」ます。(新)しかし,故意に気ままにふるまって罪を犯す場合でもそうした助けを受けられるでしょうか。罪の道に従って自分をかたくなにする場合でも,罪を贖うイエスの犠牲の価値を自分に当てはめていただけると考えてよいでしょうか。ヨハネ第一の書 3章2,6,8節はこう述べています。「愛する者たちよ,今やわたしたちは神の子どもです。……彼と結ばれている者はだれも罪をならわしにしません。罪をならわしにする者はだれも,彼を見たこともなければ,知るようになったこともありません。罪を行ないつづける者は悪魔から出ています。悪魔は初めから罪を犯してきたからです。神の子が現わされたのはこのためです。すなわち,悪魔の業を打ち壊すためです」。(新)神はこれを,ご自分の愛の備えである贖いを通して行なわれます。キリストによるこのすばらしい備えの価値を認識する者はだれも,罪をならわしにしようなどとは思わないはずです。

      15 イエスの犠牲によってゆるしを受けられると考えて罪の行為にふけるのはなぜ賢明ではありませんか。

      15 ぎりぎりのところでも定めを越えないようにしてするのであれば,また,まともに罪を犯すのではなくただその周辺の楽しみをなめる程度にするのであれば,それほど悪いことはない,と考える人がいるかもしれません。また,『ただ一度だけで,あとはしない,そうすればイエスの犠牲によるゆるしを受けられるだろう』と考える人がいるかもしれません。しかし,これは健全な論議ですか。これは,霊の実を培うこととは逆に,肉の業を求める性向を培いはじめることであり,聖書は,「そのような事がらをならわしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」と明確に警告しています。(ガラテヤ 5:19-24,新)誤った習慣に落ち込むことはきわめて容易です。清い心をいだいて,そうした誘いに抵抗しなさい。(マタイ 5:8)悪への誘惑に面したとき,わたしたちは,『いや,わたしはこの事には決して関与しない。贖いを備えるという点で神とキリストがこれほどのことをしてくださったのに,このような感謝の欠けたことをどうして行なえるだろうか』と言うべきです。贖いについて思いめぐらすとき,次のことばが常にわたしたちの心からのことばでありますように。「わたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰をいだいて魂を生き永らえさせる者です」― ヘブル 10:39,新。29節もご覧ください。

      16 「しりごみして」罪に陥るようなことをどうしたら避けられますか。

      16 わたしたちは,「しりごみして」罪や信仰の欠如に陥るよりも,わたしたちの神にいよいよ近づいてゆくことができますように。これはわたしたちの兄弟たちにいよいよ近づいてゆくことでもあります。わたしたちは兄弟たちを心から愛すべきです。「すべて義を行ないつづけない者は神から出ていません。自分の兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うこと,これが,あなたがたが初めから聞いている音信なのです」。(ヨハネ第一 3:10,11,新)こうした互いへの愛をどのように示せるでしょうか。ともに時を過ごすことによってです。集まりの前や集まりのあと,また他の機会にこれを行なえます。(詩 133:1。ロマ 12:9,10)そうです,互いに関心を払い合うことによって,愛のうちに互いを築き上げることによって,主イエス・キリストを通じエホバによって備えられた優れた霊的な祝福を喜んで分け合うことによってです。―テサロニケ前 5:11-13。

      積極的な感謝

      17 (イ)わたしたちの信仰をどんな積極的な形で表現できますか。(ロ)これにはときにはどんなことが伴いますか。

      17 贖いはわたしたちの積極的な行為を,すなわち,エホバとキリストがしてくださったすべての事がらに対する心からの感謝を表わす信仰の業をうながすはずです。それによってわたしたちは,詩篇 11篇7節に述べられる人々の中に数えられることになるでしょう。「エホバはただしき者にして義しきことを愛したまえばなり 直き者はそのみ顔をあふぎみん」。今日地上には150万を超えるエホバの証人たちがおり,心の正直な他の人々のために「義しきこと」を行なっています。彼らの行なう宣教奉仕の中には,他の人々の家を訪ね,無償で聖書を教えて永遠の命に至る道を示すことが含まれています。その命は,神とキリストと贖いの備えとに関する正確な知識を通してのみ得られるものです。(ヨハネ 17:3; 14:6)こうした宣教奉仕のすべては自発的に,またなんら物質上の報償を求めずになされています。また,こうした宣教奉仕に伴って,不親切な,さらには残酷でさえある反対の中で忠誠を守らなければならない場合も少なくありません。―マタイ 10:28-39。

      18 五歳の一少女はエホバの備えに対する感謝をどのように表わしましたか。

      18 一例として,五歳になる一少女の場合を取り上げましょう。母親はこの少女に忠実な態度で教え,結果として少女はエホバとそのみ子に対する深い愛を育てるようになりました。しかし,信者でない父親は彼女を仏教系の幼稚園に行かせました。クリスチャンとしての彼女の信仰はここにおいて厳しく試されることになりました。彼女は幼稚園の門のところにある仏像を礼拝しようとはしませんでした。教室では仏陀の像に頭を垂れることを拒みました。教師は繰り返し彼女をしかりました。しかし,その幼稚園においてさえ,彼女の行なうことのできる正しい種類の崇拝がありました。毎日の昼食の前に,彼女はその小さな頭を垂れ,キリストを通してエホバに静かに祈りをささげたのです。教師はこのことをも怒り,それをやめさせようとしましたが,むだな努力でした。最後に,彼女を仏教の祝祭行事に参加させることができなかったとき,教師は少女に尋ねました,「これはあなたのお母さんがしてはいけないと言ったからなの?」。その幼子は答えました,「いいえ,エホバ神に喜ばれない事だからです」。贖いに基づく信仰のりっぱな表明ではありませんか。

      19 (イ)エホバは清い心でご自分を尋ね求める人々をどのように祝福されますか。(ロ)年配のある人はそうした祝福に対する感謝をどのように示しましたか。

      19 エホバの贖いの備えは,いかなる人にもとこしえの命の道を開きます。エホバはご自分の使いたちを用い,エホバのご意志を知ってそれを行ないたいという真剣な願いを表わす人々を集めておられます。(黙示 14:6,7)ものみの塔協会の一支部は次のような手紙を受け取りました。「私は68歳になる盲人です。長年入院生活が続いた1970年11月当時,頼る人もなく,生きる勇気も失い,死を決意するほどでした。そんなある日の朝,私は神柵の前でこのように祈りました。『死ぬ前に一度だけ,神柵の中にいるような神ではなく,真の神に会わせてください』。ところが,祈り終わらぬうちに,『ごめんください』という声が聞こえました。驚いたことに,その人は,『私はエホバという真の神の証人として良いたよりをお伝えしている者です』と言いました。さっそく上がっていただき,いろいろと話を聞きました。それ以来,最初から休まず土地の証人たちの集会に参加させていただき,1971年の5月には,私自身が家から家を訪ねる伝道者になり,同年12月4日にエホバの証人の巡回大会で献身を水のバプテスマで表わし,同月の25日から一時開拓奉仕をしました。目が開いていた28年間を含め,過去68年間のうちで今ほど幸せで希望と喜びに満ちた毎日はありません」。その喜びの具体的な表現として,この愛すべきクリスチャン姉妹は,自分の国における神権的な拡大の建設計画に資するため,惜しみない寄付をその手紙に添えて送ってきました。

      20 エホバはどのように『来たりて自分の民を救わ』れますか。

      20 確かにエホバは,『来たりて自分の民を救う』という約束を果たされました。エホバは彼らを宗教的な大いなるバビロンから救い,ご自分との友交的な関係に,そうです,霊的なパラダイスの中に導き入れられました。贖われた信者たちにとって,この霊的なパラダイスにいることには,数えつくせない祝福が伴っています。「そのとき[霊的な]めしひの目はひらけ [霊的な]みみしひの耳はあくことを得べし そのとき[霊的な]あしなへは鹿のごとくにとびはしり [霊的な]おふしの舌はうたうたはん」。わたしたちの時代においてさえ,次の預言は成就しています。『かしこに大路あり その道[大いなるバビロンから出る道]は聖き道ととなへられん けがれたるものはこれを過ぐることあたはず ただ主の民のために備へらる これを歩むものはおろかなりとも迷ふことなし』。この道に入ることは,エホバの要求を謙虚に学んで真の知恵を働かせ,キリストを通してなされた命のための神の備えを受け入れる人すべてに開かれています。『[大いなるバビロンにおける捕われから]エホバに贖ひ救はれし者うたうたひつつ帰りてシオン[メシアによる神の王国]に来たり そのかうべにとこしへの喜びをいただき楽しみと喜びとを得ん しかして悲しみとなげきとは逃げさるべし』。―イザヤ 35:4-6,8,10。

      21 わたしたちはどんな希望をいだいていますか。それはわたしたちをどのように動かすはずですか。

      21 ここに述べられる霊的な奇跡はまもなくもう一度行なわれます。いつですか。み子イエス・キリストによる神の千年王国のもとにおいてです。1,900年前地上におられた時でさえ,イエス・キリストは文字どおりの意味でこれと同種の奇跡を行ないました。王として,イエスはこうしたことを再び行なわれます。地上に復興する文字どおりのパラダイスにおいてです。(ルカ 23:43,新)なんと喜ばしい希望ではありませんか。そして,現在成就しつつある預言は,わたしたちがこの歓喜の時のまさにその門口に立っていることを示しています。今こそ精力的に励むべき時です。それは,救いの神との交友をほんとうに保って歩んでゆくためであり,「大患難」を経て,その後に横たわるとこしえの祝福の時に至るまでです。―ルカ 13:24。

  • あなたはエホバを待つことができますか
    ものみの塔 1973 | 11月1日
    • あなたはエホバを待つことができますか

      『われはエホバを仰ぎ望みわれを救う神を望みまつ わが神われに聞きたまうべし』。これは預言者ミカのことばです。―ミカ 7:7。

      あなたはエホバに対して,ミカと同じように強い希望をいだいていますか。あなたはエホバを待つことができますか。ある願わしい事柄を待ち望んでいて,それがすぐには実現しない事柄であるとき,子どものようにいらいらしますか。それともエホバに信頼して平静な態度を保ちますか。逆境に陥るとき,『あなたの救いの神を待つ態度を示』しますか。

      待つことは必ずしもやさしいことではありません。このことは,ある事柄を長い間待ち望んでいる場合にとくに真実です。『望みを得ること遅きときは心を疾しめ』と,神の霊感による箴言が述べているとおりです。(箴 13:12)しかしながら,時間は変らない速度で流れてゆきます。わたしたちが確実に良い結果を得るよう最善をつくし,かつ計画を立てるにさいして,わたしたちに対するエホバのご意志を考慮に入れているなら,祝福は訪れます。時には全く思いがけない方向から,予期していなかった祝福を受けることがあります。こうした祝福に対してもわたしたちはエホバに感謝します。

      時々わたしたちは,人間の能力では解決できない事態に直面することがあります。そういう場合にはどうしますか。エホバを待ちます。そうです,『エホバを待ち望め』です。ただすわって無為に待つのではなく,問題を扱ってくださるよう心からエホバに祈り,確信を持ってエホバのみ手

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