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    ものみの塔 1973 | 9月15日
    • 4 イエスは,「命の水」とご自身の犠牲との間にどんな関係があることを指摘されましたか。

      4 人類のための永遠の命への道を開いたのは,ささげられたイエスご自身の命の犠牲です。ゆえにイエスは,サマリヤ人の女に次のように話して,命を与える水がご自身の犠牲と関係していることを示されました。「だれでもわたしが与える水を飲む人は,決して渇くことがなく,わたしが与える水は,その人の中で,永遠の命を与えるために沸き上がる水の泉となるのです」― ヨハネ 4:14,新。

      5 黙示録 22章17節の「命の水」は地上での命のための備えをさしていますが,聖書はどのようにそのことを示していますか。

      5 イエスが与えるこの永遠の命は,永遠に生きる人はすべて天に行かねばならないという意味での命をさしているのでしょうか。決してそうではありません。というのは,黙示録の預言は,命の川の水晶のように透き通った水についてこう述べているからです。「霊と花嫁は,『来なさい!』と言いつづける」。さて,その花嫁は,夫であるキリストをかしらとするクリスチャン会衆です。(コロサイ 1:18。エペソ 5:23。コリント後 11:2)イエス・キリストとともに天的な命にあずかるのは14万4,000人の人たちです。(黙示 14:1,3)霊と花嫁は,さらに他の人びとに「命の水」を提供するのです。ですからそれは,地的な命,つまり完全な人間にふさわしい楽園に一変した地上で享受する人間の永遠の完全な命のための神の備えを象徴しています。

      6 その「命の水」は何を表わしていますか。今そのすべてを利用することができますか。

      6 「命の水」は,イエス・キリストを通して設けられている命のための備えすべてを表わしています。そのすべてを今利用できますか。いいえ,それはできません。なぜなら,神はまず最初に,現在の邪悪な事物の体制とその見えない支配者であるゴグを除き去らねばならないからです。そのゴグとは,天から放逐されて以来の悪魔サタンのことです。(このことは当誌のこの号の前の2号の記事で論じられています。)しかしわたしたちは,王国の良いたよりを聞き,それに服し,また自分の生活をそれに合わせることによって,その「水」に関して今利用できる事がらを取り入れることができます。―ヨハネ 3:16。ロマ 12:2。

      命の水の流れ出る神殿

      7 エゼキエルの幻の中の神殿は何を表わしていますか。

      7 神の預言者エゼキエルは,黙示録に記されている使徒ヨハネの幻を補足する一つの幻を与えられました。その幻の中でエゼキエルは一つの神殿を見ました。それはソロモンあるいはゼルバベルの建立した神殿のような,人間の建てた神殿ではありませんでした。というのは,当時エルサレムには神殿は跡かたもなかったからです。それより約14年前,その神殿はバビロンのネブカデネザルによって滅ぼされ,エルサレムそのものは荒廃していました。エゼキエルの見た神殿の作りは,ソロモンのそれとは異なっていました。幻の中で,それはすでに建てられ,また視察され,測量される用意が整ったものとして描かれています。しかしそれは,実際には後代に建てられるあるものを預言的に表わしていました。それは,「人間ではなくエホバの立てた真の天幕」を表わしていました。―ヘブル 8:2,新。

      8 その「真の天幕」もしくは神殿はいつ存在するようになりましたか。

      8 ヘブル人にあてて手紙を書いたクリスチャンの筆者は,その天幕もしくは神殿について詳しく論じ,それが以前の神殿に取って替わったことを示しています。それら以前の神殿の最後のものはゼルバベルの神殿で,それは後にヘロデ王によって再建されました。その「真の天幕」は,イエスがご自分に対する神の意志という「祭壇」の上に,「世の罪を取り去る,神の子羊」として自らをささげられるようにした西暦29年に存在するようになりました。復活後,イエスは,地上でエホバの霊的な祭壇の上に,つまり神の「意志」に基づいてすでにささげた完全な人間としての犠牲の価値を神にささげるため,その神殿の至聖所と呼ばれる仕切り室つまり天そのものにはいられました。―ヘブル 9:23,24; ヨハネ 1:29,新。

      9,10 (イ)エゼキエルの見た神殿が『はなはだ高き山の上に』あったという事実から,わたしたちは何を学びますか。(ロ)霊的にいって,エホバの民の中には今どんな状態が見られますか。

      9 エゼキエルはその幻の中で,『はなはだ高き山の上に』ある神殿を見ました。このことから,エゼキエルの幻が成就する時代を,時の流れの中ではるか後代に位置ずけられるでしょう。その時代とはイザヤが預言したように,『エホバの家の山(が)もろもろの山のいただきに堅く立ちもろもろの嶺よりもたかくあがる』時代です。エゼキエルは,その幻の中で人の形で表わされたみ使いに案内され,神殿を視察しました。『その面容は銅のごとくにして手に麻の繩とはかり竿をとりて門に立てり』― エゼキエル 40:2,3。イザヤ 2:2。

      10 現代においてエホバは,地上のご自分の民のために『霊的な楽園』を回復されました。その民は神の目的に関する理解を享受しており,また神のそうした目的を世界中でふれ告げるわざの点で繁栄しています。今日,エホバの崇拝は『堅く立て』られ,『たかくあげ』られています。何十万もの人びとは「命の水」をただで飲みはじめています。次いで彼らは他の人びとに向かって,「来なさい!」と言うので,エホバの証人の諸会衆は平和と正しい秩序を保って繁栄し,数の面で常に増加しています。

      ハルマゲドン生存者たちのための命

      11 しかし,エゼキエルが見た事がらは,現代の神の民の霊的な楽園をどのようにしのぐものとなりますか。

      11 しかしエゼキエルは,そうした事がらをしのぐ,ある光景を見ました。エゼキエルはすでに,サタンの地上の軍勢の敗北するさまや,「マゴグの地」つまりサタンが今とどまっていて,そこからこの地を悩ましている見えない領域の一掃される様子を見せられていました。(エゼキエル 39:6)次いでエゼキエルは,義をもって治めるイエス・キリストの千年統治期間中,地上で起きる事がらをはっきりと描写した光景を見せてもらいました。その時には,物事に干渉する「ゴグ」つまり悪魔サタンも,その配下の悪霊たちもいっさい存在しなくなります。幻の中でエゼキエルを導いたみ使いは,彼を連れて神殿を視察しました。次いで,エゼキエルはこう述べます。

      12,13 (イ)黙示録 22章17節のことばと調和するものとしてエゼキエルが見た事がらについて説明しなさい。(ロ)水について言えば,その源およびその水の流れる方角は何を示していますか。

      12 『かくてかれ我を室の門に携えかえりしが室のしきみの下より水の東のかたに流れいずるあり 室のおもては東にむかいおり その水下より出で室の右のかたよりして壇の南より流れ下る』― エゼキエル 47:1。

      13 水は,エホバの住んでおられる聖所から流れ出て,中庭にある祭壇のそばを通って東の方角に流れました。それは命の与え主であるエホバ神が,ご自分のみ子で大祭司であるイエス・キリストの贖いの犠牲を認めておられることを示しています。その水は中庭の外に流れ出て,命を必要とする所に向かって流れてゆきました。―ヨハネ第一書 1章7節; 5章11,12節と比べてください。

      14,15 (イ)み使いが一千キュビトずつ距離を計ったことには,どんな特別の意味がありますか。(ロ)『くるぶしの深さ』の水は,だれの益のためのものですか。

      14 さて,エホバのみ使いは,亜麻でできたはかり繩を使いました。エゼキエルはこう述べます。『その人東に進み手にはかり繩を持ちて一千キュビトをはかり我に水をわたらしむるに水くるぶしにまでおよぶ』― エゼキエル 47:3。

      15 み使いが東の方向に一千キュビトずつ距離を計り,その水の流れにより成し遂げられるものとして描かれている事がらすべてがキリストの千年統治期間中に起きることをわたしたちに繰り返し思い起こさせているのは,注目すべき重要なことです。最初に測量されたところの水はごく浅くて,わずかくるぶしに達する深さしかありませんでした。ゴグの地上の軍勢が敗北を喫するハルマゲドンの戦いの直後は,命を与える水は『くるぶしの深さ』の水で十分でしょう。なぜですか。なぜなら,その戦いで最高潮に達する「大患難」の生ずる前に神の王国をしっかり支持する人たちだけが生き残るからです。それらの人びとは「大群衆」と呼ばれてはいますが,地上の現在の人口と比べれば,その数はわずかですし,これまで地上で生活した何十億もの人びとと比較すれば,それは確かにごくわずかです。(黙示 7:9,新)それらの人たちは,全地球的な洪水を生き残ったノアとその家族のようでしょう。その「大群衆」は,正義の人類社会の営みを開始させる人びととなります。彼らは「新しい地」の,すなわち天のメシヤの王国のもとに組織される人類社会の基礎となります。―ペテロ後 2:5; 3:5-13,新。

      今は死んでいる何十億もの人びとのための命

      16,17 「大患難」の生存者たちが命の水の川から水を十分に飲むとき,贖いの益の適用は完了しますか。説明しなさい。

      16 しかし,神はご自分の目的を完遂させぬまま放置することはありませんし,また神は偏ぱなかたでもありません。(イザヤ 46:9,10。使行 10:34,35)イエス・キリストの贖いの犠牲の,命をもたらす恩恵は,人類一般のためのものです。その恩恵が他の多くの人びとに適用されることについては,こう記されています。「わたしたちは,み使いたちより少し低くされたイエスが,死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられたのを見ています。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての人のために死を味わうためでした」。(ヘブル 2:9,新)また,「彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」。(ヨハネ第一 2:2,新)「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」― テモテ前 2:5,6,新。

      17 そうした事がらに基づいてイエス・キリストはこう言われました。「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしてい(ま)す」。(ヨハネ 5:28,29,新)そうです,使徒パウロが言明したとおりです。「義者と不義者との[死者の]復活があ(ります)」― 使行 24:15,新。

      18 水の流れが深さや水量を増して,「膝にまでおよぶ」ようになったということは何を表わしていますか。

      18 死者が復活させられるとき,そうした人びとを癒し,完全に命を回復させるに足る十分の命の水があります。それは確かです。というのは,水の流れを見ると,その深さを増してゆくのがわかるからです。『彼[み使い]また一千[キュビト]をはかり我をわたらしむるに水膝にまでおよぶ』― エゼキエル 47:4。

      19,20 水の流れが深さを増しつづけて,「腰にまで及ぶ」ようになったということは何を表わしていますか。

      19 しかし,水の流れはそこで深さを増すのをやめたわけではありません。このことからすれば当然,何十億人もの死者すべてが同時に復活させられるのではないと考えられます。さもないと,ハルマゲドン生存者は人口爆発という重大な問題をかかえることになるでしょう。では,復活させられる人たちに,エホバの定められた命の道を教えたり,その点で彼らを訓練したりするのは言うまでもなく,そうした人たちのための必要な物質的備えはどのようにして設けることができるのでしょうか。

      20 次に測量を行なったところ,水の流れの量はずっとふえていました。『しかしてまた一千[キュビト]をはかり我をわたらしむるに水腰にまで及ぶ』。(エゼキエル 47:4)千年期が進展するにつれて,復活させられる人たちの数はふえてゆきます。というのは,そうした人たちを世話する,王国の忠節な臣民がもっとふえるからです。しかし,復活させられた人たちの中には,エホバの過分の親切を正しく評価せず,また従順を示そうとしない人びともいることでしょう。この点は,預言がさらにどう進展していくかを当「ものみの塔」誌の今後の記事の中で考慮するさいに明らかにされるでしょう。しかし,何十億人もの従順な人びとは共働者となって,楽園を回復するわざや,後日復活してくる人たちが命の与え主であるエホバとそのみ子である王を知り,命を回復させる,神の大祭司としてのみ子の奉仕を受けられるよう助けるわざにあずかるでしょう。

      21,22 水が水量や深さを増して,ついにはほん流のようになったということは,何を象徴していますか。

      21 ついには,み使い『また一千[キュビト]をはかるに早やわがわたるあたわざる河となり水高くしておよぐほどの水となり徒わたりすべからざる河となり』ました。―エゼキエル 47:5。

      22 メシヤの千年統治が終わる以前に,人類共通の地上の墓(ハデス)や多くの人びとの水底の墓となった海は,死んでいる人びとすべてが出されて,からにされなければなりません。(黙示 20:13,14)象徴的な「命の水」は,人類の中の贖われた死人のまさに最後のひとりに対しても差し伸べられなければなりません。「命の水」がほん流のように人類に向かって流れ,人びとに命を豊かに得させるのを何ものも阻むことはできません。

      23 前もって与えられているこうした知識は,感謝の念をいだく人たちにどんな影響をもたらしますか。

      23 エホバはある目的を念頭に置いて,人類に対するそのすばらしい取決めに関するこうした知識を前もって与えておられます。第1に,それは希望のない世にあって希望を与えるものとなります。(テサロニケ前 4:13)またそれは,感謝の心を持つ人たちを動かして,彼らが接しうる人びとすべてを招き,命を与えるその水を今飲み始めるよう勧めさせるものとなります。なぜなら,人びとはその水をほんとうに必要としているからです。ですから,聞いて,ほんとうに理解する人はみな,喜んで霊と花嫁に加わり,『来なさい! 命の水をただで受けなさい』と言います。

  • 現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本
    ものみの塔 1973 | 9月15日
    • 現代におけるエホバの証人の活動 ― 日本

      前号の「ものみの塔」誌上で,日本における宗教の歴史的背景と王国の音信が日本にもたらされた当時の事情が説明されました。「1973年のエホバの証人の年鑑」に基づくこの報告の続きをここに掲載します。

      「灯台社」の時代

      1926年9月6日に,アメリカ在住の日本人,明石順三は日本,朝鮮および中国におけるものみの塔協会の宣教者として日本に到着しました。明石はまず神戸に支部を開設しましたが,この支部はのちに東京の銀座に移転し,そして最終的には,当時東京の郊外であった荻窪に移り,そこには印刷工場も設置しました。第二次世界大戦の勃発までに,日本,朝鮮,台湾の各地は,日本から来たものみの塔の全時間コルポーターたちによってくまなく伝道されました。1938年には,日本のこれらコルポーターたちの数は110名の最高数に達しました。「ものみの塔」研究のような会衆の集会は全く行なわれず,むしろ街頭集会や日本語の「黄金時代」誌(後の「慰め」)を配布することが強調されていたようです。1938年だけで,112万5,817冊もの雑誌が配布されました。明石は組織の名称を「灯台社」としました。

      1931年9月18日の「満州事変」以来,日本では軍国主義が非常な勢力をふるっていました。そのため,1933年5月16日には,明石を含め数人の人びとが検挙され,1925年に制定された治安維持法違反の容疑で検察官の取り調べを受けました。彼らは証拠不十分のためにまもなく釈放されましたが,はるか地平線上には,さらに多くの困難が不気味な姿を現わしていたのです。

      1936年に,日本がドイツと防共協定を結んだ後,すべての宗教団体は政府の強い圧力のもとに置かれました。その結果,ローマ・カトリック教会は神社での礼拝に対するそれまでの立場を変え,その行為を「非宗教的」儀式であるとして許可しました。政府はすべての宗教団体に,代表者を戦線へ派遣し,日本の勝利のために祈るよう要請しました。そして,おおかたの宗教団体はその要請に応じました。1939年に制定された宗教団体法により,仏教およびキリスト教の宗派はそれぞれの教団を統合するようにしいられました。1944年には,新教教団とローマ・カトリック教会の両者は神道および仏教の各派とともに,戦時愛国宗教会議に加盟しました。「八百万の神々」に支えられた,神道信者の将軍たちによる圧制的な支配が行なわれていた間,エホバの証人はどのような扱いを受けたでしょうか。

      1947年に内務省から出された総括報告は,不穏な当時の状況について述べています。「1933年5月,明石および明石の仲間数人は……千葉県において不敬罪の容疑で逮捕され,灯台社は解散させられた。同社は再び組織され,多数の会員……(全国で約200名,そのうち東京在住者50名)が日本,満州,朝鮮,台湾等の各地に急派さ

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