ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 『贖いによる解放』
    ものみの塔 1954 | 6月15日
    • 祭司職』のために買い取られ,贖われた人々は,すべての種族,各言語の民,民族および国民の中から出て来た『人々』であつたことに注意して下さい。全部の民族と国民がことごとく皆買われるのではありません。何故そうではないのですか? 何故なら彼らは贖いに適わしい資格を付けないからです。贖いに適わしい資格を付けるには,心の正しい人にも,それはやさしいことではありません。何故なら信仰の大きな試みが伴うからです。『もし義人が辛うじて救われるのであるならば,不信の人や罪人は一体何処に出頭するであろうか』― ペテロ前 4:18,口語。

      14 すべての人に贖いが有効であることを,更にどんな聖書の記録が支持していますか?

      14 贖われた人々についての似たような光景が黙示録 7章9節に述べられていますが,彼らはすべての国民と種族と民族と各言語の民から来るのです。そうです。『すべての種類の人々が救われて,真理の正確な知識を得ること』は神の御心です。(テモテ前 2:4,新世)故に神は贖いの方法によつて生命を得る機会を彼らに与えるのに,決して差別の取扱いを致しません。しかし神は人々の選択に反して彼らに贖いの利益を無理に押しつけません。神は人々に何の義務をも負いません。何故なら『すべての者は罪を犯したので神の栄光に達し得ない』からです。しかし神は仁慈を以て生命を賜物として呈供されます。何故なら『彼らが義しいと宣言されるのは,キリスト・イエスによつて支払われた贖いによる解放を通じて,受け切れないほど大きな御親切によるものであつて,それは無料の賜物として与えられるものである』からです。しかし人々は,使徒パウロが為したように,その賜物を探し求めて,感謝してそれを受け入れなければなりません。パウロはこう感嘆しました。『この言い表し得ない無料の賜物に対して神に感謝する』― ロマ 3:23,24。コリント後 9:15,新世。

      15 『大いなる群衆』の中にすべての人々を含むことが出来ないのは何故ですか?

      15 黙示録 7章9節の『大いなる群衆』は『その衣を洗い,小羊の血によつてこれを白くし』,そしてこの故にその血の贖いの功績は彼らのために適用されたので,彼らは神の御前にあつて恵まれた立場を有する者として示されています。贖いによつて利益を受ける者として描かれているこの群の中には確かに人間や御使たちの内の故意の悪者は一人も含まれていません。そのような事は決して出来ません。何故なら悪者は全然神に奉仕しないからです。しかし,この『大いなる群衆』は『昼も夜も神に聖い奉仕を致す』と述べられています。彼らは至る所から来た人々であつて,彼らは善い音信を聞いて,光の中を歩むためにこの世の暗黒から離れたのです。そしてヨハネが言う通り,『神が光の中に居られるように,もし私達が光の中を歩むならば,私達は,互に交際を持つのであつて,御子イエスの血はすべての罪から私達を潔めてくれる』― 黙示 7:14,15。ヨハネ第一 1:7,新世。

      16 神は御子を与えるほどに何の『世』を愛しましたか? そしてこれに関して各人は何を表わし示さなければなりませんか?

      16 そこで,神がその御子を与え給うたほどに愛された世とは,明らかに正義の新しい世のことでした。神はこの新しい世の建設の基礎を準備するために御子を与え,彼の血を注ぎ出させ給うたのです。生命の無料の賜物を受け,そして人類共通の父アダムから受け継いだ罪と死の宣告から解放された人々の住む世は,今や極く近づいています。そしてこれに関して各人は,信仰を正しい行いによつて,自分のために贖いの功績が適用されるように,その個人的願いを表わし示さなければなりません。それで,すべての人各自に対して『贖いによる解放』であるということは,全然間違いということになります。何故ならすべての者が神に奉仕し,無料の賜物を受け入れることを選ばないからです。それでは解放されるためには何が必要ですか?

      17 アブラハムの立場は,どのように私達の立場と同一でしたか?

      17 さて,私達はアブラハムが持つたと同じ信仰を持たなければなりませんし,また彼のように私達もその信仰を行いによつて裏付けしなければなりません。アブラハムはヱホバを信じました。そして『それによつて彼は義とされた』(創世 15:6,新世)アブラハムはその信仰によつて神の御前に善い立場を得ました。そしてこの故に彼は復活と新しい世の生命の祝福とを当然受けられます。それはキリストの贖いによつて可能とされました。パウロはこの言い方を次のように証明しています。『「義とされた」と記されているが,しかしそれはただ彼のためにだけ記されたのではなく,また義とされる運命を持つ私達のためにも記されたのである。何故ならば私達は,私達の主イエスを死人の中からよみがえらせ給うたお方を信ずるからである。彼は私達の罪過のために渡され,私達を義とするためによみがえらされ給うたのである』― ロマ 4:22-25,新世。

      18 何故贖いは,過去の時代の信仰の人々を助けるでしようか?

      18 パウロ自身と,イエス時代の他の信者たちは彼らの地上の生命を犠牲的に投げ出しました。何故なら彼らはすべて神に忠信を尽して死んだからです。アブラハムの信仰のように,彼らの信仰は神に義とされました。それによつて彼らは恵まれた立場に立ち,『贖いによる解放』を受け,やがて与えられる贖いに伴うすべての利益を受ける立場に立つたのであります。キリストの仲間の犠牲者として忠信を立証する故に,彼らはキリストと共に御国の栄光の共同の世嗣になるために,天の生命への復活を受けるでしよう,アブラハムと同様に忠信の人であつたダニエルは,キリストの初臨以前に死んだけれど,しかし神の御前における彼の正しい立場は決して見捨てられないであろうという約束が彼に与えられました。神は言いました。『汝は安息に入り,日の終りに至り,起ちて汝の分を受けん』(ダニエル 12:13)神の記憶の中に保たれるのは,すべてこのような信仰の人々です。そしてイエス・キリストの贖いは,今間近かに迫つている新しい世の新しい地で彼らを助けるでしよう。

      19 今日すべての人の前には,どんな大きな選択の道がありますか?

      19 今日この古い組織制度の終りは近づきました。それはすべての国民に対する最後の警告の時を指示していると共に,また善意を立証するすべての人々のための完全な『贖いによる解放』が間近かに迫つていることを指示しています。私達すべての者の前には大きな選択の道があります。即ち神の賜物を受入れるか,又はそれを投げ捨てるかです。イエスの正確な予言の通り,御国の善い音信は証言として全世界に宣べ伝えられつつあります。(コリント前 10:11,マタイ 24:14,新世)善い音信を聞く人々は,御国の偉大な祝福の中に彼らの希望を定める前に,彼らは先ず流されたイエス・キリストの血を信仰しなければなりません。彼らはその新しい世の生命に至る道を開いたイエスの血の効力を認識しなければなりません。彼らは『神と人との間に一人の仲保が居られる,即ち人間キリスト・イエスである。彼はすべての種類の人々のための,相当する贖いとして御自身を与えられた』ということを確と納得しなければなりません。(テモテ前 2:5,6,新世訳欄外)彼らは溢れるばかりの大きなヱホバの御親切によつて,キリストを彼らの救い主として信ずることを告白しなければなりません。そしてヱホバの御言葉の中に概説されている道に基いて,イエス・キリストを通じて神に近づこうと努めなければなりません。これは聖書中に定められている正義の原則に基いて,キリストを通じてヱホバに献身し,神の忠実な僕になつて,その信仰を行いによつて示さなければならぬことを意味します。

      20 単なる信仰の言い表わしだけでは何故拒絶されますか?

      20 それは,手を振り上げて,私は救われているのですと言う,感情的な宗教的『信仰復興<リバイバル>集会』に参加することよりも,更にそれ以上のことを意味します。それは,口を開いて『はい,私はイエス・キリストを信じ,流された彼の血を信じます』と言うことよりも,更にそれ以上のことを意味します。もしも,そうすることがすべてであつたなら,酔ぱらい達や姦淫者達や偶像崇拝者達や殺人者達も含めた誰でもがそれを行うことが出来ます。しかしそのような種類の人々は贖いに適わしい資格を持つことが出来ないと,聖書は明かに断言しています。(コリント前 6:9。ガラテヤ 5:20,21,新世)そうではなくして,むしろそれは新しい型の生活状態を開発させ,古い型の生活状態を取り除くことを意味します。それはヱホバの御言葉の一定不動の原則に支配されて行動し,生活するように良心的な努力をすることを意味し,そして正義の新しい世に対するその人の希望と願いを固く保つことを意味します。それは,この現在の腐敗した組織制度について次のように言つた使徒ヨハネの忠告に従うことを意味します。『世をも,また,世にある物をも愛するな。もしも誰でも世を愛するならば,父の愛は彼の中にない。……その上,世とその慾望とは過ぎ去りつつあるが,しかし神の御心を行う者は永遠に存続する』― ヨハネ第一 2:15-17,新世。

      21 それでは何を行うべきですか?

      21 それでは,どのようにすべきですか?『古い人格をその常習と共に脱ぎ捨てて,新しい人格を着なさい。この新しい人格は正確な知識を通じて,その人格を造り給うたお方の像に従つて新しくされるのである。……キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。……キリストの言葉があなた方の中に豊かに住むようにしなさい。……そしてあなた方が言葉において,または行いにおいて為す事は何でも,すべて主イエスの名によつて為し,彼を通じて父なる神に感謝しなさい』― コロサイ 3:9-17,新世。

      22 あなたはそうすることが出来ますか? 何故ですか? そしてどのようにですか?

      22 もしもあなたがこれを行うなら,あなたは光に歩き,そしてあなた自身に救いを保証する生活の型に従つているのです。しかしあなたは言います。『どうしてこれを行うことが出来ますか? 古い世の習慣に馴らされている私の全生活を,このように完全に変えることが私に出来るでしようか?』。はい,出来ます。そうでなければイエス・キリストはすべての種族,各言語の民およびすべての国民たちの中から,あらゆる種類の人々を救うために死なれなかつたでしよう。そしてもしも彼らが生活を変えて,新しい生活の型を切り開くことが出来なかつたならば,彼らはイエス・キリストの贖いによつて利益を受けることが出来なかつたでしよう。故にあなたはそうすることが出来ます! この故に『神はその僕を生み出された後に,あなた方一人一人を悪い行いから引きもどして祝福するために,先ずあなた方に彼を遣わされたのである』『故にあなた方の罪が拭い去られるために,悔改めて帰つて来なさい。それは,ヱホバから元気回復の時期が来るであろうから,そして神はあなた方のために定めて置かれたキリスト・即ちイエスを遣されるであろうからである。神が古代の聖なる予言者たちの口を通じて語られたところの,万物復興の時まで,天はたしかにイエスを保つていなければならない』― 使行 3:26,19-21,新世。

      23 出発点は何処ですか? そして包有される心はどのようですか?

      23 あなたはどのように始めますか? そうです。あなたは先ずすべての偽の宗教的考えを取り除きて,すべての人に適用されるイエスの贖いに関係を持たなければなりません。そして神の承認を得るために,あなた方すべてが行う必要のある事は,上品な礼儀正しい生活を行い,そしてあなた方が人からこうしてもらいたいと思う通りに,あなた方もまた人に行うことであると,あなた方に告げる教えを取り除きなさい。そうです。あなたの全生活に亙つて教え込まれたこれらの考えを取り除きて,聖書の正確な教えをあなたの心に満たし始めなければなりません。あなたは『この組織制度に倣うことを止めて,心を入れ変えて新しくし,善い,悦ばしい,完全な神の御心を,あなた方自身で証明』しなければなりません。(ロマ 12:2,新世)始めるのはあなたの心からです。それで,偽宗教のどんな種類の混ぜ物もしないで,神の御言葉の真理を吸収しなさい。この真理はあなたの心の中にもまた溢れるでしよう。そしてそれは正しい行いをあなたに行わせるように励ますことによつて,救いの道へあなたを進ませるでしよう。

      24 もしもこの賢明な道筋によつて,今あなたが完全にならないなら,その道筋はあなたに何をしますか?

      24 これはあなたが今肉体において完全になることを意味しません。またそれはあなたの高い道徳生活のために,あなたを称讃するすべての人に感嘆されることを意味しません。しかしあなたが神の御前に正しい立場を持ち,神に対するあなたの奉仕が神に悦ばれることを意味します。この故にキリストの贖いの功績はあなたのために適用されるでしよう。何故ならあなたは正しい方法でそれを探し求めるからです。あなたの信仰はあなたの行いの中に明かになるでしよう。そしてあなたは過去と現在双方の,他の忠信な神の僕たちと共に,あなたの地位を占めるでしよう。そしてあなたは『私達の主イエス・キリストを通じて神との平和を喜ぶのであつて,私達は彼を通じて,信仰によつて,今受けているこの分外に大きい御親切に入ることが出来たのである』― ロマ 5:1,2,新世。

      25 それはあなたにどんな知識と信頼をもたらしますか?

      25 このような立場で,神の驚くべき救いの道を研究するためにあなたの精神と心を注ぎ続けるならば,あなたはどんな事が起ろうとも決して震われないでしよう。(ロマ 5:3-5)新しい世のために,そしてそれに入ることを探し求める人々のために示される神の偉大な愛を十分に覚つて,あなたはヱホバ神に十分に信頼するでしよう。あなたは次のことを知つて,勇気づけられるでしよう。『私達がまだ罪人であつた時に,キリストは私達のために死んで下さつた,そしてこのことによつて神は私達に対する御自身の愛を示された。それ故に私達は今や彼の血によつて義とされたのであるから,まして彼によつて怒りから救われないはずがない。もし一人の罪過によつて死がその一人を通じて王として支配したのであるなら,まして受け切れぬ御親切と義の無料の賜物を豊かに受ける人々は,一人の人イエス・キリストを通じて生命にあつて王として支配するに違いない』― ロマ 5:8,9,17,新世。

      26 どんな状態に戻ることを,あなたは防がなければなりませんか? 何故ですか?

      26 あなたは,神があなたのためにイエス・キリストの贖いの功績を適用しなければならないという偽の信仰の安心感の中に眠り込まされないで,かえつてあなたは,贖いによる十分な解放は奇しい賜物であつて,神が備えられた狭い道によつてそれを探し求める人々だけに与えられるであろうということを認識するでしよう。故にあなたは悪い道と古い世の習わしに戻ることと,故意にもう一度罪の中へ飛び込むことは,ただ死に落入だけであることを知つて,そうすることを防ぐでしよう。『私達が真理の知識を得た後,もし故意に罪を犯すならば,もはや罪のためにどんな犠牲も残されていない。ただ定まつた審判を恐れながら待つことと,逆う人々を焼きつくそうとしている火のような烈しい心配とがあるだけである』― ヘブル 10:26,27,新世。

      27 贖いを準備される神の御目的を理解する鍵は何ですか?

      27 それについて過ちのないように,ヱホバ神は人類の贖いを準備するのに,はつきり確定した御目的を有しています。その御目的に対する鍵は神御自身の偉大な御名の証明の中にあります。ヱホバ神を崇拝する人間の社会を再び始めることを含めて,新しい世を建設するということは,ヱホバ神が永遠の主権者であることを立証する神の御目的の一部であります。これは,何故神がイエス・キリストによつて贖いの価を支払うことを取り極められたかを理解する助けとなります。何故ならそれを通じて,核心となる人々がハルマゲドン後の『新しい地』に参与する資格を付けることが出来,そして彼らが子供を生んで,神の道に従つて子供等を薫陶することが出来るからです『すべての種類の人々に救いをもたらす神の溢れる御親切は既に現わされて,それは,不敬虔と世の慾とを捨てて,この現在の組織制度の真只中で健全な心と正義と敬虔を以て生活することを教え,同時に幸福な希望と偉大な神と私達の救主キリスト・イエスとの栄光ある顕現とを待ち望ませるものである。彼は私達のために御自身を与えられたが,それは贖いによつてすべての不法から私達を解放し,善い業に熱心な彼御自身の特有の民を彼のために潔めるためである』― テトス 2:11-14,新世。

      28 イエス・キリストのどんな出現が,祝福と艱難の両方の時となるでしようか? そして今すべての人はどんな調べをしなければなりませんか?

      28 ハルマゲドンにおける神と御子イエス・キリストの次回の顕著な表明は,イエス・キリストの贖いの功績に適わしい資格をつけぬ人々には,喜ばしい事ではないでしよう。その表明はヱホバの側の正しい行為でありましよう。何故なら,『主イエスがその能力ある御使たちと共に,燃える火の中に,天から現われ給う時,あなた方に苦難を与える者らに苦難を以て報い,苦難を受けるあなた方には私達と共に安息を以て報いて下さるのは,神の正義であるからである。その時主イエスは,神を知らぬ者らと私達の主イエスについての善い音信に従わぬ者らに正当な刑罰を与え給う。これらの者らは,主の御前から,主の力の栄光から離れて,永遠の滅亡という処罰を受けるであろう。その時,その日に,主はその聖い者らによつてほめたたえられ,信ずるすべての者によつて驚異を以て敬われるために来られる。何故ならば私達が与えた証言はあなた方の間で信ぜられたからである』(テサロニケ後 1:6-10,新世)神はすべての人々を救わなければならぬ,という教えによつて眠りに引き込まされないようにしなさい。神はそのようなことをしないでしよう! しかし神は,神が定められた条件に基いて贖いを受け入れる『すべての種類の人々』のために贖いを有効にされます。あなたがそれらの条件に適合するかどうか調べなさい。何故なら,それはあなたの生命を意味するからです。

  • 金持ちとラザロ
    ものみの塔 1954 | 6月15日
    • 金持ちとラザロ

      譬話しですか? それとも実際の話しですか?

      キリスト教国にある非常に多くの宗派は,火の燃える地獄で永久に苦しむことこそ,悪い者の運命であると信じています。金持ちとラザロについてイエスは話しをしましたが,その言葉はルカ伝 16章19-31節に書かれています。そして,これは地獄の火のくるしみという教えを支持する証拠の一つであると,キリスト教国の人は言い,このイエスの言葉は,一つの出来事を語つており,実際に行われたことについての話しであると主張しています。この考え方をしている一人の人は,冊子を出版してこういいます『主イエスが金持ちとラザロの物語りを話すのを聞いたすべての人は,次のことを当然に考えたとは思いませんか? すなわち,幸福に死のうと,禍いの中に死のうと,死んだ後に,人は意識を持つたまま存在し続けるということをイエスは教えられようとしたのである。』

      論議のために,かりにイエスの言葉を聴いた者たちが,それは実際の出来事であつたと考えたのだと仮定しても,そのことはその考えを証明するどころか,全然反対のことを証明しているのです。どうしてそうですか? イエスが譬話しで話しをした理由は,人々が理解するためですか? いいえ,人々が理解することのできないためであると,イエスは明白に語つておられます。次のイエスの言葉に注意してごらんなさい『あなたがた(弟子たち)には,神の御国の聖なる秘義を理解するよう許されている。しかし,他の残りの者たちには,譬話しが与えられるであろう。それは,彼らが見ても,見ることができず,聞いても意味を得ることができないためである。』(ルカ 8:10,新世)イエスの言葉を聴いた者が,その譬話しからどんな意味を得たにせよ,それは必らず間違つたものであるということは明白です。

      これは譬話しであるとイエスは多く言つてはいないという理由で,ある人は更に反対いたします。どの度ごとにも,これは譬話しであるとイエスは言わねばなりませんか? それに,『譬話しを用いなければ,彼は彼らに話そうとはしなかつた。』とはつきり書かれてはいませんか?(マタイ 13:34,新世)名前が言われていたとしても,それは譬話であることには間違いありません。その話しを文字通りにとることは,理性と常識を全く無視し,神の言葉の他の残りの部分

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする