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あなたは会衆内の責任を担う資格がありますかものみの塔 1974 | 8月1日
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2:23-26)人を戒めることが容易でない場合があるかもしれませんが,それが真に必要なときには,愛のゆえに勇気をもってそれを行ないます。(使徒 20:19-21,26,27)公の聴衆の前で講演をする能力があまりない人の場合はどうですか。そのために,「健全な教え」に基づいて個々の「羊」や家族を優しく牧することができないわけではなく,クリスチャン的な生活態度を鼓舞できないわけではありません。(テトス 2:1-10。コリント第一 13:1,2と比較)長老となっている人たちでも,すべての人が「知恵のことば」や「知識のことば」を同じ程度に示すわけではありません。そうした差異はむしろ当然のものであり,そのゆえに長老としての聖書上の資格に必然的にもとるわけではありません。―コリント第一 12:4-11。
人を殴ったりせず,道理をわきまえ,争いを好まない。長老となる人は腕を振り上げて人を打ったりせず,またののしりのことばや痛烈なことばを口にせず,人を脅しつけたりもしません。その人は「道理をわきまえ」ています。もしくは,ギリシャ語の字義で言えば『(人に)譲り』ます。バインの「新約聖書解説辞典」は,この語について,「……律法の字句を押し通さないこと。『物事の実態を人間味をこめ,また道理に即して』見る思慮深さを表わす」と述べています。(ヤコブ 3:17。ヘブライ 5:1,2。ペテロ第一 2:18と比較)したがって,長老は権威主義者ではありません。また,ささいな事を大きな問題にする人ではありません。(コリント第一 9:12,18-23と比較)関連したギリシャ語には「親切」という意味があります。(コリント第二 10:1)また,『争いを好まない』人ですから,口論を避けます。そして,「すぐに憤」ったり,気短であったりしません。―テモテ第一 3:3。テトス 1:7; 3:2。ヤコブ 1:19,20。
我意を張らない。これは,原義的には,『自分について喜んで』いない,あるいは,『自己満足』ではない,という意味です。ギリシャ語辞典に示されていますが,それは,自分や自分の能力について謙遜な見方をする人であり,自分の判断を重視しすぎて,自分は他より優れているかのように感じたり,またそのように行動したりしない人です。なんでも自分で処理できるとか,自分が他のだれよりもよくできると感じるほどに,「自己信頼」や「うぬぼれ」の強くない人です。したがって,その人は喜んで責任を分け合い,他の人々と一団となって謙遜に働き,多くの助言者たちに諮ることの価値を認識しています。―テトス 1:7。民数 11:27-29; ローマ 12:3,16と比較。
善良さを愛し,義にかなう。『義にかなっている』とは,神の律法,つまり正邪に関する神の規準に従っているという意味です。その人は,公正で,偏り見ることなく,情実に左右されません。(ルカ 1:6。ヨハネ 7:24。ヤコブ 2:1,4,9)「善良」であるということは,それが単に正義の要求する以上のことにまで及ぶという点で,義にかなった状態と異なっています。(マタイ 20:4,13-15。ローマ 5:7)善良さを愛する人は,自分に要求され,あるいは期待されている以上のことを他の人のために行ない,他の人のためになる親切な行為を寛大な態度でなし,他の人に対して暖かさと思いやりを働かせます。またその人は,他の人の善良さを見,感謝し,ほめます。―テトス 1:8。ルカ 6:35。使徒 9:36,39。テモテ第一 5:10。
忠節である。それは,神の律法とクリスチャン会衆の益のために不動の献身と忠誠を保ち,そのゆえに身に及ぶいかなる結果をも恐れない人です。―ルカ 1:74,75。使徒 4:19,20; 5:29。テサロニケ第一 2:10。
そのような人が「外部の人びとからもりっぱな証言を得」るのはむしろ当然のことです。預言者ダニエルはその敵対者がなんの怠慢も腐敗も指摘できない信頼できる人でしたが,このダニエルの場合と同じように,そのような外部の人は,『われわれは彼の神の律法に関して彼を訴える口実を得るのでなければ,ついに彼を訴えることはできない』と言わざるをえないでしょう。―テモテ第一 3:7。ダニエル 6:4,5(口)。
会衆内の責任を担う資格のある人が,ここに挙げたいろいろな資格のうちの幾つかの点で特に優れている場合もあります。それはごく当然のことです。トマスとペテロの対照など,使徒たちの間にあった相違について考えてください。それでも,初期の統治体はそうした人たちをもって始まりました。しかし,会衆内の責任の地位に就く人は,与えられるその責任を果たすためのこれらの要求すべてを,道理に即した程度,また道理に即した一貫性をもって満たしているべきです。例えば,判断の一度の誤りがあれば,その人が「健全な思い」を欠いているという意味ではなく,また,一度怒りのことばを吐けば,その人が必ず『争いを好む』人であるという意味ではありません。
実際のところ,ここに挙げられている要求は,誠実なクリスチャン男子であればだれでも到達しうるものです。聖書を調べれば明らかなとおり,これらの資格の大多数は,男子と女子の別なくすべてのクリスチャンが目ざすべきものとして述べられています。したがって,こうした責任の地位に就く人は,基本的に見て,会衆全体が当然に表明すべきものの見本,真のクリスチャンすべてが当然あるべきすがたの典型であると言えます。あなたはこうした点で資格にかなっていますか。
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正義とあわれみの平衡の取れた裁きものみの塔 1974 | 8月1日
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正義とあわれみの平衡の取れた裁き
あなたは,裁判官の前に出ることを考えると,どんなことを想像しますか。
もしかしたら,あなたの罪状やあなたの不利になる証拠には耳を傾けるけれども,あなたには,あなたの立場やあなたが失敗した理由を説明する機会を与えない,きびしく厳格で一徹な性格の裁判官を頭に描くかもしれません。
これは,キリスト教世界の教会がしばしば描く,審判者としてのキリストの姿です。たとえば,ローマのシスチナ礼拝堂の壁画には,審判を下すキリストが描かれています。キリストはすさまじいゼスチュアで,過去の罪のために「断罪された」者たちに刑を宣告し,彼らを永遠の責め苦の地獄に追いやっています。その形相があまりにもきびしく恐ろしいので,そばに描かれているキリストの母マリアが,イエスよりも正しくあわれみ深いかのように,つまりキリストの裁きが不人情で残酷なものであるかのように,イエスにすがりついています。
これほど真実から遠くかけ離れたことが描かれている絵はありません。主たる審判者として任命されたかたについて使徒ヨハネは,「彼は過分の親切と真理とに満ちていた」と書きました。(ヨハネ 1:14)また裁きのときには,天に住む者である14万4,000人が仲間の審判者として彼とともにおります。彼らについては聖書は,「その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである」と述べています。―啓示 14:1,5。
さらに,聖書が言う裁きの日とは,幾十億という人間が全部列をなして王座の前に進み,自分の罪を述べ,その時その場で最終的な,変更される
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