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ウルリヒ・ツウィングリと神のことば目ざめよ! 1970 | 5月22日
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ウルリヒ・ツウィングリと神のことば
「ツウィングリの年」― 1969年はスイスのプロテスタント界でこう命名されました。その理由は,ローマ・カトリックの司祭であったウルリヒ・ツウィングリが,チューリヒの大聖堂で行動を起こした時が,その450年前にあたるからです。それは1519年元旦のことでした。説教壇に登った彼は,これから聖書の一番最初から一番最後までを説教するとおごそかに宣言して,教区民を驚かせました。その次の日,彼は早速クリスチャン・ギリシア語聖書のマタイ伝第1章から説教を始めました。
こうした意向をローマ・カトリックの司祭が公にするというのは意外なことでした。しかし,ツウィングリは平凡な司祭ではなかったのです。彼は1484年1月1日,ビルトハウスの大家族に生まれ,父はアルプスのけい谷地方に住み,その地の代官を務める高名な市民でした。司祭であったおじのおかげで,彼は幼いときから学校に通い,最初バーゼルで学び,それからベルン,そして1498年ウィーンの大学に入学しました。結局,バーゼルで哲学博士の学位を取り,最初,教会付属学校の教師として教べんを執ることになりました。
ツウィングリはまもなく,ギリシアやローマの古典語,さらに古代ヘブル語の研究に専念している同時代の学者に関心を引かれ,「キリストの死こそ我々の魂の唯一のあがないである」との結論に達した,トマス・ウィッテンバッハという人に傾倒するようになりました。この結論がいかに啓発的なものとして受け取られたかは,暗黒時代の当時,キリスト教世界をおおっていた無知のくらやみがどれほど深いものであったかを思い返すだけで,容易に納得できます。
修道士の間にみられる種々の迷信や教会の極端な世俗化にうんざりさせられた若い教師ツウィングリは,徹底的な浄化が必要であることに気づきました。そしてついに,諸学者の思索すべては,唯一の権威である神のことばの前に屈伏しなければならない,という見解に到達しました。ツウィングリはさらに,聖書こそ聖書みずからを解釈するものであり,その内容の持つ富は,祈りとともに敬けんな態度で研究する人の報いになる,と公言しました。
1516年,彼はエラスムスの出版したギリシア語聖書を入手しました。当時,彼はグラルスで教師と司祭の役を勤めていましたが,その本を旺盛な関心をもって読みはじめました。彼の説教は新しい形式をとるようになり,説教のたびに聖書のある部分が読まれ,それに注解が施されました。こうして真理が徐々に,古いおとぎ話や迷信にとって代わったのです。彼は聖書の教師として広く知られるようになり,チューリヒに欠員が生じたとき,それを補充するために招待されました。
社会及び政治改革者
ツウィングリがこのように聖書の真理に関する第一人者をもって任じていたことは真実ですが,彼の活動は聖書の音信を平和裏に広めることに限られていたのではけっしてありません。キリスト・イエスやその使徒たちと違って,彼は当時の政治論争に関心を示しました。教会内の改革を要求したばかりでなく,世俗の支配者たちの更迭をさえ図りました。
当時のスイス国民は,最高の給金を支払う者のために戦う雇い兵としてたいへん重視されていましたが,市民が外国で雇い兵として軍役に服することをチューリヒ市が法律で禁じたとき,ツウィングリは大いに喜びました。また法王が自分の目的を達成するための戦争にスイスの兵士を徴集することに対し,彼は激しく抵抗しました。その問題に関する彼の発言を翻訳すると次のようになります。「彼らが赤い帽子と赤いがいとうを着ていることには意義がある。彼らをふるってみるがよい。そうすれば,お金と王冠がころがり落ちるであろう。彼らをしぼってみるがよい。そうすれば,君たちのむすこ・兄弟・父それに友の血がふき出るであろう」。
その当時,現代と同様な新聞があったなら,このカトリック司祭が改革を押し進めるにつれて,次のような見出しが現われたかもしれません。「ツウィングリ,しょくゆう状並びに聖遺物を廃す。法王の年金を拒否。痛烈な反対者続出す!」「1522年ツウィングリ大斎を犯す。フロスシャウア印刷所も関係ありか。戦りつする司教。ツウィングリ,『初めて印刷された説教文』で反論」。「司祭の童貞制に関する論争激化」。「ツウィングリ,童貞の戒律を破棄す。1522年,未亡人アンナ・ラインハルトと結婚」
1523年1月29日がきました。その日,チューリヒ市会議が召集されました。それは重大な意味を持つものでした。なぜなら,その目的は,教会内に累積してきた,不和の諸原因を究明することだったからです。ツウィングリは公開討論の議題として67か条を提出しました。教会の代表者は四方八方からツウィングリに非難を浴びせました。しかし,当人は市会議員に囲まれながら大広間の真中に腰かけており,彼の手のすぐ届くところには,ギリシア語,ヘブル語そしてラテン語の聖書が置いてありました。
さて,会議の注目の的であったツウィングリの番がきました。提出された多くの非難に答える時が到来したのです。彼を始めて見る人もおおぜいいました。彼は中くらいの背たけで,やせてはいますが,がんじょうそうで,赤毛がかった金髪をしており,顔色は健康そうでした。静かに考えながら話す人でした。聴衆を見やりながら,ツウィングリは口を切りました。「諸君。議題に上がった点に異端とされる所がわたしにあるなら,神の名にかけて言うが,わたしを君たちの思うようにするが良い」。
市会議員の多くは昼の休憩時間を待たずに,ツウィングリが異端者でないことをすでに確信していました。そして次の日,人々の間に早々とうわさが伝わりました。ツウィングリがみごとに勝利をおさめ,現職にとどまることを認可されたというのです。セントゴール地区の区長,ヨアキム・ファディアンはすっかり満足し,ベルンの熱烈な改革支持者セバスチァン・マイヤーは我を忘れて喜びました。彼はこの経過を「全(スイス)同盟国に福音を広めるための高らかな勝利である」と述べました。
ツウィングリが成し遂げたこと
それ以来,事態は急速な進展を遂げました。山脈からスイスのけい谷に吹きおろしてくる,乾燥した高温の熱風フェーンのように,教会の改革はどんどん進みました。イスラエルの預言者の例にならって,ツウィングリの弟子たちは教会に侵入しては,聖像,十字架像その他の「神聖な」物品を強制的に取り去ったり,こわしたりしました。知っていたか,無視したかわかりませんが,それはイエス・キリストの使徒パウロが霊感を受けてクリスチャンに語った次のことばに反することでした。「主の僕は争ふべからず,すべての人に優しく能く教へ忍ぶことをな(す)」。(テモテ後 2:24)また次のことも忘れられていました。すなわち,「わたしたちの戦いの武器は肉のものではな(く)」,偽りの宗教が「堅固に守りかためたものをくつがえすために」は,肉の力さえ必要ではないのです。―コリント後 10:3-6,新。
チューリヒの大聖堂は閉鎖され,やがて全堂が改築されました。改革は徐々に進行し,ミサに代わって主の晩さんが行なわれ,出席者にはパンとぶどう酒の両方が出されました。修道女や修道士は修道院を去りはじめ,修道院の回廊は病院,診療所,学校などに早変わりしました。修道女は結婚したり,社会事業に携わったりし,独身生活を放棄する司祭も数多くいました。しかも,この事態は1523年に起こったことで,第2回バチカン公会議の余波ではなかったのです。
忘れてならないのは,ツウィングリはなにか新しいことを始めようという意向を持っていなかった点です。彼の目的は,ローマ・カトリック教会内で行なわれていた崇拝形式や教会内に広く見られる迷信がかった,世俗的なならわしを完全にぬぐい去ることだったのです。彼は既成の権威を越えない範囲で,一歩一歩しかも秩序正しく,教会の改革を図りました。市会議員と市の長老たちの支持を得,上から下に働きかけ,6年間のうちに宗教及び政治上の驚くべき改革を遂行しました。
彼の成し遂げたもうひとつの意義深い業績は,バーゼル時代の旧友レオ・ユッドの助力を得て出版した聖書です。その聖書は当時のドイツ語に翻訳されたもので,ルターの聖書より早く世に出ました。ルターの翻訳よりやや劣るとはいえ,人々に大きな影響をもたらしました。人々は自国語で聖書を読めるようになったからです。
他の主要なできごと
ツウィングリは行動を起こした最初のころ,その説教を聞いた熱心な聴衆が,自分たちの得た聖書の知識を広めるため同盟国の他の地方に移住するのを見て喜びました。しかし幾つかの地区ではローマの権威が強固に擁護され,ツウィングリを沈黙させ,彼の運動を水泡に帰させようと,いろいろな手段が講じられました。彼はカトリックの勢力の強いある地方で計画された討論会に招待されましたが,そうした危険な敵に身をさらすことは,チューリヒの市会議員が許しませんでした。彼らは,前世紀にボヘミアの改革者ヨハネス・フスがうまくだまされ,火刑に処されたことを思い起こしたに違いありません。
ベルンとチューリヒは改革運動の二つの強力な根拠地となっていました。そしてそのベルンに1528年,ツウィングリは勇んで出かけました。そこで,幾つかの問題点,特に主の晩さんに関する彼の見解が論議されることになっていたからです。ここでも彼は成功をおさめ,その機会を利用してベルンの大聖堂で説教をしました。その結論に際して年老いたツウィングリは式服を脱ぎ,おごそかにこう宣言しました。「ミサの真実が明らかにされたからには,きょうと言わず,いかなるときでも,わたしはミサを祝わないことにする」。こうして,ベルン大聖堂におけるローマの支配は終わりを告げました。
ツウィングリの生がいの別の顕著なできごとと言えば,マルチン・ルターとの最初の出会いでしょう。このウィッテンベルグの改革者に対していだいていた昔の情熱は,その時すでにさめていました。確かに,ルターが大胆な立場を取ったことから刺激を受けて,ツウィングリも同様な行動に出たのです。しかし後日,彼はこう言明しました。「わたしがキリストの教えを学んだのはルターからではない。神のことばそのものからである」。このふたりの人物は根本的に違っていました。ルターは苦労の多い青年時代を送り,どちらかといえば悲観的でした。一方,ツウィングリは,アルプス地方で恵まれた少年時代を過ごし,快活で楽観的な気性を持っていました。主の晩さんとその意義に関する問題が,両者の最終的かつ主要な争点となって浮かび上がってきました。
不和が生じるのを避けるために,ヘッセのフィリップ公は対立意見の主要な代表者をマルブルグの自分の城に招き,討論会を開催しました。それは1529年のことです。ツウィングリとエコランパッドが片方の見解を支持し,ルターとフィリップ・メランクトンが反対意見を擁護しました。論議が徹底的にかわされましたが,ルターはがんとして自説を曲げませんでした。始めから,「これは……我が体なり」ということばを引き合いに出しては,自分の見解が正しいことを強調して譲りませんでした。
ツウィングリは自分の確信しているところを述べ,キリスト・イエスの語ったことは,パンとぶどう酒の象徴物がご自分の実際の,ましてや神秘的な意味での,からだであるという意味ではけっしてないと主張しました。イエスはむしろ,象徴物は,ご自分の偉大な犠牲を記念する象徴として,ご自身のからだを意味し,あるいは表わすものであることを示そうとされたのである,とチューリヒの改革者は語りました。しかしルターは,そうではないという自説を堅持しました。ヘッセのフィリップは討論会が完全な失敗に終るのをおそれて,両者が同意をみた基本的な教義を書面にするよう説得しました。
どちらの剣を選ぶか
そうしている間に同盟国の状態は険悪なきざしを見せはじめ,憎お感や対立感情が人々の気持ちを支配しはじめました。旧スイスのカトリック派の5地区が,ベルンとチューリヒの2地区の勢力に激しい反感を示していました。1531年の春,ベルンの指導者たちは,カトリック派地区を苦境に陥れる目的で,彼らに対する食糧の補給を断つ決定をしました。紛争が平和裏に解決され,大事に到るのを防ぐため,ツウィングリは調停に狂奔しました。しかし事態の収拾がつかなくなり,チューリヒは防衛態勢を取りますが,少し手おくれの感があり,カトリック軍が攻勢に立ったまま,チューリヒ側はカッペルで決戦を余儀なくされました。ベルンの軍隊は強化を図る時間がなかったため,プロテスタント軍の敗北は目に見えていました。
しかし,ツウィングリはどうしましたか。彼は従軍司祭として戦場におもむきました。そうすることによって,神のことばである「御霊の剣」よりも,むしろ文字どおりの剣を選ぶ者に賛意を表わす結果になりました。(エペソ 6:17)彼はみずから訳した聖書の中に,イエスの次の警告を読んだはずです。「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶなり」。(マタイ 26:52)チューリヒの改革者はまさにその警告どおりの死に方をしました。戦場に朝日を受けて横たわる彼の死体を見つけた敵は有頂天になりました。彼の死体は,カトリック派5地区に分配できるように切断され,各地区の人々はそれを火に投じました。
追想
ツウィングリは,彼の持っていた理解にしては,神のことばに対する深い尊敬を示していたと言えます。しかし,聖書に予告されていた,聖書の音信が解明される時期はまだ到来していなかったのです。キリストの真の追随者は,この世の政治問題に対してまったく責任がないことに,彼は気づいていませんでした。(ヨハネ 15:19; 17:16。ヤコブ 4:4)この世の生き方や運動から離れて「御国と神の義とをいつも第一に求め(る)」ことのたいせつさを理解していませんでした。(マタイ 6:33,新)改革を経た教会内でさえ,異教の思想や慣習が再び根を降ろしました。人間の定めた伝統が相変わらず神のことばを締め出して,むなしいものにしていました。
ツウィングリが今日生きていたなら,神のことばを解き明かしてわたしたちに理解させる,神の霊の啓発力によって祝福を味わっていたことでしょう。偽りの宗教はすべて「大なるバビロン」の一部であり,エホバ神により間近に滅ぼされる運命にあることを認めるかもしれません。改革の余地さえないほど,神の聖なることばにまったくそむいた大いなるバビロンは,神の全能の力によって根こそぎ倒されてしまうでしょう。―黙示 18:1-4,20。
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あなたの家族を養うバクテリア目ざめよ! 1970 | 5月22日
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あなたの家族を養うバクテリア
肉眼では見ることのできないほど小さいバクテリアが,あなたの家族の全員に栄養価の高い食品を造りだしています。そのままで食べても風味があり,他のいろいろな食物に調味料として加えることもでき,そうすると,料理された食事は一層おいしくいただけます。この美味な食品こそチーズです。
種類が非常に多く,マーケットで目につくものがすべてではもちろんありません。全部で約400もの異なった種類があります。買い物に行ってさまざまのチーズをごらんになるとき,いったいチーズはどのようにして造られるのか,またその違いはどこからくるか,などと考えたことがありませんか。
普通チーズは牛乳から造られますが,乳汁であれば,どの動物のものでもかまいません。インドでは水牛の乳汁からチーズが造られますし,中東ではラクダの乳汁からクルットと呼ばれるチーズが製造されます。ラップランド人はトナカイの乳汁,またネパールではヤクの乳汁からチーズを造ります。ヤギやヒツジの乳汁を使う国もあります。
しかし,コップ一杯の乳汁とチーズ一切れとを比べてみても,特に似通っているところはありませんが,一方は他方からの産物なのです。このように,乳汁がチーズへと驚くような変化を遂げるのはバクテリアのおかげなのです。
乳汁の準備
あなたがチーズを造るとしたら,どのようにしますか。まず,乳汁が微生物の成長にたいへん適しているため,他のバクテリアに侵されやすいことを忘れてはなりません。チーズの製造に使われる容器や用具を消毒しなければならないのはそのためです。もし望ましくないバクテリアが乳汁にはいり込むと,チーズを製造するために払った努力はむだになってしまうかもしれません。
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