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  • マラウィのクリスチャンには何が起きているか
    目ざめよ! 1973 | 6月8日
    • 「エホバの証人は,神の律法に反しない法律であるかぎり,自分の居住する国の法律を尊重し遵守いたします。しかしながら,政治への関与は,これには党員カードを買うことも含まれますが,主イエスがご自分の真の追随者について言われた,『我の世のものならぬごとく,彼らも世のものならず』ということばに反すると彼らの良心は感ずるのであります。(ヨハネ 17:16)またキリストは,ヨハネ伝 18章36節に記録されているように,『わが国はこの世のものならず,若し我が国この世のものならば,我がしもべら…戦いしならん』と言われました」。

      これに加えて,マラウィの国連代表あての統治体の書簡はさらに次のように述べています。

      「エホバの証人は初期のクリスチャンと同様の立場をとります。『キリスト教とローマ政府』という本は次のように述べております。『クリスチャンたちは彼らの周囲の世界においては他国者であり,さすらい人である。彼らの国籍は天にある。彼らが待つ王国はこの世のものではない。ゆえに,必然的結果として,公事に関心を持たぬことが,最初からキリスト教の注目に価する特色となった』。

      「しかしながら,さらに言わせていただくならば,エホバの証人は,他の人びとの政治への参与に対する態度に干渉する意図も願望も持っておりません。エホバの証人は,マラウィ政府に逆らって行動しているのでも,また政党に逆らって行動しているのでもありません。彼ら自身が,大きな苦しみを受けているにもかかわらず,政治問題への関与,すなわち党員カードの購入を辞退しているのであります。なぜなら,それはエホバの証人にとって,聖書に基づく信仰および良心の問題だからであります」。

      しかし,今に至るまで,マラウィ政府からは何の返事もありません。エホバの証人の代表が大統領に会うことも,同国の他の当局者に会うことも許されていません。

      2万を超えるエホバの証人がマラウィから逃亡することを余儀なくされました。彼らの大多数は隣りのザンビアににげ,数千人はモザンビクにのがれました。

  • スィンダ・ミサレの難民収容所
    目ざめよ! 1973 | 6月8日
    • スィンダ・ミサレの難民収容所

      マラウィからザンビアにのがれたエホバの証人たちは,両国の国境に近い難民収容所に集められました。この収容所はスィンダ・ミサレと呼ばれました。ザンビアの地方開発相ルベン・カマンガ氏の報告を含め,いくつかの報告の示すところによると,そこには約1万9,000人のエホバの証人が避難しています。

      ザンビアがエホバの証人を自国に招き入れたのではありませんから,彼らは望まれない訪問者として扱われています。収容所は,だれも自由に近づけないように警察によって隔離されています。

      いくらかの必要品は当局から支給されました。それに加えて,全世界のエホバの証人が寄付したお金や物資が支部事務所にぞくぞく送られてきました。たとえば,南アフリカだけでも1,000枚に近い帆布の防水布と,衣料品をつめた木わく157個を送りました。それらは難民のもとに届きました。

      南アフリカのエホバの証人たちはその後また多くの物資を発送しました。それには,1万枚の毛布を購入するためのお金,医薬品その他の必需品などが含まれていました。自発的に奉仕を申し出た医師たちもいました。彼らは行くことができました。外国のエホバの証人たちからのこうした申し出や寄付は,ザンビアの難民の必要をすべてまかなってあまりあるものでした。

      しかしながら,最初のうち救援物資の輸送は可能でしたが,その後エホバの証人は,これ以上収容所に物資を送ることは許されない,という通知を受けました。そこで赤十字を通して送る努力が払われましたが,その努力はむだに終わりました。

      国連は事情調査のために代表をザンビアに派遣しました。12月19日,その代表のひとりであるエンマヌエル・ダジェ氏がザンビアにいるということを知ったエホバの証人は,あらゆる手をつくして同氏に会うことを試みました。彼らは,収容所内のクリスチャンの兄弟たちがどうなっているかを知り,救援物資を送る手はずをしたいと思っていたのです。しかしそれも果たされませんでした。ダジェ氏は,予定の仕事がぎっしりつまっているので,エホバの証人と面談する時間などないと言って,エホバの証人を一しゅうしました。

      そうしている間に,報告によると,スィンダ・ミサレの収容所では350人以上の証人たちが死亡しました。悪い水,栄養不足,医療品の不足などが原因でした。死亡者の大部分は子どもでした。

      ついに,マラウィとザンビアの当局者は,スィンダ・ミサレのエホバの証人たちをマラウィに送還することに決定しました。その取り決めがつくられても,収容所内のエホバの証人には知らされませんでした。

      移動は偽り

      12月になって,収容所のエホバの証人は,当局者から,エホバの証人はザンビアの別の場所へ移動されるということを聞かされました。そういう移動ならば彼らに異存はありませんでした。しかし彼らは事実を教えられたのではありませんでした。実際の目的地はマラウィだったのです。

      証人たちが目的地のことであざむかれた証拠ははっきりしています。実際に移動させられたエホバの証人100人以上とのインタビューは,このことを決定的に証明するものです。ロンドン・サンデー・テレグラフ紙によると,証人たちは,目的地はザンビアの別の収容所だと知らされていました。

      「12月の20日,21日,22日に,ザンビア人の運転する52台の貨物自動車と13台のバスの集団がスィンダ・ミサレに到着した。同収容所を訪れた一アフリカ人記者によると…エホバの証人たちは,ザンビアの別の収容所に行く輸送車に乗るように言われた」。

      国連代表団はこのあざむきの行為を阻止しようとはしませんでした。それどころか,彼らはその片棒をかついだのです。12月23日のザンビアのタイムズ紙は次のように報じました。

      「マラウィに帰還したばかりの1万9,000人のものみの塔の難民は,『自国にもどったことを喜んでいる』。国連難民高等弁務官ヒューゴ・イドヤガ博士はきのうこのように述べた…

      「イドヤガ博士は,ジュネーブから来た国連難民高等弁務官事務所の理事スコジョー・ダジェ氏とともに,自発的帰還をさしずするよう助けたと述べた」。

      2週間ほどたって,1月6日のタイムズ紙は,「ザンビアの難民のための国連高等弁務官ヒューゴ・イドヤガ博士は,難民は帰国を喜んでいたと述べた」と伝えました。

      しかし,それは事実ではありません。証人たちは当時のような状態のマラウィには帰りたくなかったのです。命を守るために逃げることを余儀なくされていなかったなら,彼らは最初からザンビアには行っていなかったでしょう。ですから,ザンビアのタイムズ紙が少しまえ,つまり12月18日に,エホバの証人たちは「ザンビアに残るほうを好んだ」と報道したのは正しかったのです。また,ロンドン・サンデー・テレグラフは,「当局者は保証するけれども,エホバの証人は進んで帰国したのではない」と報じました。

      このようにして送りかえされた証人たちのインタビューは,そのことを証明しています。次にかかげるのは,それらの証人たちが語ったことを要約したものです。

      「まず最初にそれらの兄弟たち[つまりエホバの証人たち]は,スィンダ・ミサレにいた兄弟たちがマラウィにもどることに喜んで同意したというのは事実ではないと説明した。移動を監督した警官や政府の役人が,兄弟たちをペタウケ地方の新しい場所へ移すと言って兄弟たちをだましたのである。

      「役人たちは,全部の指導的立場にいた兄弟たちや他の証人たちが警官の見張っているバスに乗り込むまで待って,それから兄弟たちに彼らがマラウィへ連れて行かれることを告げた」。

      証人たちは,スィンダ・ミサレからマラウィのリロングウェにある収容所に連れて行かれることになっていました。そこの古い飛行場には,何百人ものマラウィの役人と警官隊が証人たちを待っていました。

      実際に何人がそこへ到着したでしょうか。現在のところ正確な数はわかりません。目撃者の報告は不十分なところがあります。

      ロンドンのサンデー・テレグラフ紙がある記事で,「スィンダ・ミサレからリロングウェまでの96㌔の旅の途上で…何千人もがバスや貨物自動車を捨てて奥地へ逃げ込んだ」と報じているのは事実です。同紙はまた,―「アフリカ人記者が最後の護送車に乗ってリロングェまで行った。その護送車隊は3,000人の難民を乗せてスィンダ・ミサレを出発した。8台のバスが到着して29人の証人たちが降りただけであった」と伝えています。しかし,そうした報道はまだ確認されてはいません。

      しかし確認できるのは,確かに帰国した証人たちがどうなったかということです。

      [20ページの地図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      0 150キロ

      ザンビア

      スィンダ・ミサレ

      マラウィ

      リロングウェ

      モザンビク

      フォートミランゲニ

  • 再び始まった残虐な迫害
    目ざめよ! 1973 | 6月8日
    • 再び始まった残虐な迫害

      エホバの証人がマラウィへもどることを望まなかったのは十分の理由がありました。それは,連れもどされた証人に起こったことがわかったときに明らかになりました。

      彼らを待ちかまえていたのはあいも変わらぬ恐怖政治でした。何ひとつ変わってはいませんでした。彼らに対する悪意ある態度は依然として激しいものがありました。マラウィ政府は,事態を緩和させる措置を何ひとつ講じていなかったのです。

      マラウィへもどる

      証人たちがマラウィのリロングウェ空港に着いた時,指導的立場にある監督として知られていた人たちは投獄されました。スィンダ・ミサレ収容所の監督だったジョン・チウェレ,彼の補佐であったラザルス・チルワもその中にいました。

      空港では,マラウィ政府の役人たちが証人たちに一場の演説を行ないました。そのひとりは中央地区の大臣クンブウェザ・バンダ氏で,もうひとり

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