-
神の目的とエホバの証者(その40)ものみの塔 1962 | 6月15日
-
-
訪問活動に使用されたことも不思議ではありません。1936年までには,協会は興味を持つすべての人々にこれらの再訪問をすることを強調し,励ましていました。そして次のことが強くすすめられていました。
すべての再訪問に蓄音機を持って行きなさい。翌日,あなたがその区域に戻るなら,興味を持つ信頼のできる人々のところに蓄音機を一晩あずけておくこともできる。そうすれば彼らは蓄音機をかけることもでき,あなたは翌日その家へ行って蓄音機を返してもらい,野外奉仕をすることができる。
そのような再訪問に関連して,伝道者たちは,「富」という本を研究していた会衆の定期的な書籍研究に善意者の出席をはげますように,すすめられていました。
それから協会は,商業的なラジオ放送から手を1937年に,再訪問のわざをもっと効果的にするための新しい道具を発表しました。これは「模範研究」の冊子第1号で,協会の冊子「ばくろ」(英文)および「摘発」と題する協会のレコードといっしょに使用されました。「ばくろ」という冊子とレコードは,ラジオ放送WIPに宛てた請願の結果,協会が作製したものです。
ロイス: おぼえています。それはジャッジ・ルサフォードとローマ・カトリックの牧師とのあいだの討論を要求した請願でした。たしか,WIP放送局はその請願を無視して,カトリックの牧師は討論に出なかったとあなたは言われましたね。
ジョン: その通りです。それで協会は「ばくろ」と題する冊子,および「摘発」のレコードを発行し,基礎的な聖書教理を明白に示しました。それは特にローマ・カトリック教会が教えた偽りの教理を反ばくするためのものでした。
この教育的なプログラムは,「大いなる群衆」のためにつくられたのです。このプログラムによって,御国伝道者は善意者の家庭内で椅子に腰かけ,秩序と統一のある仕方で聖書を研究することができました。エホバの証者は再訪問のとき,まず蓄音機をかけ,家の人は「ばくろ」という冊子を読みながら,その話を聞きました。それから,「模範研究」という冊子からの質問を考慮しました。家の人は聖書とか冊子に引用されている聖句によって,その質問に答えます。このようにして家の人は神の御言葉を熟知し,聖書から直接に質問の答えを得ます。しかし,1938年,これらの再訪問についての記録が始めて書かれて,協会に報告されました。報告がなされた最初の年には,アメリカ合衆国で29万8489の再訪問が行なわれました。
1940年中,「模範的な研究」冊子第2号と「政府と平和」および「勝利」が使用されました。興味深いクラス拡大の仕事が英国で試みられ,そのことは協会会長の年次報告の中で述べられていました。
時機にかなったこれらの道具は,善意者に神権政府の音信を教え,そのような善意者の興味を建ておこす助けとして,たいへん効果的なものであった。ルサフォード兄弟の是認の下に,一般の模範研究を全国的な運動にまで押し進めるわざが組織された。……この拡大奉仕のときは,良い公共のホールで週1度の集会が4回連続で開かれた。ビラを配布したり,興味を持つ人々に手紙を書き送ったりして人々が出席するように招待された。英国でも一般の人が,質問が聖書から直接答えられることをよろこんだ。「模範研究」第2号は,これらの質問と答えの基礎として用いられた。われわれの記録によると,この奉仕年度中4176の公開集会が開かれ,総合計15万7663人が出席した。その中3万1111人は初めての人であった。この拡大のわざの結果,約40の新しい奉仕の群れがつくられ,今年度中に3000人の新しい伝道者をつくるという目標に対し大きな貢献をしたのである。
訪問計画の拡大
協会がつねづね感じていたことは,協会本部を直接に代表する者が定期的に会衆を訪問して,会衆を強め,会衆を建ておこす必要性でした。そのわけで,ラッセル兄弟自身もいろいろの会衆を訪問していたのです。会衆の数が増加するにつれて,資格のある他の兄弟が用いられて,この大切なわざが行なわれました。
トム: それらの人々はピルグリムと呼ばれていましたね。
ジョン: そうです。そのわざが1894年に始まったことをおぼえていらっしゃるでしょう。アメリカ合衆国とカナダの各会衆を,すくなくとも1年に2回訪問する取決めが設けられていました。1928年になって,この僕たちの名前は「地方的な奉仕監督者」に変えられ,彼らの奉仕の特権は拡大されて,「クラスを訪問し,組織の仕方,野外で効果的に働く仕方を教え,同時に現在の真理について講演をすることにより彼らに奉仕」しました。
1929年までには,この奉仕は拡大され,13人の英語を話す兄弟,ひとりのウクライナ人の兄弟,二人のポーランド人の兄弟が地方的な奉仕の仕事に参加していました。「年鑑」(英文)は,このことを次のように報告しています。
英語を話す兄弟たちは,902のクラスを訪問し,各クラスに3日かそれ以上の期間滞在して,1万7589人のちがった兄弟たちに奉仕のわざを教えた。彼らは合計11万1034マイルを旅行したが,その費用の全部は,協会本部によってまかなわれた。クラスの野外活動が増加したわけは,もっぱらこれらの地方的な奉仕監督者の努力による。彼らは研究の仕方および区域におけるむずかしい状態の克服の仕方をクラスに教えた。そして,わざの遂行をいっそう完全にするためにクラスを援助した。
エホバは,本部を中心として奉仕が組織されることを祝福しました。そのことを認めた協会は,1932年に会衆の地方的な活動にいっそうの関心を持ち始めました。神権制度を確立するため,どんな手段が取られたか,おぼえていますか。
ロイス: 人を「監督」の職に選挙することが非聖書的であるとされたことではありませんか。
ジョン: そうです。そのとき,「ものみの塔」は協会が兄弟を任命して,各会衆の奉仕監督として奉仕する聖書的な権威を示しました。最初,油注がれた残れる者に属する兄弟だけが,その地位に選ばれました。しかし,1937年に「大いなる群衆」が油注がれた者の「仲間」であることが示されてから,その大いなる群衆からも幾人かがそのような奉仕の地位につけられました。
次第に新しい世の社会は強められ,一致した強固な交わりになって行きました。聖書中に記録されている神の原則を人々に教えることが強調されたので,この新しい世の社会が成功することはたしかでした。神権制度は,第1世紀の原始的な会衆の型に従ったので,全世界の御国伝道者はみな本部から指示を受けました。また,その指示を遂行するため,彼らは協会の任命した兄弟たちからの援助を受けました。
協会によって,任命された者と,会衆内の兄弟たちとの関係は,1936年に強調されました。その年の7月,「監督」という名前は「会の監督」と「地方的な奉仕の監督」を示すために使用されないと,協会は発表しました。そのかわり,これらの地位にいる兄弟たちは「会の僕」および「地方的な僕」と呼ばれるようになりました。同時に,月1度の奉仕機関紙「監督」は,「通知」に変えられました。
1933年から1935年まで行なわれた分団運動の経験から分かったことですが,会衆が結束して野外で奉仕すると,迫害や反対に耐えることができ,強い一致と力が示されて深められました。このようにして,地帯奉仕のわざが始まりました。
特定な地域内にある20位の会衆は,「地帯」を形成しました。協会は「地帯の僕」を任命して,各会衆で1週間を過ごさせ,会衆を制度的に強めさせると共に,野外の証言の活動を援助させました。時折り「地帯大会」が開かれて,20かそれ以上の会衆がその大会に参加することにより,さらに多くの指示を受け,霊的に建て起こされました。これらの大会で兄弟たちに奉仕するため,協会の本部から特別の僕たちが派遣されました。
1938年10月1日,協会は148名の地帯の僕と11名の地方的な僕をして国内の全会衆を定期的に訪問させる取決めを設けました。1939年中,区域を再区分したので,153の地帯と六つの区域がつくられ,それぞれ一人の僕の訪問を受けました。
-
-
愛と忠実ものみの塔 1962 | 6月15日
-
-
愛と忠実
モード・ジョンストンの経験談
「エホバの証者の年鑑」にのせられる北部アイルランドやエールの報告は,いつも特別に私の興味を引きます。というのも,私が「かしの棒の国」に生まれたからです。しかも,非常に裕福な家庭に生まれました。ほんとうに,信仰の深い両親を持つことは,多額の財産を相続するのと同じことです。
1905年頃,私の父の兄弟のひとりエディおじさんが真理を受け入れました。それは私が10歳の時でした。その頃,北部アイルランドには,聖書研究生は(当時はそう呼ばれた)ごくわずかしかいませんでした。でもおじは,そのおとずれを父に伝え,父は深い興味をもつようになりました。はじめの頃母は「エディおじさんの宗教」にまゆをひそめていました。しかし,父の親切や,巧みさや忍耐に助けられて,母の気持ちも徐々に変わってきました。父がよく「サラ,ちょっとすわりなさい。ここのところを読んであげるから」といっていたのがいまでも聞こえるようです。そして「サラ」は腰をおろしてそれに耳を傾けるのでした。のちになって父は,日曜毎に,以前自分が役員をしていた教会に行き,礼拝を終わって出て来る人々に聖書を説明した冊子をくばりました。母はそのことをひどくはずかしがって,教会に行くのをやめてしまいました。そして,その後間もなく真理を受け入れました。
1911年,ラッセル兄弟は,ベルファーストを訪問しました。同兄弟が,全部の「エクレシア」― ほんの少数 ― を自分のホテルに招待して,一緒にお茶を飲んだのをいまでもおぼえています。小さなグループではありましたが,それでも公開講演が行なわれた時は,ウルスター・ホールはいっぱいになりました。この群衆の大部分は,新聞に出した有料広告を見てやってきたのです。
基礎を置く
翌年父とおじは,昔の発見者たちが「長い白雲の国」と呼んだニュージーランドに家族を連れてきました。4人の家族を養わなければならなかったにもかかわらず,おじは,文書販売者つまりいまで言う開拓者でした。そして,何年
-