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  • 水害に襲われたラピッドシチー
    目ざめよ! 1972 | 11月8日
    • 分しかもたないような気がします」と言った。川沿いの人びとに,避難命令を出すよう直ちに指令が発せられた。警察官と州兵は,危険が迫っている人びとの家に飛んだ。また,危険地域に向かっていた自動車は,引き返すようにとの指示を受けた。吹き降りの中で勇敢に行動した人たちの努力によって,多数の人命が救われたと言われている。

      「まるで戦闘地帯」

      推測によると,洪水時のラピッドクリークの流量は,以前の最高記録の10倍以上であった。その川の1日の流量は,普通6,400万立方㍍だが,午前1時には,それが推定7億2,000万立方㍍に達した。雨は翌朝になってやんだが,そのときまでの同地域の降雨量合計は250㍉であった。その後,洪水の水はひき始めた。ラピッドシチーはさながら修羅場のようであった。火災が方々で猛威をふるい,手のつけようがなかった。水の力で押しつぶされた移動住宅や,数台のプロパンガス運搬トラックから出たプロパンガスのにおいが,空中にたれこめた。

      現場にいたある新聞記者はこう語った。「まるで戦闘地帯ですよ。あちこちで火災が発生しているが,ラピッドクリークの氾濫で町が分断されているので,手のつけようがありません」。これらの火災も翌日の午後になってようやく消し止められた。

      1972年6月12日付のニューヨーク・タイムズ紙は,市長のことばを次のように伝えた。「家屋300戸は土台から引き裂かれて,使用不能となり,市の公園3か所が破壊され,また80区画の舗装道路が破損し,ラピッドクリークにかかる九つの橋のうち七つがこわれ,鉄道の路床が約9㌔にわたって流失し,幾百ものビルが泥水で埋まった」。

      財産におよんだ被害は370億円にのぼり,225人以上の人が命を失った。

      恐ろしい経験

      多くの人は恐ろしい経験をした。ある男の人は,近くの橋まで歩いて行ったときに,高さ1㍍以上の大波が,川上から押し寄せ,青色の移動住宅が,波乗り板のように,その波の上に乗っているのを目撃した。別の男の人はこう語った。「私が窓から外を見ていたら,水が川の堤防から溢れ出て来た。私は妻を連れてすぐに家から飛び出しました」。

      ある移動住宅駐車場では200軒の住宅が押し流されてしまった。そこに残ったわずか1軒の住宅も,13㍍ほど流されて横倒しになっていた。「母と私は衣類を背負ってやっと外へ出ました」とその家主は語った。

      ひとりのエホバの証人は寝支度をしていた。突然彼女は,自分の移動住宅が揺れ出したことに気づいた。急いで外へ出て見ると,水かさがふえていた。大急ぎで彼女は高台へ避難し,そこから,自分の移動住宅と自動車が,激流によって下流へ押し流されていくのを見た。

      すでに眠りについていたある婦人は,全市に鳴り響くサイレンで目を覚ました。彼女は隣りの家へ行き,そこに住んでいる老婦人を自宅に連れてきた。それから二人は,犬といっしょに2㍍近い折りたたみ式の机の上に乗って救助を待った。机の,引き出しの中にあった懐中電燈のおかげで二人は命拾いをした。外の人がそれを見て救助するまで,二人は電燈を照らし続けた。

      他の人びとへの気づかい

      一般の人びとも当局に加わって,数多くの困っている家族に,暖かい援助の手を差しのべた。多くの人は被災者のことを気づかい,屋根や木の上,その他の避難所から人びとを救助することに力を貸した。また水害の犠牲者は,市の施設,学校,州兵部隊本部などに収容された。食糧と衣類が寄付され,そして多くの人は,大小さまざまの家族を自宅に引き取ることを申し出た。

      当地のエホバの証人の会衆を監督する奉仕者たちは,彼らの監督下にある人たちのことを深く気づかい,彼らがどうしているかを知るために,電話で連絡をとることに努めた。ところが電話は,話し中が多くてなかなかかからなかった。呼び出し音が聞こえるまでには10分間も待たねばならないほどであった。そこで,これらの奉仕者たちは,わかったことを主宰奉仕者に報告する方法を工夫した。つまり主宰奉仕者は毎時間最初の30分を,彼らからの電話を受けるために自分の電話をあけておき,あとの30分間は,彼が外へ電話をかけるのに使うという具合にした。このようにして,会衆内の各人の状態を知ることができた。直ちに援助を必要としていた人にはすみやかにその手配がなされた。

      しかし,電話で連絡のとれなかった人たちはどうだったであろうか。そういう人たちのところには,こちらから尋ねて行った。このようにして,会衆内の人で,病院にはいっていたのはひとりだけだったこと,また証人の五組の家族が,家や所有物を失ったことが明らかになった。ほかに恐ろしい経験をした人が何人かいたが,無事だった。

      成人男子の証人たちは,家屋に被害を受けたいろいろな証人たちの所へ行き,物品を取り出すのを手伝った。これは骨の折れる仕事だったが,それだけの価値があった。そればかりではなく,ペンシルベニア州,フロリダ州,カリフォルニア州,またその間の他の州からも,安否を気づかう証人たちが,電話で援助を申し出た。

      どんな教訓を学ぶことができるか

      災害に襲われた人びとの経験から,わたしたちは多くの教訓を学び取ることができる。まず第一に,機敏であること,そして災害に発展する可能性を予期する必要があることである。また警察官,市当局の役人,そのほか情報を知る立場にある人たちの警告に聞き従うことの肝要さである。ラピッドシチーに住んでいたある家族は死亡したが,それは彼らが警告に答え応じなかったためである。

      そしてもし,災害に生き残ったならば,できるだけ早く,愛する者たちに連絡をするのは親切な行為である。そうすれば,彼らに不必要な心配や気づかいをさせないですむ。

      ラピッドシチーを襲ったような災害が,過去のものになる日は近い。人類は神の政府のもとで安全に住むだろう。その政府の権威ある者たちは,その市民と彼らの愛する者たちを見守ってくれるのだ。それはエホバの証人が宣べ伝えている慰めの音信であり,その音信はあなたご自身の聖書に見いだすことができるのである。―黙示 21:4。

  • 戦争を支持する教会
    目ざめよ! 1972 | 11月8日
    • 戦争を支持する教会

      ◆ 「戦争,共産主義そして世界の宗教」と題する本の中で,チャールズ・S・ブレイデンは次のように書いている。「第一次世界大戦中,教会は終始,教会のただ中で,戦時公債を売ったり,兵士を募ったり,おおむね戦争を祝福したりして,同大戦を忠実に支持した。良心的参戦拒否者として刑務所に入れられたものはわずかながらいたが,それはごくわずかであり,それらの人は教会からの同情を得ることは一般にほとんどなかった」。

      それから半世紀余りたった今日,中には,僧職者が実際にそうした非クリスチャン的見地に立っていたのだろうか,と疑問に思う人がいるかもしれない。ところで,「戦時における思想」と題する本は,第一次世界大戦中に出版されたキャノン・B・H・ストリーターの随筆を引用しているが,「戦争,この戦争と山上の垂訓」と題するその随筆の中で,筆者であるこの僧職者は次のように結論づけている。

      「もし兵士が,自分の戦っているのは,ドイツの長い前途をも含めた,人類全体の福祉のためであるとの確信をいだいているのであれば,反対側のざんごうにいるドイツ人を,個人的な嫌悪の情なしに撃つことができるだけでなく,人間に対する愛からそうすることができるのである。……とりわけ兵士は,自国のために死ぬ覚悟のある人であり,他の人々のために喜んで死ぬ態度は本来キリスト教のものである」。

      このような流血の罪を負う宗教指導者たちが『生ける者と死にたる者との審判主に,神より定められた』者の前にどんな立場をとれるであろうか。―使行 10:42。

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