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聖書の真理を擁護するものみの塔 1979 | 7月1日
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聖書の真理を擁護する
その役人は,兵車に乗って南方へ旅をしながら,だれもが列車やバスや飛行機の中でしそうな事をしていました。その役人は読書をしていたのです。この人は聖書を読んでいて,読者も抱くような問題に直面していました。
聖書の使徒たちの活動の書に見られる記述によると,福音宣明者フィリポがエチオピア人の旅人に近付き,「あなたは自分の読んでいる事がらがほんとうにわかりますか」と尋ねます。それに対して次のような答えが返ってきました。「だれかが手引きしてくれなければ,いったいどうしてわかるでしょうか」― 使徒 8:27-31。
今日,聖書を読む人々の大半は手引きの必要を感じています。聖書を用いる諸教会の間で余りにも矛盾する教理が多いため,人々はますますその必要を感じています。これら異なる教えすべてが聖書の真理であるはずはありません。(コリント第一 14:33)では,聖書の真理を見いだし,それを悟るための有益な助けをどこから得られるでしょうか。
1879年に「ものみの塔」誌が発行されるようになったのは,まさにそうした必要を満たすためでした。同誌は,神の言葉の肝要な真理を擁護するはずでした。その創刊号の表紙がはっきり示すとおり,同誌は教会の様々な矛盾する教理を流布することではなく,「矯正のため,義にそって教えるため」に有益な聖書の真理を広めることに専ら努めています。(テモテ第二 3:16,17,欽定訳)例えば,次のような意義深い質問があります。
人間は不滅かそれとも死滅するものか
聖書の内容という点になると,ほとんどの人がまず考えるのは,聖書が自分と自分の将来について何と述べているかということです。大抵の人は自分が幼少のころから耳にしてきた,各人は自分の中に不滅の魂を持っているという教えを思い浮かべます。大半の教会はそのように教えています。ですから,多くの人は自分が死ぬと魂は天へ行き,神と共になるという希望を抱いています。
「ものみの塔」誌は,一般に受け入れられているこうした信条を支持するでしょうか。それとは反対に,同誌はこの問題に関して神の言葉の真理を擁護しました。早くも1881年4月には,「復活」という記事の中で次のように述べていました。
「いかなる人間も魂,つまり人と正しく呼ぶことができます。それが,魂という言葉の聖書的な意味,また用法です。……アダムの創造についてこう書かれています。『そして,主なる神は地の塵から人を形造り,その鼻腔に命の息(ルーアハ ― 動物,鳥,そして魚に与えられているという同じ息)を吹き込まれた。すると人は生きた魂(存在)となった』創世 2:7」― 1ページ。
この記事は,十分な聖書的根拠に基づき,死に際して魂,つまり人は死ぬということを示していました。(詩 33:19。イザヤ 53:10-12。エゼキエル 18:4)聖書的に言えば,人(魂)が死ぬと,当人は将来の復活の時まで,無意識で,眠りの状態にいるのです。復活という奇跡を通して,人はイエスの場合と同じように天で不滅の生命を与えられるか,さもなくば,パラダイスの地での完全な生命の見込みを与えられるでしょう。―伝道 9:5,10。コリント第一 15:12-16,50-53。
過去一世紀の間に,本誌の中でそのような真理について読んだ人の中には,衝撃を受けた人もいることでしょう。そうした人々の通う教会の指導者たちはそのような事柄を教えてこなかったからです。しかし,時代は変化しており,「ものみの塔」誌上で長い間擁護されてきたこうした聖書の真理を,世界中のますます多くの僧職者や神学者は認めるようになっています。以下に挙げる幾つかの例に注目してください。
バーゼル大学およびパリのソルボンヌ大学神学部教授オスカー・カルマンはこう書いています。
「今日のごく普通のクリスチャンに……人間の死後の運命に関する新約聖書の教えが何であると思うか,と尋ねれば,わずかな例外を除いて,『霊魂不滅』という答えが返って来るであろう。ところが,この広く受け入れられている概念は,キリスト教最大の誤解の一つに数えられる」―「霊魂不滅かそれとも死者の復活か」(1958年),15ページ。
バプテスト派の神学者,ロバート・ラウリン博士は次のように説明しています。
「新約聖書は,肉体を離れた“霊魂”の不滅というプラトン的な思想を教えてはいない。人間の究極の運命は,地上の舞台における肉体にある」―「ザ・エクスポジトリー・タイムズ」誌,1961年2月号,132ページ。
ローマで旧約聖書を講じるカトリックの教授,ロバート・コッホは次のように記しています。
「魂は,肉体の中にある別個の物質として存在するのではない。それはまるで投獄されているかのように,死に際して肉体から解き放されるものではない。“魂”とは人間全体のことである。人間は魂を持っているのではなく,人間が魂なのである」― テオロジア・デラ・レデンジオーネ・イン・ジェネシ,1-11(1966年),69ページ。
ピエール・パスカル“修道士”は,フランスの「ラ・ビア・カトリック」の中でこう書いています。
「聖書は,人が死ぬと,その人間全体が死ぬと教えている。とはいえ,人は,終わりの時に復活を通して死という虚無の状態から出され,命へ復帰するという約束を与えられている」― 1975年7月号,37ページ。
中には僧職者がそのような事柄を認めていることに驚かれる方もいるでしょう。しかし,これらは本誌が百年間擁護してきた聖書の真理なのです。
それは地獄とどんな関連があるか
この問題をさらに一歩進めてみましょう。魂は不滅ではなく,死者は無意識の状態で復活を待っているのであれば,神は邪悪な人間に地獄の責め苦を経験させるという教会の教理はどうして真実であると言えるでしょうか。事実,聖書はそのような事柄を教えていません。「ものみの塔」誌は,こうした問題に関して聖書の真理を幾度も擁護してきました。次に掲げるのはその一例です。
「[地獄]とは,ヘブライ語のシェオールの訳語で,単に死の状態,あるいは有様を意味しているに過ぎないことが分かります。その語には,命や責め苦という考えは少しも含まれていません。……しかしそれでも,[僧職者は]地獄という偽りの概念を説き続けているのです。それは,神のご性質に対する中傷にほかなりません」― 1883年11月号,4ページ。
僧職者は現在,地獄に関する聖書の立場を受け入れていますか。直接それを口にしなくても,指導者たちが「魂」に関して聖書の述べるところを認めるとき,「地獄の火」には聖書的な根拠のないことを示していることになります。例えば,デンマークの牧師,カイ・イェンセンは結果として生じる状況を認めてこう述べています。
「永遠の地獄落ちの話など気違い沙汰である。それはキリスト教の教えではない。説教壇から悪魔と消すことのできない火についてまくし立てた,地獄の説教師がいたのは過去の時代のことである。しかし,そうした時代はもはや過ぎ去った」― ボ・ゴ・ビ・ヘン(我々はどこへ行くのか),119ページ。
ほとんどの人はもはや自分たちの教会で地獄の火について余り耳にしないかもしれませんが,この問題について聖書の述べる事柄を教会で学ぶことも恐らくないでしょう。多くの人は,次のように語った,オーストラリアの長老派教会役員の書記と同様の意見を持っています。「天国と地獄の問題は余りにも多くの人々をろうばいさせるので,我々はその問題を避けて通る。実のところ,私自身,この問題を頭の中で整理するために,だれかと話し合ってもよいと思っている」。
だれを崇拝するか
「ものみの塔」誌の誌上で擁護されてきた聖書の別の真理は,わたしたちの崇拝する真の神がだれかという点と関連があります。多くの人々は,イエスの教えられた「主の祈り」と呼ばれるものを繰り返し唱えてきました。(マタイ 6:9-13)しかし,そうした人々は,「御名の崇められん事を」というくだりの意味について考えたことがあるでしょうか。あるいは,神のみ名に誉れを帰すことの大切さについて注意を払ったことがありますか。(ヨハネ 12:28; 17:6)それとも,僧職者たちがその名を避け,翻訳者たちがその名を「主」とか「神」とかいう語で置き換えているために,そのみ名は人々に知られていないでしょうか。
今では,その名の重要性を認める学者は少なくありません。カトリックの神学者,ジョン・L・マッケンジーは,「聖書辞典」(1965年)の中で次のように記しています。
「イスラエルの神がその固有の名前で呼ばれていることは,他のすべての称号で呼ばれている場合を合わせたよりも多い。その名はこの方がだれかを示すだけでなく,その性質をも明らかにしている」― 316ページ。
英国のトリニティ・カレッジ(三位一体大学)の学長,J・A・モティヤーはこう付け加えています。
「代用語[主や神]を超越して,神ご自身の個人的で,親しみのあるお名前に目を向けるのを忘れるなら,聖書朗読から大きな部分が失われてしまう。ご自分の民にみ名を告げることにより,神はご自分の内奥の性質を明らかにしようとしておられた」―「ライオン聖書便覧」(1973年),157ページ。
「ものみの塔」誌は一貫して神のお名前を用いてきました。例えば,1881年10月号(9ページ)はヘブライ語のエルという語が“神”を意味することを説明し,さらに次のように述べています。
「エホバは主要な“エル”であられ,他のすべてのエル ― すなわち強力な者たちを治めておられます。また,エホバという名は,至高の存在者,わたしたちの父,そしてイエスが父また神と呼んだ方に当てはまることをすべての人に知らせなければなりません」。
また,1926年1月1日号には,「だれがエホバをたたえますか」という重要な主題に基づく記事が載せられました。神のお名前を擁護するこの業はその後も続けられました。新世界訳(1950年-1961年)が発行されて以来,この訳は本誌誌上で最もよく引用される聖書翻訳となってきました。この聖書は,証拠がある場合には,“新約聖書”の中にも神のお名前を使っているからです。G・ハワード教授は最近,“新約聖書”の中で神のみ名を使うことについて論じましたが,興味深くも次の点を指摘しています。
「新約[聖書]の筆者たちが,聖句を引用する場合,聖句中のテトラグラム[神のみ名を表わすヘブライ語の四文字]を保存したと考えるのは理にかなっている」―「聖書文学ジャーナル」,1977年,63-83ページ。
「ものみの塔」誌は,この点を何十年も前から指摘していました。
ハワード教授はまた,後日,神のみ名が除かれて“主”という語で置き換えられると,主イエスと主エホバを見分けるのに混乱を生んだようだ,と述べています。その点が,現在,広く信じられている三位一体の教理の一因となっています。
三位一体の神か
「父なる神,子なる神,そして聖霊なる神」という決まり文句は,大勢の人の口から簡単に出てきます。この言葉は,神の内に三つの同等で,共に永遠に存在する位格があるという,それらの人々の見解を要約しています。
しかし,「ものみの塔」誌は,一世紀にわたって,この問題について神の言葉が実際に述べているところを検討するよう読者を促してきました。例えば,イエスはみ父と同等な方ではなく,エホバに服する下位の方であることが繰り返し示されてきました。(ヨハネ 14:28; 17:3。コリント第一 11:3)一例として,1882年には,根拠となる聖句と共に,次のような文が掲載されました。
「わたしたちは,ひとりの神また父を,そしてひとりの主イエス・キリストを信じます。……しかし,これらはふたりの存在であって,ひとりではありません。……わたしたちは,[エホバ,イエス,そして神の霊,つまり活動力]が一つの存在のうちにある三つの神であるという教えを,全く非聖書的なものとして退けます。……三位一体の教理は,三世紀に起源を有するものです」。
三位一体は聖書の教えではなく,後日,教会が発展させた教えであるという事実は,ますます広く認められてきています。スイスでは,「ボカブュレール・ビブリク」(1954年,72ページ)が,「新約聖書の著述の中で,三位一体の神について明言している箇所はない」と述べています。グラスゴー大学のイアン・ヘンダーソンは国際百科事典(1969年)の中で,次のように書いています。
「三位一体の教理は,新約聖書の中に伝えられている,使徒たちの伝道の一部を成してはいなかった」― 226ページ。
そして,1978年12月3日付のロンドン・オブザーバー紙は次のように伝えています。
「英国の国教会派の指導的な神学者,博士号を持つジェフリー・ランペ師は……三位一体という,キリスト教の歴史的な教理に対する強力な異論を世に出した。……同師によると,三つの“位格”から成る神という,三位一体の教理の先は『長くない』」。
神学者たちが神とキリストに関して後代の教会の教理ではなく,聖書の述べる事柄だけにとどまろうとすれば,その結果は大抵,本誌が長年擁護してきた点と一致します。ドイツ・ベルリンのJ・シュナイダー神学博士はこう書いています。
「イエス・キリストが神の地位を奪うことはない。イエス・キリストとみ父との一致は,その存在の全き同一性を意味してはいない。生まれて来る前の存在において,神のみ子は神の形で存在していたが,神と等しくなろうとする誘惑を退けた(フィリピ 2:6)。……神との全き調和を保ちながら,イエス・キリストは神に対する従属の立場を保たれた」― 新約聖書に関する神学概念辞典(1965年),第二巻,606ページ。
キリストの肝要な再来
神がイエスをよみがえらせたことと関連があり,しかもすべてのクリスチャンにとって非常に重要な出来事があります。それはキリストの再来,つまり二度目の到来です。イエスはこの肝要な論題を絶えず弟子たちの前に置き,弟子たちはそれを切に待ち望んでいました。イエスの死の直前,弟子たちはこう懇願しました。「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在[ギリシャ語,パルーシア]と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。(マタイ 24:3。使徒 1:6)聖書は,「しかり,わたしは速やかに来る」という胸を躍らせるようなイエスの言葉と,それに対する,「来たりませ,主イエスよ」という使徒ヨハネの熱烈な反応で結ばれています。―啓示 22:20; 1:7。
ルーテル派の一百科事典は,この教えがいかに肝要であるかを次のように示しています。
「将来への期待すべては主が戻って来られ,ご自分の会衆と永遠に共になられるということの確実性に支配されていた。……この希望は,この世のどんな権力もどんな変化も一時的なものに過ぎないという,揺らぐことのない確信を初期クリスチャンに与えた。キリストは来たらんとしておられる!」―「ルーテル教会百科事典」,第三巻,2149ページ。
しかし,現代の神学者たちの有力な信条は,実に驚くべき対照を成しています。例えば,英国のシェフィールド大学のA・C・ティセルトン教授は,最近,その主だった意見を要約しました。
カトリックの神学者,テイルハルド・ド・シャルディンは「パルーシア[つまり臨在]について言うべきことはほとんどない」。ポール・ティリッチは,「パルーシアがほとんど何の役割も果たさない,将来の神学」を提供している。ルドルフ・バルトマンは「パルーシアを,終末論上の神話とみなしている」。また,J・A・T・ロビンソンは,『イエス自身,二度目の到来があると期待してはいなかった』と唱えている。―ティンダル・ブリティン,1976年,27-53ページ。
僧職者がキリストの再来に重きを置かないため,大半の教会員の生活にこの主要な真理はほとんど意味をなさないものとなっています。こうした事態の重大さを示す一例として,次の点を考慮してみてください。キリストの再来は,悪に対する義の究極的な勝利と関係しています。では,霊的な指導者たちがイエスは再来されないだろうということを示唆するなら,義に対する人々の関心にどんな影響が及ぶでしょうか。
しかし,聖書,そして初期クリスチャンの模範と調和して,「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」(本誌の最初の名称)は,1879年のその創刊号から,キリストの再来と臨在を告知し,擁護してきました。
その上,世界的な規模の戦争,食糧不足,地震,不法など,わたしたちが生涯中に見てきた出来事は,イエスの預言された,『キリストの臨在のしるし』をわたしたちが現在目撃しているという十分の証拠になります。(マタイ 24:3-14)これは,事物の体制の終わりが間近に迫っていることを意味しています。確かに,この真理,そしてわたしたちが検討してきた,聖書中の他の真理は,擁護する価値のあるものです。イエスが述べておられるとおり,神を喜ばせる者は,「霊と真理をもって崇拝しなければならない」のですからなおさらそう言えるでしょう。―ヨハネ 4:24。
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神の王国 ― 唯一の希望ものみの塔 1979 | 7月1日
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神の王国 ― 唯一の希望
人類は様々な苦難にさいなまれています。しかし,それを解決する方法があります。必要なのは,すべての人の益を図って,愛と思いやりのある仕方で地上の物事を管理する,義の世界政府です。その解決策こそイエスの教えの主題を成すものと期待されるのではありませんか。
確かに,そうです。「キリスト教と危機」という宗教誌は,「王国はイエスの教えの支配的な主題であった」と述べ,さらにこう付け加えています。「イエスの考えの中でこれほど大きな部分を占め,その音信の中でこれほど中心的な役割を果たした論題はほかにない。それは,福音書中に百回以上取り上げられている」。そうです,イエスはこう語られました。「わたしは……神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」。(ルカ 4:43)イエスは,神の王国が来ることを祈り求めるよう追随者たちに教えられました。―マタイ 6:9,10。
神の王国とは何ですか。世の諸問題を解決するためにそれはどのように到来するのでしょうか。
聖書の肝要な真理
王とは支配者のことで,一人の王の王国には王の治める領土や領域が含まれることは大抵だれでも知っています。ですから,神の王国とは全地に対する支配つまり政府のことであり,神のみ子イエス・キリストによって運営されるという点を理解するのはさほど難しくないはずです。神のこの王国は地上のすべての政府に取って代わります。
王国に関する聖書のこの真理は,百年間「ものみの塔」誌上で強調されてきました。事実1939年以来,本誌の公式の名称は,「エホバの王国を告げ知らせるものみの塔」誌となっています。1881年12月号はこう述べています。「当然この王国の設立には,地上の王国すべての倒壊が関係しています。それらの王国はいずれも ― 一番ましなものでも ― 不公正,権利の不平等,大衆を抑制して少数者に恩恵を示す,という基礎の上に築かれています。それで次のように書かれています。『この国はこのもろもろの国を打ち破りてこれを滅せん これは立ちて永遠にいたらん』」。―ダニエル 2:44。
しかし,聖書のこの真理は,クリスチャンと称える人々を含め,ほとんどの人に知られていません。この点を確かめてみてください。機があれば,人々に,『神の王国とは何か,どのように到来するか』尋ねてみてください。この点に関する考え方が混とんとしており,ほとんど理解されていないのに,驚かれるかもしれません。どうしてそのような事態が見られるのでしょうか。
悪いのは宗教指導者
それは,王国に関する宗教指導者たち自身の考えが混乱しているからです。「季刊教会リビュー」誌の論説は次の点を認めています。
「我々はかなりの期間,王国の真に本質的な概念の何なるかに関する諸学説とそれに反対する学説の高まりつつある潮流に,のみ込まれかねない危険にさらされてきた」。
こうした宗教的な混乱ゆえに諸教会はこの問題について多くを語ってきませんでした。著名な長老派の信者,フランシス・ミラーはこう嘆いています。
「神の王国に関して,大半のクリスチャンが沈黙を守っているのは,現代の最大の悲劇の一つである」。それで,同氏は結論としてこう書いています。「平信徒として,私は神学者ならびに聖職者に嘆願する。我々に神の王国について話してほしい。それが何であり,現代の世界とどう関係しているか説明してもらいたい。……その必要は差し迫ったものである。我々の神学者ならびに聖職者は,間近に迫った神の王国について,平信徒の理解できるような言葉で語らねばならない」―「キリスト教と危機」,1960年6月13日号。
では,僧職者はそうしてきたでしょうか。神の王国に関する大半の人の無知と混乱は,僧職者がそれを実行してこなかったことを明らかにしています。王国に関して人々の考えについて思い起こしてみてください。そうした考えは,諸教会の教えてきた次のような見解を反映していますか。
教会の見解
ローマ・カトリック教会は,事実上,地上における神の王国である,と長い間教えられてきました。しかし,今世紀の初頭に,カトリック百科事典(1910年版)は,「神の王国」という項目の下で次のように述べています。
「“王国”とは,到達すべき目標や場所というよりは……むしろ精神状態を意味している。(ルカ 17:20-21)それは,神と一体になり,神の示される理想に達しようとする人の思いに満ちなければならない影響力を象徴している」。
このような見解は聞き慣れたものですか。この見解はごく一般的なもので,多くの教会指導者によって表明されてきました。例えば,1925年の南部バプテスト総会は次のように述べています。
「神の王国とは,あらゆる人間関係における個人の心と生活,および組織化された社会のあらゆる形態と制度の中にある神の統治のことである。……人間のあらゆる考えと意志がキリストの意志のとりこになるとき,神の王国は完成する」。
しかし,ほかにも一般的な見解があります。諸教会はまた,世の諸問題を解決するための人間の政治上の努力と,神の王国を同一視してきました。カトリックの司祭である,マーティン・K・ホプキンズは,イエスの教えた祈りについて論じた中で,次のように書いています。「み心の天のごとく,地にも行なわれんことを。この言葉は,神の王国が最終的にどのように到来するかを説明している。そして,現代よりも先を見通し,キリストにおいてあらゆる人間の制度が回復するよう努力することを求めている」。
これら様々な考えについてどう思われますか。王国は,諸制度や人々をキリスト教化する人間の努力に依存していますか。王国は,「個人の心と生活の中にある神の統治」のことですか。
間違った見解
神の王国に関して,多くの人々の抱いている上記のような見解は間違っています。それらは聖書と調和していません。そして,近年,教会の指導者たち自身,この点を認めるようになっています。ジェームズ・ヘースティングス編の「使徒教会辞典」は次のように述べています。
「地上の教会が神の王国であるという中世的な概念は,使徒書簡の中にほとんど見られない。また,我々の知っているこの世がキリスト教の影響の下に発展して王国になるという,ある現代の神学著述家の考えは,使徒たちの考えと非常にかけ離れている」。
教会の指導者たちは,通例,王国を『精神状態』,あるいは『人の心における支配』としてきましたが,その見解は現在では一般に退けられています。「季刊教会リビュー」誌の述べるとおりです。
「われわれの中には,この問題に少しも難しさを感じなかった時代を覚えている者がいる。王国は,個人の心と生活における神の支配に過ぎなかった。……今日,その単純さは,時代遅れのジャーナリズムや公約政治の特色と変わらなくなってきている」。
しかし,教会の間違った見解とは対照的に,「ものみの塔」誌上で宣明されてきた王国の音信は聖書と調和したものであることが証明されています。そうです,聖書のはっきり示すところによると,神の王国とは,み子イエス・キリストを通して行なわれる神の統治のことです。この支配は,聖書の中で,次のような言葉で予告されていました。『われらにひとりの子をあたえられたり[政府]はその肩にあり……その[政府]と平和とはましくわわりてかぎりなし』。(イザヤ 9:6,7。[欽定訳])神によるこの天の王国政府は間近に迫っています。間もなくそれは人間の政府すべてを滅ぼし,それらに取って代わります。―ダニエル 2:44。
クリスチャンの立場
初期クリスチャンたちは,物事をこのように理解していたでしょうか。初期クリスチャンたちは,神の王国を,この現在の体制に取って代わる,神の統治とみなしていましたか。「使徒教会辞典」の述べるところを検討してみましょう。
「これら当時の[聖書]筆者たちのだれかに,神の王国は現在存在していると思うかと尋ねたなら,否,という答えが返って来たであろう。キリストは王であったが,その王国はキリストの到来するときにのみ現わし示されるのである。その筆者に,王国がどのようなものになるか,あるいは,この現在の世に対して王国はどんな関係を有するかとさらに尋ねたなら,その人はきっと,不完全さ,罪,死など,この現在の世を構成するものほとんどすべてが消滅すると答えたであろう」。
では,神の王国に取って代わられるこの体制に対して,クリスチャンはどんな立場を取るべきでしょうか。現在の世界はサタンの支配下にあると聖書は説明しています。(マタイ 4:9。ヨハネ 12:31; 14:30。コリント第二 4:4)古くからこの真理に注意を向けてきた「ものみの塔」誌は,1882年12月号の中で次のように説明しています。
「現在の諸政府は『この世の君』の配下にあり,すべて打ち砕かれねばならず,『あなたの王国が来ますように』とわたしたちの祈り求める神の王国に取って代わられる,という諸点をはっきり認めているなら,いかなる仕方でもそれら諸政府とこれ以上かかわり合いになりたいとは思わなくなるでしょう」。
キリスト教世界の諸教会とは対照的に,「ものみの塔」誌は過去百年の間,イエスの言われた,『あなたがたは世のものではない』という立場を読者に示してきました。本誌は,「わたしの王国はこの世のものではありません」というイエスの教えを繰り返し強調してきました。(ヨハネ 15:19; 18:36)こうして真のクリスチャンは,この世の政治に巻き込まれることなく,神の王国政府の衷心からの支持者になってきました。―ヨハネ 6:15。
神の王国のもたらすもの
あなたは神の政府にどんなことを期待しますか。まず,その支配者が公正で親切で思いやりのあることを期待するはずです。イエス・キリストは,ご自分がそのような方であることを証明されました。(マタイ 11:28-30)神の導きの下でキリストは共同支配者として,その同じ特質を持った人々を選ばれました。(ルカ 22:28-30。啓示 5:9,10; 20:6)そうした人のひとりは,同じ希望を持つ別の人にこう書き送りました。「忍耐してゆくなら,わたしたちはまたともに王として支配するようになる」― テモテ第二 2:12。
確かにわたしたちは,これらの王たちの統治が義と平和の統治になり,その地上の臣民である全人類に幸福と健康をもたらすことを期待します。キリストは地上におられたとき,あらゆる病気をいやすために神から与えられたご自分の力を示されました。キリストは死人をよみがえらせることさえされたのです。王国の支配の下で,キリストは地上のあらゆる人に祝福と恩恵を施すために,その奇跡的な力を再び行使されます。やがて,全地はすべての人が楽しく過ごす,美しいパラダイスに変えられるでしょう。―ルカ 23:43。啓示 21:4。
神の王国こそ,わたしたちすべての切に求める祝福を実現するための唯一の希望なのです!
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神によるこの天の王国政府は間近に迫っています。間もなくそれは人間の政府すべてを滅ぼし,それらに取って代わります
[17ページの囲み記事/図版]
聖書の見方
「わたしの王国はこの世のものではありません」― イエス,ヨハネ 18:36。
『[政府]はその肩にあり……その[政府]と平和とは増し加わりてかぎりなし』― イザヤ 9:6,7,[欽定訳]。
教会の見方
「神の王国は,キリストにおける人間のあらゆる機関を回復するために働くこと……によって到来するものである」― カトリックの一司祭。
「神の王国とは,……個人の心と生活……の中にある神の統治のことである」― 南部バプテスト総会。
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だれが本当に真理をもっているかものみの塔 1979 | 7月1日
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だれが本当に真理をもっているか
「あなたの真理のうちを歩ませ,わたしを教えてください。あなたはわたしの救いの神なのです」― 詩 25:5,新。
1 真理という語にはどんな意味がありますか。エホバは真理の基であると言えるのはなぜですか。
真理という語は,事実と一致し,現実と一致する事柄と定義されています。真理は正しく,純粋なもののことを表わします。真理の源,真理の基は,全能者なる宇宙創造者エホバ神です。エホバ神はご自分の創造物のあらゆる面についての真理をご存じです。また正邪,善悪をご存じです。現在の世界情勢の意味するところのみならず,過去に起きた事柄,またそれが起きた原因についても真実のことをご存じです。そして将来をどうするかもすでに決めておられますから,将来についての真理もご存じです。―イザヤ 14:24。
2 聖書はエホバの真実さをどのように表現していますか。
2 こうした理由で詩篇作者は創造者を,「真理
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