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  • 悪魔にゆうわくされる
    ものみの塔 1971 | 4月15日
    • あなたがすこし大きくなると,だれかほかの子から,何かのくすりをのむようにいわれるかもしれません。その子たちは,そうしたくすりをのむと,とてもいい気もちになるというでしょう。でも,そのくすりはまやくかもしれないのです。それをのむと,おもい病気になって,死んでしまうこともあります。あなたはどうしますか。サタンは,あなたがそのくすりをのむように願っています。

      でも,イエスのことをおもいだしてください。サタンは,イエスに,神でんから飛びおりて命をきけんにさらさせようとしました。しかし,イエスはそうしようとはなさいませんでした。イエスはサタンのことばに従いませんでした。あなたも,くすりをのませようとする人のことばに従ってはなりません。

      学校で式がひらかれるようなとき,なにかの像をすうはいする行ないをしなさいといわれることが,いつかあるかもしれません。もし,それをしないなら,もう学校に来てはいけないといわれるかもしれません。あなたはそのときどうしますか。

      悪魔はイエスに,一どだけ自分をすうはいさせようとしたのをおもいだしてください。でも,イエスはエホバだけにすうはいをささげなければならないことを知っておられたので,イエスは頭をさげることをなさいません

  • 「真理は汝らに自由を得さすべし」
    ものみの塔 1971 | 4月15日
    • 「真理は汝らに自由を得さすべし」

      自由ということが話題になると,ラテンアメリカの大半の人がきまって思い浮べる名前,それは「解放者」である,シモン・ボリバーとホセ・デ・サン・マルチンです。このふたりは,19世紀初頭,南アメリカをスペイン統治から解放する軍の指揮官を務めた人で,その功績はラテンアメリカ全土に記憶されています。

      しかし,ボリバーやサン・マルチンの代わりに,「解放者」という肩書きにもっとふさわしい者として,多くの人々が親しみを感じるかたがいます。それはほかならぬ神のみ子,キリスト・イエスです。イエス・キリストは,武力ではなく彼の語ったことばを用いて,真の解放を成し遂げ,また,成し遂げつつあります。そして,「汝等もし常に我がことばに居らば,……真理を知らん。しかして真理は汝らに自由を得さすべし」と語ったのは,このイエスです。―ヨハネ 8:31,32。

      ラテンアメリカの人々は陽気なことで世界じゅうに知られていますが,その反面,多くの人々が非常にみじめな生活様式に捕われているというのが実状でもあります。そして,それらの人々を長年捕えてきた迷信や慣習の束縛を解くことが必要とされています。そうした迷信や慣習のいくつかを調べ,それと同時に,神のみことばの真理が,ラテンアメリカやその他の国で,どのように解放のわざを成し遂げているかを見ましょう。

      死者に関する真理のもたらす解放

      人々をとりこにする迷信や慣習には死にまつわるものが多くあります。たとえば,煉獄に恐れおののいて暮らしている人は少なくありません。ローマ・カトリックの公式の教義によると,「現世で受ける罰よりもはるかにきびしい,火による罰」を受ける所が煉獄とされています。

      そうした教えは必然的に,人間の魂は死なないという想像に基づいています。人が死後苦しむとすれば,人体の知覚を有する部分や,痛みの感覚を脳に伝達する神経組織は,明らかに生き続けなければならないことになります。

      しかし,聖書は不滅の魂という教え,ひいては煉獄の考えを裏付けていますか。それとは反対に,聖書は,「死る者は何事をも知ず」,したがって苦しむことがないと教えており,また,「罪を犯している魂 ― それは死ぬ」とも教えています。―伝道 9:5。エゼキエル 18:4,新。

      カトリック教会の,煉獄に関連した主張によれば,「その中に監禁されている魂は,忠信者のとりなしの祈りによって助けられる」とされています。しかし,死者は無意識で苦しむことがない以上,死者のために高いお金を出して祈ってもらったところで,どれほどの価値がありますか。聖書は将来の命を得る希望が寄付金によらず,復活という手段を通して命を与える神の力に基づいていると正しく教えています。―ヨハネ 5:28,29。

      死者の状態に関して聖書が何を教えているかを正確に知ると,最初はびっくりする人がいることでしょう。自分の持っているカトリックの聖書を研究しはじめた,ホンジュラスに住むひとりの人の場合がそうでした。しかし,その人はやがて,カトリック教会が神のことばの真理を隠してきたことを知って憤りを感じ,それまで毎朝6時にあずかっていたミサに行くのを即座にやめました。そして代わりに,エホバの証人の集会へ家族を連れて出席しはじめました。自由を与える真理がそこで教えられることを知ったからです。

      偶像崇拝からの自由

      ラテンアメリカでは,家や会社また自動車の中に宗教画とか像が飾られている場合が珍しくありません。「ラテンアメリカにおける祝祭の時節」と題する本は,そうしたものが人々をとりこにしていることについて説明し,次のように述べています。「インド人は聖像を愛し,それに祈り,聖像が奇跡を行なうことを信じて,供物をささげる……アンデス山脈周辺の国々では,キリスト教の聖人と異教の神々とが複雑に混交している」。

      そうした偶像に対する礼拝はカトリック教会によって助長されていますが,聖書は終始一貫,それを公然と非難しています。偶像崇拝は,十戒の2番目に当たる,「あなたは自分のために……なんの彫像……をも作ってこれに礼をしては……ならない」という戒めに直接違犯するものです。(出エジプト 20:4,5,新),クリスチャン使徒パウロも,同様に,「偶像崇拝からのがれなさい」とはっきり勧めています。―コリント前 10:14,新。

      こうしたことばを心臓に取り入れ,それを実践する人々がラテンアメリカには大ぜいいます。ベネズエラのマラカイから寄せられた経験によると,ひとりの男の人は司祭になるために4年間勉強していましたが,エホバの証人とわずか二,三回家庭聖書研究をした後,持っていた偶像や「聖」画をことごとく焼いたということです。1世紀のキリスト教の改宗者たちについて,「あなたがた(は)……自分たちの偶像を捨てて神に頼り,生けるまことの神に仕え(た)」と言われましたが,ちょうど同じことが,このマラカイの人々にも言えます。―テサロニケ前 1:9,新。

      悪霊の影響からの自由

      聖書は,悪魔と悪霊たちの起源を説明し,さらに,その欺まん的な意図を暴露する唯一の本です。また,「霊の剣,すなわち神のことば」を含む,「神からの完全な一領のよろいをすべ着け」て,そうした者たちに対抗する術を教えています。―エペソ 6:11,17,新。

      ですから当然考えられることとして,聖書の理解が欠如しているところでは悪霊崇拝が盛んです。ラテンアメリカにおける宗教の実状は,そのことを証明しています。たとえば,「ラテンアメリカにおける祝祭の時節」は,タヒチで心霊術が流行していることについてこう述べています。「人々の大半は,カトリック教徒であると唱えている。しかし,教会で行なわれる早朝のミサにあずかる人々の多くは,夜通し行なわれるブーズー教の儀式から直行して来るのである。ブーズー教の儀式そのものにも,カトリックの影響が見られる」。

      またブラジルからの報告によると,「ブラジルのカトリック教徒の67パーセントはマクンバ,あるいはブーズー教の催しに出席する」ということです。リオ・デ・ジャネイロの副司祭は,そのような状態の原因として,「ブラジルにおけるカトリック教育の浅薄さ」を批判しました。カトリック教育は浅薄なために,そうした状態の拡大を阻止しえないとしても,「堅固に守りかためたものをくつがえすために,神によって強力」な聖書の真理は,それを阻止する力を持ち,現にそうしています。―コリント後 10:4,新。

      ベネズエラに住むある婦人の経験は,実際にこのことを証明しています。彼女は,死者と交信し,友人の将来について多くのことを予告する力を持ち,さらに死んだ親族の「声」を自分を通して聞かせることさえできると唱えていました。ところが,その「声」が彼女に夫と離婚するよう命じた時,自分の力がどこから来るのかを不審に思うようになりました。そんな時に,エホバの証人の訪問を受け,自分の力の源について,また聖書はそれを非としていることを率直かつ明解に教えられたのです。(使行 16:16。レビ 19:31)数週間家庭聖書研究をした後,彼女は悪霊の影響から解放され,そうして得た自由のおかげで,家族全員が祝福を受けることになりました。

      アメリカのモンタナ州では,インデアンを先祖に持つある婦人が,神のみことばによって悪霊崇拝から自由になりました。自分の家が悪霊崇拝に深入りしていたため,その婦人は多くの奇病に悩んでおり,『声』は,彼女に自殺するようにとも言いました。証人と聖書を学んで助けを得,婦人は偽りの崇拝に関係した物を捨てました。首のまわりにつけていた「雷神」の像やその他の物を処分すると,婦人の健康はたちまち回復しました。悪霊崇拝から自由になった彼女は,エホバは,自分が以前崇拝していた神々よりも強いと語っています。

      これまで考慮してきたいくつかの経験から,聖書の真理が,人々から誤った宗教観や慣習を取り除くことには,疑問の余地がありません。しかし,聖書が人々の行ないに対して持つ影響力についてはどうでしょうか。聖書は人格にとってどんな影響を及ぼしますか。真理によってもたらされるとイエスの言われた自由は,どれほどの規模に及ぶものですか。次の記事で,こうした疑問の答えをお調べください。

  • 信じる人々のあいだで働く自由を得させる神のことば
    ものみの塔 1971 | 4月15日
    • 信じる人々のあいだで働く自由を得させる神のことば

      霊的な事柄を全く無視し,比較的物質に恵まれた社会で生活している,大ぜいの人々とは異なり,謙そんなラテンアメリカ人の多くは神のことばである聖書に敬意を払っています。そして,本の中の本といわれる聖書を家に置いておくだけでも,なんらかの益つまり祝福があると信じています。しかし,聖書の内容を知ろうとしないなら,またみことばが生活に益をもたらす力とならないなら,聖書を持っても価値がない,ということに気づく人は多くありません。読むのではなく,たなに置くためだけに新聞を買う人がいますか。では,自由を得させる真理について述べている,はるかに価値のある聖書を新聞と同様に扱うのは賢明なことと言えるでしょうか。

      聖書を神聖な書物として受け入れるだけでは,決して十分ではありません。聖書によって自由を得ようとするには,聖書がその人に働きかけねばなりません。つまり,聖書を信じている人は,それを適用しなければなりません。1世紀の信者にとって,神のことばを受け入れるとは,そういうことを意味しました。彼らについて使徒パウロはこう書いています。「あなたがたがわたしたちから聞いて,神のことばを受けた時,あなたがたはそれを,人間のことばとしてではなく,真にそのとおりであるが,神のことばとして受け入れたからである」― テサロニケ前 2:13,新。

      神のことばを受け入れるとは,彼らにとって,聖書を家に持ち込み,聖なる書物とみなす以上のことを意味しました。また,それは,聖書の教えに答え応じる思いと心臓に真理の音信を取り入れることをも意味したのです。こうして彼らは聖書から影響を受けたがゆえに解放を経験しました。その結果,思考と行動を変えることができたばかりでなく,人格をさえ変化させることができました。

      使徒パウロが賞賛のことばを持って記録した,初期クリスチャンたちと同様の仕方で,ラテンアメリカの多くの人々も神のことばを受け入れていると言えますか。記録によればはっきりとそう言えます。では,自由を得させる神のことばが,人々の生活にどのような働きを及ぼしているかを調べてみましょう。

      性的な不道徳からのがれる

      宗教団体の中には性的な不道徳を大目に見ているところもありますが,イエスは姦淫や淫行を「人を汚すもの」と言われました。(マタイ 15:19,20,新)また,使徒ペテロも,クリスチャンは「主……を知るによりて世の汚穢をのがれ(た)」と述べています。―ペテロ後 2:20。

      神は,あらゆる性的な不道徳をあからさまに非難しているにもかかわらず,カトリックの勢力の強いラテンアメリカでは,男女が法律上の結婚の届けをせずに同棲し,姦淫や淫行を犯すことは珍しくありません。また売春もごく普通のことになっており,コロンビアのカリ市の日刊新聞,オクシデンテによれば,8歳から15歳の少女たちが同市で売春をしているということです。

      そうした不道徳な生活の結果,すでに大世帯で貧困にあえいでいる家庭に,望まれない子どもが生まれています。また幾千人もの子どもたちが街頭に活路を見いだし,不浪者になったり犯罪を犯したりして生活しています。さらに,産児調節の方法として妊娠中絶にたより,幼児殺しを働いている人も少なくありません。

      しかし,神のことばがそうした人々の生活に働きかけると,どんな事が起こりますか。パナマからの知らせによれば,ある男の人は聖書を学びはじめてからというもの,大酒・ばくち・喫煙の習慣を絶ち,さらに,自分の娘4人を生んだ同棲中の女をたたかなくなったということです。彼は神の正義の標準に從いたいと思い,その婦人に結婚を申し込みました。女性の同意を得てふたりは結婚し,同じ週に彼はクリスチャン奉仕者の任命を受けました。

      さらに,ホンデュラスで,自分の下宿を売春のために提供していた熱心なカトリック教徒の婦人に,真理の力がどのように働いたかを考えてみてください。この婦人は,聖書の助言を受け入れると,すぐに自分の家を大掃除して,不道徳な行為をするために家に来る泊まり客を断わりました。現在その宿舎は上品な家族連れでにぎわっており,その婦人は今では,エホバの証人として認められ,エホバに仕えることができるようになりました。

      かけ事に対する欲望を克服する

      「ロテリア・パラ・ホイ!」(「今日の富くじ!」)こうしたかけ声は,ラテンアメリカの諸都市の街頭で実によく聞かれます。もちろん,かけ事の好きな人が手を出すのは,富くじに限りません。トランプとかフットボール,競馬や犬のレース,それに,やはりかけのできる闘鶏があります。家賃を払ったり,家族のために食料や衣類を買ったり,あるいは医料費を出せなかったりしても,そういう人はなおかつ,かけ事への誘惑に負けてしまいます。

      “かけ事は病み付きになる”といわれているぐらいですから,それほど強力な衝動を押えうる力を持つものがあるでしょうか。教会自身とばくを奨励しているのですから,「教会の影響力を強化する」といっても答えにならないのは明らかです。

      ここでもやはり,個人に影響力を及ぼす神のことばが,自由を得させる力となります。とばくは強奪であり,どん欲や怠惰に根ざし,さらには風紀を乱して,しばしば他の悪行に誘う,というのが真実です。神の是認を得たいと望む人にとって,それらすべてが神によって非とされていることを知った上でそうした望ましくない習慣を捨てようと決意するのは難しくありません。―コリント前 6:9,10。箴言 21:25。

      パナマのパロ・セコらい病村に住む,ひとりのらい病患者の場合は,その一例です。その人は富くじを買うことにつかれていましたが,しばらくのあいだ聖書を学んだ後,その悪癖を克服し,神のご意志を行なう決心をしました。

      英領ホンジュラスで,とばくをしたり,富くじの販売をこととしていた,別の人の経験があります。その人は聖書研究をして,その教えを生活に適用しはじめると,とばくも富くじの販売もやめ,さらには,ことばづかいを変え,行状の他の面をも改めました。

      すべての面で正直になる

      今日,うそをつくのはごくあたりまえのこととなり,一般にも認められているため,多くの人々はあたかもそれが正しい行為であるかのようにうそを言います。結婚相談員すらこの傾向を擁護しています。コロンビアのクロモス誌に掲げられた「結婚生活におけるうそ」と題する一記事の中でその執筆者は,「うそは…結婚生活をうまく営むために欠かせない」と述べています。彼は自分の確信の裏づけとして,「人間関係においては,善良さとうそが一千の真理よりも価値がある」という,ある有名人のことばを引用しました。

      うそをつくことと関連しているのは盗みです。そしてこのふたつは不正直の表われです。世界各地で,他人の所有権をはなはだしく軽んずる傾向が見られます。人々は昼間でさえ家を留守にするのを心配します。だれかが押し入り,家財道具いっさいを取ったうえ,いやがらせに窓へ「貸家」の広告をはったりなどはしないかと,恐れねばならないありさまです。

      偽善的な宗教組織が,教えや模範を通して,一般の人々を堕落させてきたとは言え,神の強力なみことばは現在,それを生活の中に取り入れる人には逆の影響を及ぼしています。それらの人々は,「互いに偽りを語ってはならない」,「汝盗むなかれ」などの,聖書の明白な命令には全く妥協の余地がないことを知っています。―コロサイ 3:9,新。出エジプト 20:15。エペソ 4:28。

      カリフォルニアのあるエホバの証人は,中学校で正直さをためされるような経験をしました。彼女が教室に向かって廊下を歩いていた時,走っていたひとりの少女がさいふを落したまま気がつかずに行ってしまうのを見ました。エホバの証人は,そのさいふを拾って少女のあとを追いかけましたが,追い付けませんでした。生徒の中にはお金を自分のものにしないのは愚かだと言う者もいましたが,彼女はそのさいふを学校の事務室へ届けました。まもなく,彼女の両親は校長から次のような手紙を受け取りました。

      「このような手紙を私が書くのはたいへん珍しいことです。お宅のお嬢さんのデボラさんはバンガード中学校の校庭でさいふを拾い,中にはいっていた5ドルもそのまま事務室へ届けました。こうした正直さは,ご家庭での良い教育の表われです。……このようにりっぱで正直なお嬢さんを持っておられるご両親にお祝いを申し上げたいと思います。……そしてまた,おふたりが親として,お嬢さんをそのように良い人間となるよう教育しておられることに感謝いたします」。その少女は,「わたしがすべての面において公正で正直なのは,もっぱら家族の聖書研究のおかげです」と語っていますが,たしかにそのとおりです。

      自由を得させる神のことばの真理は,魔術の助けを借りて盗みを働いていた,ザンビアに住むひとりの男の人を大きく変化させました。エホバの証人と聖書を学んだその人は,ある日,研究が終わるとこう言いました。「エホバの代表者であるあなたに,わたしの家にあるものをお見せしたいと思います」。それから彼は英国製の腕輪やネックレスを見せて次のように語りました。「わたしはあなたといっしょに働いていた店で,あなたに見られないように盗みをするために,このネックレスを使うんですよ。わたしは今では,悔い改めています。これらのものをあなたに上げますから,わたしのかわりにこわしてください」。これはその人が妻とともに家庭聖書研究を始めてから,わずか4か月後に起きたことでした。

      罪と死からの自由

      さて,「真理は汝らに自由を得さすべし」と言われたイエスは,どれほどの規模に及ぶ自由のことをさしておられのか,という前述の質問はどうなりますか。ヨハネ伝 8章33節から36節にしるされているイエスのことばからその答えが得られます。その時イエスが語りかけておられた人々の中には,彼が自分たちになぜ自由になることについて話すのか理解できない人がいました。その人たちは憤慨して,「われらは……いまだ人の奴隷となりしことなし」と答えました。しかしイエスは彼らに言われました。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷なり」。

      ですから,イエスが語られた自由には,罪からの自由も含まれていたことがわかります。それは,死からの自由をも意味しています。なぜなら「罪の払う価は死」だからです。―ロマ 6:23。

      このことは否定できません。わたしたちが死んで行く状態は,わたしたちが罪の奴隷であることを証明しています。南アメリカのいわゆる「解放者」,ボリバとサン・マルチンが現在この世にいないという事実は,彼らもまた罪の奴隷であり,したがって,キリストの犠牲とキリストの語られた真理によってのみもたらされる解放を必要としていたことの証拠です。

      「真理の柱および土台」

      エホバ神はご親切にも,みことばである聖書を通して真理を備えられました。しかし,そのほかにも「生ける神の会衆,真理の柱,および土台」を備えておられます。この備えを通して,あなたは聖書の真理の力を生活に及ぼさせるよう助けられるのです。―テモテ前 3:15,新。

      あらゆる主張にもかかわらず,事実は,キリスト教世界の諸宗派のどれ一つとして,「生ける神の会衆」を構成していないということを証明しています。なぜなら,キリスト教世界の諸宗派は真理を支持するどころか,例外なくそれを隠しているからです。その理由で神は彼らを滅びに定められており,したがってあなたに,「彼らの中から出てゆき……なさい」と命じておられるのです。―コリント後 6:17,新。ロマ 1:18,25。テサロニケ後 2:9-12。

      他方,「生ける神の会衆」すなわち「真理の柱および土台」は,「エホバの証人」という名前で知られるクリスチャンの組織であることをいろいろな事実が証明しています。全世界で,エホバの証人は,真理によってのみもたらされる自由を得るよう,いく百万人もの人々を助けています。このわざは,無償の家庭聖書研究と,教訓的な集会を通して行なわれます。その集会では,神のことばを無料で学ぶことができます。あなたも,証人たちの奉仕からぜひ益を受けてください。もよりの会衆の住所をお知りになりたいかたは,どうかものみの塔協会の支部に問い合わせてください。住所はこの雑誌の表紙の裏に記載されています。それは,あなたが,「神の子たちの栄光ある自由」を味わうための,たいへん重要な一歩を歩みはじめたことになります。―ロマ 8:21,新。

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