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    ものみの塔 1960 | 8月1日
    • の故に,彼らは実際に新しい世の社会です。彼らが他の人々と非常にことなるのは,この簡単な事実によるのです。新しい世に対する彼らの信仰は消極的なものでなく,積極的なものです。それは生ける信仰で,彼らは信ずることを活発に行いにあらわします。そのわけで,彼らは家々を訪問して,その希望を家の人々に語るのです。この行ないをする彼らは,現在に対する預言の一つを成就する特権にあずかつています,「御国のこの良いたよりは,すべての国民に証をするため全世界に伝道されるであろう。それから全き終りが来るのである」。(マタイ 24:14,新世)しかし,新しい世に備えて生活するということは,単に新しい世について伝道すること以上のものがある,と彼らは知つています。新しい世に備えて生活するということは,あらゆる事柄において,新しい世をつくられる御方の正義の原則に一致して生活するということです。そして,これらの原則は,両親も子供も,雇い主も従業員も,働きの時も遊びの時も,人間のすべての活動を制御しなければなりません。

      12 この世は新しい世の生活に変化する人々を,どのように見ますか。しかし,私たちは何を記憶すべきですか。

      12 そのような道をとる者たちにとつては,それは大きな変化を意味します。しかし,良い方にむかう変化であることはたしかです。しばしば,そのような変化は誤解されます。この世は,一組の原則と考えにより制御され,新しい世は別の原則,すなわち神の原則と目的により制御されます。私たちが後者に従うと,この世はそれを奇怪なものと考えます。私たちはもはや彼らの考え方や行動に従いません。かつて友と思われていた人々から敵視され,反対をうけるようになるでしよう。イエスはこのことを経験しませんでしたか。使徒ペテロは,次のように書きませんでしたか,「今はあなたがたが,加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしつている」。(ペテロ前 4:4,新口)しかし,クリスチャンの生活の目的は,第一に神をよろこばすことです。それですから,あなたにとつて大切なことは,「どのように歩いて神を喜ばすべきかを」知ることです。―テサロニケ前 4:1。コロサイ 1:10。テサロニケ前 2:4,新口。

      13 キリスト教の始まつたとき,人々はどのように類似の問題に面しましたか。

      13 正義の新しい世で神の御手から生命をいただきたいと誠実に願うなら,基礎的な行動の原則のいくらかを注意深く考慮することは,益のあることです。神は,今日御自分の恵みと祝福の側に集めて,新しい世の社会として一つの群れに集めている者たちに,そのような行動の原則を守るよう要求せられています。あなたがくださねばならぬ決定は,キリスト教の始まつた時代に生活していた人々が直面した決定に類似しています。彼らは使徒たちの伝道した真理に始めて接しました。そして,まわりの国々の道に従つて以前から行なつてきた道に進みつづけるか,あるいは創造主との良い関係に入るためには,必要な変化をしなければならないか,そのどちらかの選択をすることが必要でした。

      新しい世の生活の原則

      14,15 どんな道から離れよと,パウロはエペソのクリスチャンたちに告げましたか。

      14 (西暦)60年か61年頃,使徒パウロはエペソにいたクリスチャンたちに手紙を書きました。彼らが伝道された真理のことを聞く以前に,初期会衆の成員たちは他の諸国民と同じような生活をしていました。しかし,その種類の生活は,神をよろこばすものでありませんでした。それで,パウロは彼らに次のことを書き送つたのです,すなわち彼らは「今後,異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり,その内なる無知と心の硬化とにより,神のいのちから遠く離れ,自ら無感覚になつて,ほしいままにあらゆる不潔な行いをして,放縦に身をゆだねている」。―エペソ 4:17-19,新口。

      15 そのような生活の仕方は,キリスト・イエスが残した模範的な生活の仕方でしたか。絶対にそうではありません,「しかしあなたがたは,そのようにキリトスを学んだのではなかつた。あなたがたはたしかに彼に聞き,彼にあつた教えられて,イエスにある真理をそのまま学んだはずである。以前の生活に属し,その惑しの欲にしたがつて腐敗して行く古い人格を脱ぎすてなさい。しかし,あなたの心に働きかける力によつて新しくされ,神の御心にしたがい,まことの義と愛に満ちた親切のうちにつくられる新しい人格をつけなさい。」― エペソ 4:20-24,新世。

      16 パウロは,エペソ書 4章25節でどんな基礎的な原則を論じていますか。

      16 それから,使徒は諸国民が行なつている悪い事柄のいくらかを述べています。クリスチャンは,もはやそのような事をしてはなりません。もし私たちが初期クリスチャンたちの模範に従い,神をよろこばして神の是認をうける生活をしたいと欲するなら,この組織制度の終りの時に住む私たちにとつてパウロの言葉は極めて大切なものです。最初に,エペソ書 4章25節には,偽りを捨てた私たちは「おのおの隣り人に対して,真実を語りなさい」と書かれているのに気づきます。それより幾百年ものむかし,エホバは預言者ゼカリヤ(第8章16,17節)を通して同じ原則を述べられました,「なんぢのなすべき事は是なり汝らおのおのたがいに真実を言べし又なんじらの門にてさばきする時は真実をとりて平和のさばきをなすべし汝らすべて人の災害を心にはかるなかれ偽の誓を好むなかれ是らはみな我がにくむものなりとヱホバ言たまふ」

      17,18 (イ)この古い世の人々は,不正直をどのように見なしますか。(ロ)人々がうそを言う理由のいくらかは何ですか。

      17 うそをつくこと,あざむくこと,盗むこと,かたることなどを含む不正直は,この世界で一般的にひろく行なわれてはいませんか。あらゆる年齢,あらゆる生活階級のなかに不正直は見られます。子供たちは自分のした悪事が見つからないようにするためうそを言います。しかし,大人たちも商売とか,借金や負債の責任を避けるため,あるいは何かの悪事をかくすために,たがいどうし不正直であることを示します。このため人々はおたがいを信用しなくなりました。他の人々が不正直をするから,自分も不正直をしても良い,とある人々は言います。しかし,もし私たちが正しいことをしたいなら,私たちは,もはや「異邦人がむなしい心で歩いているように」歩くことはできません。

      18 人々がたがいに正直でなく,うそやあざむきを行なう理由はたくさんあります。前にも述べたように,その一つの理由は何かの悪行に対する罰を避けることです。恐れは多ぜいの人に強力な影響をおよぼし,うそを言う基礎的な理由のひとつです。ある国々では,人々は死んだ先祖の「霊」を恐れるように育てられています。そして害を避けるためにはこれらの「霊」をあざむくことが必要であると子供の時から教えられます。このことを信じている者たちは,そのような目的のためにうそをついたりあざむいたりすることは悪くないとしばしば考えます。しかし,そのような考えが人の良心を害し,そして,仲間の者と交渉する際には,偽りを語らずに真理を語る能力が弱まることはたしかです。ある人は次のような態度を取ります,すなわちうそは見つかれば悪いが,うまく行くならうそを言う人は「利口」で,ほめられるにす値ることをした,というような考えです。これは善悪が何であるかについて全くまちがつた考えです。またある人々は誇りの気持からうそを言います。全くのところ,ある人々はその全生涯中うその生活をなし,実際の状態とはちがう者である振りをします。そして,自分の主張を裏づけるため自分に都合の良い偽りの話をつくり上げることが必要です。またある人々は意識的なうそをついてあざむいたりだましたりします。それは他の者以上におおくの利得を得て自分の利己的な益をはかるためです。

      19 新しい世の社会内には,なぜうそとか欺きがあつてはなりませんか。

      19 神の御言葉の真理を学ぶとき,人は不正直の行ないをことごとく脱ぎすてねばなりません。恐れのかわりに愛を持たねばなりません。すなわち,エホバとエホバの原則に対する愛,およびクリスチャン兄弟たちに対する愛を持つべきです。先祖は墓の中に全く死んでおり,「霊」としてどこかに生きているわけでない,ということを学ぶとき,以前このような信仰を持つていた人々は霊を恐れたり,霊をあざむく必要をもはや感じないでしよう。クリスチャンは,神をあざむくことはできないと知つています。他の人間をあざむいて,うそをつく努力をしようとも,心の最奥の考えを見られるエホバをあざむくことはできません。エホバから否認されることは,災にみちる結果にみちびきます。うそをつく別の原因であるほこりは,神の憎み給うものです。しかし,神は謙遜を是認します。それで,ますます増加する神の新しい世の社会内には,あざむき,うそ,そして他の形式の不正直というようなものが存在してはなりません。―コリント前 4:5,テサロニケ前 2:4。使行 5:3-5。ミカ 6:8。ヨハネ第一書 4:18。マタイ 22:37-39。シンゲン 16:5。

      いろいろの関係において正直

      20 エホバの証者の間には,信用と確信がありますが,彼らは何に対して警戒するべきですか。

      20 それで,いまこの世界の諸国家から集められてエホバの羊のひとつの「群れ」になつている者の中には,古い世の社会の不信とか疑いはなく,その代りに信用と確信があります。たしかに,神の御言葉の原則は人々の生活を変化させており,彼らは恐れの気持を抱かずにクリスチャン交際を楽しむことができます。古い世にいる人々の交際にはこの恐れの気持が影響を及ぼしているのです。しかし,それは次のことを意味していません,すなわちエホバの証者はだまされやすく,あざむかれやすい人々,そしていわば誰でも彼でも見るだけですべての人を信ずる,というわけではありません。エホバの証者は分別のある注意を払い,悪企みを持つ人と交渉するときは警戒を払います。悪企みを持つ人は,個人的な利益をはかるためとか,新世社会内に行なわれている親切や信用を利用しようとするため,エホバの証者との交際を求めようと徐々に入りこんでくるのです。悪い計画を持つそのような人は,そのわざにより,心の中では真理と正義を愛する者でない,と示します。そして,円熟したクリスチャンは,それらの者の偽善的な擬装をすぐに見破つてしまいます。―マタイ 7:20。

      21 正直の原則は,商売しているクリスチャンにどのように適用しますか。

      21 自分の商売をしている人についてはどうですか。クリスチャンであるその人は,他の人々と競争し合うため,あざむきの手段を行なつて,自分の収入を増加させるのは正しいことでしようか。次の聖書の原則はその質問に対して全く要点をついたものです,「あなたがたは,さばきにおいても,物差しにおいても,はかりにおいても,ますにおいても,不正を行つてはならない。あなたがたは正しいてんびん,正しいおもり石……を使わなければならない」。それで,クリスチャンの商人は,不正直な利益を得るために,代金に対する品物の分量をすくなくしてお客をだましたり,あるいは仕事の質を悪いものにしないでしよう。同じく,その人は従業員との交渉でも公正にまた正直に行なうでしよう。―レビ 19:35,36,新口。コロサイ 4:1。

      22 この記事は,どんな目的のために掲載されていますか。

      22 しかし,それは次のことがらを意味するものではありません。すなわちクリスチャンはそのような事の裁判官であるかのように,他の人々のところに行つて,その商売の仕方を告げる権利を持つ,ということではありません。ここに書かれている記事の目的は,この世の人々に生活の仕方を告げることではありません。ここに述べられているものは,クリスチャン生活を支配する原則に過ぎないのです。それですから,異邦人のしている生活の仕方を止めて,新しい世の正義に一致する生活をしたいと欲する人は,この記事から援助を受けることができます。

      23 人は自分の仕事にどのように不正直であり得ますか。そして,どんな最も重要な理由のゆえに,クリスチャンは熱心に働かねばなりませんか。

      23 正直についての同じ原則は,雇主と雇人の関係にも同様に適用します。同意した賃銀で,ある人のために働こうと約束するなら,その約束を尊重しなければなりません。もしなまけ心をいだいているため割当ての仕事をしないなら,それは実際にはある種の不正直ではありませんか。また,雇主のために働くと同意しておきながら,賃銀をもらう時間を別の目的に使うなら,それは不正直でしよう。たとえ,そうすることが自分自身と他の者にとつてもつと興味深いものであり,益のあるものであると感ずるような場合でも,それは不正直であります。雇主に知らせないで,そして雇主の許可なしに,時間をこのように使用することは,約束に対して不忠実であります。正直で熱心に働く人は,尊敬とよい名声を得ます。(テサロニケ前 4:11,12)クリスチャンの従業員または僕は,自分の仕事を良く行ないます。人々をよろこばせようとか,人々の是認を得ようとするためではなく,そうすることは正しいことであり,正直なことであり,そのようなことはエホバをよろこばしてエホバから報いをうけると知つているからです。パウロはエペソ書 6章5-8節(新世)で次のように書いています,「あなたがた奴隷たち,キリストに従うように,恐れおののきつつ,真心をこめて,肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく,キリストの奴隷として心から神の御旨を行い,人にではなくエホバに仕えるように快く仕えなさい。あなたがたが知つているとおり,だれでも良いことを行えば,それに相当する報いを,それぞれエホバから受けるであろう」。―コロサイ書 3章22-25節と比較しなさい。

      24 さらに新しい世の生活のどんな原則はエペソ書 4章28節に述べられていますか。

      24 使徒は,エペソ書 4章(28節)の中で新しい世の生活についての別の規則を述べています,「盗む者は,今後盗んではならない。むしろ,困つている人に分け与えることができるようにするため,いつしようけんめい働いて,手ずから良いわざを行なうようにしなさい」。盗むということは,自分の権利に属さないものをひそかに,人に見られずに取りさることです。夜,留守の家に入つて,金銭とか衣服のような品物を持ち去ることが盗みであると理解するのは容易です。しかし,家の使用人として働いているときとか,あるいは商売の事務所または工場で働いているときなどに食物,材料あるいは装具を取りあつかうときはどうですか。そのようなものを自由勝手に持ち去つても良いですか。

      25 ぬすみをふせぐためどんな質問をすることができますか。

      25 ある国々の村社会の習慣によると,旅行者はその村を通る時,ある食物を自由に食べても良いことになつています。そうすれば,旅行者は元気を回復して旅行をつづけることができます。これは思いやりのある習慣であつて,賞賛に値するもてなしを示します。その村の人々はみなこの習慣のことを知つており,たとえ旅行者が所有主のいないときに食物を食べても,それを盗みとは決して見なしません。この習慣は,ユダヤ人の律法下にあつた見知らぬ人,旅行者あるいは貧乏人に対する準備を思い起させます。(レビ記 19章9節と10節を見なさい)しかし,習慣は変ります。この習慣はまだある田舎で行われていますが,現代文明の大都市では一般に行なわれていません。それで,それぞれの状況に適応することが必要です。盗みか,盗みでないかを安全にきめるものは,「私はこれを取る権利を持つているか」と自問することです。すなわち「私はこの食物や材料の所有主からそれを使用して持ち去る許可を有しているか」と自問することです。もしもそれが雇主の所有物であるなら,次のように尋ねることもできます,「もし雇主がここにいて,私がそれを持ちさるのを見るときでも,私はこれを持つて行くだろうか」もし,これらの質問に対する答が「いいえ」という否定のものであるなら,それを持ちさることは盗みである,と知ります。

      26 正直にそして熱心に働く人は,何をすることができますか。

      26 使徒の助言に従い,クリスチャンはいつしようけんめいに働き,手ずから良いことをなし,悪を行なつてはなりません。正直であると共に勤勉でもなければならず,十分の食物を得るために盗みをしてもなりません。クリスチャンは自分自身の必要物を備えるだけでなく,結婚しているなら自分の妻と子供たちの必要物を備えなければなりません。それだけでなく,思いもよらぬ損失や災害を受けた会衆内の仲間の不幸なクリスチャンたちをたすけることが必要です。また,会衆の資金に寄付をすることも必要です。それは会衆の必要な出費をまかない,その地で神の御国の良いたよりを伝道するわざを拡大するためです。

      27,28 (イ)人々は金銭を借りるときは,どのように不正直ですか。(ロ)借りても返済しようとしない者たちについて聖書は何と述べていますか。(ハ)クリスチャンは,どんな良い性質をつちかうべきですか。どんな悪い性質を捨てねばなりませんか。

      27 この古い組織制度には,利己主義が満ちています。人々は,生活に対する態度のなかにこのことを示します。なるべくわずかのものを与えて,できるだけ多くのものを得ようとつとめているのです。政治的な指導者や宗教的な指導者は,この利己主義に訴えてそれぞれの特定な制度の支持を得ようとしています。この利己主義は,金銭を借りるときは急いでしても,返済するときはおそいという人々の態度に見られます。多くの場合,借りる人は返済しようとする気持をもちません。ある人々は,金持ちから金を借りて返済しなくても,それは別に悪いことではない,金持ちはお金に不自由しないのだからと言つてこのことを正当化しようとつとめます。借金を返済しないために,なんと多くのけんかや争いが起きているのでしよう! そのわけで詩篇 37篇21節は次のように述べているのです,「あしき者はものかりて償はず」。

      28 エホバは悪い者たちを祝福しません。エホバは,利己的なもの,貪欲なもの,得ることだけに興味を感じても他のものにはできるだけすこししか与えない,というような者たちを祝福しません。新しい世の生命を望む者たちは,利己主義よりも愛をつちかい,貪欲の精神よりも与える精神をつちかわねばなりません。クリスチャンは,物質の持物を殖やすために負債をするということをせず,むしろ必要なもので満足し,正直にいつしようけんめい働いて必要ななものを得ようとします。使徒パウロは,兄弟たちに無用な重荷を課せないように注意深く行ないました。彼は,使徒というその立場を用いて仲間のクリスチャンたちから物質的な利益を得ようとしませんでした。彼は「金銀」をむさぼらなかつたのです。全時間の使徒であつた彼は,会衆からの援助を感謝しました。その援助によつてパウロは全時間を宣教にささげることができたのです。しかし,この自発的な援助が来ないときは,パウロは手ずから天幕づくりの仕事をして自分の物質的な必要物をまかないました。―使行 20:33,34; 18:3。テサロニケ前 2:9。

  • 神の新しい世に備えて生活する益
    ものみの塔 1960 | 8月1日
    • 神の新しい世に備えて生活する益

      1 ヤコブとパウロは,怒り,あらそい,そして舌の悪用について何と述べていますか。

      今日のこの世の人々は,すぐに怒つて自分の気持を抑えられないということは,真実ではありませんか。この結果しばしば荒々しい乱暴な言葉,きたない不潔な言葉が出てくるようになります。その種類の話しは,他の人に対する親切と思いやりの不足を示し,私たちのまわりにある悪い状態に属する苦々しさ,しつと,そして争いを表わし示します。それで,聖書を書いたヤコブは,次のように問うています,「あなたがたのうちで,知恵があり物わかりのよい人は,だれであるか。その人は,知恵にかなう柔和な行いをしていることを,よい生活によつて示すがよい。しかし,もしあなたがたの心の中に,苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら,誇り高ぶつてはならない。また,真理にそむいて偽つてはならない。そのような知恵は,上から下つてきたものではなく……ねたみと党派心とのあるところには,混乱とあらゆる忌むべき行為とがある」。(ヤコブ 3:13-16,新口)そのわけでパウロがエペソ書 4章29-32節(新口)で次のように語つているのも当然であります,「悪い言葉をいつさい,あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば,人の徳を高めるのに役立つような言葉を語つて,聞いている者の益になるようにしなさい。……すべての無慈悲,いきどおり,怒り,騒ぎ,そしり,また,いつさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く,あわれみ深い者となり,神がキリストにあつてあなた方をゆるして下さつたように,あなたがたも互にゆるし合いなさい。」

      2 一瞬のあいだ激怒に襲われるとき,どんな助言に従わねばなりませんか。

      2 両親が子供に対する場合とか,クリスチャン監督が会衆内の者に対する場合のように,矯正やしかることが必要なときでも,その話しは抑制されない気持を反映してはなりません。一瞬のあいだ激怒に襲われるとき,怒りがさめるまで,そして正しい釣合を保ちつつその事柄について語れる時まで黙つているべきです。そのような状態のときには,「語るにおそく」あるべきです。また「憤りやすい者は争いをおこし」ということを記憶すべきです。神の是認を得るためには,私たちは平和のうちに生活し,平和の者でなければなりません。なぜなら,「平和をつくり出す人たちは,さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」。―ヤコブ 1:19。シンゲン 15:18。マタイ 5:5,新口。

      3,4 新しい世の社会内にあつてはならぬ他のいくらかのものは何ですか。

      3 悪いもの,間ちがいのものに対して義憤を当然に感ずる時があります。エホバと善を愛する故に,またエホバの御名と民に非難があびせられるのを見て心の動揺を感ずる故に義憤を持つことがあります。しかし,その義憤を感ずることは,個人的な誇りの気持が傷つけられたためか,他の人に憎しみの気持を持つために怒ることとはちがうものです。また,自分のした悪が見つかるのではないか,という恐れをつつみかくすことともちがいます。

      4 神の民の生活についての神の取り極めは,平和にみちたもの,秩序のあるものです。それに反対の働きをするものは,新しく形成されている新しい世の社会内に存在することができません。すると,闘争とか泥酔(これはしばしば争いをひきおこす)は,新しい世の生活の一部ではないという意味になります。―ロマ 13:13。

      結婚と道徳行為に対する原則

      5 どんな目的のために神は両性をつくりましたか。性交の特権には,どんな制限が課せられましたか。

      5 神が男と女をエデンの楽園に最初置いたとき,この両人が子供を産んで殖え,人々の社会をつくり,ついには正しい人種で全地がいつぱいになる,というのが神の目的でした。子供を産むことができるようにするため,神は両人を創造したとき,生殖の能力をふたりに与えました。そのわけで神は,男性と女性の二つの性をつくられたのです。男と女が性交をするとき「その類に従つて」子供を産みます。両人がこれをすることは正しいこと,正当なことであり,それには恥ずかしいことが一つもありません。それですから,それは両人にとつて快い経験になるはずでした。しかし,この性交の特権を行使することについて,神は特定の制限を設けられました。それは,結婚の取り極めだけで行なわれるものです ― すなわち,夫は自分の妻だけと行ない,妻は自分の夫だけと行なうものです。

      6 (イ)一夫多妻がイスラエル内で行なわれたのは神の目的でしたか。(ロ)マタイ伝 19章4-9節でイエスは結婚と離婚について何と言われましたか。

      6 しばらくのあいだ,神はイスラエル人が一夫多妻主義を行なうことを許しました。しかし,これは彼らに対する神の目的ではなく,またこの行いをするよう神は彼らに命じたのでもありません。結婚が設立された最初のとき,神はアダムにひとりだけの妻を与えました。後日,イエスはユダヤ人の行なつていた一夫多妻と離婚について,次のように言われました,「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ,そして言われた,それゆえに,人は父母を離れ,その妻と結ばれ,ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや,二人ではなく一体である。だから,神が合わせられたものを,人は離してはならない」。彼らはイエスに言つた,「それでは,なぜモーセは,妻を出す場合には離縁状を渡せ,と定めたのですか」。イエスが言われた,「モーセはあなたがたの心が,かたくななので,妻を出すことを許したのだが,初めからそうではなかつた。そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて,自分の妻を出して他の女をめとる者は,姦淫を行うのである」。―マタイ 19:4-9,新口。

      7 (イ)男または女は,誰とのみ性関係を持つことができますか。(ロ)再婚をゆるす離婚の唯一つの理由は何ですか。

      7 結婚に関連する聖書の原則は,実際にはきわめて簡単です。クリスチャンの男は,ひとりだけの生ける妻を持つことができ,クリスチャンの女は,ひとりだけの生ける夫を持つことができます。夫は自分の妻だけと性関係を持つことができます。しかし,他の女と性関係を持つてはなりません。妻は自分の夫だけと性関係を持つことができます。しかし,他の男と性関係を持つてはなりません。ふたりは一体になりました。もし,結婚配偶者のひとりが死ぬなら,それはもちろん結婚を終結させ,生き残る者は再婚することができます。(ロマ 7:2,3)しかし,両人が生存しているあいだ,再婚をゆるす離婚の唯一つの聖書的な理由は,男か女のどちらかが結婚の制限外に出て,他の者と性関係をむすび,そのものと一体となつて姦淫を犯したときです。結婚している者が,結婚配偶者以外の者と性関係をむすぶことは,結婚についての神の律法を破つてけがすことです。(ヘブル 13:4)それで,不姙,宗教のちがい,病気,残酷な取扱い,その他の理由で結婚を終結させることは,聖書の許すところではありません。それらの理由で離婚ができても,その人は再婚する聖書的な自由を持つていません。それですから,もしその人が再婚するなら,それは姦淫を犯すことです。

      8 未婚の者あるいは婚約している者は,どんな道を守らねばなりませんか。

      8 性関係は結婚の状態下の時だけに許されています。すると,未婚の者は性関係を結んではならないということになります。結婚を同意した人々,すなわち婚約している人々は,その行動に気をつけて正しい抑制を行使し,結婚後に親密な肉体関係をむすぶ時まで待たねばなりません。その関係は,結婚の状態下の時だけに正しくむすんでも良いものです。未婚の者あるいは独身者が行う不正な性関係は,淫行であり,エホバ神により罪に処せられます。そのわけで,パウロは古い世とその道に背を向けたエペソ人に次の言葉を書いたのです,「不品行といういろいろな汚れ……を口にすることさえしてはならない……あなたがたは,よく知つておかねばならない。すべて不品行な者,汚れたことをする者,貪欲な者,すなわち,偶像を礼拝する者は,キリストと神の国とをつぐことができない」。―エペソ 5:3-5,新口。

      9 この世が結婚についての神の原則を尊重しない結果は何でしたか。新しい世の社会は,悪行からどのように清さを保ちますか。

      9 この古い世は,結婚についての神の正義の原則を尊重していません。そのためあらゆる種類の問題をひきおこしました。すなわち,結婚の破壊,家庭の破壊,両親の注意と訓練および模範が足らないために子供たちが悪化することです。結婚が神の律法と一致存在している神の新しい世で生命を得たいと欲する人々は,結婚についてのこの世の悪い道を真似ることができません。新しい世に備えて生活している人々は,現在この世に生活していますが,結婚と道徳行為についてのエホバの原則に従わねばなりません。そのわけでクリスチャン会衆がその交わりを清い状態に保つことに注意を払うのは正しいことであり適当なものです。そして,そのような悪行を意識的に行なう者を会衆から排斥することは正しいことです。―コリント前 5:11,13; 6:9,10。

      10 法律に従つて結婚を登記することは,なぜ適当ですか。

      10 結婚は重大なことであり,結婚の権利と特権の濫用をふせぐため,男と女の結婚を正しく登録して,社会から認められることは適当なことです。多くの国では,結婚は地方の政府局に登記され,正式に知られるものとなります。そして,夫婦は結婚証明証をもらいます。

      11 円満な結婚の基礎は何ですか。家族が聖書の原則に従つて生活するためには,どんな変化が必要ですか。

      11 円満な結婚の基礎は,愛であつて,肉欲の利己的な満足ではありません。ある社会では,男は女をずつと劣つた者と見なし,極端なところでは妻を援助者あるいは伴侶と見なすよりも,むしろ財産の一部のように見下すのが習慣です。そのような環境の下では,神の意図された結婚生活で,互に生活を共にするということがないでしよう。新しい世の生活の要求に従うことは,結婚と結婚配偶者の責任に対する態度が全く変化するという意味です。夫は妻が奴隷でなく,家の召使いでないと認めなければなりません。妻も夫と同じく生命の祝福をエホバ神からいただくことができます。そして彼女の崇拝と奉仕は,夫と同じく,エホバに認められるもの,よろこばれるものです。夫と妻の両方が新しい世の希望について学ぶとき,両人は互に参加し合うもの,いつしよに働き合うものを持ちます。夫は自分の妻を励まし,夫婦の持つ希望とクリスチャンのわざについて妻と共に語ります。夫は自分のこの世的な友といつしよにいるために妻を無視するというようなことをしません。むしろ,自分の妻や子供たちと共に家族として生活する仕方を学ばねばならない,そして家庭での聖書研究や神の真の崇拝ということについて家族を訓練しなければならない必要を認めます。一方,妻は自分の夫に対して愛と正しい尊敬を示し,「エホバのこらしめと権威ある助言」に従つて子供をそだてることにおいて夫と協力します。このようにして,夫と妻および子供たちは,愛と理解,親切と援助の中にかたくむすばれ,新しい世に備えて共々に生活し働きます。―エペソ 5:22,23,28,33; 6:1-4,新世。

      12 なぜ今日のクリスチャンが「信仰のために激しく戦う」ことは必要ですか。

      12 この悪い世界ではあらゆる種類の不道徳が今日行なわれています。未婚の青年男女間の不身持の性関係,結婚している男と女が他の者と性関係をむすぶこと,またある場合では夫婦同志がその利己的な欲望をみたすために妻と夫を交換することを同意します。ある人々の心は非常に悪いものであつて,偽りの宗教的な教えという仮面の下に他の人々をあざむいて悪い行いをさせようとしています。それらの事柄は,みな悪いもので結婚についての神の原則を破ります。それで,使徒が次のように書いたのは当然であります。すなわちそのような人々は「知力は暗くなり……神のいのちから遠く離れ,自ら無感覚になつて,ほしいままにあらゆる不潔な行いをして,放縦に身をゆだねている」。(エペソ 4:18,19,新口)そして弟子のユダは,そのような人々のうちのある者が『しのび込む』だろうと,神の民に警告しています。「不信仰な人々がしのび込んできて,わたしたちの神の過分の御親切を放縦な生活の言訳にする」,そしてユダは,手紙を書き送つたクリスチャンたちに「信仰のために厳しく戦うことを」すすめています。―ユダ 3,4,新世。

      13 悪が全く清められた時に地上に存在する状態を述べなさい。

      13 地がそのような悪行から永久に清められる時は,なんと祝福された時でしよう。そのとき,正直と忠実および実直は栄え,うそ,盗み,そしてあざむきはもはやないでしよう。そのとき,人々は互に確信と信頼をもつて交渉し合い,疑いとか疑惑の念を持つことはないでしよう。そのとき,怒り,戦い,そして乱暴な言葉と荒々しい音はなくなり,愛,親切そして思いやりのおだやかで幸福な雰囲気を楽しむでしよう。家族の生活は道徳的に清いものとなり,子供たちは愛情と健全な訓練のうちにそだてられ,楽園の地の祝福を楽しむでしよう! それは現在の世界となんとちがうものでしよう! 黙示録 21節3,4節(新口)は,その時について次のように述べています,「見よ,神の幕屋が人と共にあり,神が人と共に住み,人は神の民となり,神自ら人と共にいまして,人の目から涙を全くぬぐいとつて下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去つたからである」。

      14,15 (イ)なぜ神の約束する新しい世に備えていま生活することを選ぶのは賢明ですか。(ロ)もし新しい世に備えて生活したいと欲するなら,私たちはペテロとパウロの述べたどんないましめに従わねばなりませんか。

      14 そのような世で生活することを欲しませんか。もしそうなら,あなたはいまその新しい世に備えて生活し始めたいと欲するでしよう。この古い世の事柄に時間と精力の全部を傾けて,いつたい何が得られますか。賢明な人ソロモンは,その質問に対してこう答えました,「そもそも,人は日の下で労するすべての労苦と,その心づかいによつてなんの得るところがあるか。そのすべての日はただ憂いのみであつて,そのわざは苦しく,その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である」。(伝道之書 2:22,23,新口)新しい世に備えて生活することは,空になりません。それは真の満足と幸福のうちにおける永遠の生命という報いをもたらします。

      15 諸国家の道に従つて生活することをやめて,新しい世の正義の原則に従つて生活するために残されている時間は短いものです。この道を歩みたいと欲する人について,使徒パウロは次のように書いています,すなわちその人は「肉における残りの生涯を,もはや人間の欲情によらず,神の御旨によつて過ご」さねばなりません。それは極めて積極的な命令です。しかし,いつたい幾人の人はそれを行なつていますか。私はそうしているだろうか,と自問しなさい。使徒は次のように述べて,この教えをさらに強調しています,「過ぎ去つた時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせ……たが,もうそれで十分であろう」。パウロはエペソ人に宛てた手紙の中でその点を指摘しました,「あなたがたの歩きかたによく注意して,賢くない者のようにではなく,賢い者のように歩き,今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから,分別のない者にならないで,エホバの御旨がなんであるかを悟りつづけなさい。」― ペテロ前 4:2,3,新口。エペソ 5:15-17,新世。

      新しい世の生活に変化する仕方

      16 どのようにしてのみ,私たちは新しい世に備えて生活することを学び,そう行ないつづけることができますか。

      16 私たちだけの努力では,古い世の生活から新しい世の生活に変化することができません。使徒の警告の言葉によると,私たちの大敵サタン悪魔は,その悪い霊者なる悪鬼共とともに諸国民をあざむいており,私たちの全部に善事を行なわせず,悪事を行なわせようとつとめています。悪魔のあざむきと罠の全部に打ち勝つ

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