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  • 正しい宗教を見いだせますか
    ものみの塔 1982 | 6月1日
    • 正しい宗教を見いだせますか

      これら様々な宗教すべての起源を知っていれば,どれが正しい宗教かという質問に答えるのが容易になります。真の宗教は,命の真の源に対する古代の反逆にその起源をたどれるような宗教ではないはずです。

      「世界の宗教の百科事典」はこの点で助けになる次のような興味深い注解を述べています。「世界の諸宗教はおおまかに言って二つのタイプに分けることができるかもしれない。預言的な宗教と神秘主義的な宗教である。……預言的なものは[つまるところ]ユダヤ人から[出ている]」。

      聖書の記録によると,ユダヤ人の先祖は命の真の源である方に対するバベルでの反逆に加わりませんでした。ユダヤ人の先祖にはセム,アブラハム,イサク,ヤコブなどの人がおり,それらの人々は神への清い崇拝に固く付き従ったことで知られています。事実,アブラハムは「エホバの友」と呼ばれました。「エホバ」というのは聖書の中で明示されている真の神のみ名です。(出エジプト記 6:3。詩篇 83:18。ヤコブ 2:23)アブラハムのような仕方でエホバを崇拝している人々が今日いるでしょうか。

      真の崇拝者の系譜

      アブラハムの忠実さのゆえに,エホバ神はアブラハムの子孫がやがてご自分の目に特別な国民となることを約束されました。この約束は古代イスラエル人に成就しました。イスラエル人は神が次のように言われるのを聞きました。「もしわたしの声に固く従い,わたしとの契約をほんとうに守るなら,あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである」― 出エジプト記 19:5,新。

      エホバへの崇拝を長年にわたって地上で生きた崇拝として保ってきたのはユダヤ人でした。もっとも,彼らは罪や背教に陥ることがままありました。とはいえ,エホバは人類に救いをもたらす特別な使者を遣わすことをイスラエル人に繰り返し告げておられました。1,500年後に,この方が登場しました。それはイエス・キリストです。

      残念ながら,イエスが来られた時までに,ユダヤ人はエホバから遠く離れていました。依然としてエホバを崇拝すると主張してはいましたが,イエスが幾人かの宗教指導者について語られた次の言葉通りの状態が見られました。「あなたがたは,自分たちの伝統のゆえに神のことばを無にしています」。(マタイ 15:1,6)ユダヤ人はイエスに反対したために,神により退けられました。イエスはユダヤ人にこう警告されました。「神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです」― マタイ 21:43。

      キリスト教

      その「国民」はクリスチャン会衆であることが明らかになりました。その人たちは,ユダヤ人が全体としてイエス・キリストを退けた時に,その方を受け入れ,神はそれら忠節な者をその信仰のゆえに祝福されました。イエスの死後ほどなくして,神はイエスの真の追随者たちに奇跡的な仕方で力を与え,外国語を話せるようにさせました。それも,わけの分からない無意味な言葉ではなく,他の人々の理解できる実際の言語でした。いやしや復活や他の様々な奇跡が,神のお用いになる「国民」が確かにそこに存在するという事実に重みを加えました。―ヘブライ 2:4。使徒 2:1-4; 3:1-10; 9:32-41; 20:7-12と比較してください。

      『でも,キリスト教は今日世界のほかの諸宗教と同じほど混乱しているではないか。自らキリスト教を奉じると唱えるグループは幾百となくあるが,いずれも互いに異なり,矛盾している。どうしてこうした事態が見られるのか』と言われるかもしれません。

      歴史は,多くのクリスチャンがユダヤ人と全く同じ道をたどったことを示しています。それらの者たちも背教したのです。そして,イエスの音信を他の宗教の教理と混合したのです。こうして,キリスト教にもユダヤ人にも起源を持たない,三つの位格を持つ一つの神(三位一体)などの教理が教えられるようになりました。

      こうした教理は実際にはどこに由来しますか。三位一体に関し,一人の学者はこう書いています。「新約聖書のどこにも『三位一体』という語は現われない。この概念はわたしたちの主の死後300年して教会により採用されたにすぎない。そして,この概念の起源は専ら異教にある」。(アーサー・ウエイガル著,「キリスト教に見られる異教の影響」)魂の不滅の教理,広く見られる像の使用,人気の高い占星術,その他なじみの深いキリスト教世界の教えやならわしの多くについても同じことが言えます。それらの起源をたどってゆくと,命の真の源であられる方に対する当初の崇拝にではなく,メソポタミアにおける古代の宗教的な反逆に行き着きます。

      しかし,すべてのクリスチャンが堕落したわけではありません。イエスご自身まさにこの背教について警告しましたが,同時に真の宗教は終わりまでずっと存続しつづけることを約束されました。(マタイ 13:18-30)では,今日どのようにしてそれを見定めることができますか。

      真の宗教を見いだす

      イエスは真の宗教を見分けるための法則をお与えになり,「良い木はみなりっぱな実を生み出し(ます)」と言われました。悪い実は偽りの宗教を見分けるしるしになり,良い実は真の宗教を明らかにします。―マタイ 7:15-20。

      真の宗教が生み出す実とは何ですか。このページの表には聖書の述べるそうした実が挙げられています。ご存じの宗教すべてをこの表に照らして調べれば,どの宗教に真理があり,どの宗教に真理がないかすぐに識別できるに違いありません。

      しかし,この表を注意深く調べてみることが必要です。例えば,『純粋の愛がある』ことが真の宗教のしるしの一つになっていることが分かります。さて,ほとんどの宗教は口ではそのような愛があると言います。しかし,ある宗教の会員の間に商売の上での欺き,不道徳,あるいは利己主義などが広く見られるなら,その人たちは本当に互いに愛を示しているでしょうか。また,革命や戦争で互いに殺し合うのをいとわないとすれば,その愛はどれほど純粋ですか。同様に,別のしるしとして,「その信条はすべて聖書に基づいている」というのがあります。言うまでもなく,キリスト教世界の大抵の宗教の会員は自分たちの属する宗教団体についてそう言えると考えています。しかし,会員すべてが自分たちの聖書をわざわざ開いて,自分たちの信じている事柄が確かに聖書に基づいているかどうか調べる宗教をご存じですか。

      それを探すのに問題があるように思われるなら,エホバの証人は喜んでお力になります。

      確かに,真の宗教を探し求めることには努力を払うだけの価値があります。人間は本能的に,自分が現在享受しているよりも良い生活を必要としていると感じるものです。真の宗教はそうした生活へとわたしたちを向かわせます。「わたしたちはどうしてここにいるのだろうか」とか「人生の目的とは何か」といった疑問が起きるのは当然のことです。わたしたちは真の宗教により,すべての命の源であられるエホバ神と接することができるようになり,神はわたしたちのこうした質問に答えてくださいます。さらに,わたしたちすべては日ごとに直面する様々な問題を解決するのに導きがどうしても必要になることがあります。真の宗教はそうした導きを与えてくれます。

      確かに,真の宗教は存在するのです。そしてそれを見いだすことは可能なのです。そうすることは,とこしえの益をもたらします。聖書は次のように約束しているからです。「エホバを求める者たちは,良いものに少しも不足しない」― 詩篇 34:10,新。

      [8ページの囲み記事]

      真の宗教を見分けるしるし

      □ それを実践する人々の間には純粋の愛がある。―ヨハネ 13:35。

      □ その信条はすべて聖書に基づいている。―ヨハネ 17:17。テモテ第二 3:16,17。

      □ 神がご自分のみ名を神聖なものとしてくださるよう祈る。―マタイ 6:9。詩篇 83:18。

      □ 全地で神の王国をふれ告げる。―マタイ 24:14。

      □ 世の事柄からいつも離れている。―ヤコブ 1:27。ヨハネ 17:14。

      □ 神の王国と義を生活の中で第一にする。―マタイ 6:33。

      □ 神の霊の実を培う。―ガラテア 5:22,23。

      □ 神の律法に反しない人間の法律すべてに従う。―ローマ 13:1-7。

  • 「重い荷」を軽くしてくださったかた
    ものみの塔 1982 | 6月1日
    • 「重い荷」を軽くしてくださったかた

      イエスは書士やパリサイ人に関してこう言われました。「[これらの者は]重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません」。(マタイ 23:4)これが確かにその通りであったことの証拠として,ジェームズ・ヘイスティングズ編の「聖書辞典」の中に次のように書かれています。

      「書士たちは哲学者ではなく,聖なる律法の解釈者であった。……生活のあらゆる分野がそれによって規制されていた。……聖書の律法おのおのの周りには細かい規則が網の目のように巡らされていた。状況の変化のゆえに情状が酌量されることはなかった。ユダヤ人すべてには律法をその詳細な点すべてに至るまで完全に守ることが容赦なく求められた。成文化された律法の条項に加えて,“ハラカー”つまり伝承法の戒律が付け足された。それらは聖なる義務として代々伝えられ,最終的にはタルムードに組み込まれた。……人を抑え付けるような厳しい規則によって人間の行動全体を規制するあわれみのない論理をもって,考え得るあらゆる事例を律法のわく内に収めようとする試みはこうして行なわれた。法的な細かい規則が増えてゆき,宗教が商売にまでなり,生活は耐え難い重荷になっていった。人は道徳的な機械人間になりさがってしまった。良心の声は押し殺され,神の言葉の生きた力は骨抜きにされ,延々と続く規則の塊の下に埋もれてしまった。ゆえに,わたしたちの主はパリサイ人がその伝統によって律法を無効にしていると非難されたのである」。

      神のみ子が崇拝に関してパリサイ人のような見方を持っておられないことを知って,謙遜で,誠実な人々は大いに励まされたに違いありません。そうした人々はイエスの次の言葉を聴いて本当に喜んだことでしょう。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなたがたをさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負ってわたしの弟子になりなさい。わたしは柔和で,心のへりくだった者だからであり,あなたがたは自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきはここちよく,わたしの荷は軽いのです」― マタイ 11:28-30。

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