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神の国にいたる崇拝ものみの塔 1964 | 7月1日
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―詩 83:18。ヨハネ 4:24。イザヤ 42:8,文語。
全地を治める至上者である真の神のお名前はエホバです。偉大な神エホバは生命のない像ではありません。エホバは目に見えない,力ある霊者です。エホバはたとえ崇拝の助けとしてであっても,崇拝に像を使うことを是認しません。従って神に受け入れられる崇拝をするには,理知のない木石や金属の像の崇拝を避けなければなりません。必要なのは,神のことば聖書にしるされた真理に従って生活することです。―出エジプト 20:4,5。レビ 26:1。イザヤ 44:14-20; 46:5-7。
物でできた像の無価値なことは,少し考えればすぐにわかります。像には歩く力もなく,教えを授ける能力もありません。偶像を河あるいは火の中に投げ込んでごらんなさい。それは人間のように泳いだり,あるいは焼けないように火の中から飛び出しますか。それ自体を守ることのできない偶像が,人間を守護できるはずはありません。
人間の手で作られた像を見てごらんなさい。その中には命はありません。生ける神エホバは次のように言われます,「それはロがあっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また,のどから声を出すこともできない」。このようなものがどうして真の神であり得ますか。それは不可能なことです。それゆえ神は次のように言われます,「これを造る者と,これに信頼する者とはみな,これと等しいものとなる。」― 詩 115:4-8。
真の崇拝に含まれるもの
真の崇拝をする人は偶像を崇めるかわりにメシヤであるイエスを認めなければなりません。エホバ神は私たちに永遠の生命を得させるためにイエスを地にお遣わしになり,またイエスを御国の王に任ぜられました。聖書は権威をもって次のことを述べています,「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は,これを別にしては,天下のだれにも与えられていないからである」― 使行 4:12。マタイ 20:28。
神の国に導く崇拝は真の神エホバを認め,み子イエス・キリストを受け入れるものであると同時に,正しい行いを伴なうものです。神のことばを持っているだけでは足りません。その教えに従って生活することが肝要です。イスラエル国民はひとつの例となっています。聖書を持っていたにもかゝわらず,イスラエルの宗教指導者は約束のメシヤがイエスとなって現われたとき,イエスを迫害したばかりか殺すためにローマ人の手に渡しました。義の実を結ばなかった彼らにむかってイエスは言われました,「それだから,あなたがたに言うが,神の国はあなたがたから取り上げられて,御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」― マタイ 21:42,43。
これらユダヤ人の崇拝がなぜ神の国に至る崇拝でなかったかに注目して下さい。それは彼らが神の国にはいるのにふさわしい正義の実を結ばなかったからです。御国の支配から祝福を受けるには正しい行いをしなければなりません。
このためには愛を持つことが必要です。イエスは地上にいたとき,この事を教えました。裏切られて死に渡される少し前に,イエスは追随者にそれを銘記させました。「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える,互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互いに愛し合いなさい。互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう」。人々の間に余り見られないこのような愛は,真の崇拝者を見分けるしるしとなっています。―ヨハネ 13:34,35。ヨハネ第一 4:20; 3:15。
神の国に至る崇拝をするには,他のことも必要です。聖書のガラテヤ書に示されているように,「愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制」といった御霊の実を結ぶことです。そのためには「不品行,汚れ,好色,偶像礼拝,まじない,敵意,争い,そねみ,怒り,党派心,分裂,分派,ねたみ,泥酔,宴楽,および,そのたぐい」である肉の行いを捨てなければなりません。「このようなことを行う者は,神の国をつぐことがない」と聖書はいましめています。―ガラテヤ 5:19-23。
神の国に導く崇拝のもうひとつの特色は,政治,軍事を含めて現在の世の組織を支持するかわりに,神の国に重点をおくことです。今日どの国においても宗教組織が政治権力と手を結んで,国家の軍隊を祝福するのはめずらしいことではありません。キリスト教を奉ずる欧米のキリスト教国においても東洋諸国においても,これは同じです。―ヨハネ 15:19。イザヤ 2:2-4。
イエス・キリストは神に油そゝがれて天の政府の王となりました。それでこの世の法律を守ることを弟子たちに教えましたが,同時に神の国について次のように言われたのです,「わたしの国はこの世のものではない」。この理由でイエスの弟子も「わたしが世のものでないように,彼らも世のものではありません」とイエスは言われました。―ヨハネ 18:36; 17:16。マタイ 22:21。
1世紀におけるイエスの追随者はこの事を理解していました。弟子ヤコブが清い崇拝のなかに「世の汚れに染まずに,身を清く保つこと」を含めたのも,その証拠です。―ヤコブ 1:27。
そこで平和実現の方途として人間の政府ことに国際連合に希望を托するかわりに,エホバの崇拝者は神の見解を受け入れて平和の君イエス・キリストに望みをおき,永遠の平和は神の国によってもたらされることを認めます。そこで公にも家から家にも神の国を伝道して神の国を支持するのです。イエス・キリストはこの事をしました。伝道することは神の国に至る崇拝の一部です。―イザヤ 9:6。マタイ 4:17。
永遠の救いを得るには,今までどんな崇拝を行なってきた人でも,崇拝に関して創造主のいわれることに耳を傾けなければなりません。創造主の要求にかなった崇拝をして下さい。霊感によって書かれた創造主のことばに一致した生活を送ることが必要です。神の国に信仰をおき,御国の良いたよりを他の人々に知らせましょう。このようにしてのみ,あなたの崇拝は神の国に至るものとなります。
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教会に不満ものみの塔 1964 | 7月1日
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教会に不満
◆ これはアメリカ,アイオワ州のあるエホバの証者の経験です。ある日10歳と7歳の二人の男の子が,やや興奮した様子で証者の家をたずね,エホバの証者の集会は何時からですか,と聞きました。「少年たちの話によると,二人共ずっと前からエホバの証者の集まりに来ることを望んでいましたが,中々母親の許しを得られませんでした。その両親は子供たちをいろいろな教会に行かせていましたが,おばあさんから神のもたらす新しい秩序について聞いていた二人はいつもそれに不満を感じていました。二人はその晩さっそく集まりに出席しました」。
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