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  • 多くの宗教 ― それが今日及ぼす影響
    目ざめよ! 1984 | 4月8日
    • 多くの宗教 ― それが今日及ぼす影響

      日本の禅宗の信者のめい想からインドのヒンズー教の聖人の苦行に至るまで,中東のイスラム教の祈とう時報係の詠唱から中央アメリカのペンテコステ派の信者が上げる歓喜の声に至るまで,ガイアナのジョーンズタウンでの集団自殺から韓国のソウルでの集団結婚式に至るまで,世界中の宗教的信条や習慣に見られる多様性には本当に驚かされます。だれであろうと,あるいはどこに住んでいようと,人の生活は宗教から何らかの影響を受けています。

      宗教といわれるものは一体幾つぐらいあるのでしょうか。この疑問に対する答えの数は,この問題に取り組んだ研究者や統計学者の数と同じほどあるように思われます。宗派や団体,そこから分かれた派や教団などすべてを数えると,その総数は万の単位になるに違いありません。

      読者はキリスト教世界に住んでおられますか。キリスト教世界には,宗派や分派が1万あると言われてきました。ところが,最近出版された「世界キリスト教百科事典」には,米国だけでもキリスト教の諸教会の宗派が2,050あり,世界全体ではその数が2万に達すると述べられています。教会員の合計数がほぼ15億人,つまり世界人口の約3分の1に達すると唱えるキリスト教世界は世界最大の宗教組織体です。

      あるいは,読者はイスラム教やヒンズー教や仏教が支配的な国に住んでおられるかもしれません。数多くの団体や分派を抱えるそれらの宗教も,何億という数の会員を擁すると唱えています。そのほかにも比較的名の通った宗教を幾つか挙げると,神道,シーク教,ジャイナ教,ゾロアスター教,道教,儒教,バハーイ教などがあります。事実,前述の出版物によると,世界の人々のうち約20%を除くと,すべての人が何らかの宗教に属していると唱えています。(次ページの表をご覧ください。)

      衰えつつあるか,それとも栄えているか

      しかし,この現代の20世紀の社会にあって,宗教はもはや人々の生活において重要な要素ではないと読者は感じておられるかもしれません。世界のある場所では,そう思えるかもしれません。人々は物質主義的な生活様式を追い求めることにいよいよ忙しくなっているようです。そして,宗教的な事柄にはほとんど,あるいは全く関心を示しません。きっとそのような人々のことをご存じでしょう。また,幾世紀も昔にできた由緒ある大きな教会が閉鎖されたり,劇場やダンスホールやマーケットなど商業目的のために改装されたりするのをご覧になったことがあるかもしれません。宗教はあたかも廃れかかっているかのように見えます。

      一方,宗教の復興についていろいろと取りざたされているような所に住んでいる人もいるでしょう。例えば,ケニアのナイロビからはアフリカの諸教会の拡大に関する次のような報告が寄せられています。「この地でキリスト教が際立った成功を収めていることに疑問の余地はない。毎年600万人の新しい信者が,現在ではこの大陸の人口の約40%を構成する1億8,000万人のクリスチャンに加わっている。キリスト教徒は競争相手のイスラム教徒をしのぎ,非常に大勢の改宗者を得ており,非常に大勢の子供たちを養っているので,20年以内にアフリカは世界最大の教会員の一団を擁することになり得る」。

      ソ連や中国のような共産圏の国々でさえ,政府当局によって無神論が幾十年にもわたって唱えられてきたにもかかわらず,宗教は依然として人々の心をしっかりとつかんでいることを報告は示しています。US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌は,「2億6,700万の人口のうち,自らを宗教の信者とみなすソ連の市民は推定7,700万人に上るものとみられる。その大半は,ロシア正教,イスラム教,ローマ・カトリック教,バプテスト派,ユダヤ教およびルーテル派などの宗教に属している」と述べています。

      香港<ホンコン>にある中国教会研究センターによると,中国の場合,1970年代後半から再び開かれた少数の教会を,公式の数字で約400万人の信者が埋め尽くしているほかに,「家庭教会の信者が2,500万ないし5,000万人いる」とされています。また,ニュージーランドのオークランド・スター紙に掲載された北京<ペキン>からの一報道は次のように述べています。「中国の公式の報道機関は,8億人の小作人がいる田舎の状態を恐ろしい中世社会と描写し,そこでは30年に及ぶ共産主義も,旧来の土俗宗教に事実上全く影響を及ぼしてこなかった,と述べている」。

      したがって,この20世紀の最後の25年間にも,世界中には依然として多くの宗教があり,無数の人々の生活に大きな影響を及ぼしつづけているのは明らかです。当然のこととして,次のような疑問が脳裏に浮かびます。なぜこれほど多くの宗教があるのでしょうか。世界中でそうした宗教はどんな実を産み出しているでしょうか。そして,最も大切なこととして,このすべてはわたしたち各人にどんな影響を及ぼすでしょうか。

  • 多くの宗教があるのはなぜですか
    目ざめよ! 1984 | 4月8日
    • 多くの宗教があるのはなぜですか

      「我々は今日プエブロ・インディアンの雨ごいの踊りを見て笑ってしまう。……しかし,絶望的な状態になると我々はどんなことをするだろうか。……個人的な危機からくる苦悩のために私の人生は2度にわたって破綻しかけたことがあったが,その際私はそれらインディアンたちと同じことをした。つまり,助けを求めて祈ったのである」。哲学の教授,ヒューストン・スミスは,「世界の大宗教」という本の序文の中でこのように書いています。

      人間が圧迫を受けた時により高いもの,またより強いものにすがることは,基本的かつ普遍的な欲求のようです。人類学者や歴史学者たちによると,人間はその始まりから,自然の力に神秘的なものを感じたり,どう猛な野獣の脅威に面したり,死や死後の状態のことで途方に暮れたりした時に,この欲求を感じました。これが未知の事柄への恐れと結びついて宗教が誕生した,と学者たちは言います。

      例えば,「日本の宗教」という本は神道の始まりについて解説し,こう述べています。「畏怖の念を起こさせるものは何であれ,神聖なあるいは神秘的な力を特に吹き込まれたものとしてあがめられた。よって,自然の力,特に畏怖の念を起こさせるような木や岩や山,および他の説明のつかない自然現象が崇拝の対象になった。これらには神という名称が与えられた」。時たつうちに,言い伝えや典礼,儀式,神社などが作り上げられていきました。こうしたものが代々伝えられてゆき,神道という宗教が誕生したと言うのです。

      この考え方によると,シュメール人,エジプト人,インド人,中国人および他の古代文明すべては,自分たち自身の崇拝の様式や自分たち自身の宗教を別個に考え出したことになります。次いでそれらは人々の生活様式,つまりその食べ物,慣習,さらにはそれぞれの土地の気候や地理の影響さえ受けました。その結果,今日見られるような宗教の多様性が生じたと言うのです。

      別個のものか,それとも源は一つなのか

      しかし,そのような説明はある程度までしか納得のゆくものではありません。宗教の間に見られる著しい多様性の説明はつきますが,幾つかの基本的な疑問の答えは出てきません。例えば,異なった宗教すべてが互いに別個に発展していったとすれば,人間の自然の反応というだけで済ますことのできない,それらの宗教の間に見られる数多くの本質的な類似性をどのように説明したらよいのでしょうか。

      その例として,人間の起源に関する物語や言い伝えを取り上げてみましょう。詳細な点では異なっていても,人間が地の塵から造られたという信仰は広く見られます。あるギリシャの言い伝えによると,プロメテウスが最初の人間を粘土で形造り,アテナがそれに命の息を吹き入れたことになっています。ペルーのインディオは,最初の人間を描写するのにアルパ・カマスカ(生命を吹き込まれた土)という語を用いています。北米インディアンの一部族であるマンダン族は,“偉大な霊”が粘土で二つの形を造り,自らの口の息でそれらを命ある者にしたと信じていました。中国の一つの古代の言い伝えによると,盤古<パンクー>が陰と陽の要素を持つ人間の形を粘土から造ったとされています。別の言い伝えは,ヌクアという神話上の存在が黄土から男女を形造ったと述べています。このリストはさらに続き,その中にはアフリカの部族民やミクロネシアの島々の住民の間の言い伝えも含まれています。

      それ以上に驚かされるのは,邪悪な先祖の洪水による滅びと,その後人類が生き残る,あるいは再登場することに関する言い伝えの普遍性です。地球上の遠く離れた場所に住む民族や部族が,同じ物語の異なった版を伝えているのです。

      起源は何か

      ばく然とではあっても,聖書に通じている人であれば,そのような言い伝えと創造およびノアの洪水に関する聖書の記述との類似性をすぐに認めることでしょう。しかし,ギリシャ人,アメリカ・インディアンやペルーのインディオ,中国人および他のすべての民族の言い伝えと聖書にどんな関係があるのかとお尋ねになるかもしれません。そうした宗教が聖書の感化を受けたということではありません。むしろ聖書は,宗教が数多く存在するようになったいきさつを略述しています。そのいきさつは宗教の多様性と類似性のいずれをも説明するようなものです。

      H・G・ウェルズは,自著「世界史大系」の中で次のように書いています。「アフリカやヨーロッパや西アジアで原始文明が入ってきた所ではどこでも神殿が建ち,文明の最も古いエジプトやシュメールでは神殿が特に目立っていた。……歴史上,文明の始まりと神殿の登場は時を同じくして生じている。その二つは同類なのである」。

      聖書の創世記はこう述べています。「さて,全地は一つの言語,一式の言葉のままであった。そして,東に向かって旅をしているうちに,人々はやがてシナルの地に谷あいの平原を見つけて,そこに住むようになった」。(創世記 11:1,2)シナルは,文明発祥の地と呼ばれるメソポタミアにあります。

      その記述は,人々がシナルの平原に定着すると,ある建築計画のために集まってきたことをさらに次のように述べています。「さあ,我々のために都市を,そして塔を建て,その頂を天に届かせよう。そして,大いに我々の名を揚げて,地の全面に散らされることのないようにしよう」― 創世記 11:4。

      人々はどんな都市また塔を建てていたのでしょうか。バベル,またはバビロンと呼ばれたこの都市は主として宗教的な都市でした。その遺跡からは少なくとも53の神殿が見つかっています。同市での崇拝は,三つ組の神々,人間の魂の不滅性に対する信仰,あの世つまり地獄への信仰,および占星術を特色としていました。偶像礼拝,魔術,呪術,占いそして秘術などはいずれも大きな役割を果たしていました。悪名高いバベルの塔は単なる記念碑や目印となる建物であったわけではありません。その地方から発掘された他の類似の建造物は,それが数層に分かれ,頂上に神殿のあるジグラットだったと思われることを示唆しています。それは高くそびえ,同市を見下ろすことになっていました。

      この建築計画はどうなったでしょうか。聖書の記録はこう述べています。「それゆえにそこの名はバベルと呼ばれた。そこにおいてエホバは全地の言語を混乱させたからであり,エホバは彼らをそこから地の全面に散らされた」― 創世記 11:9。

      もはや互いに意思を通わせることができなくなった建築者たちはその計画をあとにして,別々の方角へ移って行きました。どこへ行ったにしても,それらの人々は自分たちの宗教的な信条と概念,言い伝え,神話を携えて行きました。幾千年にもわたって各地で発展した結果,世界の諸宗教には表面的に大きな多様性が見られます。しかし,その根底には間違えようのない類似性があり,それらが同じ源 ― バベル,つまりバビロン ― に由来することを裏付けています。

      偽りの宗教のこの共通の源に言及して,J・ガルニエ大佐は自著「死者の崇拝」の中でこう述べています。「エジプト人,カルデア人,フェニキア人,ギリシャ人,ローマ人だけでなく,ヒンズー教徒や,中国やチベットの仏教徒,またゴート人,アングロサクソン人,ドルイド教徒,メキシコ人やペルー人,オーストラリアの原住民,さらには,南洋諸島の未開人にいたるまで,すべてはその宗教上のさまざまな考えを共通の源もしくは共通の中心地から受け継いだに違いない。その典礼,儀式,習慣,伝承,またそれぞれの神や女神の名や関係に,まさに驚くほどの一致がいたるところに見られる」。

      この点を確証しているのは,ジョセフ・キャンベルが自著「神の仮面: 原始神話学」の中で述べている次のような注解です。「過去半世紀の考古学と民族誌は,旧世界の古代文明 ― エジプト,メソポタミア,クレタおよびギリシャ,インドそして中国の文明 ― が単一の出発点に由来していることを明らかにしている。また,こうして起源を共有しているので,それらの文明の神話および儀式の構造が相応する形態を持っている理由も十分説明されることを明らかにした」。

      結果

      聖書はこの大いなる離散の背景を示しているだけでなく,その結果についても予告しています。すなわち,バビロン的な偽りの宗教の世界帝国の設立です。その帝国は,強烈で生々しい言葉遣いをもって次のように描写されています。「多くの水の上に座る大娼婦……地の王たちは彼女と淫行を犯し(た)……額にはひとつの名が書いてあった。それは秘義であって,『大いなるバビロン,娼婦たちと地の嫌悪すべきものとの母』というものであった」。(啓示 17:1,2,5)彼女は一般の人々だけではなく,地上の政治および軍事,商業の諸体制に対しても計り知れない影響力を行使します。

      大いなるバビロンが諸国民や諸民族を長い間支配してきた結果はどのようなものですか。この帝国のさまざまな形の宗教の影響下にあって,どんな実が産み出されてきたでしょうか。この点は次の記事の中で考慮します。

      [6ページの地図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      バビロンから宗教上の概念や神話が世界各地に広がった

      イタリア

      ギリシャ

      バビロン

      エジプト

      インド

  • 多くの宗教 ― どんな実を産み出していますか
    目ざめよ! 1984 | 4月8日
    • 多くの宗教 ― どんな実を産み出していますか

      『どんな宗教にも良いところが幾らかあるものだ』。これは今日多くの人々の間で広く受け入れられている考えです。そうした人々は,幾らかでも宗教に接すれば,どんな人でも少しは良い人間になると考えています。

      読者も宗教についてそのように感じていますか。宗教は全体として人類一般に良い影響を与えてきたと思われますか。さまざまな異なった宗教がその信徒の生活の中に積極的で健全な実を産み出してきたと考えておられますか。

      言うまでもなく,このような質問は個人的な感情だけに基づいて答えるべきものではありません。実のところ,さまざまな宗教組織の主張することだけを根拠にして答えるべきでもありません。むしろ,事実を調べ,その際にできるだけ客観的にならなければなりません。

      事実を調べなさい

      迅速な情報伝達とマスメディアの発達した今日,事実を入手するのは難しいことではありません。では,どんな事実を探したらよいのでしょうか。宗教はどんな実を産み出しているべきだと思われますか。この点では,宗教はより優しく,正直で,道徳的で,平和的で,霊的な人などを作り出すはずだという点に大抵の人は同意するでしょう。正にその通りです。事実,ほとんどどんな宗教も,『おのれの如く,なんぢの隣を愛すべし』という聖書の教えと似たような教えをその基本的な信条にしています。―マタイ 22:39,日本聖書協会文語訳聖書。

      ほぼすべての宗教がそのような概念を理論としては教えているものの,実践の点ではどうでしょうか。その会員の間に道徳の高い規準が見られますか。宗教に入っている人たちは,より優しく,より平和的で,より正直ですか。多くの宗教はどんな種類の実を産み出しているのでしょうか。

      宗教と道徳

      離婚・性病・望まれない妊娠・ポルノ・同性愛・性的にどんなことでも許容する傾向などの風潮に脅かされて,大勢の人々は宗教に助けを求めています。そうした人たちは,自分たちの必要とする道徳的な導きを政府や学校が与えないのなら,宗教が与えなければならないはずだと推論します。米国の公立学校で祈りと“科学的特殊創造説”を復活させようとする圧力はこの表われです。しかし,今日の宗教はどんな導きを差し伸べているでしょうか。幾つかの例を考えてみましょう。

      ● カナダ合同教会(同国で最大のプロテスタントの宗派)は,同合同教会を構成する諸会衆すべてに,「神の像に……男性と女性」と題する報告を,結婚と性について勧められている指針として送りました。マクリーンズ誌というニュース雑誌によると,その報告は,「同性愛者の叙任を認めることを考えるよう勧告し,結婚関係外の性関係も,特定の状況の下で,『喜ばしい,配慮を示し合い,人を解放し,互いに支え合い,社会的に責任のある』関係であれば認められることがあると述べ,夫婦間の貞節は必ずしも性的な独占を含むものではないと示唆して」います。この決議に関する最終的な決定は今年の後の時期にまで持ち越されました。

      ● ロサンゼルス・タイムズ紙の宗教記者のラッセル・チャンドラーは,「“再び生まれた”クリスチャンたちは性革命を見いだしている」と題する記事の中で,次のように伝えています。「プロテスタントの幾つかの主要な宗派とローマ・カトリック教会の研究班は,……特定の状況の下では……未婚者の性関係が罪深いものでない場合があり,同性愛行為はクリスチャンが受け入れることのできる今ひとつの生活様式であり,マスターベーションつまり自慰は正常でふさわしいものであり得るとの結論を出している」。

      ● 「諸教会における同性愛者たち」,それも特にローマ・カトリックのサンフランシスコ大司教区に属する人々について伝えた中で,ニューズウィーク誌は次の点を指摘しています。「過去10年間に,同性愛者の集会が……プロテスタントの主流宗派の間に起こり,メノー派およびペンテコステ派の信者,モルモン教徒,クリスチャン・サイエンスの信者,セブンスデー・アドベンティスト,そしてユダヤ教徒などの間に同様の組織を生じさせた。多くの都市で,同性愛者たちは自分たち専用の教会,ユダヤ教の会堂,果ては禅宗のセンターまで組織している」。

      ● ロサンゼルス発のAP通信によると,全米聖職者アルコール中毒協議会は,1977年の時点で,米国の司祭と修道女の少なくとも10%はアルコール中毒者であると推定しています。しかし,ボルチモア・サン紙に載せられた別の報道はこう述べています。「カトリックの修道会の修道会長たちが聖職者の間のアルコール中毒を世界的な規模の問題として挙げてはいるが,それはもはや最も差し迫った問題ではない。……50年代と60年代にアルコール中毒について言えたことは,今や同性愛について言える。確かに,同性愛の問題全体が今や無気味に前途に立ちはだかっている」。

      このような導きや手本が与えられているのであれば,教会員の道徳的な風潮が一般の人々全体の道徳的な風潮と比べて,現に悪くはないとしても良くもないというのは不思議なことではありません。次にその幾つかの例だけを挙げることにしましょう。

      ● ロンドン・タイムズ紙は,「公式の統計によると,英国の刑務所の服役者の約4分の1はローマ・カトリック教徒であるとされているが,人口に対するカトリック教徒の比率は10対1でしかない」と伝えています。「麻薬中毒者,アルコール中毒者,売春婦および刑務所にいる犯罪者の中にローマ・カトリック教徒がこれほど大きな比率を占めている理由」について話し合うための会議が取り決められた,とその報道は伝えています。

      ● 最近のギャラップ世論調査によると,米国では大人の人口の70%が教会員であると述べ,40%が一定の週に実際に礼拝に出席していました。ところが,「1983年ブリタニカ年鑑」によると,1981年には2件の結婚に付き1件の離婚があり,「離婚の増加と未婚の母の出産とを反映し,……5人の子供に一人は片親だけの家族で生活している」とされています。

      ● トゥー・ザ・ポイント誌は,「エマヌエル・ミリンゴ大司教の報告によると,ルサカ(ザンビア)の大司教区に住むローマ・カトリック教徒の既婚の男子のほぼ3分の1は,めかけを同居させている」と述べています。その大司教区のカトリックの1万903世帯のうち,3,225世帯にめかけがいた,とその報道は伝えています。

      正にイエスがずっと昔に言われた通り,「良い木は無価値な実を結ぶことができず,腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません」。(マタイ 7:18)世界中に見られる道徳的退廃の並外れて大きな実は,世界の宗教的な「木」の霊的な状態 ― 病んで死につつある ― を反映しています。

      宗教と戦争

      インドのザキル・フサイン元大統領は,「世界は大きな危険,もしかすると核戦争による種族の自殺の瀬戸際にある」ということを認め,世界の主要な宗教すべての指導者から成る委員会に,世界平和に向けて働きかける上で「今後はこれまでよりも十分に,より意識的な役割を果たすよう」要請しました。この目的を遂げるために,「彼らは,教義や典礼や習慣の先を見なければならない。そうした教義や典礼や習慣が異なったさまざまな宗教団体から新しい意味での調和と協力へ向けての生気の流れを妨げている」とフサインは主張しました。

      そのような主張が行なわれたのは,1968年にインドのニューデリーで開かれた「平和に関する国際宗教交流シンポジウム」でのことでした。仏教,カトリック教,ヒンズー教,イスラム教,ジャイナ教,ユダヤ教,プロテスタント諸宗派,シーク教,そしてゾロアスター教を代表する指導者たちは,それに出席し,提唱された事柄に同意しているものと思われました。その時以降どんなことが起きてきましたか。なるほど,その後の会議やシンポジウムや討議の席上で新たな努力が払われてきました。核による絶滅の脅威が積もり積もっているために,諸政府や他の機関に対して声明や宣言や告発や書簡が出されました。では,世界の諸宗教は「調和と協力……を妨げる教義や典礼や習慣」を除く方向で努力してきたでしょうか。口先だけでなく行動においても愛と平和の実を産み出してきましたか。

      全く正反対でした。それ以来の年月に,世界は以前よりも多くの戦争や紛争を見てきました。そうした戦争の唯一の原因が宗教であったというわけではありませんが,宗教は際立った役割を果たしました。中には異なった宗教の信徒間の戦争や紛争もあり,同じ宗教の異なった派の会員の間の戦争や紛争もありました。

      比較的最近の例として,インドのアッサム州でぼっ発したヒンズー教徒とイスラム教徒が戦い合う暴力的な反乱,シーア派イスラム教徒がスンニ派イスラム教徒と戦う現在進行中のイランとイラクの戦争,プロテスタント信者がカトリック教徒を虐殺し,カトリック教徒がプロテスタントの信者を虐殺する既に悪名高い北アイルランド紛争,キリスト教徒,ユダヤ教徒,そしてイスラム教徒がもつれ合って戦うレバノンでの戦争と虐殺,さらには「陸軍の従軍牧師がアルゼンチンの徴集兵に,神のご意志であるので死ぬまで戦うよう勧めた」とサンフランシスコ・イグザミナー紙の伝えたフォークランド戦争をも挙げることができます。

      このリストは現在の情勢を言い尽くすものでも,宗教的な熱狂にたきつけられた国家間および民族間のこれまでの無数の紛争の例を含むものでもありません。

      そのような戦争は政治上あるいは領土上の紛争によって引き起こされるかもしれませんが,遅かれ早かれ宗教がそうした戦争に深くかかわり合っていることが明らかになります。戦い合う双方の側の僧職者たちが自分たちの側の部隊に祝福を与えるよう各々同じ神に懇願し,自分たちの戦いを“義戦”あるいは“聖戦”と呼び,そのような戦闘で死ぬかもしれない者たちに即座に天的な報いが与えられると約束することが何度もありました。

      このことから,世界の諸宗教にはその信徒たちの暴力的な性向の一因となっている何かがもともと備わっているように思えてきませんか。タイム誌に載せられた,「宗教戦争 ― 血生臭い熱意」と題する評論の中で,ベテラン記者ランス・モローは次のように述べました。「宗教の名において戦った人々とそれを観察したジャーナリストは,ありきたりの戦争とは無気味に異なる点を察知している。報復と償いの特色,時間とその場の状況を超えて存在する熱狂的行動,内から出てくる執念深さなどが感じられる。……“戦争をする宗教”という逆説は依然としてショッキングである」。

      この「逆説」つまり矛盾は,宗教に対する最も強い告発と言えるかもしれません。過去および現在の戦争でキリスト教世界の果たした役割について,政治学の一教授であるレオ・クリスチャンソンは,クリスチャン・センチュリー誌の最近号に次のように書きました。「戦争を行なうことに関してキリスト教徒でない人々と事実上区別がつかないような立場を取るという行為以上に,キリスト教の面汚しとなってきたものはないと言えるだろう。キリスト教徒が一方では優しい救世主への信仰を支持しながら,もう一方では宗教的あるいは国家主義的な戦争を熱烈に支持したために,信仰が大いに損なわれ,幾世紀にもわたって考え深い人々の間に広まってきた,宗教についての一種の冷笑的な態度が大いに助長されてきた」。

      どう思われますか

      わたしたちは,道徳と戦争という二つの分野だけについて世界の諸宗教の産み出してきた実を調べてきました。そして,分かった事柄は衝撃的で嫌悪の念を催させる以外の何物でもありません。それらの諸宗教は,宗教に期待される事柄に全く答えてはいません。同じような醜い実は,人種偏見,政治への介入,不正な商取引,人をとりこにする迷信その他数多くの分野にも見られます。確かに,宗教は地を腐った実で満たし,そのすべては人類を傷つけてきました。

      正にこうした事柄のために,読者は宗教に背を向けられたかもしれません。そうであれば,そのような反応を示したのはあなただけではありません。今日の大勢の人々は,宗教の悪い実のゆえに宗教に愛想を尽かしてきました。しかし,それは賢明な道でしょうか。それは最大の満足感と幸福をもたらす道ですか。あるいは,それよりも良い道があるのでしょうか。続く記事を考慮してご覧になるようお勧め致します。

      [9ページの図版]

      世界の宗教が産み出した悪い実を示す二つの例: 同性愛の容認と戦争とのかかわり合い

  • 多くの宗教 ― それはあなたにとって何を意味しますか
    目ざめよ! 1984 | 4月8日
    • 多くの宗教 ― それはあなたにとって何を意味しますか

      膨大な数の宗教と,混乱を引き起こす教義や典礼や習慣,それに互いに対する敵意に当惑させられて,多くの人には宗教と名の付くものすべてを避ける傾向があります。また,神には阻止することができたはずだと自分たちの考えるある種の悲劇に個人的に見舞われたために,もはや信仰を抱いていない人もいます。さらに,世界の人々の間に見られる苦しみや不公正を目にして,何を信じてもむだだと決めてしまう人もいます。さらには,進化論に影響されて,無神論や不可知論に傾倒する人がほかにも大勢います。こうした人々のいずれか,またそれらの人たちの宗教に対する考え方に共感を覚えますか。

      不信仰は満足をもたらすか

      今日の大勢の人々は宗教に背を向けましたが,その不信仰の道は彼らに満足と幸せをもたらしたでしょうか。世界の諸宗教のしがらみから自らを解き放つことにより,確かにある程度の安堵感を得られるかもしれません。しかし,遅かれ早かれ,自分には霊的な面があって,それを満たさなければならないということに気がつきます。人はしばしば,『人間はどのようにして存在するようになったのだろうか。自分たちはなぜ存在しているのだろうか。人生にはどんな意味があるのだろうか。将来にはどんなことがあるのだろうか』といったことについて深く考えるものです。

      かつて不可知論者であった藤巻正夫もそのような経験をしました。正夫はこう述べています。「若いころから,私は生と死についてよく考えました。死は非常な悲劇で,むだなことだと私には思えました。そのために,人生のいかなる目標も無益でむなしく思えました」。

      組織宗教や創造者への信仰を退ける人々は,この空虚な気持ちを満たすために,大抵の場合,神の代わりになる何らかのものに宗教的な情熱をもって頼ります。科学,政治,哲学,さらには不可知論や無神論までが,熱意をもってそうした人々の掲げる宗教になるのです。

      例えば,人気のある科学者カール・セーガンは,かつてインタビューの中で,「科学を深く調べれば,複雑さ,深さ,非常な美しさを感じるようになる。それは,いかなる官僚主義的な宗教の提供するものよりもはるかに強力だと私は思う」と述べました。セーガンはさらにこう付け加えています。「自然の壮大さを前にしたときに生じる畏敬の念は,それ自体宗教的な体験だと言ってもよいと思う」。

      しかし,そのような「体験」は本当に人間の霊的な必要を満たすでしょうか。先に述べた藤巻正夫はこう答えています。「私は電気の研究にかなり夢中になっていました。電気を制御する法則だけが信頼の置けるものだと感じていました。しかし,それでも自分の人生には何かが欠けていました。私には神のみ名と自分に対するその目的とを知ることが必要でした」。

      同様に,著名なソ連の亡命者で作家のアレキサンダー・ソルジェニーツィンは,若いころマルクス主義者を自認していましたが,最近,ある賞の受賞記念講演の中で次のように述べて,無神論に反対しました。「20世紀全体が無神論と自滅の渦に飲み込まれようとしている。我々は,自分たちが極めて無分別に,かつ自己過信に陥って退けた神の温かいみ手に確信をもって手を伸ばすしかない。……この山崩れにあってすがれるものはほかに何もない」。この言葉からすると,確かに不信仰や無神論が答えではないように思われるのではありませんか。

      道を探す

      それでは,その空虚な気持ちを埋め,魂の渇望を幾らか満たすものであれば,どんな宗教でもよいという意味ですか。決してそのようなことはありません。これまでに見てきた通り,神聖ぶった外見をしてはいても,すべての宗教が正しい実を産み出しているわけではないからです。では,数ある宗教の中から真の満足をどのようにして見いだすことができるのでしょうか。

      アブラハム・リンカーンは,自分がどんな宗教にも決して入らなかった理由を説明した際,こう述べました。「どの教会であっても,その祭壇の上に,会員たる唯一の資格として,救い主が律法と福音の本質を簡約した言葉『心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するように,あなたの隣人を愛せよ』を刻むなら,― その教会に,私は全身全霊をもって,加わるであろう」。

      リンカーンが引き合いに出した言葉を語ったのはイエス・キリストで,その言葉は聖書のルカ 10章27節にあります。この言葉は,真の宗教を見分けるしるしが,神と仲間の人間への愛であることをはっきりと示しています。いわゆるキリスト教の人々や他の宗教的な人々が血生臭い戦争を行なって互いに戦い合い,殺し合うのを見たり,自分にとっても他の人々にとっても害になる不道徳な生き方を追い求め,助長しているのを見たりすれば,人々が背を向けたくなるのももっともなことです。

      一方,エホバの証人は今世紀に,諸国民の紛争に対して厳正中立を保つ人々として世界中でよく知られるようになりました。第二次世界大戦中,キリスト教の原則を曲げて妥協することを拒んだために,幾百幾千ものエホバの証人が処刑されました。今日,学校に通うある国の若いエホバの証人の男子は,自分たちが徴兵に応じないために卒業後幾年も投獄されることを覚悟しています。教育が高く評価されるほかの国々でも,学校に通う若者たちは武道の訓練に参加するよりは卒業の見込みを断念することのほうを選んでいます。なぜでしょうか。政府に反対しているからでも反社会的だからでもありません。むしろ,神と仲間の人間に対する自分たちの愛に動かされて,世の暴力的な道に加わらないからです。

      言動両面において道徳的であることについてはどうでしょうか。『どんな宗教にも良い人がいるのではないか』と言う人もいることでしょう。なるほどその通りです。しかし,そのような“良さ”は神への愛とはほとんど関係がなく,危機に面すると非常に多くの場合に悪へ傾きます。先に引用したイエス・キリストの言葉は,隣人への愛が神への愛と比べると二義的なものであることを示しています。真の隣人愛は,神への愛に基づいていなければなりません。つまり神への愛を動機づけとしていなければならないのです。

      ですから,立派で道徳的な生活を送ろうと努力するだけでなく,エホバの証人は,比類のない事柄を他の人々に分かつために家から家を訪問するのに自分たちの時間と労力を自発的に用いてその種の愛を示しています。その比類のない事柄とは,人間また神との平和と調和のうちにここ地上で永遠に生きるという聖書に基づく希望です。―イザヤ 45:18。啓示 21:4。

      選択は本人次第

      この一連の記事の中で,世界の諸宗教の幾つかの面を取り上げてきました。一方では,今日非常に多くの宗教があるものの,それらの宗教は偽りのバビロン的な宗教という同じ源から発展してきたので,失望を起こさせる実を産み出していることが分かりました。その一方で,それに代わるもの,すなわち不信仰,不可知論,そして無神論などについて調べ,そうしたものや他の代用の“宗教”は,人間の必要を本当に満たすことはできないということを知りました。

      世界の宗教のこうした状況に面して,あなたはどうされますか。詩編 10編4節に描かれているように,「『神はいない』というのが,その考えのすべて」であるために,『調べることをしない』人になりますか。それとも,エホバの証人の差し伸べる勧めを進んで受け入れ,真の神とその神が是認される宗教とを探し求めますか。

      科学への信仰と,神を知り人生の目的を知るという自分の必要との間で板ばさみになっていた藤巻正夫はその選択をしました。「エホバの証人の宣教者が私の家を訪れた時,私はすぐに聖書研究を受け入れました」と述べています。研究が進むにつれて,この人は成就してゆく聖書預言がいかに信頼の置ける,正確なものであるかを悟るようになりました。「これは私に大きな影響を及ぼしました」と述べています。そして,その結果エホバ神とその約束が信頼の置けるものであると結論するに至りました。

      エホバの証人とのその後の交わりを通して,この人はその同じ特質がエホバの証人の間に反映されているのを見て,自分もその一員になりたいと心に決めました。そして1年ほど研究した後にバプテスマを受け,やがて地元の会衆の長老になりました。

      藤巻正夫は状況を見て,正しい選択をしました。この人は,イスラエル人が約束の地に入る備えをしてモアブの平原に宿営を張っていた時にモーセがイスラエル人に告げた通りのことをしたのです。「わたしは……あなたの前に命と死,祝福と呪いを置いた。あなたは命を選び,あなたもあなたの子孫も共に生きつづけるようにしなければならない。すなわち,あなたの神エホバを愛し,その声に聴き従い,これに堅く付くのである」。(申命記 30:19,20)そうです,選択をしなければなりません。そしてそれはあなた次第です。あなたはどうされますか。

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