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宗教は何と多いのでしょう!ものみの塔 1982 | 6月1日
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宗教は何と多いのでしょう!
神がただ一人しかおられないなら,どうしてこれほど多くの宗教があるのでしょうか。この点について考えてみたことがありますか。心ある人なら大抵考えたことがあるはずです。しかし,その答えは容易に得られるものではありません。世界の宗教事情は全くの混乱状態にあります。幾つかの事実を検討してみましょう。
幾つぐらいの宗教があるのか その数を定めるのは容易なことではありません。しかし,実に様々な宗教があります。その土地土地で異なった神を崇拝している原住民の部族もいます。大勢の東洋人は自分の先祖を崇拝しています。唯一神を奉じる者もいれば,ヒンズー教徒のように無数の神々を奉じる者もいます。キリスト教世界のほとんどの人々は三位一体,すなわち三つ位格を持つ一つの神を信じています。どの神を信仰するというわけではないものの,信心深い人々もいます。
どんな宗教も方法こそ違え,一つの神を崇拝しているのか こうした考えは広く信じられています。しかし,たった今挙げた幾つかの事実はそれが真実ではあり得ないことを示しています。その上,崇拝の対象となっている神々の性質さえ異なっています。人類に対して無関心であるとされる神々を奉じる宗教もあれば,執念深い神々を奉じる宗教もあり,自分たちの神々を慈悲深い神と見る宗教もあります。こうしたことからすれば,これらの諸宗教すべてが同じ神について語っているはずがありません。
すべての宗教に共通する事柄があるか 相違点があるとはいえ,確かに類似点が広く見られます。そうした類似点は後ほど取り上げますが,ここでは次の点だけを挙げておくことにしましょう。大抵の宗教は人間よりも上の権威があると教えている(もっともその権威が何であるかに関しては一致を見てはいない)。大抵の宗教はこの現在の生活においてどのように振る舞うべきかについて導きを与えている(もっともその導きは宗教によって異なる)。そして,大抵の宗教はある種の“救い”,つまり現在の苦難がもはやなくなるような生活の希望について教えている(もっともその“救い”の性質はそれぞれ異なる)。
このことから学べることがあるか 人類は全体として,現在よりも優れた生活を享受する可能性を感じ取っているようです。しかし,個々の人は自分の直面する諸問題に立ち向かうだけの力がないと感じ,助けを求めることのできるより高い権威の必要性を認めています。
とはいえ,互いに矛盾する助言を差し伸べる宗教がこれほど多くある中で,人は自分が確かに必要としているこうした助けを求めてどこへ行ったらよいのでしょうか。そもそも,これら相反する宗教すべてはどこから出ているのでしょうか。どれが正しい宗教であるかを見分ける方法があるでしょうか。
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それらの宗教の起源はどこにありますかものみの塔 1982 | 6月1日
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それらの宗教の起源はどこにありますか
世界の諸宗教は実に多種多様ですが,特定の類似点が広く見られます。例えば,南米のブードゥー教,アフリカの部族民の宗教,東洋の大宗教,オーストラリアの原住民の宗教など,事実ほとんどどの宗教も,肉体の死後も生き続ける霊的なものが人間にはあると教えています。また,人類に善悪両面の影響を及ぼすことのある目に見えない霊の存在をほとんどの宗教が教えています。
宗教的な像の使用が非常に広範囲にわたって見られることにも気付いておられますか。さらに,多くの宗教は占いや占星術をならわしにしています。また,キリスト教世界の三位一体に似た三つ組みの神を持つ宗教は歴史を通じて驚くほどの数に上ります。
これらの諸宗教すべてがこのような類似の宗教上のならわしを各々別個に発展させてきたということがあり得るでしょうか。あるいは,それら諸宗教が何らかの仕方でそうした概念を共通の源から得た可能性の方が大きいでしょうか。確かに,そう考える方が道理にかなっています。では,その共通の源とは何でしたか。
この問いに答えるには,宗教がどこに由来するかという問題を取り上げなければなりません。これは歴史学者が十分に理解していない問題です。ワールドブック百科事典はこう述べています。「ある学者たちは先史時代に宗教がどのように始まったかに関する説を展開しているが,すべての学者たちに受け入れられている学説は一つもない」。しかし,宗教の起源について教えてくれる優れた権威があります。その権威は聖書です。
そのすべての始まり
ご存じのように,聖書は一時広く敬意を集めた本でした。残念ながら,最近ではそれを読む人の数が減少の一途をたどっています。それでも,宗教について論じるに当たって,聖書に言及しなければ片手落ちになります。なぜなら宗教的に言って,聖書は他のいかなる本よりも人類に大きな影響を及ぼしてきたからです。
また何にもまして,宗教がどのように始まったかに関する聖書の説明は,今日のわたしたちよりも実際の出来事の起きた時にずっと近い時代に生きていた人々が記録したものなので,その説明には重みがあります。聖書の述べる事柄を検討し,それによって得られた結論と現代の学者たちの学説の幾つかとを比較してみましょう。
聖書は人間が当初ただお一人の神を信じていたことについて述べています。これはその最初の人間が考え出した概念ではありませんでした。記録によると,神はご自分が命の偉大な源であられることを一番最初に人間に明らかにされました。神は人間の歩みが成功するように助けと導きを差し伸べました。(創世記 1:26-2:25)ですから,本来,宗教は一つしかありませんでした。では,今日の混乱した状態はどのようにしてもたらされたのでしょうか。
聖書によれば,これはその唯一の根源となる方に対する反逆に端を発しています。3,000年以上昔の一文書の中に,ニムロデという名の男がこの反逆を起こした人物であることが明らかにされています。ニムロデは都市の建設者となり,メソポタミアとして知られる古代の地域に数々の都市を築いてゆきました。今日,その地域はイラクの一部になっています。ニムロデの築いた都市の幾つかは,バベル,エレク,アツカデ,カルネなどと名付けられました。―創世記 10:10-12。
サイエンティフィック・アメリカン誌の中で,ロバート・M・アダムス博士は都市の建設を,「人間文化の第2次大“革命”」と呼んでいます。ニムロデの築いた諸都市は聖書中に記されている都市の中でも最初のものですから,この人が有していたに違いない影響力をうかがい知ることができます。
聖書によれば,これら古代諸都市の中でやがて最大のものになったバベル(つまりバビロン)において,神の明確なご意志,すなわち人間は全地に広がり,そこを人の住む所としなければならないというご意志をくじこうとする努力が払われました。人々はこう言いました。「さあ,我々のために都市を,そして塔を建て,その頂を天に届かせよう。そして,大いに我々の名を揚げて,地の全面に散らされることのないようにしよう」。(創世記 11:4,新)しかし,神が介入されたために,人々は自分たちの目的を果たすことができず,地の各所へ徐々に散って行きました。その際,人々は自分たちの反逆的な宗教概念を携えて行きました。
これを学者たちの現在の説と比べてみるとどうなるでしょうか。
その1: アメリカ百科事典はこう述べています。「学者たちすべては既知の文明の中で最初のものはメソポタミアのシュメール人の間に起きたという点でほぼ意見の一致を見ている」。ギデオン・ショーボルグ博士はサイエンティフィック・アメリカン誌に載せられた記事の中で,その点に同意してこう述べています。「分かっている範囲では,世界の最初の諸都市は……肥よくな三日月地帯で形成され,その三日月地帯の東側の部分にメソポタミアが含まれている」。ですから,科学者たちは聖書が述べているのとほぼ同じ地域で人類が主要な都市の建設に着手したと考えています。
その2: ニムロデが建てたと聖書の述べるそれらの都市の大半の名称や所在地は考古学者の間でよく知られています。
その3: メソポタミアの住民は宗教的な目的で大きな塔を築いたことが知られています。それらの塔はジッグラトと呼ばれています。もちろん,創世記 11章で言及されている塔そのものは完成に至りませんでした。しかし,考古学者たちはその塔に似ていると思われる完成された塔を数多く発掘しています。
その4: 「ニムロデ[Nimrod]」という名は聖書以外の文献の中に見られませんが,その名をバビロニアの主神であるマルドゥク[Marduk]の名と関連付けている百科事典もあります。いずれの名にも現われる“MRD”という文字がどちらの語の場合にも語根,つまり意味のある部分となっているようです。このように関連付けるのが正しいとすれば,後代にローマのカエサルやエジプトのファラオが神々として崇拝されたのと全く同様,ニムロデもやがて神として崇拝されるようになったことになります。
言うまでもなく,非常に古い昔に起きた出来事に関して考古学者の発見できる事柄は限られています。考古学者の発掘する遺跡の多くは余り良い状態になく,発掘したものを正しく解釈するにも困難が伴います。重要な証拠の大半は失われて永遠に姿を現わさないに違いありません。聖書研究者は聖書の記録の真実性を考古学が証明することをあてにしてはいません。a それでも,科学のこの分野が聖書に記録されている出来事の概要を確証しているのは注目に値します。
また,こうして明らかにされた古代史が今日の世界の宗教事情に関する特徴を理解するのに役立つことにも注目できます。どうしてそう言えるのでしょうか。メソポタミアの住民は,その初めの反逆の後,極めて信心深い人々だったことが示されているからです。それらの人々は人間には死後も生き続ける霊の部分があると信じていましたし,悪霊の存在を強く信じていました。また,偶像を用い,占いや占星術をならわしにし,三つ組みの神を持ってさえいました。これらの点は今日の数多くの宗教が共通して奉じている信条の幾つかです。
それでは,古代メソポタミアの宗教が広まって,世界中の諸宗教に影響を及ぼしたのでしょうか。そのような結論に到達した学者たちは少なくありません。「宗教史便覧」の中で,モリス・ジャストロー教授は,「バビロニアの宗教思想の際立った徴候が古代世界に残した深遠な影響」について語っています。
「死者の崇拝」という本の中で,J・ガルニエ大佐はこう述べています。「エジプト人,カルデア人,フェニキア人,ギリシャ人,ローマ人だけでなく,ヒンズー教徒や……仏教徒,またゴート人,アングロサクソン人,ドルイド教徒,メキシコ人やペルー人……にいたるまで,すべてはその宗教上のさまざまな考えを共通の源もしくは共通の中心地から受け継いだに違いない。その典礼,儀式,習慣,伝承,またそれぞれの神や女神の名や相互の関係に,まさに驚くほどの一致がいたるところに見られる」。これら初期のバビロニア人たちが世界の各地に移り住むことを余儀なくされた時に,自分たちの宗教上の概念をその新しい住みかに携えて行ったものと思われます。
では,この情報は今日正しい宗教を見定めるのに役立つでしょうか。
[脚注]
a 聖書を真理として受け入れるべき確かな理由をさらに知りたいと思われるなら,ニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会発行の「聖書はほんとうに神のことばですか」という本をご覧ください。
[5ページの拡大文]
三つ組みの神々。像の使用。占星術。目に見えない霊の存在。死後も生き続ける人間の霊の部分。これらの信条はほとんどの土地の宗教に共通して認められる
[4ページの図版]
古代バビロン
マヤのピラミッド
ヒンズー教の三神一体
キリスト教世界の三位一体
マリア崇拝
先祖崇拝
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正しい宗教を見いだせますかものみの塔 1982 | 6月1日
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正しい宗教を見いだせますか
これら様々な宗教すべての起源を知っていれば,どれが正しい宗教かという質問に答えるのが容易になります。真の宗教は,命の真の源に対する古代の反逆にその起源をたどれるような宗教ではないはずです。
「世界の宗教の百科事典」はこの点で助けになる次のような興味深い注解を述べています。「世界の諸宗教はおおまかに言って二つのタイプに分けることができるかもしれない。預言的な宗教と神秘主義的な宗教である。……預言的なものは[つまるところ]ユダヤ人から[出ている]」。
聖書の記録によると,ユダヤ人の先祖は命の真の源である方に対するバベルでの反逆に加わりませんでした。ユダヤ人の先祖にはセム,アブラハム,イサク,ヤコブなどの人がおり,それらの人々は神への清い崇拝に固く付き従ったことで知られています。事実,アブラハムは「エホバの友」と呼ばれました。「エホバ」というのは聖書の中で明示されている真の神のみ名です。(出エジプト記 6:3。詩篇 83:18。ヤコブ 2:23)アブラハムのような仕方でエホバを崇拝している人々が今日いるでしょうか。
真の崇拝者の系譜
アブラハムの忠実さのゆえに,エホバ神はアブラハムの子孫がやがてご自分の目に特別な国民となることを約束されました。この約束は古代イスラエル人に成就しました。イスラエル人は神が次のように言われるのを聞きました。「もしわたしの声に固く従い,わたしとの契約をほんとうに守るなら,あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである」― 出エジプト記 19:5,新。
エホバへの崇拝を長年にわたって地上で生きた崇拝として保ってきたのはユダヤ人でした。もっとも,彼らは罪や背教に陥ることがままありました。とはいえ,エホバは人類に救いをもたらす特別な使者を遣わすことをイスラエル人に繰り返し告げておられました。1,500年後に,この方が登場しました。それはイエス・キリストです。
残念ながら,イエスが来られた時までに,ユダヤ人はエホバから遠く離れていました。依然としてエホバを崇拝すると主張してはいましたが,イエスが幾人かの宗教指導者について語られた次の言葉通りの状態が見られました。「あなたがたは,自分たちの伝統のゆえに神のことばを無にしています」。(マタイ 15:1,6)ユダヤ人はイエスに反対したために,神により退けられました。イエスはユダヤ人にこう警告されました。「神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです」― マタイ 21:43。
キリスト教
その「国民」はクリスチャン会衆であることが明らかになりました。その人たちは,ユダヤ人が全体としてイエス・キリストを退けた時に,その方を受け入れ,神はそれら忠節な者をその信仰のゆえに祝福されました。イエスの死後ほどなくして,神はイエスの真の追随者たちに奇跡的な仕方で力を与え,外国語を話せるようにさせました。それも,わけの分からない無意味な言葉ではなく,他の人々の理解できる実際の言語でした。いやしや復活や他の様々な奇跡が,神のお用いになる「国民」が確かにそこに存在するという事実に重みを加えました。―ヘブライ 2:4。使徒 2:1-4; 3:1-10; 9:32-41; 20:7-12と比較してください。
『でも,キリスト教は今日世界のほかの諸宗教と同じほど混乱しているではないか。自らキリスト教を奉じると唱えるグループは幾百となくあるが,いずれも互いに異なり,矛盾している。どうしてこうした事態が見られるのか』と言われるかもしれません。
歴史は,多くのクリスチャンがユダヤ人と全く同じ道をたどったことを示しています。それらの者たちも背教したのです。そして,イエスの音信を他の宗教の教理と混合したのです。こうして,キリスト教にもユダヤ人にも起源を持たない,三つの位格を持つ一つの神(三位一体)などの教理が教えられるようになりました。
こうした教理は実際にはどこに由来しますか。三位一体に関し,一人の学者はこう書いています。「新約聖書のどこにも『三位一体』という語は現われない。この概念はわたしたちの主の死後300年して教会により採用されたにすぎない。そして,この概念の起源は専ら異教にある」。(アーサー・ウエイガル著,「キリスト教に見られる異教の影響」)魂の不滅の教理,広く見られる像の使用,人気の高い占星術,その他なじみの深いキリスト教世界の教えやならわしの多くについても同じことが言えます。それらの起源をたどってゆくと,命の真の源であられる方に対する当初の崇拝にではなく,メソポタミアにおける古代の宗教的な反逆に行き着きます。
しかし,すべてのクリスチャンが堕落したわけではありません。イエスご自身まさにこの背教について警告しましたが,同時に真の宗教は終わりまでずっと存続しつづけることを約束されました。(マタイ 13:18-30)では,今日どのようにしてそれを見定めることができますか。
真の宗教を見いだす
イエスは真の宗教を見分けるための法則をお与えになり,「良い木はみなりっぱな実を生み出し(ます)」と言われました。悪い実は偽りの宗教を見分けるしるしになり,良い実は真の宗教を明らかにします。―マタイ 7:15-20。
真の宗教が生み出す実とは何ですか。このページの表には聖書の述べるそうした実が挙げられています。ご存じの宗教すべてをこの表に照らして調べれば,どの宗教に真理があり,どの宗教に真理がないかすぐに識別できるに違いありません。
しかし,この表を注意深く調べてみることが必要です。例えば,『純粋の愛がある』ことが真の宗教のしるしの一つになっていることが分かります。さて,ほとんどの宗教は口ではそのような愛があると言います。しかし,ある宗教の会員の間に商売の上での欺き,不道徳,あるいは利己主義などが広く見られるなら,その人たちは本当に互いに愛を示しているでしょうか。また,革命や戦争で互いに殺し合うのをいとわないとすれば,その愛はどれほど純粋ですか。同様に,別のしるしとして,「その信条はすべて聖書に基づいている」というのがあります。言うまでもなく,キリスト教世界の大抵の宗教の会員は自分たちの属する宗教団体についてそう言えると考えています。しかし,会員すべてが自分たちの聖書をわざわざ開いて,自分たちの信じている事柄が確かに聖書に基づいているかどうか調べる宗教をご存じですか。
それを探すのに問題があるように思われるなら,エホバの証人は喜んでお力になります。
確かに,真の宗教を探し求めることには努力を払うだけの価値があります。人間は本能的に,自分が現在享受しているよりも良い生活を必要としていると感じるものです。真の宗教はそうした生活へとわたしたちを向かわせます。「わたしたちはどうしてここにいるのだろうか」とか「人生の目的とは何か」といった疑問が起きるのは当然のことです。わたしたちは真の宗教により,すべての命の源であられるエホバ神と接することができるようになり,神はわたしたちのこうした質問に答えてくださいます。さらに,わたしたちすべては日ごとに直面する様々な問題を解決するのに導きがどうしても必要になることがあります。真の宗教はそうした導きを与えてくれます。
確かに,真の宗教は存在するのです。そしてそれを見いだすことは可能なのです。そうすることは,とこしえの益をもたらします。聖書は次のように約束しているからです。「エホバを求める者たちは,良いものに少しも不足しない」― 詩篇 34:10,新。
[8ページの囲み記事]
真の宗教を見分けるしるし
□ それを実践する人々の間には純粋の愛がある。―ヨハネ 13:35。
□ その信条はすべて聖書に基づいている。―ヨハネ 17:17。テモテ第二 3:16,17。
□ 神がご自分のみ名を神聖なものとしてくださるよう祈る。―マタイ 6:9。詩篇 83:18。
□ 全地で神の王国をふれ告げる。―マタイ 24:14。
□ 世の事柄からいつも離れている。―ヤコブ 1:27。ヨハネ 17:14。
□ 神の王国と義を生活の中で第一にする。―マタイ 6:33。
□ 神の霊の実を培う。―ガラテア 5:22,23。
□ 神の律法に反しない人間の法律すべてに従う。―ローマ 13:1-7。
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「重い荷」を軽くしてくださったかたものみの塔 1982 | 6月1日
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「重い荷」を軽くしてくださったかた
イエスは書士やパリサイ人に関してこう言われました。「[これらの者は]重い荷をくくって人の肩に載せますが,自分ではそれを指で動かそうともしません」。(マタイ 23:4)これが確かにその通りであったことの証拠として,ジェームズ・ヘイスティングズ編の「聖書辞典」の中に次のように書かれています。
「書士たちは哲学者ではなく,聖なる律法の解釈者であった。……生活のあらゆる分野がそれによって規制されていた。……聖書の律法おのおのの周りには細かい規則が網の目のように巡らされていた。状況の変化のゆえに情状が酌量されることはなかった。ユダヤ人すべてには律法をその詳細な点すべてに至るまで完全に守ることが容赦なく求められた。成文化された律法の条項に加えて,“ハラカー”つまり伝承法の戒律が付け足された。それらは聖なる義務として代々伝えられ,最終的にはタルムードに組み込まれた。……人を抑え付けるような厳しい規則によって人間の行動全体を規制するあわれみのない論理をもって,考え得るあらゆる事例を律法のわく内に収めようとする試みはこうして行なわれた。法的な細かい規則が増えてゆき,宗教が商売にまでなり,生活は耐え難い重荷になっていった。人は道徳的な機械人間になりさがってしまった。良心の声は押し殺され,神の言葉の生きた力は骨抜きにされ,延々と続く規則の塊の下に埋もれてしまった。ゆえに,わたしたちの主はパリサイ人がその伝統によって律法を無効にしていると非難されたのである」。
神のみ子が崇拝に関してパリサイ人のような見方を持っておられないことを知って,謙遜で,誠実な人々は大いに励まされたに違いありません。そうした人々はイエスの次の言葉を聴いて本当に喜んだことでしょう。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなたがたをさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負ってわたしの弟子になりなさい。わたしは柔和で,心のへりくだった者だからであり,あなたがたは自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきはここちよく,わたしの荷は軽いのです」― マタイ 11:28-30。
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