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だれが宗教に本当に関心を持っているかものみの塔 1978 | 4月15日
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だれが宗教に本当に関心を持っているか
はい いいえ
あなたは宗教をお持ちですか。 □ □
あなたは宗教に本当に関心がありますか。 □ □
あなたは恐らく最初の質問のあとの,「はい」のところにしるしをつけられたでしょう。というのは,25億を上回る人々が世界のおもな宗教に所属しているからです。また他の宗教に属する人や他の宗教的信条を信奉している人も多数います。
しかし,二番目の質問はどうでしょうか。あなたは宗教に本当に関心がありますか。宗教はあなたの生活の重要な,また大きな影響を及ぼす部分なので,あなたは正しい宗教に関心を示されますか。
今日,多くの人は宗教にほとんど関心を示しません。宗教について話すこともあまりしないし,宗教を特に自分の生活に生かすということもしません。あなたはいかがですか。もしわたしたちが,あなたの隣人,仕事仲間,または学校の同期生などを対象に,あなたが宗教に関心を持っていると考えるかどうか,世論調査を行なうとしたら,大部分の人はどう答えるとあなたはお考えになりますか。
ほとんどの人が関心を持つか
幾つかの点を検討してみると,「だれが本当に宗教に関心を持つか」という質問に答えることがなぜむずかしいか,その理由をよく理解することができるでしょう。
一方,宗教に今日かなりの関心が払われている証拠もいくらかあります。あなたは,例えば,宗教を主題にした本や新聞記事が非常に多いことにお気づきでしょうか。ある作家は宗教書の売れ口について次のように述べています。
「かつては宗教書は信仰の厚い人々に売れたものだ。そして書店は,宗教をけなすような本は店に置かなかった。置くとすれば偶像崇拝か異端の宗教で真の宗教ではないとだれもが知っていた『異教』をけなすような本だった。それが現在では宗教書は,教会へ行かない人々で,因襲的に信仰心のある人はどうして『あのようになるのだろう』,自分もあのようになればもっと幸福になれるだろうか,と考える人々にも売れており,しかもその売れ行きは伸びている」。
さらにわたしたちは,宗教に対して強い関心のあることを物語る別のめいりょうな証拠を見ないわけにはいきません。人々は宗教のゆえに戦っており,互いに殺し合うことさえしています。なるほど人は戦争をそのようには考えないかもしれませんが,実際にはそうしたことが起きているのです。
例えば,フィリピンやレバノンにおける宗派間の激しい戦いはどうですか。ベトナムで生じた仏教徒とカトリック教徒との紛争を思い出しませんか。アイルランドにおけるカトリック・新教徒間の残虐行為も無視できません。そこでは人々が宗教ゆえに射殺されたり,爆弾で吹き飛ばされたりしています。最近の一AP特電は次のようにはじまっています。
「世界の諸宗教は,平和,公正,愛などを教えるが,また誓約,忠誠,熱情なども喚起し,不合理なことに戦争を引き起こすこともある。……『血なまぐさい,残忍な戦争が神の名の下に依然として戦われている』」。
宗教の名において戦うといえば,多くの人が宗教に強い関心を持っているように聞こえるかもしれません。しかし,あなたは,ご自分の仕事仲間や学友,あるいはあなたの住んでおられる地域社会の中のほとんどの人が宗教に強い関心を持っていると本当にお考えになりますか。その人たちは自分の宗教がどんなことを教えているか,またなぜそのように教えるかを,正確にあなたに話すこともできますか。
一つの例を考えてみましょう。1977年に,哲学の教授ウオルター・カウフマンは,ある国における宗教的信仰について書きました。それで同教授の言葉をここに掲げますが,教授の挙げた国名と聖典の名前は省きます。それで,あなたの住んでいる国の名前と,その国で広く受け入れられている聖典とをそこに記入して,教授の言っていることが真実であるかどうか調べてみてください。
「[あなたの国]のほとんどの人は,自分が何を信じているのか正確には知らないし,そのことについて深く考えたこともない。何を信じているのか突然に尋ねられると,何年も昔にそういう問題について話した時にさかのぼるような答えをする。[彼らの聖典]の文字通りの解釈を信ずると言う人は,ほとんどの場合,[その聖典]に書かれていることを知らない。そしてだれかがそれを告げるなら,むしろ驚いてしまう」。
そうです,宗教は一方では「誓約,忠誠,熱情を喚起し,時には戦争」を引き起こすようですが,その反面,一般の人々は,自分の宗教が何を教えているかもしらず,またそれを知ろうともしません。―ローマ 10:2を参照。
新聞のこの見出しに注目してください。
宗教復興の傾向をあざわらう道徳の低下
この見出しはあなたの周囲の状況をかなりよく描写している,と思われますか。アメリカで行なわれた一つの全国的な世論調査は次のことを示しました。「宗教が社会に及ぼす影響は増大しているが,道徳はその影響力を失いつつある。俗世間は,宗教がわれわれの生活に大して感化を及ぼしていない証拠を豊富に提出しているようだ」。
この状態は一国に限られているわけではありません。多くの国の人々は,基本的には宗教心のあることを認めますが,彼らの生活は,宗教の影響がしだいに弱まりつつあることを示しています。
カナダから寄せられた一報告は,その理由の一つを見抜いています。それによると,人々は基本的な霊的飢えの状態にありますが,おもな宗教はその飢えに対処するどころか,かえって「激しい,広範囲にわたる宗教的消化不良」を起こさせています。カナダ・カトリック司教会議の席上で,あるオブザーバーは一般の人々が次のような典型的反応を示すことを訴えました。
「今日,人はそれぞれ心に深い疑問を抱いています。その答えは宗教には,つまり教会には見いだせません。わたしは信仰はあるのですが,教会に何かが欠けているのです」。
それともあなたは人が次のように言うのを聞いたことがありますか。教会の礼拝に出るよりもサイクリングのほうを好んだある人は,「多くの牧師は金もうけのために説教をしている。近ごろは説教が大きな商売になっている」と言いました。
それは何を意味するか
以上のことは,あなたとあなたのご家族にとって何を意味するでしょうか。
宗教的熱情が今日も依然として人々を,憎しみ,殺人,戦争へと駆り立て得ることは否定できません。しかし同時に,宗教に対する不満が増大している証拠もあります。霊的に飢えている人や崇拝したいという願いを持っている人は少なくありません。しかし宗教については混乱しており,確信がありません。信心深く見えるのはきまりが悪いとか,宗教は自分にはややこしすぎて分からない,と考えているのかもしれません。あなたもそのように感じておられるでしょうか。
あるいはあなたは自分にはかなりの信仰心があるとお考えかもしれません。ご自分の宗教に関心を持ち,自分の宗教は正しいと確信しておられるかもしれません。いずれにせよ,正しい宗教の問題を少し考えようという勧めに応ずるだけの十分な理由はあります。「偉大な宗教指導者たち」という本は次のような意見を述べています。「宗教が個人のために,また個人に対して何をなすか,また人の能力が,宗教を理性的に理解し活用することによってどのように増すかを,われわれが本当に知るなら,人生は生きる価値を無限に有するものとなるはずである」。
宗教は『人生をもっと生きる価値のあるもの』にするはずであるばかりでなく,実際に価値あるものにすることを事実が証明していると,わたしたちは確言することができます。しかし,あなたがこの言葉に共鳴されるかまたは異議を唱えられる前に,わたしたちは真の宗教の問題についてさらに検討されることをお勧めします。真の宗教は一つあるだけでしょうか。もしそうであるなら,どうすればそれを見分けられますか。またそれはあなたにとって何を意味するでしょうか。
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真の宗教 ― それはどのように見分けられるかものみの塔 1978 | 4月15日
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真の宗教 ― それはどのように見分けられるか
『神にじゅうぶん喜ばれる者となることを目ざして,み旨に関する正確な知識に満たされるようにしなさい』― コロサイ 1:9,10。
1-4 (イ)宗教の問題を判定することを,多くの人はどのように考えますか。(使徒 18:12-17)(ロ)なぜあなたは,あるいはほかの人は,そのように考えますか。
どの宗教が真の宗教か,ということで二人の人が議論していて,どちらの言うことが正しいか,“審判者”として座って判定してほしい,と頼まれたなら,あなたはその役を引き受けたいと思われますか。
2 宗教ほど論議を呼ぶ問題はまずありません。歴史は,キリスト教の初期指導者の一人である使徒パウロが関係していた,注目に価する例を提供しています。宗教的見解の相違から暴動に近い騒ぎが起きて,パウロは逮捕されました。パウロの裁判にあたったのは,ローマ領ユダヤ州の知事フェストでした。パウロを告訴したのは,大祭司アナニアを含むユダヤ教の宗教指導者たちでした。フェストは後ほど,王ヘロデ・アグリッパ二世に,その出来事を次のように報告しました。
3 「[パウロ]と対決したとき,彼を訴えた者たちは,私が予期していたような犯罪を申し立てて彼をとがめることは何一つ行ないませんでした。しかし彼らは,彼ら自身の宗教について彼といくばくかの議論を行ないました」― 使徒 25:18,19,エルサレム聖書。
4 よくお分かりのように,知事フェストは宗教論争に巻き込まれるのを好みませんでした。真の宗教を持っていると主張することも,どれかの宗教が真の宗教かどうか決めようとすることも,賢明ではないと多くの人は考えます。『それぞれが自分の欲するところを信じればそれでよいではないか。どの宗教にも良いところはあるものだ』といった,賢明で寛大に思える意見を,あなたも耳にされたことがあるにちがいありません。
5 宗教の問題はすべての人に関係があると言えるのはなぜですか。
5 それでも,わたしたちすべてがこの問題に関係のあることは間違いありません。これはわたしたちが個人的に避けることのできる問題ではありません。科学的であることが,また共産主義の世界では無神論が,ますます重視されてはいても,宗教はわたしたちの精神構造の一部なのです。ある百科事典はそのことを次のように表現しています。
「あらゆる年齢層でなる,そして地球のあらゆる場所に散らばっている全人類のうち,次の事実に対して十分に証明された例外は皆無である。その事実とはすなわち,人間は内部的衝動に動かされ,また啓示や伝統に導かれて,超自然的存在としての属性を有していると自分が信ずる何者かを崇拝する,ということである」。
6,7 真の宗教を調べてみなければならないどんな理由がすべての人にありますか。
6 「宗教と哲学」という本は,遠い過去の宗教について次のように述べています。「世界の起源とその中で人間が占めていた役割とは,死と同じほどなぞであった。これらの問題に関する説明はそれぞれ大いに異なるが,それらは依然として現代の宗教の基礎をなしている。科学は今この場の現象のほとんどについて説明できるが,あらゆる場所の人々は相変わらず,数十年の寿命以上の希望を探り求めている」。
7 確かに,こうした基本的な質問に対する答えや将来に対する希望に関しては,幻想や神話に頼りたいとは思いません。ですからわたしたちには,真の宗教を見分けるというこの問題を調べてみる十分の理由があるのです。
8 宇宙を注意深く観察するとき,どんな考えが人の脳裏をよぎることがありますか。
8 無神論者は,神はいない,という見方をしますが,一方不可知論者は,このことが本当に分かる人は一人もいない ― われわれはただここにいるだけなのだ,と言います。しかしこうした見方は本当に事実と一致調和しますか。また中には,哲学者で歴史学者のウイル・デュラントの示した考えに共鳴する人々もいます。彼は次のように言ったと伝えられています。
「わたしはすべての生物の中に創造主の推進力を感じる。そして原子の中,爆発を起こすそのすべての電子の中にさえ,これに相当する何かがあるのではないかと思う。原子は死物ではない。原子は生命で……鼓動しているものである。したがってわたしは宇宙を機械と考えることはできない。機械は生命で鼓動してはいない。生命で躍動する何かがそれに働きかけないなら,完全に静止したままでいる」。
多くの人,実は一部の不可知論者でさえ,生命に関する答えを求めてそのような考えと取り組みました。そしてこの高い知的存在者,この創造者は,わたしたち人間が自分の子供に対してするように,ご自身の創造物のために答えを,あるいは情報を当然与えてくださるはずだと考えました。
真の宗教を探り求める
9 聖書を調べたあるイラン人の取った道は,なぜ道理にかなっていたと言えますか。(ヨブ 35:9-11)
9 誠実な気持ちで真理を探し求めている人々はたいてい,神がいるに違いないこと,また神が当然ご自身の意志を啓示し,人間はなぜ存在するのか,生命とは何か,人間の将来はどうなるか,などについての答えを与えてくださることを認めます。西ベルリンに住むあるイラン人の場合を考えてみましょう。何年か前,その人の父親は有力な政治家でしたが,政変後家族を連れてソ連へ行き,息子はそこで勉強して技師になりました。やがてその青年は東ベルリンに移り,後日西ベルリンへ逃げました。彼はこのように語っています。
「わたしは東洋のある宗教に属していましたが,宗教活動は行なっていませんでした。それでも子供の時から神を信じており,人生の目的について,また宗教がこのように多くある理由について,よく考えたものでした。1975年の夏に,わたしは二人の聖書研究者に会い,いろいろな問題について語り合いました。彼らの説明で,聖書が神の霊感によって書かれたものであるという結論に達することができました。二人は家までわたしを訪ねて来てくれました。わたしたちは宗教の違いについて議論に花を咲かせました。彼らは『宗教は人類のために何を成したか」a という本を置いて行きました。その本の中の聖書に基づいた説明は,わたしの人生観を全く変えてしまいました。わたしの学んだことと,それがわたしの考えと行動にもたらした変化は,わたしに大きな喜びをもたらしました」。
この技師が聖書を検討したのは,なんと道理にかなったことだったのでしょう! 聖書には,すべての聖典の中でも最も古い,そして最も広く普及している聖なる文書が収められているからです。人間はなぜ存在するのか,なぜ死ぬのか,将来はどうなるのか,といったわたしたちが答えを必要としている問題と取り組めるのは聖書だけです。
10 聖書を使っている宗教がすべて基本的に同じことを教えているかどうかについては,なんと言えますか。
10 聖書という言葉を口にするとあなたは,『聖書を受け入れる人はほとんどみな基本的に同じことを信じている』と,お考えになるでしょうか。多くの人はそう考えます。ところが,決してそうではないのです。西ベルリンに住む例の技師のように,真の崇拝というこの重要な問題を調べた,誠実で,理性的な幾百万もの人々は,聖書に基づいていると主張するさまざまな宗教の教理と実践が非常に異なっていることを知っています。また率直に言って,これらの宗教の大部分と聖書そのものとの間にも大きな相違があるのです。これらの相違は,人生や宗教との取り組み方全体に影響しかねません。それでこれから基本となる重要な点を幾つか検討してみたいと思いますので,あなたご自身の宗教または信条を分析してみてください。『わたしは個人として真の崇拝を求めているだろうか』と,自問してみてください。そしてもしあなたの信仰や行ないがなんらかの点で真の宗教と一致していないことがお分かりになったら,これからどうするか真剣にお考えになってください。
11 わたしたちすべてが,自分の信仰と行ないに調整を加えることをためらうべきでないのはなぜですか。
11 聖書に親しんでいる人なら,自分の信仰や行動を調整しなくてはならないとしても,別に驚くことはないでしょう。例えばイエス・キリストは,当時のある非常に信心深い人々について,『彼らが行なう崇拝は無価値である。彼らが教える教理は人間の定めたおきてにすぎない』と言われました。(マタイ 15:9,エルサレム聖書)これはまた教理だけの問題でもありません。イエスの異父兄弟ヤコブは次のように書いています。「もし信仰が良い行ないから離れているなら,それは死んでいる」,「だれも,依然自分を欺きつづけ,また舌を制しないでいながら,自分は信心深い,などと考えてはいけない。これを行なう者はみな,宗教について間違った考えを持っているのである」― ヤコブ 2:26; 1:26,エルサレム聖書。
重要な物語
12,13 アダムとエバの話には,真の宗教を見分けようとする人の助けになるどんな細かな点が含まれていますか。
12 真の宗教という問題について考えるとき,多くの人はまずイエスが教えたことや行なったことについて考えます。しかしわたしたちはそれを調べる前に,聖書の最初の本である創世記に少し注意を向けてみましょう。アダムとエバについて聖書に述べられていることは,世界中の人がよく知っています。それは簡単な物語のように思えるかもしれませんが,真の宗教の明白な証拠をさがすに当たって調べるべき,重要な箇所なのです。
13 創世記は,神が人を直接に創造されたことを簡潔に伝えています。神は地の諸元素から人を形造り,それから『その鼻孔に命の息を吹き入れはじめられました。すると人は生きた魂になりました』。(創世 2:7,新)創造者は,アダムが住んでいた園の木の一本を,善悪の知識の象徴として指定し,こう命令されました。「園のどの木からも,あなたは満足のゆくまで食べてよい。しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日に,あなたは必ず死ぬからである」。(創世 2:16,17,新)こうして神は,何が善で何が悪かを決めるご自分の権利を示されました。アダムは,何が善で何が悪かを,あるいは何が正しい宗教で何が正しくないかを,苦しい試行錯誤によって理解していくように放置されたのではありません。創造者はまた女エバをお造りになり,これを永久の配偶者としてアダムにお与えになりました。そのことについては次のように書かれています。「それゆえに男は父と母を離れる。そして,自分の妻に堅く付いて,ふたりは一つの肉体とならなければならない」。(創世 2:24,新)さて,わたしたちは,真の宗教を見分ける努力を払うに際して,この有名な物語から多くのことを学ぶことができます。
14 創世記に述べられていることと進化論に関して,あなたは人とどのように論ずることができますか。
14 まず,聖書は,人間が神によって直接に創造されたことを,明白に述べています。(創世 2:7)ある種の動物から幾百万年にわたって進化したとは言っていません。どうしてそれが分かりますか。なぜなら,その記録には,動物は「その種類にしたがって」繁殖する,とはっきり述べられているからです。(創世 1:21,24,新)確かに,動物の同一種類内には多様な変化があります。たとえばネコ科の中にはいろいろな形や大きさのものがいます。しかし神のもうけた法則は境界を定めています。そのために動物は一つの種類から別の種類の動物に進化することも,また地上の被造物の中で最高のものである人間に進化することもできませんでした。また,中間の動物が発見されたこともありません。あなたの宗教は聖書の記録を受け入れていますか,それとも,人気はあっても証明されていない進化論に同調するものですか。
15 創世記はアダムとエバの命および見込みについて,なんと述べていますか。(創世 1:28)
15 次にわたしたちは,アダムがこの地球上で永久に生きる見込みをもって創造されたことに注目することができます。神は,もしアダムが背くなら彼は死ぬ,と言われました。その逆は明白です。もし神に従うなら,彼は死なないのです。彼は地上で生きつづけます。どんなものとして生きつづけますか。人間の魂としてです。「人は生きた魂になった」と書かれていなかったでしょうか。―創世 2:7,新。
16-18 真の宗教を見分けることについてだれかと論ずる際に,人間の魂,死,死後の命の可能性について創世記が述べていることを,どのように用いることができますか。
16 これらは重要な事実です。なぜなら非常に多くの宗教は,個々の人の中に不滅の魂があると主張しているからです。これは,古代エジプトやバビロンにおける顕著な教えでした。そして現在でも多くの宗教に見られます。しかしこの教えは,創世記がアダムについて述べていることと一致しますか。少しも一致しません。アダムは彼の中に不滅の魂を持ってはいませんでした。アダムは魂でした。では死んだらどうなるのでしょうか。霊者として不滅の魂を得るのでしょうか。そうではありません。彼は地に戻るのです。「あなたは塵だから塵に戻る」と神は言われました。(創世 3:19,新)アダムの死は神のおきてを破った罰となるもので,どこか別の場所で不滅の命を受けるための第一歩ではなかったのです。
17 『わたしの宗教はわたしにこのことを教えてくれただろうか』と自問してみてください。人間には,肉体が死んでも生きつづける不滅の魂がある,と教えている箇所は聖書のどこにもありません。聖書はそれよりも優れた希望を与えています。つまり神は人を魂として生き返らせ,地上で,あるいは霊の領域で生きるよう復活させることがおできになる,という希望です。―使徒 24:15。コリント第一 15:35-38。
18 あなたの宗教は,創世記に記されているところにしたがって,神の目的は人間が地上でいつまでも生きることであった,ということを認めているでしょうか。おもだった宗教の多くは,天国や涅槃などにおける来世に重点を置いています。真の宗教の一つの特色は,地球は人の住みかであり,神が人間を永久に住まわせようとしておられる所である,という聖書の教えを受け入れる点にあります。―イザヤ 45:18。
行ないも関係している
19,20 自分の宗教が行なっていることを調べるよう人を援助するために,創世記が善悪の知識の木について述べていることを,どのように用いることができますか。(出エジプト 20:15。ヨシュア 7:20-25)
19 創世記中に示されている真の宗教には,特定の教理や信条だけでなく,行ないも関係していることをわたしたちは知らねばなりません。
20 アダムとエバが,例の木の実に関する神のおきてを破ったとき,その罪の最も重大な面は彼らの不従順でした。しかし,それと同時に彼らは自分のものでないものを取っていたという事実を,お考えになったことがありますか。ある意味でそれは盗みと言えるかもしれません。彼らは不従順のゆえに,盗みを含むその罪のゆえに,真の崇拝の園から追い出されました。ご存じのように,大抵の宗教は盗みを良くないこととしています。しかし,実際には,万引をする者にせよ,人々を欺いたり,会社の金を使い込んだりするホワイトカラーの犯罪者にせよ,悔い改めずに盗みをつづける人をそれらの宗教はどう扱うでしょうか。神がアダムを追放されたように,常習的な盗人を“教会”から追放しますか。よく考えてみてください。
21 結婚に関して創世記 2章に述べられていることは,多くの宗教で普通に見られることと,どのように対照的ですか。(創世 20:1-9)
21 次に,結婚の問題も検討してみましょう。今までのところ,わたしたちはアダムとエバの話を取り上げただけですが,それでも彼らが共にいるべきことについて述べられていることを考えるなら,わたしの宗教は結婚と離婚に対しどんな態度を取っているだろうかと,十分自問することができます。夫と妻は共にいるべきもの,と考えられていますか,それとも離婚はありふれた,だれも気にかけないものになっていますか。神は『離婚を憎む』かたと述べられています。(マラキ 2:16)これが,あなたの知っている宗教,もしかしてあなたの属しておられる宗教に,行き渡っている見方でしょうか。
真の宗教におけるノアの経験
22,23 他の人々が真の宗教を見分けるよう助ける際に,ノアの行動と大洪水の話について,彼らとどのように論じ合うことができますか。(エゼキエル 14:14。ヘブライ 11:7)
22 では次に,真の宗教を見分ける助けになる,聖書の別の話を考えてみましょう。これにはノアが関係しています。ノアは「真の神と共に歩んだ」と言われている人です。「人の悪が地にあふれ,その心の考えの傾向がすべてただ常に悪いだけで」あったときに,ノアは真の宗教を自分だけのものにしておきませんでした。彼はそれを個人的な,他人と関係のない事柄とは考えませんでした。彼は「義の宣明者」でした。聖書によると,神は世界的大洪水をもたらし悪人を滅ぼされましたが,ノアとその妻,三人の息子と彼らの妻を保護されました。―創世 6:5–8:2。ペテロ第二 2:5。
23 ノアと大洪水の話は,ぐう話ないしはたとえ話にすぎないと言う人もあるかもしれません。あなたの宗教はこれに関してどんな立場を取りますか。もしあなたがその宗教の指導者の一人に質問するとしたら,聖書に書かれているノアと大洪水の話はおもしろいけれども,文字通りに取るべきではない,と答えるでしょうか。もしそう答えるとしたら,それは重大なことです。というのは,その人はそれによって,キリスト教の創始者イエス・キリストに反対する立場に立つことになるからです。イエスは,聖書に記されているノアと世界的大洪水に関する話を,歴史的事実として信じておられましたし,イエスの使徒たちもそう信じていました。―ルカ 17:26,27。ペテロ第一 3:20。
24-26 神はノアにどんな命令をお与えになりましたか。それらはなぜ注目に値しますか。
24 創世記 9章の記録によると,ノアとその家族が箱船に乗って洪水を生き残り,その中から出てきたとき,神は今日わたしたちが真の宗教を見分けるのに役立つ幾つかのはっきりした命令をお与えになりました。それは次の通りです。
「生きている動く生き物は皆あなたがたのための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれをすべてあなたがたに確かに与える。ただ,その魂 ― その血 ― を持つ肉は食べてはならない。加えてわたしは,あなたがたの魂の血について代償を求める。……だれでも人の血を流す者は,人によって自らの血を流される。神の像に彼は人を造ったからである」― 創世 9:3-6,新。
25 神はこの声明を幾千年も昔に出されましたが,それは人間の歴史の新しい一章が始まるときに出されたものでした。このことは,何が真の宗教かを確証するにあたってそれが重要なものであることを強調しています。ノアはその息子たちを通して全人類の先祖になりました。したがって,神がノアに命じられたことは当然,今日地上にいるすべての人間に当てはまります。
26 その命令は,ノアとその家族にとって何を意味しましたか。一つには,血の抜かれていない肉をそのまま食べてはいけない,ということでした。つまり,魂としての動物の命を象徴する血を食べることは禁止されていたのです。またノアは,人間の命を取ってはならない,とも告げられました。したがって全人類は,ノアの子孫ですから,神の是認を得たいなら,血と命に対して当然の敬意を払わなければなりません。
27 真の宗教を見分ける努力としてさらに何を調べるのは順当なことですか。わたしたちはなぜ一貫性を求めるべきですか。
27 わたしたちはこれまで,聖書にある初期の記録を二つだけ考えてみたにすぎませんが,それでも,真の宗教を見分ける特色を幾つか取り出すことができました。わたしたちすべては,崇拝したいという欲求を心に宿しているのですから,今まで調べてきたことは,わたしたちにとって大いに役立つはずです。しかし,次に,キリスト教が発足した当時の,キリストおよびその使徒たちの教えの幾つかの面を検討すれば,真の宗教を見分けるうえでさらに助けを得ることができます。またそうすることによって,わたしたちは,真の宗教のそれと確認できる特色に関し,聖書の初めの部分とあとの部分の間に一貫性のあることを知ることができます。
[脚注]
a 1951年にものみの塔協会が発行したもの(日本文1955年)。
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キリスト教,そして真の宗教の記録ものみの塔 1978 | 4月15日
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キリスト教,そして真の宗教の記録
1,2 一般に「キリスト教」と呼ばれているものと,イエス・キリストの宗教とはどのように違いますか。
1976年12月24日付のデトロイト・フリー・プレス紙は,次のように問いかけています。
今日のクリスチャンは,先に立ってキリストを再びはりつけにするだろうか
これに続く記事の中で,寄稿家のシドニー・J・ハリスは次のように書いています。
「もしクリスマスの日に再臨があったとしたら,キリストはほどなくして再びはりつけにされないだろうか。そしてこんどはローマ人やユダヤ人ではなく,クリスチャンと誇らしげに自称する人々によって。
「人間の行為と社会的関係について,奇妙で,極端で,“非実際的な”教えを教えるこの人を,今日のわれわれはどのように考えまた扱うだろうか。……
「彼は悪に刃向かうのではなくて善をもって悪に返しなさいと勧めるから,われわれの中の軍国主義者たちは,彼をおくびょうな平和主義者であると攻撃しないだろうか。
「彼は四海同胞を唱えるので,われわれの中の国家主義者は,彼を破壊活動分子と見て攻撃するのではないだろうか。……救いへの道は狭くて困難な道であると彼は警告するので,われわれの中の感情家は彼を冷笑的な人物とみなして退けないだろうか。……
「わたしは疑問に思う。キリスト教時代は本当にはじまっているのだろうか,と」。
2 この記事は,イエス・キリストの教えと,聖書に示されている真の宗教を信ずると主張する今日の多くの人々の見解との,幾つかの大きな相違を,非常に効果的に強調しています。
イエスと真の宗教
3,4 アダムとエバに関する一般の見方は,(イ)イエスが信じておられたこと(創世 1:26),(ロ)イエスの弟子たちが信じていたこととどのように違いますか。
3 さて,わたしたちは,エホバ神が最初の人間アダムとエバを創造された,と聖書の創世記が教えているのを知りました。牧師や教会員の中には進化論のほうを好み,創世記の記録を神話と考えている人が少なくありませんが,キリスト教の創始者イエスはどうお考えになっていたでしょうか。
4 イエスが,人類の親であるアダムとエバは神によって創造された,と確信しておられたことは否定できません。イエスの使徒たちもそう信じていました。(創世 2:21-24。コリント第一 6:16; 15:45。エフェソス 5:31。ルカ 3:23-38)あるときイエスは,離婚に関する質問に答える際に次のように言われました。
「あなたがたは読まなかったのですか。人を創造されたかたは,これをはじめから男性と女性に作り,『このゆえに,人は父と母を離れて自分の妻に堅くつき,ふたりは一つの肉体となる』と言われたのです。したがって,彼らはもはや二つではなく,一つの肉体です。それゆえ,神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません。……あなたがたに言いますが,だれでも,淫行以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです」― マタイ 19:4-9。
5 聖書に対するどんな態度は,真の宗教を見分ける助けになりますか。
5 イエスのこの言葉からわたしたちは,イエスとイエスの追随者たちが,聖書を,霊感によって書かれた信頼できるものとして受け入れていたことを確信できます。そのように聖書を受け入れていることは,真の宗教を見分ける目安となる一つの重要な特色です。(テモテ第二 3:16,17)それでわたしたちは各自,『自分の宗教は聖書を霊感によるもの,また創造に関する記述を含め正確なものとして受け入れているだろうか,自分は個人的にイエスや使徒たちと同じように信じているだろうか』と,自問してみることができるでしょう。
6 (イ)イエスは結婚と離婚についてどのように考えておられましたか。これらの問題に関し,真の宗教と,創世記に書かれていることと比べるときなんと言えますか。(ロ)初期クリスチャンたちは,性と結婚に関してどんな道に従いましたか。(ヘブライ 13:4)
6 マタイ 19章の4節から9節の中でイエスが言われていることは,正しい振る舞いに関する真の宗教の一貫性を示すよい例です。イエスは結婚の神聖さと,結婚契約が拘束力を持つこと,また聖書は配偶者に重大な不品行の罪があるときだけ離婚と再婚を許すということを認めておられました。この神聖な規準を堅持することによって,真の宗教は,結婚を成功させるべく努力するよう既婚者たちを動かします。結婚している人は,結婚を,国が容易に解消させることのできる一時的な社会契約と見るべきではありません。したがって,初期クリスチャンたちは,真の宗教を実践するにあたって,結婚を神聖で拘束力のある結合とする創造者の見方を固く守り,乱交を避けました。ですから,C・J・カドックス博士は,西暦二世紀のクリスチャンたちに関し,次のように書いています。
「結婚関係外の性交はすべて厳禁されていた。クリスチャンたちは,彼らの周囲の異教世界で広く見られた不行跡を激しくとがめることがしばしばあった」―「初期教会と世界」,283頁。
7,8 ご自分の体験から考えて,ほとんどの教会員は聖書の道徳規準を守っている,とあなたは考えますか。それとも今日それを守ることは不可能ですか。
7 あなたは大多数の教会が聖書の道徳規準を固く守っているのをご覧になっていますか。それとも,クリスチャンと称する人々が,聖書的根拠もないのに離婚しては再婚するのが普通の状態になっていますか。また多くの宗教は,不道徳な同棲生活をしている人々や,一夫多妻の人たちを会員としてとどめていないでしょうか。
8 もちろん,聖書の高い道徳は立派だけれども,今の時代にそれを守るのは不可能だ,と言う人も少なくないことでしょう。しかし,『わたしたちの周囲の世界で不行跡が広く行なわれていても』,信仰を抱く人々が高い道徳規準を守ることは確かに可能です。(ヘブライ 13:4)ロンドンのデイリー・テレグラフ紙は,アフリカ大陸に住む幾十万という人々について,次のように伝えています。
「エホバの証人はアフリカ全土で,自分たちが高い道徳律を守る,品位と秩序のある市民であることを示してきた。……アフリカ社会の特徴である乱交や一夫多妻など,証人たちの間では全く考えられないことである。同派は,倹約,時間厳守,正直,従順を守る習慣を人々に植えつけている」― 1972年10月26日。
9 (イ)性道徳に関して聖書が述べていることと盗みとが関連しているのはなぜですか。(申命 5:19,21。テサロニケ第一 4:4-6)(ロ)悔い改めずに悪事を続ける者になった人に対してどんな処置をとるのが真の宗教の特色ですか。
9 ですから,性道徳を強調し,結婚を重んずることは,最初から真の崇拝の特徴であったことが分かります。そうすることは,財産権に対する聖書の配慮,および聖書が盗みを非としていることとも関係があります。盗みには他の人の配偶者,または他の人の道徳的純潔を盗むことも含まれます。(創世 2:24。エフェソス 4:28)さらに聖書は次のことを明示しています。つまり,真の宗教を信じていると言いながら,悔い改めることをせず,『淫行,姦淫,盗みもしくは貪欲な行ない』をしつづける者は,「その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい」という神のご要求通り,クリスチャン会衆から追放されねばならないということです。(コリント第一 5:11-13; 6:9,10)神が与えたこの道徳をしっかりと守ることは,終始一貫,真の宗教の特色となっています。わたしたちは,自分が行なっている神への崇拝は,これと比較してどうだろうか,と自問してみることができます。
イエスと魂
10 「魂」の問題に関し,クリスチャン聖書と創世記はどのように比べられますか。
10 わたしたちは先ほど,アダムに関し,彼は不滅の魂を持っていたのではなくて魂であったと聖書が述べている事実に注目しましたが,クリスチャン聖書,もしくは「新約聖書」の中でも,それと同じ解釈がなされているのでしょうか。全くその通りです。使徒パウロは復活の問題を論ずる際に,創世記の記録を引用することさえして,次のように述べています。「こう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダム[イエス・キリスト]は命を与える霊になったのです」。(コリント第一 15:45)したがってこの問題においても,真の宗教の信条には一貫性があります。
11 イエスの弟子たちはどんな希望を持っていましたか。それが真実の希望で空頼みでないことを,彼らはどうして確信できましたか。(ペテロ第一 1:3,4。使徒 10:39,40; 17:31。コリント第一 15:3-8)
11 キリストの初期の追随者たちは,イエス自身に起きたことを見たので,この解釈を確信することができました。イエス,つまり一個の人間の魂が,殺されたのです。そして三日の間死んでいました。その間イエスはどこか別のところで生きていたのではありません。(使徒 2:22-27。コリント第一 15:3,4)神が三日目に彼を霊の体を持つ者として復活させるまで,彼は墓の中にいたのです。イエスが天に戻られたのはその後のことでした。(ペテロ第一 3:18)それよりも前,イエスは死を睡眠中の無意識状態になぞらえて話したあと,信者たちに,「わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生きかえるのです」と言っておられます。(ヨハネ 11:11-14,25; 5:28,29)ですからイエスの弟子たちには,人間に不滅の魂があるとするギリシャ哲学を信ずる理由は少しもなかったのです。
12 「魂」に関する信条は宗教上なぜ重要なものですか。
12 この点に関し,わたしたちはめいめい,自分の宗教の教えをよく考えてみることができます。わたしたちの宗教的な考えは,真の宗教が終始一貫して教えていること,すなわち人は魂であり,人の将来の命はすべて復活に待たねばならない,という考えに従って形造られているでしょうか。これは軽々しく扱うべき事柄ではありません。わたしたちの希望が問題になっているからです。
イエス,そしてノアに対する命令
13,14 血の問題は真の崇拝に関してなぜ重要な問題ですか。
13 イエスの教えがアダムに関する創世記の記録と一致しているように,イエスの教えはノアに関して聖書に記されている事柄とも一致していると期待するのは,道理にかなっていないでしょうか。まさにその通り一致しているのです。創世記 9章3節から6節で,創造者が,全人類に対する命令であるいくつかの指示を与えておられるのを,あなたは思い出されるでしょう。神はそこで,肉を血のあるまま食べてはならない,他の人の命を取ってはならない,ということを言われています。
14 そのとき以後,真の宗教には血を尊重することが含まれるようになりました。血は,神から与えられて神に属する命を象徴するものであると,神ご自身が述べておられます。(レビ 17:13,14。詩 36:9)このことと調和して,全人類のための犠牲としてそそぎ出されたのが,イエスの血でした。(エフェソス 1:7。ヘブライ 9:11-14。ペテロ第一 1:19)しかし,クリスチャンもまた血を食べないように,血の抜かれていない肉を食べないように,要求されているでしょうか。クリスチャン聖書を見ると,使徒 15章には,使徒たちとエルサレムの長老たちの下した,拘束力を持つ決定が記載されています。その人々は,クリスチャンの長老たちの中央機関すなわち統治体を形成していました。聖書によると,彼らは神の聖霊の援助のもとに,クリスチャンは,ノアを通して命じられた通り,血を避けなければならない,ということを確認しました。―使徒 15:28,29; 21:25。
15,16 血に関して,初期クリスチャンの取った行動とエホバの証人の行動とを比較するなら,どういうことが言えますか。
15 初期クリスチャンは,神のこのおきてを固く守りました。古代ローマ人の著作家テルトリアヌスによると,第二,第三世紀のクリスチャンたちは,『自然食の簡素な食事をし,動物の血さえ食べませんでした。彼らは締め殺されたものや自然死したものを避けました』。迫害者たちでさえ,真のキリスト教の信奉者たちが,血の抜かれていない肉を食べないことに気づいていました。そこで彼らは,『血のソーセージでクリスチャンたちを誘惑しました。それというのも,クリスチャンに罪を犯させようとして彼らが使っていた物について,クリスチャンたちがおきてに違反するものと考えていたのを,よく知っていたからです』― テルトリアヌス著,「弁明」,第一部,9章。
16 真の宗教の区別のあるこの特色は,以来捨てられてしまったのでしょうか。ほとんどの教会は,このことに関して聖書が述べていることを無視するかまたは教えていませんが,それは依然として,真のキリスト教であることを示す特色となっています。1976年にアフリカのある国から寄せられた報告は,初期クリスチャンのように政治的中立を保つがゆえに投獄されていたエホバの証人の一グループのことを伝えています。彼らの看守たちは,証人たちの信仰を試すために,『信仰を否認し,宗教を変え,一夫多妻主義を受け入れ,血の抜かれていない肉を食べます』という手紙を強制的に書かせようとしました。しかし,うれしいことにそのクリスチャンたちは,使徒たちと同じように,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と答えたのです。―使徒 5:29。
17 神がノアにお告げになったことの中に,真の宗教のさらにどんな証拠をクリスチャンは見ることができますか。
17 真の宗教であることを証明するもう一つの証拠も,神がノアに言われたことと関係があります。全人類がわずか八人であったその当時,神は彼らが戦い合ったり,殺し合ったりすべきでないことをはっきり示されました。(創世 9:5,6)人類に対するこの兄弟意識と,人の生命を尊重することとは,真の宗教であることを示す最も大きな特色の一つとなっています。―出エジプト 20:13。
18 (イ)イエスご自身,何がご自分の弟子であることを示すものになると言われましたか。(ロ)イエスの言葉に従って,初期クリスチャンは戦争に関しどんな立場を取りましたか。(マタイ 5:43-45; 26:52)
18 イエスは死ぬ少し前,このように言われました。「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは,あなたがたが互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです。あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:34,35)したがって,初期クリスチャンたちはローマの軍隊に入ることも,他のいずれかの古代国家の軍隊に入って戦うことも,すべて拒否しました。ジョナサン・ダイモンドは,「戦争とキリスト教の原則との調和に関する研究」という論文の中で,この問題に関する調査結果を次のように報告しています。
「われわれの救い主の時代に極めて近い時代に住んでいたクリスチャンたちは,救い主が戦争をはっきりと禁じた,となんら疑うことなく確信していた。だから彼らはこの信仰を公然と告白し,しかもそれを証拠だてるためには,自分の財産や命を犠牲にすることも辞さなかった。また実際に犠牲にした。
「しかしながら,クリスチャンは後になって兵隊になった。いつからだろうか。それはキリスト教に対する彼らの一般的忠誠がゆるんだときであった。それは彼らが他の点でキリスト教の原則を犯したときであった。……要するに,彼らはクリスチャンでなくなったときに兵隊になったのである」― 60,61頁。
19 聖書を書いた人ヨハネは,真の宗教の区別あるどんな特色を強調しましたか。
19 使徒ヨハネは,真の宗教の重要な特質として,愛に特別の注意を払い,このように書いています。「互いに愛し合うこと,これが,あなたがたが初めから聞いている音信なのです。カインのようであってはなりません。彼は邪悪な者から出て,自分の兄弟を殺りくしました。……子どもらよ,ことばや舌によらず,行ないと真実とをもって愛そうではありませんか」― ヨハネ第一 3:11,12,18。
王国の一致した支持者たち
20 真の崇拝を見分けるよう他の人を助ける際に,王国についてどんなことを指摘することができますか。
20 クリスチャンの兄弟たちが世界的に一致している別の理由は,イエスの宣教の中心主題,すなわち天の王国にあります。真のクリスチャンは,地球のどこに住んでいようと,この王国の権威を支持し,これに命をささげます。今日,幾億もの教会員は,イエスがお教えになった「模範的な祈り」を繰り返し,「御国の来らんことを」と祈りますが,王国とは実際の政府で,地の住民のためにこの地を本当に支配し,人類に公正と平和と健康と命をもたらすものであることを,理解しているでしょうか。(啓示 21:3,4。ペテロ第二 3:11-13)イエスは,ローマの知事ポンテオ・ピラトの前で,この王国について次のように言われました。
「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」― ヨハネ 18:36。
21 真のクリスチャンは,何に対してその忠誠と努力を傾けますか。
21 この王国は天にその源を有しています。ですからクリスチャンは,平和をもたらすための人間の努力に敬意を払いますが,自分の力と資力はすべて,王国と王国が全人類に差し伸べる希望とをふれ告げることにささげます。(マタイ 24:14; 28:18-20)したがって,王国に対する信仰と忠誠は,キリストの真の追随者の生活の中で最も重要な事柄です。
22 初期クリスチャンは世俗の政府に関してどんな立場を取りましたか。(テトス 3:1。ペテロ第一 2:17)
22 使徒の後の時代に,初期クリスチャンたちは,キリストの言葉に対するこの信仰を実証しました。彼らは税金を支払い,国の法律に従い,普通の事柄ではすべての点で,彼らが住んでいた土地の模範的な市民でした。(マタイ 22:17-21。ローマ 13:1-7)しかし彼らは,その時代の多くの政治的党派と紛争のただ中にあって,中立の立場を取りました。歴史はこう語ります。
「クリスチャンたちは,彼らの周囲の世界では,よそ者であり,旅人であった。彼らの市民権は天にあった。彼らが心を寄せていた王国はこの世のものではなかった。したがって,その結果としての公事に対する関心の欠如は,最初からキリスト教の顕著な特色となった」― E・G・ハーディ著,「キリスト教とローマ政府」,39頁。
23 正しい宗教について考えるとき,エホバの証人の中立的立場はなぜ興味深いものですか。(ヨハネ 15:19)
23 この事実に矛盾しないように,わたしたちは,今日真の宗教を実践している人々を見分けるにあたって,人間の政府が行なう事柄に対し中立を維持している人々を探さなければなりません。それも個人的な理由による中立ではなく,この時代の不公正を正し苦しみをなくする神の王国の活動を待つがゆえに中立を保っている人々でなければなりません。そのようなクリスチャンが今日いるのでしょうか。キリスト教に関する,最近出版された本には次のように述べられています。
「エホバの証人が,政治,軍事,そして社会問題に関与しないことを,彼らの敵は人間ぎらいと解釈している。そしてこれが,彼らにしばしば加えられる残虐極まる迫害の要因となっている」―「アメリカのキリスト教,その歴史的解説」。
また,F・H・リッテル著,「国教会から複数主義へ」(1971年)は次のように述べています。
「王国に関するエホバの証人の特異な教理がいかに途方のないもの,字句にこだわった無味乾燥なものに思えても,われわれは次のことを忘れるべきではない。すなわち聖書的宗教における王国の出現は,劇的な浸透の時,人間の通常の期待が逆になる時であるということである」― 212頁。
王国に関する聖書の教理は確かに世の見解とは異なっています。そのことは,イエスがポンテオ・ピラトの前で裁きをお受けになった時の場合と変わりません。しかしイエスは,「知恵はその働きによって義にかなっていることが示される」とも言われました。もしわたしたちが,真の宗教とは何か,ということに関心があるなら,聖書の見解に従っている人々の働きを調べてみる価値があります。―マタイ 11:19。
それは何を意味するか
24 まとめるなら,真の宗教をそれと示す重要な特色は何ですか。
24 これまでわたしたちは幾つかの点を検討してきましたが,これらの点は真の宗教をそれと証明する特色のすべてであるという意味では決してありません。しかし,これらの点は確かに,わたしたちが自分の宗教の信条と実践を,そして自分自身を,個人的によく考えてみるための十分の根拠となります。聖書と初期クリスチャンたちの生き方とを見て知ったことを認めるなら,わたしたちは真の宗教に次の事柄が含まれているのを容易に認めるでしょう。すなわち,神が直接に人間を創造して地球上に住まわせられたということや,人間には不滅の魂はないが死者は将来復活を受けるということ,またわたしたちは固い信念をもって不道徳を避け,結婚の取り決めの神聖さを擁護しなければならないこと,血に関する神のおきてを守り,同胞に対して愛を働かせることは重要なことで,それによって生活は一層楽しいものになるということ,またクリスチャンは神の与えてくださるすばらしい希望を持つよう他の人を助ける目的で,神の王国をふれ告げる必要があること,などです。
25,26 わたしたちはなぜめいめい真の宗教のこれらの特色に個人的な関心を払う必要がありますか。それによってどんな結果が得られますか。
25 中には,自分の宗教が,または個人的信条や行ないが,聖書の示す真の宗教と違っていることに気づく人もあるでしょう。もしあなたが,ご自分の場合に,なんらかの調整が必要であることに気づかれたなら,その調整を遅らせないようにしてください。ペテロ第一 3章10節から12節にある,霊感による次の助言に従ってください。「というのは,『命を愛して良い日を見たいと思う者は……悪から遠ざかって善を行ない,平和を求めてこれを追い求めよ。エホバの目は義人の上にある……』とあるからである」。
26 ではわたしたちは,正しいことをどのように追い求めればよいのでしょうか。それには,真の宗教と合わないことをただ捨てればよいのではなく,さらにわたしたちの神のご意志に従って生きるべく積極的な処置を取らねばならないのです。ノアはただ信じただけの人ではなかったことを思い出してください。ノアは真の神と共に歩み,また「義の宣明者」であった,と聖書は告げています。同様に,イエスとイエスの使徒たちも真の宗教を信じ,かつそれに従って生きたのです。そのように生きることには,神の王国と,この地上に訪れる神の約束による平和な新秩序とに関する良いたよりを,他の人々に伝え分かつことも含まれていました。(マタイ 4:17; 10:7; 28:19,20)その同じご意志を,心を尽くして行なうとき,わたしたちは大きな喜びを得,また他の人々に生きる希望と目的と真の幸せをもたらすことになります。その人々は,真の宗教を見分けて実践するために,その分として豊かな祝福にあずかるでしょう。
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