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シェルパの村への旅目ざめよ! 1976 | 3月8日
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別れを告げる
もう帰らねばならないと言われるのでしたら,無理にお引き止めするわけにはゆきません。では,シェルパ式の別れのあいさつをこの土地の人々にさせてください。彼らは,古風な白いスカーフであなたの頭を飾りたいと願っているのです。それは,深い敬意の表われです。わたしはカトマンズまでご一緒いたします。料理人のソナムと二人の荷かつぎの友人たちも同行します。ソナムと二人の荷かつぎの者,そしてわたしは,間もなくこの村に戻りますが,あなたにもまた来ていただきたいと思います。是非ともそうしてください。このヒマラヤのジュンベシの谷にある,笑顔の絶えないシェルパ族の村にまたおいでください。
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信仰の合同は教会を救えるか目ざめよ! 1976 | 3月8日
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信仰の合同は教会を救えるか
一致は非常に望ましいものと考えられています。特に家庭内に一致と調和が見られるのは,有益なことです。聖書も,共通の霊的な背景を持つ人々の示す調和に言及してこう述べています。「見よ,兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう」― 詩 133:1,口。
それでは,宗教の合同を図るのはよいことではありませんか。そのように考える人は少なくありません。例えば,1974年1月20日のこと,法王パウロ六世は,“キリスト教”諸集団すべてがローマ・カトリック教会の下に一致するよう祈り求めることを要請しました。この和解の精神は,カトリック教会の定めた,最近の“聖年”の主題にもなりました。また,世界教会協議会の1975年度の総会も,国籍や信仰を異にする人々の間にかけ橋を渡すことを主な議題として取り上げる予定でした。事実,1975年2月には,ニューヨーク市の聖パトリック大聖堂とユダヤ教のエマヌエル寺院の当局者は,両派の信者の間の関係を緊張させてきた諸問題を処理するために一年にわたる討議を行なう計画を発表しました。その後,初めてのこととして,ユダヤ教のラビが,カトリック教会の同大聖堂の説教壇から話をしました。
今日,信者の減少や財政難といった問題に悩まされる宗教組織が少なくないのは周知のことです。もちろん,土地によってはこうした問題の見られない所もあるかもしれませんが,大抵の所で問題は深刻化しています。そのため,信仰の合同が各派に一層の益をもたらすと考える多くの僧職者は,宗派の合同を促進しています。しかし,種々の宗派を合同するのは,聖書から見てふさわしいことですか。また,信仰の合同が成し遂げられるなら,それは諸教会を救いますか。
教理上の相違は問題とならないか
教理面での妥協が成立すれば,宗派の合同を促進するのに役立つに違いありません。こうした動きについて,人々はどう感じているでしょうか。1974年10月28日付のミルウォーキー・ジャーナル紙は,アメリカのある大都会を中心に行なわれた調査の結果を要約して,「すたれつつある『唯一まことの信仰』の概念」との見出しを掲げました。調査の対象となった1,323人のほぼ八割が,信仰合同の動きに賛意を表わしました。あるカトリック教徒は,「大切なのは何かを信じていることであり,何を信じているかはさほど重要でない」と語り,ルーテル派の一女性は,「基本的には皆同じことを信じているから,教理の解釈など,それほど重要だとは思いません」と述べました。
しかし,教理面で妥協をしてまで宗教の合同を図ろうとすることに関して,聖書に好ましい前例は記されていません。預言者モーセが神からの指示を受けるべくシナイ山に登っている間に,イスラエル人は,エジプトの宗教慣行とエホバ神の崇拝を融合させようとしました。アロンが金の子牛の像を造ったところ,次のようなことが言われました。『イスラエルよこれは汝をエジプトの国より導きのぼりし神なり』。そこでアロンは,その子牛の前に祭壇を築き,『明日はエホバの祭りなり』と人々に告げました。翌日,燔祭と酬恩祭の犠牲がささげられた後,民は飲み食いし,立ち上がって『戯れ』ました。それをご覧になって,エホバ神はどう感じられましたか。非常に不快に思われました。真の崇拝と偽りの宗教を混合させようとする試みは明らかに神の是認を受けませんでした。―出エジプト 31:18–32:10。
信仰の合同を奨励するどころか,神はモーセを通して,古代のご自分の民に向かってこう言われました。「汝かれらおよび彼らの神と何の契約をもなすべからず」。『エホバをおきてほかの神に犠牲をささぐる者をば殺すべし』。(出エジプト 23:32; 22:20)同様に,神のみ子イエス・キリストも,誤った宗教観を抱く者たちと決して妥協しませんでした。例えば,キリストは次のように語っておられます。「偽善者なる書士とパリサイ人たちよ,あなたがたには災いが来ます! あなたがたは人の前で天の王国を閉ざすからです。あなたがた自身がはいらず,またはいる途中の者がはいることをも許さないのです」― マタイ 23:13。
神は何を求めておられるか
“いかなる犠牲を払ってでも”宗派の合同を図ろうとする動きは,明らかに神の是認を受けていません。それでは,エホバ神の是認を求める人々には,何が要求されていますか。『神を崇拝する者は霊と真理をもって崇拝しなければならない』と,イエス・キリストは言われました。(ヨハネ 4:24)この点からも明らかなように,聖書の真理を顧みない信仰合同は,エホバ神に受け入れられません。
真の崇拝にとって肝要なもう一つの点は,神のみ子イエス・キリストを受け入れることです。その点に関して,イエスはこう述べました。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」。(ヨハネ 14:6)しかし,キリスト教世界の分裂した諸宗派が,たとえキリストの名の下に統一されたとしても,それはエホバ神やイエスを喜ばせるものとはなりません。なぜですか。キリストはこう言われました。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。でもその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしはいまだあなたがたを知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」― マタイ 7:21-23。
考慮に値する別の点は,キリスト教世界の諸宗派が,他の宗教の場合と同様,世の一部となっていることです。例えば,カトリックの一僧職者は,「戦争と平和,民族主義や国家主義,少数者の権利,人類の進歩,貧困といった,重要な問題における合意と行動」にまで及ぶ教会合同運動を唱道しています。しかし,キリスト教は,戦争や国家主義といった世の事柄にかかわりを持つべきでしょうか。キリスト教の創始者イエス・キリストによると,そうではありません。イエスは追随者たちにこう言われました。「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」― ヨハネ 17:16。ヤコブ 1:27; 4:4と比較。
地上での生涯を終えようとしておられたイエス・キリストは,神への祈りの中でこう言うことができました。「わたしはみ名を……知らせました。またこれからも知らせます」(ヨハネ 17:26)イエスは,エホバという神の名を自由に用いまし
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