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カリスマ主義の復興 ― それはどういうことか目ざめよ! 1982 | 5月8日
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カリスマ主義の復興 ― それはどういうことか
崇拝のために集まった人々は祈っているかのように頭を垂れています。あたりは静まりかえっています。それから,かすかな声が聞こえてきます。つぶやくような祈りの声です。突然,大音声が響き渡り,人々の腕と手と顔が天に向かって上げられます。興奮がその場にみなぎります。
すると,人々は「主をほめたたえよ!」,「ハレルヤ!」といった宗教的なスローガンを大声で唱えます。次いである人が,だれも理解できない「言語」で話し始めます。涙が流れます。参加者は法悦の境に浸っているかに見えます。
これはペンテコステ派の集会でしょうか。数年前までは,そのように考えられたことでしょう。ところが,上に挙げたような出来事は監督派の教会やローマ・カトリックの大学の講堂で開かれる集会,あるいはカトリック教徒とプロテスタント信者の入り混じったグループの開くどこの集会でも同じほど容易に生じ得るのです。
“神の恩ちょうの賜物”(ギリシャ語,カリスマータ)を持っていると唱える人々は以前の世代にも存在しました。ですから,これよりも古くからあり,“異言で話すこと”や“いやし”の“賜物”の伴っていたペンテコステ派の運動は,カリスマ主義的な運動と言われました。こうした賜物は神の聖霊に由来すると考えられています。
“新カリスマ主義者”
1960年代の諸教会は概して霊的に停滞していたようです。会員数は落ち込み,神学校は深刻な定員不足に見舞われました。ところがその後,突如として“新カリスマ主義者”が登場したのです。どのようにでしょうか。
1959年に,米国カリフォルニア州のある監督派の教会で,幾人かの教会員が異言で話しだしました。後日,監督派の別の教会の一司祭も同じことを行ないました。その司祭が米国ワシントン州に配転されると,その地でも異言が語られるという事態が生じました。この概念は米国各地のプロテスタント系の神学校や大学や教会に広まりました。そして1960年代の後半には,米国のピッツバーグ市にあるドゥーケーン大学のローマ・カトリック教徒の一グループが異言を語るようになりました。このニュースが広まり,他のローマ・カトリック系の大学や教区でも同じような出来事が生じました。ほどなくして,様々な宗教団体に属するこれらのグループの一部が集まり合い,異言で語ったりいやしを行なったりするようになりました。
この動きは他の国々にも広がり,新聞の報道によると,世界各地の大都市で開かれたカリスマ主義者の大会に幾万もの人が出席しました。1980年の一世論調査の示すところによると,アメリカ人の大人のうち約2,900万人は自らをカリスマ主義的なクリスチャンであると見ています。
何を意味するか
多くの誠実な人々は,こうした出来事を,宗教の力を盛り返すべく神の聖霊がカリスマ主義の復興に働いている証拠であると見ています。様々な宗教的背景を持つこれらの人々の身に何かが生じたに違いありません。しかもそれらの人々は,神に喜ばれたいとの願いを持っているようです。
そうであれば,この動きを注意深く分析し,実際にどんなことが成し遂げられているかを進んで調べてみるべきです。それは神の是認を表わす証拠を生み出していますか。神は現代にこうした仕方で働きかけておられるのでしょうか。
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詳しく調べる目ざめよ! 1982 | 5月8日
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カリスマ主義運動に聖霊は働いていますか。カリスマ主義者たちは,人々がその点を確かめたいと思うことを認めなければなりません。神の言葉聖書の中には,「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで,それらの霊が神から出たものであるかどうか,ためしなさい」という,クリスチャンに対する指示があるのでなおのことそう言えます。―ヨハネ第一 4:1,口語訳。
言うまでもなく,誠実なカリスマ主義者は自分たちの経験が信者の間に聖霊の働いている証拠で,聖霊が1世紀のクリスチャンに働きかけて行なった事柄の再現だと考えます。一方,そうした動きに関与していない人々は,カリスマ主義運動の中に,1世紀当時聖霊が働いていたことを示す他の証拠を見ることを期待するでしょう。
本当の一致?
例えば,実現を見た一致とはどんなものでしょうか。それはどれほど真実なものですか。事実を言えば,カリスマ主義者がその体験をする前にどの教会に交わっていたとしても,彼らは大抵そこの教会員としてとどまり続けます。しかし,それは第三者に重大な疑問を抱かせます。
具体例を挙げてみましょう。敬虔なペンテコステ派の信者は,たばこを吸うカリスマ主義的な長老派の信者が本当に救われると心から信じているのでしょうか。カリスマ主義的なバプテスト派の信者は,カリスマ主義者になったというだけの理由で,頭に水を振り掛けるカトリックや監督派のバプテスマが突如としてクリスチャンのバプテスマとして妥当なものになると本当に考えているのでしょうか。ルーテル派のカリスマ主義者は,ローマ・カトリックの司祭がミサを執り行なう時にパンとぶどう酒を実際にキリストの体と血に変えるというカリスマ主義的なカトリック教徒の考えに本当に同意しているのでしょうか。そのような相違点を挙げてゆけばきりがありません。
分裂をもたらすこうした障壁は重大な問題となりますか。1世紀のクリスチャンの場合には確かに重大な問題になりました。使徒パウロは聖霊の霊感のもとに次のように書きました。「みな語ることを一つにし,お互の間に分争がないようにし,同じ心,同じ思いになって,堅く結び合っていてほしい」。(コリント第一 1:10,口語訳)明らかに,それら真のクリスチャンに不一致はふさわしくありませんでした。1世紀当時聖霊はそのような仕方で働きませんでした。むしろ聖霊は,以前の相違点を克服させることによりクリスチャンを一致させました。クリスチャンの間には教理,実践,および組織の面で固い結束が見られました。それは共通の感情的な経験に基づく,ゆるやかな一致ではありませんでした。
カリスマ主義運動に加わっている人の中にも,その不一致を認める向きがあります。「今日のキリスト教」誌はこう伝えています。「ある指導者たちによれば,カリスマ主義者の経験している一致はこれまでのところ感情的なレベルのものである。容易ならぬ教理上の相違が存在し,それが余りにも簡単に無視されているので,一致へ向けての今後の努力が脅かされている」。
指導のあり方にかかわる危機
カリスマ主義復興運動の指導者の中にはかなり有名になった人もいます。ところが時たつうちに,その異なった背景のために物事を監督する方法について見解の相違が生じました。指導者たちは監督および指導のあり方に関して意見の対立を見るようになりました。
そのような対立がカリスマ主義の復興に容易ならぬ脅威をもたらすことを察し,憂慮の念を抱く人々は指導者たちに呼び掛けて一種の首脳会議を開きました。それは1980年に米国テキサス州ダラス市で開かれました。その会議の開会の辞を述べた弁士は,「私たちは自分たちの間にある対立にかかわるスキャンダルを認めるためにここに集まった」と率直に語りました。
それでは,事態はよくなったでしょうか。なりませんでした。一つの党派は,一人の長老あるいは教師が弟子たちを世話するグループを形成して発展することを提唱しました。反対派は,「長老たちは他の人の生活に非聖書的な支配を及ぼし,キリストの権威を奪うことにもなりかねない」と主張しました。一指導者は別の指導者に“羊どろぼう”のらく印を押し,さらにこう述べました。「彼らは罪人たちをキリストの弟子にしているのではなく,他の教会の教会員を自分たちの弟子にしているのである」。対立がそのままになっていることは歴然としています。―「今日のキリスト教」誌,1980年4月4日号。
一致の喪失をその真の原因と結び付けねばなりません。その根本原因は,聖書の権威を退けていることにあります。
一致の本を退ける
カリスマ主義者であれば,カリスマ主義の指導者は決して聖書を退けるようなことはないと心から思っているでしょう。しかし,その運動の中で“賜物”の一つとして挙げられているものに預言があることを忘れてはなりません。「新カリスマ主義者」という本によると,書き記された言葉は,預言によって明らかにされる「生きた,“ダイナミックな”言葉の権威に対して常に従属的なものであらねばならない」と信じられています。一カリスマ主義者はこう述べています。「生きた神である霊は過去の証言の記録を通して,またそれを超えて動いている」。
しかし,使徒パウロはこう述べています。「たとえわたしたちあるいは天からの使いであろうと,わたしたちが良いたよりとして宣明した以上のこと[「矛盾すること」(新英訳聖書)]を良いたよりとしてあなたがたに宣明するのであれば,その者はのろわれるべきです」。(ガラテア 1:8)さて,使徒や天からの使いが聖書に記されている良いたよりを超えるべきでないのであれば,今日のカリスマ主義者にそうする権限があるでしょうか。
カリスマ主義者の作家キャサリン・マーシャルは,「キリストが私たちに与えようとしておられる真理や指示すべてが旧新約の正典に収められているわけではない」と述べています。しかし,聖書そのものはこう述べています。「聖書全体は神の霊感によるもので,真理を教え,誤りをけん責し,欠点を正し,正しい生き方に関する指示を与えるのに役立ちます。こうして,神に仕える人はあらゆる種類の良い業を行なうために十分資格のある,備えられた者となれるのです」。(テモテ第二 3:16,17,「今日の英語聖書」)これが聖書の役割であれば,どうしてその内容を過小評価してよいでしょうか。
聖書そのものより自分の体験を優先させても,当初は全く無害に思えるかもしれません。しかし,それがどんな結果をもたらすかお分かりですか。ガイアナで,ジョーンズタウン集団自殺の悲劇を起こした指導者が聖書をわきへ押しやり,自分とその“神からの啓示”に聴き従う必要性を追随者たちに印象付けていたことを思い出すとよいでしょう。この指導者は信者が自分と共にした“体験”を,書き記された神のみ言葉以上に信頼すべきことを信者に得心させていました。そのような態度から生じる危険を識別していますか。その結果,人がどれほど攻撃を受けやすくなるか分かりますか。導きとなる聖書なくして,集団ヒステリーや大衆操作の影響を受けないためのどんな保護手段があるというのでしょうか。
預言を軽く扱ってはなりませんが,「すべてのことを確かめなさい。りっぱな事がらをしっかり守りなさい」とも命じられています。(テサロニケ第一 5:20,21)それで,ヨハネ第一 4章1節には,「霊を試して,それが神からのものであるかどうかを見極めなさい」と命じられているのです。(モファット訳)その同じ聖句はこう勧めています。「兄弟たち,預言の霊すべてがあなた方の信頼に値するわけではありません」。(ノックス訳)明らかに,すべてが神からのものではなく,サタン悪魔に由来するものもあるのです。
では,どのようにして霊を見分けたらよいのでしょうか。人の体験はそれを『確かめる』上で十分とは言えません。そして確かに,神の霊が今日啓示する事柄の中には,その同じ霊がイエスやその弟子たちや聖書記述者たちに明らかにした啓示と矛盾するものはないはずです。
カリスマ主義者はその相違点がやがては解決されることを希望しています。しかし一人の牧師が,「カリスマ主義の運動全体について,教理面で何らかの予測をすることは不可能である」と認めています。対立が続いているはっきりした理由は,聖書が教義面での最終的な権威であることを,カリスマ主義者の多くが認めていないことにあります。その代わりに個人的な体験を最終的な権威としているのであれば,真の一致は決して実現できないでしょう。
この運動の当事者であるなしにかかわらず,識者は次のように尋ねています。カリスマ主義の運動は行動の面で神の聖霊を本当に反映しているのだろうか。そして,この運動はこれからどうなるのだろうか。
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聖書そのものより自分の体験を優先させても,当初は全く無害に思えるかもしれません。しかし,それがどんな結果をもたらすかお分かりですか
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どのようにして霊を見分けたらよいのでしょうか。人の体験はそれを『確かめる』上で十分とは言えません
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これからどうなるか目ざめよ! 1982 | 5月8日
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これからどうなるか
「我々は,復興が勢いを失い,崩壊しているのを目にしている」。これは米国のカトリック・カリスマ主義復興運動の一指導者がそのグループに対する報告の中で述べた言葉です。その報告はさらに,「その崩壊のゆえに神の言葉が薄められるようになった」と述べていました。
上記の報告は,オーストラリアの復興および福音主義的な雑誌であるビジョン誌(1980年5-6月号)に載せられた「復興運動には一体何が起きているのか」と題する記事の中に引用されていました。自らもカリスマ主義者であるその記事の筆者は,カリスマ主義者の大会で,「カリスマ主義復興の死」について語ったことを述べています。
国際ルーテル派カリスマ主義者会議の議長はこの崩壊を分析し,米国だけでも「七つの流れ」が派生したことを挙げています。その中には著名な指導者を中心にしたグループ,復興運動を自分たちの教区内に収めておこうとするプロテスタントやカトリックの様々なグループ,いやしや金銭面の成功を神の是認の表われとして強調する,いわゆる“健康と富”グループなどがあります。
ですから,指導者や評者は勢いが衰えつつあることを懸念し,一カリスマ主義者が述べたように「これはいつまでも続かない」と考えています。(U・S・カトリック誌,1980年2月号)事態は熱意がさめる方向へと向かうか,異なった指導者を中心に集まるカリスマ主義的ペンテコステ派の新しい一派の設立へと向かっているようです。
上記のような帰結にいわれがないわけではありません。ブリタニカ百科事典(英文)は,幾世代か前に宗教界に登場したペンテコステ派についてこう述べています。「彼らには当初,自分たちの属する教会から脱退し,別の教派を形造る意図はなかった。単に改革と信仰覚醒の先鋒となり,自分たちの属する教会から崇拝面の形式主義や信仰面の現代主義,行動面の世俗主義などを排し,教会を新約聖書の使徒行伝に描かれているような,活気に満ち,霊に満たされた共同体に変えようとしていたに過ぎない」。にもかかわらず,時たつうちにペンテコステ派という別個の教派が設立されました。その後数多くの分派が生じ,今日では30種以上のペンテコステ派があります。
“新カリスマ主義者”の最近の歴史はその推移に酷似しています。しかし,この現代の動きの口火となったものを分析してみると,それは少しも不思議なことではありません。
実際に起きた事柄
しばしば語られる話を聞くと,異言を語ることや復興運動は突然独りでに生じ,聖霊が自然に働いた結果であったとの結論に達することでしょう。ところが,カリフォルニア州のプロテスタント信者の間で見られた最初の動きの中で,二人の監督派教会員が1959年に「ペンテコステ派の友人の証言を通して聖霊のバプテスマを受けた」のは注目に値する事柄です。この二人を通して,その“体験”は12人ほどの他の教会員に伝えられました。その人たちの牧師はさらにほかの人々と接触し,多くのプロテスタントの教会にこの“体験”を広めました。
同様に,カトリックの動きも本当に自然発生的とは言えませんでした。“ドゥーケーン体験”の起きる前にも,「個人的なレベルではペンテコステ派のような体験をしたカトリック教徒がいた。大抵の場合,それはペンテコステ派の友人たちの影響を通して起きた」と,「新カリスマ主義者」は述べています。
ドゥーケーンでこうした体験をした人々はどうでしょうか。こう尋ねるのは,そこでの出来事がきっかけとなって,カトリック教徒の間にこの体験が急速に広まったと思われるからです。1966年の8月に,同大学の教員の幾人かがペンテコステ派の考えを広める様々な出版物を友人から紹介されました。「結局,そのグループはペンテコステ派特有の体験をした地元のクリスチャンと個人的に知り合いになることにした」と,一人の著述家は述べています。この会合が“ドゥーケーンの週末”へと発展したのです。
ですからどんなことが生じたかと言えば,以前からあったペンテコステ派の考え方と体験が,主流を成す幾つかの諸教会に浸透したということなのです。それを受け入れた人の大半は,もっと“ダイナミック”で,活気に満ち,喜ばしい崇拝の仕方を探し求めていたか,その体験をしたことのある人々の影響を受けていたかのいずれかです。
しかし,こうした努力があったのですから,現在見られる結果が聖霊による純粋で自然発生的な信仰復興であるとの論議は成り立ちません。むしろわたしたちが見ているのは,一つのグループの信条やならわしが他の大勢の人々に紹介されたということであって,その結果を導いたりそれを有意義な目標へと向かわせたりする人は存在していないのです。
「私たちの体験をどう説明したらよいのか」
否定的な証拠が積み重なっているにもかかわらず,自分の体験を良心的に否定できないと考える人々もいます。その人たちは内なる力を感じたのではありませんか。いやしを見たり体験したりしたのではありませんか。自分たちの知らない異言で突如話し始めたのではありませんか。
確かにその通りかもしれませんが,人を欺く,悪霊的な霊について聖書が警告していることを銘記しておくのは肝要です。(ヨハネ第一 4:1)悪霊たちは「奇跡を起こ」し,力ある支配者たちをさえ惑わす者として描かれています。(啓示 16:14,欽定訳)悪霊たちは人間を使って力ある業を引き起こすかもしれませんが,目に見える結果も,それが神に由来することの証拠となるわけではありません。『それが主イエスの名において行なわれてもですか』と尋ねる人もいるでしょう。イエスご自身こう言われました。「多くの者が,わたしにむかって『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また,あなたの名によって悪霊を追い出し,あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき,わたしは彼らにはっきり,こう言おう,『あなたがたを全く知らない』」― マタイ 7:22,23,口語訳。
以前のペンテコステ派の信者の中にも,悪霊の影響を懸念していた人がいます。20世紀初頭の著名なペンテコステ派の一員であったW・J・シーモアは,自分の行なう集会で「催眠術的力の働きや体のゆがむこと」が急に生じたために,自分の教師にロサンゼルスへ来て助けてくれるよう一度要請したことがありました。シーモアは,「本物と偽物を区別し,神からのものでないものを取り除く」ために助けが必要だと感じたのです。
サタンが光のみ使いを装って欺きを働く(コリント第二 11:14)というこの問題について,現代の,異言を語る,イエズス会の司祭はこう語っています。「異言はヒステリックになり得るし,ある人々によれば,悪魔的なものにもなる可能性がある」。また,異言を語る監督教会の一教区牧師はこう述べています。「悪魔は人に働きかける数多くの手だてを持っている。聖霊のバプテスマを受けると,悪魔は本当に攻撃する」。
また,次の点も考慮してみるとよいでしょう。異言やいやしや預言などのこれら特別な賜物が今日それほど肝要なものであるなら,使徒パウロはどうして次のように書いたのでしょうか。「預言者がいるだろうか。その業は過ぎ去る。法悦の異言があるだろうか。それは終わる」。(コリント第一 13:8,新英訳聖書)証拠の示すところによれば,使徒たち,および使徒たちが『手を置いた』人々が死に絶えると,聖霊の奇跡的な賜物も過ぎ去りました。―使徒 8:17; 14:3。
今日,神が自分たちに働きかけておられることを示すしるしとしてクリスチャンが表わさねばならない,はるかに重要なものがあります。それは神の僕すべてが持っていなければならないものです。聖書はこう述べています。「いつまでも存続するものは,信仰と希望と愛と,この三つである。このうちで最も大いなるものは,愛である」。(コリント第一 13:13,口語訳)そうであれば,今日聖霊が働いている確かな証拠としては,異言を語る以上のことを見なければなりません。
では,この何よりも重要な愛を本当に表わしている真のクリスチャンを見分ける方法とは,一体どのようなものですか。その人たちが1世紀のクリスチャンと同じであることを示す,神の霊の実がその人々の間で活動しているのを目にすることができますか。その証拠を調べてみましょう。
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現在見られる結果が聖霊による純粋で自然発生的な信仰復興であるとの論議は成り立ちません
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別の霊目ざめよ! 1982 | 5月8日
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別の霊
神の聖霊が1世紀当時に活動していたことに疑問の余地はありません。神の僕たちのある者に他の人々にない力を与えることも,その働きを明らかにする一つの方法でした。『異言を語る』能力はその一つでした。
しかし,ある人が自分が知らなかった言語で話す能力を与えられた場合でも,その言語を話す他の人々はその人の言っていることを理解できました。例えば,ペンテコステの日に異言が語られるのを聞いた人々はこう言いました。「わたしたちがそれぞれ自分の生まれた国の言語を聞くとはどうしたことか。……そのわたしたちが,神の壮大な事がらについて彼らがわたしたちの国語で話すのを聞いているのだ」― 使徒 2:5-11。
クリスチャンが集まり合った時のことについて,使徒パウロはこう述べました。「だれかが異言を話すのであれば,多くてもふたりか三人に限り,順番に話しなさい。そして,だれかが翻訳しなさい。しかし,もし翻訳者がいないなら,その人は会衆内では黙って(い)……なさい」。(コリント第一 14:27,28)これは,全員がいっせいに,だれも理解したり通訳したりすることのできない音声で話す今日のカリスマ主義者とは何と異なっているのでしょう。
異言を話す能力は,神の用いておられる組織を見分ける助けとして1世紀のクリスチャンに与えられた聖霊の「賜物」の一つでした。また,この特別な「賜物」は他の言語グループの人々に「良いたより」を宣べ伝えるのを助けるという実際的な目的をも果たしました。
また,当時聖霊を受けていた人々の中には,死者をよみがえらせる力を持つ人もいました。(使徒 9:36-41; 20:7-12)今日でもその同じ霊が働いているのなら,カリスマ主義者にもその能力があるはずです。ところが,彼らにはそうした能力がありません。ですから,カリスマ主義者の間に見られる奇跡の誇示と思えるものを引き起こしている“霊”が,1世紀のクリスチャンの間に表わされた神からの霊と異なっていることは明白です。
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