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最近王の秘書官があなたを訪問しましたかものみの塔 1972 | 5月1日
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いる特殊な組織であり,エホバという名の聖書の神を崇拝すると主張する宗教組織なのです。それは,エホバ神のみ子であるイエスをキリストと認めると唱え,それゆえに,キリスト教世界という名称をもって呼ばれるのをよしとしてきました。しかし,古代のエルサレムと同様,キリスト教世界はエホバとの宗教上の契約を破り,この世の異教の諸宗教によって自らを堕落させてしまいました。したがって,キリスト教世界は真のキリスト教を実践してはいません。その宗教的な名称は自らを守るものとはなりません。象徴的な「六人の者」が打ちやぶる武器をもって,『キリスト教世界に注意を向ける』その厳粛な時は近づいています。キリスト教世界のみなさん,これはまさしくあなたがたに急を告げる事態なのです。
18 そうした粉砕はいつ生じようとしていますか。それは回避できますか。わたしたち個人についてはどんな質問が生じますか。
18 キリスト教世界を含むこの事物の全体制がこの世代のうちに打ち砕かれる,つまり粉砕されるのは必至です。ご自分のさばきを徹底的に執行すべく天の戦車に乗って到来する宇宙の王エホバのみ手からもたらされるこの世界的大変災は不可避です。このことに関して,それら象徴的な「六人の者」が破滅をもたらす武器をもって世の事物を打ち破り始める前の今,わたしたちが何か個人的に行なえることがありますか。それを知るために,預言者エゼキエルが幻の中で見た預言的な劇をさらに調べることにしましょう。
王の秘書官の実体を明らかにする
19 北の方からやって来て,祭壇のかたわらに立った者たちは何人でしたか。彼らはみな武装していましたか。
19 北の方から来て神殿の中庭にはいり,犠牲を供する銅の祭壇のかたわらに立つのは「六人の者」だけではなかったことに注目してください。そこに立ったのは7人です。しかも,その7番目の者は他の6人の者たちのように武装してはいませんでした。エゼキエルはこう述べます。「其の中に一人布の衣を着〔秘書官〕の墨盂を腰におぶる者あり」。(エゼキエル 9:2〔新〕)この者はいったいだれですか。
20 7番目の者はだれでしたか。彼はエルサレムのゼデキヤ王に仕えていましたか。
20 そうです,それは王の秘書官です。軍服を着用しておらず,筆と墨のはいった墨いれを持っていることから,彼は秘書官であることがわかります。彼もエルサレムに注意を向けなければなりません。そして,天の戦車の上の王座に座しておられるかたから召喚されたのですから,この者はエホバの秘書官であるにちがいありません。エルサレムにおけるエホバの地的な見える王座には当時,ダビデの王家に属するゼデキヤ王がついていました。問題の秘書官は反逆的なゼデキヤ王に仕えていたのではなく,とこしえの王エホバに仕えていたのです。昔のエゼキエルの時代におけるこの者はだれでしたか。そして,今日その者はだれですか。
21 布の衣を着た者がみ使いであったかどうかについてはなんといえますか。その者が幻の中でもたらしたと同様の結果が,エゼキエルの時代にもたらされましたか。
21 彼は,エホバの裁きを執行するみ使いを表わす「六人の者」の中にいたのですから,やはりみ使いあるいはみ使いの一団を表わすのでしょうか。もし彼が目に見えない天のみ使いであるとするならば,その者があなたを最近訪問したかどうかはどうしてわかるのでしょうか。しかし,エホバが彼に割り当てた仕事からすれば,この者は地上で平和な仕方で用いられる見える何ものかを表わしていることは明白です。それでは,彼は人間を表わしていたのではありませんか。それにしても,エゼキエルの時代にさかのぼって聖書を調べても,「布の衣を着」たこの者がするようにと告げられた仕事を,だれかひとりの人間が文字どおりに行なったことをしるしている記録はありません。その当時,エルサレムにいた預言者エレミヤはそのようなことをしませんでした。エゼキエルにしてもそうです。というのは,彼は幻の中で,つまりエホバからの霊感による霊によってエルサレムに戻ったにすぎなかったからです。しかし当時,秘書官の墨いれをもった文字どおりの人間が,エゼキエルが幻の中で見た仕事を行ないながらエルサレムを巡る光景は見られなかったとはいえ,そうした秘書官の仕事のもたらす有益な結果は,あたかも文字どおりの人間が都市の中を行き巡り,割り当てられた仕事を成し遂げたかのように現われました。ゆえに,その当時における,墨いれを携えた問題の人は,神によって完遂されたわざをさし示す描画的な趣向にすぎませんでした。
22 この幻は第一義的にはだれのために,またいつ成就されることになっていましたか。それでは今日,その王の秘書官とはだれですか。
22 それにしても,わたしたちの時代についてはどうですか。墨いれを携えた者の幻は第一義的にはわたしたちの時代に対して,つまり「事物の体制の終わりの到来した」時代の今のわたしたちの益のために適用されるべきことが明らかになってきます。(コリント前 10:11,新)エゼキエルの時代においては,ある個人が,エルサレムが破壊されるまでに残されていた期間に,城壁で囲まれたその古代都市の中で,この仕事を成し遂げようと思えば成し遂げることができたかもしれませんが,ここで描写されていたのはただひとりの人ではありません。そして,その対型的な今日の『都市』がキリスト教世界であること,およびその世界的な規模を考慮するなら,それはひとりの人がなしうる仕事ではないことがわかります。それは一群の人々による,かなりの年月を要する仕事にちがいありません。ゆえに,わたしたちの時代において,「布の衣を着〔秘書官〕の墨盂を腰にお(びた)」この幻の人物は,複合的な現代の人,すなわち,「とこしえの王」エホバの奉仕にあって,唯一の同じ目的を目ざし,ひとりの頭のもとで唯一の同じわざに全員が協働する,一致した一群の人々であるに違いありません。それこそわたしたちの時代における王の秘書官です。
23,24 (イ)生来のユダヤ人は布の衣を着た者にかんする幻を成就する者ではありません。なぜですか。(ロ)キリスト教世界の僧職者はエホバのための秘書官の仕事をしていますか。その答えの理由を述べなさい。
23 この複合的な「秘書官」がエホバの奉仕に携わっているからといって,それはユダヤ人のグループだ,ということにはなりません。エホバは,彼らの父祖アブラハム,イサク,ヤコブおよびモーセの神ではありましたが,割礼を受けた生来のユダヤ人つまりイスラエル人は今日,いうまでもなくエホバの奉仕に携わっていません。不幸なことに,彼らはみずからをこの奉仕から除外しています。なぜなら,彼らは,刑柱にかけられ,そして復活させられたイエスを,メシヤすなわちキリスト,また,エホバ神のみ子として受け入れないからです。そのうえ,彼らはユダヤ人なので,エゼキエルの幻の中に現われた『布を着た』者によってなされた仕事を全うするクリスチャンのわざをキリスト教世界の至る所で行ないたいとは考えていません。キリスト教世界の僧職者にしてもエホバ神の秘書の仕事を行なう一致した団体として行動してはいません。それら僧職者はそのような仕事が必要だとは全然考えません。キリスト教世界がエホバによって,つまり,エホバのみ子イエス・キリストの率いるみ使いたちの手で間もなく滅ぼされようとしていることを信じてはいないからです。たとえば,さる1971年4月11日の復活祭の日曜日,バチカン市のローマ・カトリックの教皇はなんと言いましたか。
24 その翌日の日付でニューヨーク・タイムス紙は,「ローマ発,4月11日」の日付のある至急報を掲載して,こう述べました。「希望に満ちた復活祭のメッセージの中で,教皇パウロ6世はきょう次のように述べた。『現代世界を導く光ともいうべきこの偉大な理想は決して消滅しないであろう』。『世界の一致は成し遂げられるであろう』と教皇は断言した。……『希望のメッセージ』と名付けられた音信の中で,教皇はこう語った,『人身の尊さは正式に認められるだけでなく,実際に認められることになろう。生命は母の胎内にある時から老年にいたるまで犯すべからざるものであることは,一般の,また事実上の支持を得ることになろう。卑劣な社会的不平等は克服され,諸民族相互の関係は平和,理性,兄弟愛に満ちたものになるであろう』」。
25 秘書官の墨いれを携えたその複合の人の現代における成就は,キリスト教世界の宗教諸団体の中に見いだせるものではありません。なぜですか。しかし,その実体を明らかにするものが手もとにあります。それはなんですか。
25 わたしたちの時代にかかわる聖書の預言を信じていない,キリスト教世界の僧職者や宗教団体は,キリスト教世界がそのもろもろの忌まわしい事物とともに永続することを願って働き,そのために祈り,尽力しているのです。秘書官の墨いれを携えた預言的な人の現代における成就は,キリスト教世界のそうした宗教団体の中に見いだされるわけがありません。では,『布の衣を着た』現代の複合的な人の仕事をしてきたのはだれですか。わたしたちの手もとにある,全地に知られた歴史的な諸事実は,この複合的な者あるいは人がだれであるかを明らかにすることができます。
26 それで,1931年およびそれ以後明らかにされた,王の秘書官とはだれのことですか。
26 それは1931年に,キリスト教世界に滅亡がさし迫っていることを悟り,それゆえに,現代に適用される『布の衣を着た者』の仕事をしなければならないことを知った,献身しバプテスマを受けたクリスチャンで構成されるある小さな団体です。1931年7月30日,アメリカのオハイオ州コロンバスで開かれたそれら油そそがれたクリスチャンたちの大会で午後3時から,「墨いれを腰におぶる者」と題する講演が始まり,その講演が終わると直ちに,エゼキエル書の1章から24章までを説明した「立証」と題する本が,大会に集まった数千人の出席者に発表されました。それよりわずか4日前の1931年7月26日,日曜日,この大会に出席していた霊によって油そそがれたクリスチャンたちは,自分たちのために「エホバの証人」という顕著な名称を採用したばかりでした。その名称のみならず,それ以来彼らが遂行したわざもまた,至高の神の油そそがれたクリスチャンのこの残れる者たちが,『布の衣を着,秘書官の墨いれをおぶる者』の20世紀におけるまぎれもない成就となっていることを証明しています。したがってこれが現代の「王の秘書官」です。最近,あなたはその訪問を受けましたか。
27,28 (イ)エゼキエルの幻の中で,布の衣を着た人がある人間の企てにしたがって人間から命令を受けたかどうかを何が示していますか。(ロ)7人のグループの中で最初に行動することになっていたのはだれですか。何をするようにとの命令が出されましたか。
27 この油そそがれた残れる者のわざが,人間の企てによるものではなく,エホバ神に由来することは,エゼキエルの見た幻の中にいみじくも描かれています。『布の衣を着た者』がどこからその指示を得たかを示しながら,エゼキエルは自分の見聞きしたことを次のように告げています。「爰にイスラエルの神の栄光その居るところのケルブの上より起あがりて家[神殿の聖所]の閾にいたり彼の布の衣を着て腰に〔秘書官〕の墨盂をおぶる者を呼ぶ」― エゼキエル 9:3〔新〕; 10:2。
28 こうしてエホバの栄光は,そのかたわらに4人のケルブが配置されていた輪の上の台を離れて,エルサレムの神殿の至聖所と呼ばれる区画の敷居の上に位置を定めました。その時,エホバはまさしくご自分の聖なる神殿の中におられたのであり,このかたから,『布の衣を着た者』は何をすべきかを告げられたのです。汚された神殿の不忠実な祭司たちから告げられたのではありません。この者は,打ち破る武器で武装した「六人の者」が行動する前に,まず最初に行動することになっていました。彼はそれら6人の刑執行者に先だって何をすることになっていましたか。エホバはこう言われます。「邑の中エルサレムの中を巡れ而して邑の中に行はるゝところの諸の憎むべき事のために歎き哀しむ人々の額に記号をつけよ」― エゼキエル 9:4。
29 布の衣を着た者は,しるしをつける仕事を神殿の中で行なえとは命じられませんでした。なぜですか。彼はなぜエルサレムのただ中を通るようつかわされましたか。
29 エホバはその者に,神殿の中を通ってしるしをつける仕事をしなさいとは命じませんでした。そこには,額にしるしをつけられるべき者はいませんでした。というのは,預言者エゼキエルは検査のために神殿の中を一巡したさい,そこで崇拝者が偽りの崇拝を行なっているのを,さらに幾人かの女たちが神殿やエルサレムのただ中で行なわれている憎むべきことのためにではなく,偽りの神タンムズのために泣いているのを見せつけられていたからです。(エゼキエル 8:13,14)このゆえに,『布の衣を着た者』は神殿の外に行って,「エルサレムの中を巡れ」と命じられました。エホバは不忠実なエルサレムの至る所に,そのただ中で行なわれている「諸の憎むべき事のために歎き哀しむ人」がいるのをご覧になりました。
30 布の衣を着た者はどのようにして正しい種類の個々の人を捜し出すのですか。それらの人々にはどんな理由に基づいて所定の箇所にしるしをつけられましたか。
30 『衣を着た者』は,こうして「歎き哀しむ」人たちを,どのようにして見つけるのですか。単に町の広場や市場に行くだけでなく,人々の家を戸別に尋ねることによってです。そうすれば,人々が心から述べることばを聞くことができ,額にしるしをつけるべきかどうかを決定できます。これは決して急いでする作業ではありません。むしろそれは,しんぼう強く,またきちょうめんに家々を戸別に尋ねて公正な調査をし,王の都の中で他の人たちが行なっているもろもろの憎むべき事を誠実な気持ちから嘆いている人々のみに,また偏ぱなくしるしをつける仕事でした。『布の衣を着た者』はそれらの人々に,胸中をあらわにしなさい,そうすれば心にしるしをつけます,とは言いませんでした。そうではなく,友にも敵にも公に見られる額に顕著なしるしをつけたのです。衣服の種類や偽善的で信心深そうな話しぶりではなく,このしるしこそ人をしてエホバの崇拝者であることを明らかにするものでした。
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王の秘書官の仕事を完了するものみの塔 1972 | 5月1日
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王の秘書官の仕事を完了する
1,2 (イ)今日その『しるし』に関してどんな質問が生じますか。その前に,わたしたちは自分がふさわしい者かどうかについてどのように自問しなければなりませんか。なぜですか。(ロ)エホバはほかにもその地にかんするどんな憎むべき事についてエゼキエルに告げましたか。
この時代にかかわる重大な質問は,あなたは現代の布の『衣を着た者』によって額にしるしをつけられましたか,ということです。自分の額に文字どおりしるしがつけられているかどうかを見ようとして鏡に自分の顔を映す必要はありません。エゼキエルの幻の中では,それは文字どおりのしるしでしたが,今日ではそのようなものではありません。では,そのしるしとはなんですか。それはどのようにして,人々のいわば額にしるされるのですか。その前に次のように問えます。あなたは額にしるしをつけられるにふさわしい人ですか。エゼキエルの時代の当時,しるしをつけられたのはエホバの崇拝者たちでした。しるしをつけられたそれらの人々がエホバに忠節な人たちであり,エホバの清い崇拝の尊さを信じていたゆえに,聖なる都であるべきエルサレムで行なわれていたもろもろの憎むべき事のために『嘆きかなしんで』いたことを,わたしたちは知っています。その憎むべき事の中には,こともあろうにエホバの神殿で行なわれていた偶像崇拝が含まれていました。エホバはそのほかにも他の憎む
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