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    ものみの塔 1961 | 5月15日
    • 神の目的とエホバの証者(その18)

      「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

      試練を無事に通り抜けて新たな活動を促進する

      ロイス: 釈放された兄弟たちは早速何をしましたか。

      ジョン: まず兄弟たちのしたことは,制度の運営を再開する努力でした。それは容易なことではありません。わざはほとんど完全に停止してしまったからです。ブルックリン幕屋は売却され,ブルックリン・ベテルは解体されて施設はあらかた取りはずされていました。ピッツバーグの兄弟たちは運営資金をほとんど持たず,本部は小さ過ぎてわざを拡大させることができません。印刷設備もなく,以前,本を作るのに用いた鉛板は処分されてしまったので,見通しは本当に暗いものでした。しかし兄弟たちはあらたな熱意に燃えていました。彼らは獄から解放されたのです。ですから将来の希望がありました。

      事実ルサフォード兄弟もとるべき道をたしかには知りませんでした。そのため,カリフォルニア州でひとつの試みをしようと決定したのです。ルサフォード兄弟は釈放のすぐ後カリフォルニアに行っていました。それは家族がそこにいたためと,もうひとつは健康のためでした。同兄弟は刑務所で肺をいため,その状態は終生つきまといました。

      御国の音信にまだどれだけの関心があるかを知るため,ルサフォード兄弟は1919年5月4日の日曜日,ロサンゼルスのクルーンズ公会堂で公開集会を開くことをとりきめました。そして広範囲な新聞広告を用いて,協会の役員が不法にも有罪を宣告された理由を説明すると約束しました。この集会は大成功をおさめ,苦しみ悩む人類の希望と題する講演は非常な熱意をもって迎えられました。

      これによってルサフォード兄弟は,わざがまだ終わっていないこと,また,なすべき事が多いことを確信しました。そしてその年の秋オハイオ州シーダーポイントで大会を開くことを直ちにとりきめ,また協会の本部をニューヨーク,ブルックリンに再び移す可能性を調査し始めました。

      後になってシー・エイ・ワイズ副会長は次のような興味深い出来事を語っています。彼はブルックリンに行き,印刷を始める場所を借りられるかどうか,またベテルを再開する見通しを調べてくるようにとルサフォード兄弟から命ぜられました。ルサフォード兄弟の言葉は次のようなものでした,「ブルックリンに戻ることが主の御心かどうか,行って見てきてもらいたい」。ワイズ兄弟は尋ねました,「もどることが主の御心かどうかを,どのようにして決めますか」。ルサフォード兄弟は答えました,「1918年には石炭を入手できなくて,我々はやむなくブルックリンからピッツバーグに戻った。石炭で試みてみよう。行って石炭を注文しなさい」。戦争の終わったばかりの当時,ニューヨークでは石炭がまだ配給制であったことを知っていたので,ワイズ兄弟は「試みをするため,何トンの石炭を注文しますか」と尋ねたところ,ルサフォード兄弟は「そうだね,ひとつ大きな試みをしよう。500トン注文しなさい」と答えました。

      石炭不足のおりから,かなりの不安を抱いてニューヨークに行ったワイズ兄弟は当局に申請書を出しました。そして驚いたことに500トンの石炭を買う許可がおりたのです。直ちにワイズ兄弟はルサフォード兄弟に電報を打ち石炭の注文が認可されたことを知らせました。これで協会の使う何年分もの石炭が確保されました。しかし石炭の置き場所が問題です。それで地下室の大部分を石炭貯蔵庫にすることが必要でした。しかし兄弟たちにとって,これはブルックリンに帰り,わざを押進める時のきたことを示す間違いのないしるしでした。1919年の10月1日,兄弟たちはブルックリンに帰りました。a

      ロイス: オハイオ州シーダー・ポイントで大会を開く計画はそれと同じほど上首尾に運びましたか。

      シーダーポイントにおける喜びの再会

      ジョン: そうです。それは言いつくせないほどに幸福な時となりました。もちろん出席者数という点から見れば,どんな成果が得られるかは分かりませんでした。国中の兄弟たちは互の連絡を失っていたからです。それでカナダとアメリカ合衆国の各地から6000人以上の兄弟が集まったのを見たときのその喜びは容易に想像できます。これは激しい迫害の時を通過してきた,歴戦の跡をのこした残れる者たちの再会でした。彼らの信仰は相変らず固く,ある人は最後の一銭をはたいて,1919年9月1日から7日までのあの忘れえぬシーダー・ポイントの大会に出席しました。しかし,熱心なのは彼らだけではありませんでした。というのは,真の崇拝の戦いに加わる200人の新兵が,水の洗礼によって献身を象徴したからです。公開講演には,7500人が出席しました。b

      彼らが経た危険な時に,エホバがご自分の民を強められたことに対して深い感謝が表わされました。また兄弟たちがクリスチャン奉仕者として神の御国の良いたよりを世界に伝道すべき責任を自覚している証拠もたくさんみられました。その一つの著しい例は,「御国を発表する」という題で「ものみの塔」にのせられたルサフォード兄弟の講演の中にみられました。その講演の一部で彼はこう言いました,

      主の命令に服従し,また,長い間人々を束縛してきた誤りという要塞に戦いをいどむことを特権とし責任と考えるわれわれの仕事は,来たりつつあるメシヤの栄光に満ちた御国を発表することであった。また現在でもそうである。ところが,われわれがその契約を履行しようと忠実に努力しているとき,突然われわれの頭上で激しい嵐が起こって,神の民は羊のように散り,またかくれていなくなった。敵の攻撃が非常に無慈悲だったので,主の愛すべき羊の多くはあっけにとられ,驚きのあまりなすべきことをしらず,主が御心を啓示して下さるのを祈り待っていた。聖書研究生は,彼らの主に対する誠実さのゆえに,あらゆる場所で非難された。そしてその非難がますます激しくなったため,一時預言者エレミヤと同じような気持になった。「わたしは一日中,物笑いとなり,人はみなわたしをあざけります。それは,わたしが語り,呼ばわるごとに,『暴虐,滅亡』と叫ぶからです。主の言葉が一日中,わが身のはずかしめと,あざけりになるからです。そこで私は言いました。私は彼のことをもう言わない,このうえ彼の名によって語ることをしない」。c しかし,一時落胆したにもかかわらず,御国の音信を宣べ伝えたいという熱情があった。そして,師の忠実な追随者たちは,エレミヤと同じように言った,「しかし,彼の言葉はわたしの心のうちにあり骨のうちに閉じこめられている火のようで,それを押えるのに疲れはて,耐えることができません。多くの人がそしるのを聞くからです。恐れが四方にあります」。d クリスチャンは,冷静な時,なぜ私は地上にいるのだろうと当然考える。それに対する答は,主が恵みをもって私を世に対する和解の聖なる音信を伝えるご自分の大使とされたということと,その音信を発表することは私の特権であり責務である,ということでなければならぬ。e

      出版された新しい道具

      それからルサフォード兄弟は,「国民の説教」「聖書研究生月刊」の印刷に使っていた鉛版が,事務上のつづりとともについ最近までなされてきた真理に反対する戦いで破壊されたことを話しました。また,つくられた新しい条令のために,予約者以外の者に紙を配給することが,多くの町で次第にむずかしくなっているとも話しました。それから彼はつぎのことを発表しました。

      主の御こころを知ることを祈りのうちに熱心に求めてきたわれわれは,いま音信を伝えるために印刷物をつくる対策をとらねばならぬこと,そして,その音信を,人々に探究され読まれる形のものにしなければらなぬことを思いついた。われわれは,ラッセル兄弟がかつて,この種の出版物を出すことを計画したのを思い出し,おそらくいまが,そのような出版物を出すべき適当な時であると判断したわけである。その結果主の御心にしたがい,「黄金時代」fと称する新しい雑誌を発行することにした。

      一般大衆になぐさめと希望をもたらすと同時に,偽りの崇拝,世の支配者たちの悪行を暴露することにおいて,この雑誌は,貴重で強力な道具となりました。創刊号が出たのは1919年の10月でした。g この雑誌は,兄弟たちによって真の熱意をもって受け取られ,再びわざを取りあげて神から与えられた任命を強力に遂行したいという彼らの願いをさらに強くしました。

      トム: 印刷に使っていた鉛版がこわされたのに,どうしてすぐに仕事をはじめることができたのですか。

      ジョン: もちろん彼らはまだ「ものみの塔」を印刷していました。またいまでは新しい雑誌である「黄金時代」も印刷されていました。そのうえ,兄弟たちが入獄するまえに印刷された「完成された奥義」が多量にあったので,それも配布することができました。それから1920年6月21日に,「ものみの塔」と同じ形式の紙版「完成された奥義」が配布用として出されました。ふつう「ZG」と呼ばれたこの版は,戦争まえに印刷されていたものですが,その本の配布が禁止されていたあいだ,兄弟たちによって保管されていたものでした。h それの配布の再組織に当たって,「ものみの塔」はこう述べました。

      1917年と1918年のはじめに,「完成された奥義」は広く配布された。戦争は,それを中止すべき口実を提供した。……いまや戦争は終わった……だからいまは「完成された奥義」の処理について干渉する正しい理由や口実はだれにもない……。

      いまとなっては,7巻の「どの」販売と配布に対しても,真の法的異議はないはずである。しかしながら協会は,「ものみの塔」形式の廉価版を最初に処分することを最善と考えている。そして,この版の販売と配布は来たる6月21日にはじめられるよう取り極めがなされクラスはそのように通知された。これらは1部20セントで売られるであろう。i

      ですから,兄弟たちのすることはたくさんありました。彼らのうちの多くは,「聖書研究生月刊」や「御国の音信」もまだ手元にもっていましたが,みな「ZG」をさきに配布するようにすすめられました。

      ロイス: 「ZG」というイニシアルにはどういう意味があったのですか。

      ジョン: 「Z」は,最初「シオンのものみの塔」を呼ぶのに使われた符号でした。「G」は,「聖書研究」第7巻を意味しました。このシリーズの中のそれぞれの書籍は,アルファベットの最初の七つの文字で呼ばれました。ですから,「ZG」はただ,「完成された奥義」または,1918年3月1日,「ものみの塔」の特別版として印刷されたもののことです。j

      兄弟たちは,1919年にブルックリンに行った時に,マートル街に適当な場所を見つけることができ,そこに彼らの買い入れた中古品の大きな輪転機を備えつけました。工場で働いていた兄弟たちは,それに「古い戦艦」という名をつけました。そして協会は「黄金時代」「ものみの塔」および小冊子を印刷するのに長い間それを用いました。この古い戦艦についてはのちほどもう少しお話しするつもりです。

      1919年には聖書販売または開拓奉仕も復活し,春にはこの奉仕の分野で150人が活発に働いており,秋までには507名がこの分野で全時間活動をしていました。巡礼の奉仕も復活して,86人の特別代表者たちが会衆から会衆へとつかわされました。その目的は,戦争による迫害で散らされた人々を集め,本部組織との密接な交わりを通して新たな熱意を呼び起こすことにありました。k まことに兄弟たちは,多難であったいく年かを成功裡にきりぬけ,いまや真の崇拝擁護における新しいしかも興奮に満ちた偉業への途にのぼったのでした。

      [脚注]

      a (レ)1919年の「ものみの塔」283頁

      b (ソ)1919年の「ものみの塔」291-297頁。

      c (ツ)エレミヤ 20:7-9,新世。

      d (ネ)エレミヤ 20:9-10,新世。

      e (ナ)1919年の「ものみの塔」280頁。

      f (ラ)1919年の「ものみの塔」(英文)1週間おきに発行されたこの雑誌の名は,1937年10月6日号から「慰め」と変り,その後「目ざめよ!」がそれにとって代わった。これは,1946年8月22日号から月に2回発行された。

      g (ム)1919年の「ものみの塔」(英文)298,318頁。

      h (ウ)1918年の「ものみの塔」(英文)290頁。

      i (イ)1920年の「ものみの塔」(英文)187,198,199頁。

      j (ノ)1905年の「ものみの塔」(英文)73頁。

      k (オ)1919年の「ものみの塔」(英文)371-373頁。

      [317ページの図版]

      「古い戦艦」

  • 「彼らは一致の中に伝道する」
    ものみの塔 1961 | 5月15日
    • 「彼らは一致の中に伝道する」

      ― 1961年のエホバの証者の年鑑より ―

      ブラジル

      人口: 65,743,303人

      伝道者最高数: 20,321人

      比率: 3,235人に1人

      協会はブラジルの将来に目を向けており,この広大な土地での大きな増加に対処するため,新しいベテルの家を建てるよう目下計画中です。ブラジルは昨年再びいちじるしい増加を見,17パーセントふえて伝道者の新最高数は2万302人になりました。これはたしかにすばらしいことです。ふりかえってみると1940年の伝道者最高数は248名でした。エホバの証者はどこでもこの繁栄をみて喜んでいます。ブラジルの兄弟たちは非常に進取的で,たくさんの者が必要の大きな場所で働くために出かけていきました。その兄弟たちが遠い所に会衆を設立すると,巡回の僕は非常に興味をそそるその地を訪問いたします。支部の僕はブラジルからのよい経験と報告をよせてきました。

      昨年の際立ったできごとは17の連続した地域大会でした。合計して2万7000名以上が出席し,リオ大会は,会長のブラジル訪問とかちあいました。会長が残していった助言や提案を取入れて実行することにより,たしかに将来の増加とわざの円熟性をはかることになります。

      会衆で行なわれている読み書きの課程は何百人という人を助け,もっと効果的な野外奉仕ができるようになりました。一つの代表的な例として,レシフェの善意者のばあいをとりあげてみましょう。彼は証言をきいて真理だと認めました。大会に出席してから近くの御国会館の集会にも出席するようになりました。「ものみの塔」の研究のさい,研究についていくように雑誌を手渡されましたので,どうしても「私は読むことができません」と言わねばならなくなりました。彼はすぐ読み書きの僕に紹介され,御国会館で週1回開かれている学校にはいりました。最初彼は,前に学校に行ったことがあるが何も学ばなかったから無駄だ,といって否定的でした。しかし,5ヵ月たつうちに,読み書きができるようになりました。自筆の手紙で彼はこう続けています,「それからは私は集会で答え始めました。何という喜びでしょう! 私は読むことができたのです。今では野外奉仕で上手に聖句を読んで,それを説明することができます。そして現在では神権学校にはいり,生徒の話をします」。

      私たちの予約の増加は,新しい多くの伝道者の熱意や熱心によるところが大きいです。例えばリオデジャネイロのひとりの新しい伝道者は,以前の彼の友人や知人の名前を200以上書き出し

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